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プロローグ 1
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……どうしてこうなったのか。
わかっている。考えてもしようがないことなど痛いほどわかっているのだ。だが——
なぜ、腕の中にいる、まだ温かい俺の幼馴染は返事の一つすらくれないのだろうか。
現在、我々人類が直面しているのは第二次聖魔戦争と呼ばれる、1年と2ヶ月程前から続いている人間と悪魔の史上最大規模の全面衝突である。
この戦争では、約2000年前に起こったと言われている第一次聖魔戦争の被害者20万人を大きく上回る70万人が現在までに亡くなったとさえ言われている。
——と言っても2000年前の国民は30万人と言われているから、第二次聖魔戦争勃発時国民250万人である今回と単純に比較することはできないのだが。
何はともあれ、我が国の30%の命が1年と少しの間に二度と還らないものとなってしまったのである。
そんな未曾有の大災害の入り口にいた頃、明日を生きる希望を失ってしまった国民に向け、国王は次のような発表を大々的に行った。
『我が国ケイオスには、周知の通り、神に祝福されし4人の勇者が存在する。彼らはまさに一騎当千の実力を誇り、我らを勝利に導くだろう』
初めは他人事の様に振る舞い勇者たちへの不満を持っていた者達も、1ヶ月も経つ頃には完全に掌を返して泣きついた。
この国民の中には冷静な者などただの一人も残っていなかった。彼らは盲目的に国王を信じ、そして勇者に縋った。
勇者の一人たる"彼女"も最初は善戦していた。次々と敵を切り伏せ、勝利を重ね、味方の士気を高めた。『聖母』という二つ名の通り、彼女は味方の為、太陽のような笑顔を絶やさなかった。
しかし、戦い始めて3ヶ月が経った頃には、彼女の目からは輝きが失われていた。それは何故か。
——優しかったのだ。敵に対してさえも……。
いくら倒しても減らない敵。数え切れないほど彼女は敵を殺した。殺してしまったのだ。彼女は優しすぎるが故に罪悪感に潰されてしまった。
勇者という肩書にのしかかる重圧もあり、戦うのをやめることはできなかった。だが、やはりと言うべきか、素人目にも彼女の動きには以前のようなキレは見られなかった。とはいえ、神の祝福を受けているおかげもあってか、彼女が負けることはなかったのだが。
戦況が大きく動いたのは昨日。大きいなどという形容では済まされないような事件とも悲劇とも言えることが起こった。
俺は多少名の知れた《魔術師》として、味方の《魔術師》や《魔法使い》達の先頭に立ち前衛の援護に当たっていた。中衛からの魔法は前衛の味方に当たらぬよう、細心の注意を払う必要がある。
精神的な疲労が溜まる中、飛行能力を持つ魔物の遥か上空から俺めがけて高速で飛来する物体に反応するのが僅かに遅れてしまったのだ。
万全の状態であれば回避も迎撃も可能だったであろう。が、如何せん気付くのが遅すぎた。今から対処は不可能であると悟り、できるのは呆然と立ち尽くすことだけだった。
あぁ、これまでか、と思った俺に、不意にドンッと鈍い衝撃が襲い、その刹那天地が逆転した。一瞬遅れて例の飛来物が起こしたと思われる爆風が、吹っ飛んでいる俺に襲いかかる。
嫌な予感がした。地面に叩きつけられた痛みなど、まるで感じない程に。根拠の無い只の“予感”ではあるとわかっていても鼓動が速くなる。それに反比例するように引き伸ばされた時間の中、土埃がゆっくりと薄くなっていく。数秒前まで俺が立っていたその場所には——
