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1巻

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   第一話 私が恋したのは、地味系人事部の彼でした


 十月最後の金曜日。
 二十時半を過ぎた品川の街は賑やかで、二次会の店を探して陽気に騒ぐサラリーマンであふれかえっていた。
 大きな営業カバンを胸に抱えたまま、私――三郷芙美さんごうふみは人混みの間を縫って足早に歩く。
 向かっているのは、我らが株式会社フロムワンキャリア、営業一課恒例の月末飲み会だ。
 営業一課は今月も課の営業目標数字を大きく達成。
 きっと今頃はみんな、祝い酒を飲みながら上機嫌で盛り上がっているだろう。
 ちょうど品川駅前のカラオケ店から出て来たばかりの団体客の波に巻き込まれて、もみくちゃにされながらもなんとか人波をすり抜けて店にたどり着く。
 すると、店の中から一斉に店員の「いらっしゃいませ!」という声が響いた。

「――来た来た! 芙美、遅いよぉ!」

 店の奥の座敷ざしきから、同じ営業一課に所属する同期――斉藤菜々さいとうななが、私に向かって手招きをしている。
 オフィスを出る前にお手洗いで入念に巻き直していた長い髪を揺らしながら、菜々はズリズリと座敷席ざしきせきの奥に詰めて行く。私が座るためのスペースを空けてくれているんだろう。
 既にかなり酔いが回っているのか、菜々の顔はニコニコと締まりがない。そんな菜々の顔を見た瞬間、今日も彼女を連れてタクシー帰りかな、と覚悟した。
 菜々はお酒自体はそれほど強いわけではないけれど、飲み会の雰囲気が好きなタイプだ。彼女がいる飲み会では、私が付き添って一緒に帰ることがいつもの流れになっている。

(タクシーで送って行っていたら、終電には間に合わないもんね。今日も菜々の家にお泊りする羽目になりそう)

 腕時計を見てこのあとの段取りを考えながら、私は菜々の隣に座った。

「お疲れ様です!」

 一人だけ素面しらふで元気に挨拶した私の目の前には、空の皿やグラスが並んだテーブル。その周りを、お酒が進んで赤ら顔をした営業一課のメンバーたちが囲んでいる。

「三郷さん、遅かったね」
「遅れてすみません、ちょっとクライアントからの電話につかまっちゃって」
「え? 今時こんな遅い時間に電話してくるクライアントがいるんだねえ」

 座敷ざしきに片膝を立てた今西いまにしさんが、そう言ってカッカッと笑った。
 今西さんは営業一課の課長で、年は四十代後半くらい。
 埼玉出身、埼玉在住という、生粋きっすいの埼玉人だ。お子さんが高校受験で第一志望に合格したと喜んでいたのは今年の頭ぐらいだったか。
 いつも穏やかでメンバー思いの今西さんのおかげで、私たち若手もすぐにこの会社に馴染むことができた。今西さんはみんなのお父さん的な存在だ。

「芙美のところは中小クライアントが多いですから。昔ながらの中小のお偉いさんは、まだまだ普通に時間構わず電話かけて来ますよ。な? 芙美!」

 今西さんに応対するのは課のリーダーである渡辺蓮わたなべれんさん。
 課で最も高い営業目標を持たされているのにもかかわらず、常に大幅達成を続ける渡辺さんは、我が営業一課の稼ぎ頭だ。
 ついでに言うと、私の同期である斉藤菜々の憧れの君でもある。

「そうなんですよ。新規クライアントなんですけど、用件をメールで送るとすぐに電話がかかってくるんです」
「ははっ! いるよなぁ。メールやチャットが来ると、返信するんじゃなくてすぐ電話かけてくる人」
「メールをちゃんと見てくれてて、ありがたいことなんですけどね」
「芙美はクライアントに甘いな。週明けまで待たせたって大して変わんないだろ?」
「まあ……そうなんですけどね」

