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22 初恋とか胸の痛みとか

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 ちょっと柑橘系の良い匂いに包まれながら、深く深く夢を見た。
 なんだか知ってるなぁ~この匂い。
 そう思ってしまったのだ。

 匂いって記憶に残りやすいのかな?視覚よりも聴覚よりも、もう一度、と思っていた匂い。



 「これでいいですか?」

 そう聞いたのは自分だ。
 目の前には見たこともないような美麗な顔の男性が座っている。
 エジエルジーン・ファバーリア侯爵。シルバーアッシュの髪は少し伸びて、邪魔になるのか耳に掛けてあった。
 俺の問い掛けに、その人は漆黒の瞳で見返してくる。
 綺麗だなと思った。
 知ってたけど、本当に綺麗だ。
 ベレステ子爵家にやってきた縁談に逆らえるはずも無く、言われるがままにファバーリア侯爵家の屋敷にやってきた。
 


 前侯爵の戦死。それに伴う侯爵家当主の交代。
 既に黒銀騎士団長の任に就いていたが、エジエルジーン・ファバーリアは当主になるしかない。一人息子で次期当主としての教育もしっかり受けていたが、こんなに早く継ぐとは本人も思っていなかった。
 戦時だったが一旦副官に任せ、エジエルジーン・ファバーリアは領地に帰還した。
 急ぎ侯爵位を継ぎ、前当主である父親の葬儀を執り行う。それも極々簡略的に全て終わらせた。
 激化する戦地に早く戻らねばならなかったからだ。
 しかし混乱する侯爵領を落ち着かせなければならない。
 ファバーリア侯爵代理を申し出る親戚達は信用出来ない。
 かといって婚約者だったソフィアーネ・ボブノーラ公爵令嬢は、戦地にいる間に恋人を作り、帰還したその日に婚約解消を申し出てきた。
 幼い頃からの婚約者で、家族に近い存在だった為、恋人としての愛情は無いに等しかった。涙ながらに謝りながら申し出られれば、幼馴染として幸せを願って受けるしかない。
 婚姻を直ぐさま行い侯爵夫人として領地を取り仕切って貰えればと思っていたが、それも不可能そうだ。
 領地経営は今までも当主や自分が戦争に駆り出されても、古参の側近や使用人達が恙無つつがなくやってくれていた。
 必要なのは誰も入り込む事の出来ない頭となる人間だ。エジエルジーンは公爵家当主としての経験が薄い状態で戦地に戻らねばならない。だから現実的にその場にいて、侯爵家の財産を食い潰しにくる親戚達を押し返せる存在が必要だった。
 いてくれれば使用人達が追い返せるだろう。
 侯爵夫人が不要だと言えば、その言葉を盾に出来る。
 おつかえしているルキルエル王太子殿下が、混乱するファバーリア侯爵領を考慮して、候補を上げてくれた。本来なら王家から打診されたであろう候補者の中から、領地に近い場所の子爵子息を選ぶ。
 ルキルエル王太子殿下が婚約した方がいいのではと遠慮したが、まずは戦争を終わらせる方が先だし、お前を駆り出して側近の侯爵領が潰れても困ると言われてしまった。
 その子はまだ十三歳という年齢から、誰とも婚約していない子だった。スキルを持っているのに珍しかった。スキルが有るのと無いのでは、周りの見方がかなり変わってくる。だから殿下はこの子を候補に入れたのだろう。
 ファバーリア侯爵家から資金援助をしている繋がりもあるし、子爵家の経営が危なくなった際、侯爵家からの援助は惜しまないと約束してきてもらうことにした。
 



 そう、この美しい人はゆっくりと説明してくれた。
 すまない、と謝ってくれた。
 領地に残して置いて行くことを、申し訳ないと言ってくれた。
 自分が十三歳で子供だから、分かりやすく説明してくれたんだろうと思う。
 ファバーリア侯爵はとても背が高くて、チビの自分の頭は肩にも届かない。
 血判を押す為に針で刺した親指がチクリと痛み、溢れてきた血をどうしようかと悩んでいると、ファバーリア侯爵は用意されていた白い布で抑えてくれた。
 手がとても大きく、顔に似合わずゴツゴツとしていた。壊れ物のように優しく掴まれた手に、俺も男なのにと恥ずかしくなる。
 血は直ぐに止まった。
 ファバーリア侯爵が立ち上がったので、もう行くのだと思い自分も立ち上がった。
 もっとこの綺麗な人を見ておきたかった。
 戦地から帰ってくるとは知っているけど、もしかしたらこれが最後かもしれないから。
 見送ろうと思いファバーリア侯爵から少し離れて立つと、何故か近寄って来た。
 背の低い俺に合わせて腰を落とし、そっと長く逞しい両腕が自分の身体を包み込んだ。
 その美麗な顔にはそぐわない程の、逞しく長い腕が、力強く抱き締めてくる。
 胸も身体も厚みがあって、俺は驚いて固まってしまった。ファバーリア侯爵の体温を感じる。
 柑橘系の良い匂いがした。
 スッとして果物特有の甘酸っぱい香り。
 顔の隣にファバーリア侯爵の頬が当たり、徐々に身体が熱くなってくる。
 