人が、倒れていた。
あの純白の鎧や美しい金髪を見紛うはずがない。はずはないのだが……
そうでなくあってくれという思いも虚しく、右腹部に3mはありそうな槍が刺さり、どす黒い血を流して倒れている人は、先刻まで前衛にいたはずの——
俺の最愛の人だった……。
動くことを忘れてしまったかのように動こうとしない身体を無理矢理地面から引き剥がし、脇目も振らず彼女の元へ駆け寄る。
「はは……相変わらずかっこ悪い走り方ね」
傍へ寄るなり彼女はこう言って微笑んだ。
医療班を大声で呼び、近くにいた者に本部へ連絡を取る準備をしておくよう指示しながら彼女の状態を確認する。
槍は鎧ごと貫通しており、その周囲の肉は月食のように丸くごっそりと抉りとられ、血が溢れ出ている。
刃物が刺さった時は出血が増えるから《中位治癒》以上の治癒魔法またはミドルポーション以上の治癒薬を使える状況に至るまで抜いてはいけないと本に書いてあったのを記憶しているが、槍は肉の断面を塞げていないようだった。
すぐさま自分の荷物に手を伸ばすが嫌な感触が指を伝ってきて息を呑んだ。
「そんな……ポーションが……全部割れている……」
先程の衝撃のせいだろうか。いや、そんなことを考えている場合ではない。まずい。どうしよう。このままでは彼女が死んでしまう。出血が止まらない。早くしないと。早く、次の手段を——
「ルーク、落ち着いて」
はっと声の方を向くと彼女がいつもの笑顔でこちらを見ていた。
「大丈夫。落ち着いて」
落ち着けるわけ無いじゃないかという言葉を飲み込み、彼女の次の言葉に耳を傾ける。今は一刻を争うのだ。
「腰にフルポーションがあるわ。万が一の為勇者には一人一本ずつ支給されているの。」
女性の身体に触ることに一瞬抵抗を覚え、非常事態だからごめんと心の中で謝りながら急いで腰に手を伸ばし、それと思わしき薬品を傷口めがけてかけた。のだが——
「傷が治らないっ……!?」
フルポーションは最上位の治癒薬であり、尋常ではなく高額ではあるが四肢や内蔵の欠損まで治すことができる万能薬だ。それなのに治らないというのは異常である。
考えられる理由はただ一つ。彼女を貫いたこの槍が《魔法武器》であるということだ。聞いたこともないが、指し詰め回復阻害などといった呪い系の効果だろう。
そうなると呪いの効果を薄めることができる教会でしか治療はできない……。
そうこうしているうちに医療班が到着した。とはいえフルポーションでも治癒できない傷を彼らが治せるわけは無い。
「内蔵がめちゃくちゃです……。出血もこの量で生きているのが不思議なくらいですよ……」
彼女に聞こえないようにという配慮なのであろうか、小声で告げてきた。血の気が引いていく。俺を庇ったせいで……彼女は……。
「ここは何とかするから、早く教会に《転移》しろ!」
「で、でも……」
「いいから早く!!」
「できないの……」
「だからここは俺等に任せろって——」
「違うのよ」
「…………え?」
勇者という立場が見捨てるという行為にブレーキをかけているのだと思っていたのに、予想だにしていなかった答えに狼狽える。
「魔素を……使い切っちゃったの……」
彼女を含む勇者たちは例外なく【"空間を司る神"カオス】の祝福を受けている為、空間魔法を使うことができる。指定した場所に瞬間移動をすることができる、選ばれし者にのみ許された魔法であるが、莫大な魔素を消費する。
しかし彼女の総魔素量ではまだ転移魔法を使えるくらいは余裕があるはずなのだ。
俺の疑問を知ってか、彼女は苦笑いしながら訳を話した。
「さっきね、間に合わないと思って、《肉体限界突破》使っちゃったの。」
「な、どっ……どうして…………」
《肉体限界突破》とは簡単に言えば肉体的な限界を無理矢理超える、勇者にのみ使える《聖属性魔法》の禁術である。身体に極度な負荷がかかるためほんの数秒しか発動できないらしいが、発動中の運動機能は平常時の10倍とも20倍とも言われる。
だが強い力には代償が伴うもので、この禁術の場合は、発動終了時の魔素の全消費だ。それに加え魔導線と呼ばれる体内の魔素を身体に行き渡らせる血管のようなものがズタズタになるらしく、当分の間魔法を使えなくなる。まさに最後の切り札なのだ。
つまり今、彼女を救う手段は——
無に、等しい。
無慈悲に突き付けられた現実に視界がぐにゃりと歪んでいく。自分が独楽になったのかと錯覚するほどに視界が回り始める。胸は絶望に押さえつけられ、胃は恐怖に握りつぶされ中身を押し出そうとする。視界がブラックアウトする、というところで彼女の声が俺を正気に引き戻した。
「ルーク、私ちょっと視界がぼやけてきたしもう駄目そうなの」
「そんな……弱気になんかなっちゃ駄目だ……!なんとか……俺がなんとかするからっ……!!」
策など、欠片ほどもなかった。自分の無力さが憎たらしかった。そして何より、彼女の死は避けられないと心のどこかで諦めかけている自分に吐き気がした。
そんな自己嫌悪も知らずに彼女は続ける。
「ルークの事だから罪悪感感じちゃうかもしれないけど、貴方のせいじゃないわ。私が私の生きたいように生きただけ」
「なんで俺なんかを庇ったんだよ……!」
「なんでかは分からないけど、身体が勝手に動いちゃったんだもの。それに、大事な人を守って死ぬってのも案外悪くないものみたい」
身体が勝手に、じゃないよ……!俺を一人残して行かないでくれよ!!
——言いたかったが、俺を庇い、その上心配させまいと俺にいつもと変わらぬ笑みを向ける彼女にはそんなことはとても言えなかった。
彼女の息が浅くなってきた。
残されな時間は僅かだと認識させられ、目の奥から哀しさが熱い液体となって溢れだす。
彼女もまた覚悟を決めたのか、先程とは打って変わって凛とした目になった。
「ルーク、私が死んだら、お願いがあるの」
聞きたくなかった。そんなもの自分でやって欲しかった。が、叶わないことはわかりきっている。ならば俺にできる事は彼女の言葉を一言一句逃さず聞く事だけだ。
激しく渦を巻く感情とは別に、不思議とどこか冷静な自分もいた。
彼女は医療班に二人きりにしてと頼んでから続けた。
「まず……お父さんとお母さんに、ごめんねってだけ、伝えてほしい。親孝行、してあげられないから。村の人にも、お世話になりましたって……よろしく」
「……わかった。伝えておくよ」
彼女の親にどんな顔で会いに行けばいいのか微塵も想像がつかなかった。合わせられる顔なんて物は無かったが、これはケジメというものだろう。会いに行く義務が俺にはできてしまった。
「それと、もう一つ。私の身体、万が一、ね……?魔物とかに食べられちゃうと、力が増しちゃうんだって。それで、できるだけ早く、教会まで運んでほしいの」
「わかった。任せてくれ」
無論100人程のこの部隊全てを動かして帰る事など不可能であるし、移動速度も考えればきっと俺が一人で行くことになるのだろう。
彼女にまだ言いたいことはあるはずなのに、何一つとして言葉は出てこなかった。
——ただ、じっと、見つめてきた。
俺は自他ともに認める合理主義者である。
よく(バ)カップル達は心が通じ合ってるだとか、言葉に出さなくてもわかり合ってるなどと言うが、そんなことはありえない。どんなに相手を愛していても、どんなに長年連れ添っていたとしても、他人は他人である。100%の理解なんてものはできるはずがないのだ。