「すまない、早く帰って来れるよう努力する。君が成人したら結婚式も挙げよう。」

 そう耳元で囁かれた。顔と一緒で声も低く甘い声で、ゾワゾワとする。
 なんとか頷くと、そっと離れていった。
 頷いたのを気付いてくれただろうか……。
 髪と同じシルバーアッシュの長い睫毛が数度瞬きするのを、なんて綺麗なんだろうと眺めた。その奥の漆黒の瞳は深く吸い込まれそうだ。
 ドキドキとする。
 こんなに心臓が鳴って、聞かれてるんじゃないだろうか。そう思うくらいにドキドキしている。
 きっと自分は真っ赤だ。
 肩をポンポンと叩いて、ファバーリア侯爵は去って行った。
 叩かれた肩がジンとする。この感触を忘れたく無かった。
 もっとお話ししたかったな……。
 寂しさと悲しみが襲う。
 
 もう少しだけあの甘酸っぱい匂いを嗅いでいたかった。

 なんて、いいにおい…。




 


「ふぐ……。」

 スンスン鼻を鳴らしながら起きてしまった。
 そうか、この石鹸の匂いだ、と気付く。
 柑橘系の甘酸っぱい匂い。でもどこか甘くて、スッとする匂い。
 旦那様の匂いなんだ。
 嗅いだのは一回だけだ。
  
 夢はユンネの記憶だ。
 ユンネが婚姻の血判を押した日。
 美麗な旦那様に見惚れて、逞しい身体に抱き締められて、まだ十三歳のユンネは恋に落ちてしまった日。
 ユンネの初恋を味わってしまった。
 かあぁぁーーと身体が熱くなる。前世の自分はこんな思いを抱いた事がない。無かったはず。
 でもなんだろう?
 とてもドキドキと心臓が鳴るのに、どこかでズンと沈み込む感覚がする。
 
「はぁ………、なんだろ、これ………。」

 苦しい。
 胸を焦がす痛みが、苦しい。
 ギュウッと布団を握り締めて背を丸めた。








 朝からルキルエル王太子殿下に朝食を招待されていると言われ、ソマルデさんを伴って指定された場所に向かっていた。

 朝からどっかりと疲れる夢を見てしまった。
 まさかユンネの初恋が旦那様とは……!
 前世でもあんな胸が締め付けられるような恋なんてした事がない。
 ウブな十三歳があんな至近距離で抱き締められたら、そりゃあドキドキして恋にも落ちるよねぇ。
 無茶苦茶良い身体してたし、良い匂いしてたし。
 体格良さそうだなぁとは思ってたけど、触るとあんな感じなのか…。
 アジュソー団長の裸を触った時よりも、騎士服越しの旦那様の体臭込みの身体の方が萌えるかも?
 実は元々王太子、黒銀騎士団長、白銀騎士団長の中でビジュアル的に好みなのはエジエルジーン団長だった。黒髪黒騎士服がカッコよかったからだ。いや、俺の性的嗜好はそっちじゃないけどね?憧れるならやっぱ王子様や白騎士より黒騎士かなぁって。

 未だに胸がドキドキして体温が高い。
 これ収まるかな…。こんな時に旦那様に会おうものならどんな顔すれば良いのか分からない。

「ソマルデさん。」

「はい、なんで御座いましょう?」

 気分転換にソマルデさんに話しかけることにした。





 ソマルデは朝から様子のおかしいユンネを心配していた。ソワソワしているというか、落ち着かない。

「ソマルデさんって初恋した事あります?」

「………私はこれでも六十七歳で御座います。それなりの経験もあるのですが…。」

 この幼い主人は突然訳の分からない事を言い出す。
 記憶がない所為なのかどうかは分からないが、ソマルデはやや心配している。
 なんというか悪い人間に捕まりそうで。

「どうやってその人の前で平気になれますかね?深呼吸したら落ち着きますか?」

「それは……、その初恋相手の前だと心が乱れるから、平常心を保ちたいという事で宜しいのでしょうか?」

「うぉ、う、うん。そんな堅苦しいものでもないけど、そうですね。」

 はて、さて。ユンネ様が初恋?そんな素振りがあっただろうか?

 そう話していると前からエジエルジーン様が歩いてきた。
 こちらを見つけて立ち止まったところを見ると、エジエルジーン様もルキルエル王太子殿下の朝食に呼ばれているのだろう。
 呼びに来たのかもしれない。
 ユンネ様も気付いたのかハッとして身体が揺れた。動揺した?

「おはよう。」

「……っ、おはようございます!」

 少し頬が赤い。
 頬が…、赤い、ですねぇ~。
 ソマルデは横に並ぶ幼い主人を観察した。

「私も殿下の朝食に呼ばれているんだ。一緒に行こう。」

 そう声を掛けられて、ユンネ様は嬉しそうにエジエルジーン様と話しながら歩き出した。
 少し、いやかなり挙動不審だ。
 昨日の石鹸のお礼をなんとか言おうとしているが、舌を噛みまくっている。
 
 まさかエジエルジーン様が初恋相手?今更?
 ….……記憶が戻った?全てではなくとも、何か初恋に関わるような部分だけでも。全て記憶が戻ったならば、ユンネ様の様子はもっと劇的に変わるだろう。
 記憶を失くした原因は毒による自殺なのだから。
 自殺を図った人間が、こんなに明るいとは思わないし、初恋に浮かれるはずもない。
 
 エジエルジーン様に恋心を抱いたというのなら、それはたった一回会っただけの十三歳の頃だ。
 そこから自殺を決意するまでに至る記憶があるはずだ。

「………………。」

 出来れば思い出さないで欲しい。
 この明るいユンネ様が、いつまでもそうであるように、心からそう願っている。







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