故に、言語化して伝える事こそが全てだと思っていた、が——
言葉を発するのは何処か憚られた。
もちろん、彼女が言いたいことが分かった訳ではない。しかし、俺の心を貫く彼女の真っ直ぐな視線は、言葉以上の何かを訴えかけているように感じさせた。
だから、真っ直ぐ、彼女の瞳を見つめ返した。
彼女の瞳は、優しく、強く——
そして息をするのも忘れる程美しかった。
どのくらいの間見つめ合っていただろうか、不意に彼女が柔らかく笑い、止まっていた時間が非情にも再び動き出す。
「それじゃ、ルーク、今までありがとう」
「あぁ」
ありがとうなんて、こっちの台詞だ。
「ちゃんとご飯、お肉だけじゃなくて野菜も食べるんだよ」
「…………ゔん……」
そんな子供扱いしなくてもいいじゃないか。
「あと、あんまり頑固だと、お友達いなくなっちゃうし、お嫁さん見つからなくなっちゃうから、程々にね」
「………………わがっでるよっ……」
もう、だめだった。
既に俺の顔は涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃで、嗚咽を堪えることも俺には到底できなかった。
彼女は一つ大きく息を吸ったかと思うと、震える声を絞り出した。
「……ルーク、さようなら」
そして、彼女は、いつもの顔で笑った。
「……さようなら……ルナ…………」
だから俺も、笑った。
不器用に、汚く、引き攣った下手くそな笑みだった。それでも、彼女との楽しい思い出を今、全て呼び起こすように……。
涙を拭いた頃には、彼女は息絶えていた。
「うっ………………うぁあああああああああああああああああ」
声にもならない悲痛な叫びが黄昏色の空へ吸い込まれていった。
誰だ……いったいどこのどいつなんだ…………。俺の愛しの人を奪ったのは……。
これが、戦争か。
憎しみは何も生まない。彼女もよく言っていたことだ。しかし——
この悲しさ寂しさ遣る瀬無さ、そして何より俺の無力感はどうすればいいというのだ……。
——聖暦2022年9月26日、『聖母』ルナ・オイトツェッファは臓器損傷及び出血多量により、17年と20日の短い生涯を遂げた。
勇者の一角の逝去が人類の一大事であることは言うまでもない——
わかっている。考えてもしようがないことなど痛いほどわかっているのだ。だが——
なぜ、腕の中にいる、まだ温かい俺の幼馴染は返事の一つすらくれないのだろうか。
現在、我々人類が直面しているのは第二次聖魔戦争と呼ばれる、1年と2ヶ月程前から続いている人間と悪魔の史上最大規模の全面衝突である。
この戦争では、約2000年前に起こったと言われている第一次聖魔戦争の被害者20万人を大きく上回る70万人が現在までに亡くなったとさえ言われている。
——と言っても2000年前の国民は30万人と言われているから、第二次聖魔戦争勃発時国民250万人である今回と単純に比較することはできないのだが。
何はともあれ、我が国の30%の命が1年と少しの間に二度と還らないものとなってしまったのである。
そんな未曾有の大災害の入り口にいた頃、明日を生きる希望を失ってしまった国民に向け、国王は次のような発表を大々的に行った。
『我が国ケイオスには、周知の通り、神に祝福されし4人の勇者が存在する。彼らはまさに一騎当千の実力を誇り、我らを勝利に導くだろう』
初めは他人事の様に振る舞い勇者たちへの不満を持っていた者達も、1ヶ月も経つ頃には完全に掌を返して泣きついた。
この国民の中には冷静な者などただの一人も残っていなかった。彼らは盲目的に国王を信じ、そして勇者に縋った。
勇者の一人たる"彼女"も最初は善戦していた。次々と敵を切り伏せ、勝利を重ね、味方の士気を高めた。『聖母』という二つ名の通り、彼女は味方の為、太陽のような笑顔を絶やさなかった。
しかし、戦い始めて3ヶ月が経った頃には、彼女の目からは輝きが失われていた。それは何故か。
——優しかったのだ。敵に対してさえも……。
いくら倒しても減らない敵。数え切れないほど彼女は敵を殺した。殺してしまったのだ。彼女は優しすぎるが故に罪悪感に潰されてしまった。
勇者という肩書にのしかかる重圧もあり、戦うのをやめることはできなかった。だが、やはりと言うべきか、素人目にも彼女の動きには以前のようなキレは見られなかった。とはいえ、神の祝福を受けているおかげもあってか、彼女が負けることはなかったのだが。
戦況が大きく動いたのは昨日。大きいなどという形容では済まされないような事件とも悲劇とも言えることが起こった。
俺は多少名の知れた《魔術師》として、味方の《魔術師》や《魔法使い》達の先頭に立ち前衛の援護に当たっていた。中衛からの魔法は前衛の味方に当たらぬよう、細心の注意を払う必要がある。
精神的な疲労が溜まる中、飛行能力を持つ魔物の遥か上空から俺めがけて高速で飛来する物体に反応するのが僅かに遅れてしまったのだ。
万全の状態であれば回避も迎撃も可能だったであろう。が、如何せん気付くのが遅すぎた。今から対処は不可能であると悟り、できるのは呆然と立ち尽くすことだけだった。
あぁ、これまでか、と思った俺に、不意にドンッと鈍い衝撃が襲い、その刹那天地が逆転した。一瞬遅れて例の飛来物が起こしたと思われる爆風が、吹っ飛んでいる俺に襲いかかる。
嫌な予感がした。地面に叩きつけられた痛みなど、まるで感じない程に。根拠の無い只の“予感”ではあるとわかっていても鼓動が速くなる。それに反比例するように引き伸ばされた時間の中、土埃がゆっくりと薄くなっていく。数秒前まで俺が立っていたその場所には——
人が、倒れていた。
あの純白の鎧や美しい金髪を見紛うはずがない。はずはないのだが……
そうでなくあってくれという思いも虚しく、右腹部に3mはありそうな槍が刺さり、どす黒い血を流して倒れている人は、先刻まで前衛にいたはずの——
俺の最愛の人だった……。
動くことを忘れてしまったかのように動こうとしない身体を無理矢理地面から引き剥がし、脇目も振らず彼女の元へ駆け寄る。
「はは……相変わらずかっこ悪い走り方ね」
傍へ寄るなり彼女はこう言って微笑んだ。
医療班を大声で呼び、近くにいた者に本部へ連絡を取る準備をしておくよう指示しながら彼女の状態を確認する。
槍は鎧ごと貫通しており、その周囲の肉は月食のように丸くごっそりと抉りとられ、血が溢れ出ている。
刃物が刺さった時は出血が増えるから《中位治癒》以上の治癒魔法またはミドルポーション以上の治癒薬を使える状況に至るまで抜いてはいけないと本に書いてあったのを記憶しているが、槍は肉の断面を塞げていないようだった。
すぐさま自分の荷物に手を伸ばすが嫌な感触が指を伝ってきて息を呑んだ。
「そんな……ポーションが……全部割れている……」
先程の衝撃のせいだろうか。いや、そんなことを考えている場合ではない。まずい。どうしよう。このままでは彼女が死んでしまう。出血が止まらない。早くしないと。早く、次の手段を——
「ルーク、落ち着いて」
はっと声の方を向くと彼女がいつもの笑顔でこちらを見ていた。
「大丈夫。落ち着いて」
落ち着けるわけ無いじゃないかという言葉を飲み込み、彼女の次の言葉に耳を傾ける。今は一刻を争うのだ。
「腰にフルポーションがあるわ。万が一の為勇者には一人一本ずつ支給されているの。」
女性の身体に触ることに一瞬抵抗を覚え、非常事態だからごめんと心の中で謝りながら急いで腰に手を伸ばし、それと思わしき薬品を傷口めがけてかけた。のだが——
「傷が治らないっ……!?」
フルポーションは最上位の治癒薬であり、尋常ではなく高額ではあるが四肢や内蔵の欠損まで治すことができる万能薬だ。それなのに治らないというのは異常である。
考えられる理由はただ一つ。彼女を貫いたこの槍が《魔法武器》であるということだ。聞いたこともないが、指し詰め回復阻害などといった呪い系の効果だろう。
そうなると呪いの効果を薄めることができる教会でしか治療はできない……。
そうこうしているうちに医療班が到着した。とはいえフルポーションでも治癒できない傷を彼らが治せるわけは無い。
「内蔵がめちゃくちゃです……。出血もこの量で生きているのが不思議なくらいですよ……」
彼女に聞こえないようにという配慮なのであろうか、小声で告げてきた。血の気が引いていく。俺を庇ったせいで……彼女は……。
「ここは何とかするから、早く教会に《転移》しろ!」
「で、でも……」
「いいから早く!!」
「できないの……」
「だからここは俺等に任せろって——」
「違うのよ」
「…………え?」
勇者という立場が見捨てるという行為にブレーキをかけているのだと思っていたのに、予想だにしていなかった答えに狼狽える。
「魔素を……使い切っちゃったの……」
彼女を含む勇者たちは例外なく【"空間を司る神"カオス】の祝福を受けている為、空間魔法を使うことができる。指定した場所に瞬間移動をすることができる、選ばれし者にのみ許された魔法であるが、莫大な魔素を消費する。
しかし彼女の総魔素量ではまだ転移魔法を使えるくらいは余裕があるはずなのだ。
俺の疑問を知ってか、彼女は苦笑いしながら訳を話した。
「さっきね、間に合わないと思って、《肉体限界突破》使っちゃったの。」
「な、どっ……どうして…………」
《肉体限界突破》とは簡単に言えば肉体的な限界を無理矢理超える、勇者にのみ使える《聖属性魔法》の禁術である。身体に極度な負荷がかかるためほんの数秒しか発動できないらしいが、発動中の運動機能は平常時の10倍とも20倍とも言われる。
だが強い力には代償が伴うもので、この禁術の場合は、発動終了時の魔素の全消費だ。それに加え魔導線と呼ばれる体内の魔素を身体に行き渡らせる血管のようなものがズタズタになるらしく、当分の間魔法を使えなくなる。まさに最後の切り札なのだ。
つまり今、彼女を救う手段は——
無に、等しい。
無慈悲に突き付けられた現実に視界がぐにゃりと歪んでいく。自分が独楽になったのかと錯覚するほどに視界が回り始める。胸は絶望に押さえつけられ、胃は恐怖に握りつぶされ中身を押し出そうとする。視界がブラックアウトする、というところで彼女の声が俺を正気に引き戻した。
「ルーク、私ちょっと視界がぼやけてきたしもう駄目そうなの」
「そんな……弱気になんかなっちゃ駄目だ……!なんとか……俺がなんとかするからっ……!!」
策など、欠片ほどもなかった。自分の無力さが憎たらしかった。そして何より、彼女の死は避けられないと心のどこかで諦めかけている自分に吐き気がした。
そんな自己嫌悪も知らずに彼女は続ける。
「ルークの事だから罪悪感感じちゃうかもしれないけど、貴方のせいじゃないわ。私が私の生きたいように生きただけ」
「なんで俺なんかを庇ったんだよ……!」
「なんでかは分からないけど、身体が勝手に動いちゃったんだもの。それに、大事な人を守って死ぬってのも案外悪くないものみたい」
身体が勝手に、じゃないよ……!俺を一人残して行かないでくれよ!!
——言いたかったが、俺を庇い、その上心配させまいと俺にいつもと変わらぬ笑みを向ける彼女にはそんなことはとても言えなかった。
彼女の息が浅くなってきた。
残されな時間は僅かだと認識させられ、目の奥から哀しさが熱い液体となって溢れだす。
彼女もまた覚悟を決めたのか、先程とは打って変わって凛とした目になった。
「ルーク、私が死んだら、お願いがあるの」
聞きたくなかった。そんなもの自分でやって欲しかった。が、叶わないことはわかりきっている。ならば俺にできる事は彼女の言葉を一言一句逃さず聞く事だけだ。
激しく渦を巻く感情とは別に、不思議とどこか冷静な自分もいた。
彼女は医療班に二人きりにしてと頼んでから続けた。
「まず……お父さんとお母さんに、ごめんねってだけ、伝えてほしい。親孝行、してあげられないから。村の人にも、お世話になりましたって……よろしく」
「……わかった。伝えておくよ」
彼女の親にどんな顔で会いに行けばいいのか微塵も想像がつかなかった。合わせられる顔なんて物は無かったが、これはケジメというものだろう。会いに行く義務が俺にはできてしまった。
「それと、もう一つ。私の身体、万が一、ね……?魔物とかに食べられちゃうと、力が増しちゃうんだって。それで、できるだけ早く、教会まで運んでほしいの」
「わかった。任せてくれ」
無論100人程のこの部隊全てを動かして帰る事など不可能であるし、移動速度も考えればきっと俺が一人で行くことになるのだろう。
彼女にまだ言いたいことはあるはずなのに、何一つとして言葉は出てこなかった。
——ただ、じっと、見つめてきた。
俺は自他ともに認める合理主義者である。
よく(バ)カップル達は心が通じ合ってるだとか、言葉に出さなくてもわかり合ってるなどと言うが、そんなことはありえない。どんなに相手を愛していても、どんなに長年連れ添っていたとしても、他人は他人である。100%の理解なんてものはできるはずがないのだ。
故に、言語化して伝える事こそが全てだと思っていた、が——
言葉を発するのは何処か憚られた。
もちろん、彼女が言いたいことが分かった訳ではない。しかし、俺の心を貫く彼女の真っ直ぐな視線は、言葉以上の何かを訴えかけているように感じさせた。
だから、真っ直ぐ、彼女の瞳を見つめ返した。
彼女の瞳は、優しく、強く——
そして息をするのも忘れる程美しかった。
どのくらいの間見つめ合っていただろうか、不意に彼女が柔らかく笑い、止まっていた時間が非情にも再び動き出す。
「それじゃ、ルーク、今までありがとう」
「あぁ」
ありがとうなんて、こっちの台詞だ。
「ちゃんとご飯、お肉だけじゃなくて野菜も食べるんだよ」
「…………ゔん……」
そんな子供扱いしなくてもいいじゃないか。
「あと、あんまり頑固だと、お友達いなくなっちゃうし、お嫁さん見つからなくなっちゃうから、程々にね」
「………………わがっでるよっ……」
もう、だめだった。
既に俺の顔は涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃで、嗚咽を堪えることも俺には到底できなかった。
彼女は一つ大きく息を吸ったかと思うと、震える声を絞り出した。
「……ルーク、さようなら」
そして、彼女は、いつもの顔で笑った。
「……さようなら……ルナ…………」
だから俺も、笑った。
不器用に、汚く、引き攣った下手くそな笑みだった。それでも、彼女との楽しい思い出を今、全て呼び起こすように……。
涙を拭いた頃には、彼女は息絶えていた。
「うっ………………うぁあああああああああああああああああ」
声にもならない悲痛な叫びが黄昏色の空へ吸い込まれていった。
誰だ……いったいどこのどいつなんだ…………。俺の愛しの人を奪ったのは……。
これが、戦争か。
憎しみは何も生まない。彼女もよく言っていたことだ。しかし——
この悲しさ寂しさ遣る瀬無さ、そして何より俺の無力感はどうすればいいというのだ……。
——聖暦2022年9月26日、『聖母』ルナ・オイトツェッファは臓器損傷及び出血多量により、17年と20日の短い生涯を遂げた。
勇者の一角の逝去が人類の一大事であることは言うまでもない——
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