 渡辺さんに向かって相槌あいづちを打ちながら、注文を聞きにきてくれた店員さんに生ビールを頼む。
 私が話をちゃんと聞いていないと思ったのか、渡辺さんは私の横で「芙美、芙美ちゃん? 俺のこと見えてる?」とふざけて笑った。
 渡辺さんは私のことも菜々のことも、いつも下の名前で呼ぶ。
 会社でしか顔を合わせない間柄なのに、当然のように私を「芙美」と呼び捨てにする渡辺さんは、きっと元々他人との距離が近い人なんだろうと思う。
 これが世に言うようキャってやつか。
 彼のとびっきりの社交性はうらやましいのだが、多分私には一生真似できない。
 それに彼のようなタイプの男性は、先輩としては頼もしいが異性としては少々苦手だ。菜々はその親しみやすさに惹かれているみたいだけど。

「渡辺の言う通り! 中小と違って大手企業は今テレワークが基本だから、電話の文化も薄れたもんだ。昔は営業フロアの電話は日中もバンバン鳴っててなあ、新人がワンコールで電話を取るのが当たり前で……」

 おっと、今西さんの昔語りが始まりそうだ。
 今西さんが若かりし頃の営業部が大変だったという話は、もう何度聞かされたか分からない。本格的に昔話が始まる前に、別の話題に切り替えたいところだ。
 そう思って菜々の方を見ると、彼女も私と同じことを考えていたようで……

「今西さん! そう言えばこの前、人事から年末調整ねんまつちょうせいの案内が届いてましたよね? もう年末かって思うと、なんだか一年経つのが早すぎませんかぁ?」

 テーブルに身を乗り出して、菜々は不自然なまでの大声で話題を変えた。
「飲み会の席では仕事の話はしない主義なの!」と、耳にタコができるほどに菜々から聞かされている私は、彼女の相変わらずの振る舞いに下を向いて笑いを堪えた。

「年末調整とか、もう入社して三回目のはずなのに、未だに全然分からないんですよね。なんで毎年こんなに難しい書類を書かないといけないんだろう」
「菜々、分からなかったら人事に同期がいるから紹介しようか? 俺も年末調整なんて分かんないから、いつもそいつに書類一式渡して全部聞いてる」

 リーダーという立場の割に、渡辺さんも随分と適当な人だ。
 営業の仕事に集中するために、あえて事務作業は手を抜いているんだろうか。他人の年末調整書類を丸投げされる人事の同期の人は、さぞや迷惑しているだろう。
 それでも、営業部が強いうちの会社だからこそ、人事部に少々手間をかけるくらいは大目にみてもらえているのかもしれない。
 自分のための手続き書類なのだから、もう少し勉強してから聞けばいいのに……なんて思ってしまう私は、ちょっと真面目過ぎるのだろうか。

「ええっ! いいんですか? ぜひ紹介してくださいよぉ。なんだかお金のこととか全然分かんなくて。そもそも年末調整って、十二月の給与でお金がいっぱい返って来るやつでしたっけ?」
「確かそうだよ。税金か何かが戻ってくるんじゃなかったかな」

 酔って声が大きくなった渡辺さんと菜々が、ふわふわした適当な話で盛り上がる。
 年末調整って、必ずお金が戻ってくる制度だったっけ? そんな嬉しいイベントではなかった気がするのだが。
 昨年末の記憶をたどろうと考え込んでいると、ちょうど私の注文した生ビールがテーブルに運ばれてきた。

「さ、乾杯しよう。芙美」
「ありがと、菜々。皆さん遅れてすみませんでした! 今月も達成おめでとうございまーす!」
「おつかれ! 乾杯!」

 どうせ今日の私は、菜々の家にお泊りコース。
 せっかくの金曜日なんだし、営業目標達成を祝って、遠慮えんりょなく飲んでしまおう!
 私たちのビールのジョッキがぶつかる音が、笑い声と共に店に響いた。


 ◆


 私がこの株式会社フロムワンキャリアに入社して、もう二年半が経つ。
 我が社のメインとなる事業は、法人向けの研修サービスの提供。新入社員研修はもちろん、中堅社員や管理職に向けたものなど、幅広い研修サービスを扱っている。
 そのほかにも個人向けのパソコンスクールの運営や、海外留学のサポート事業なんかも手掛けていて、教育業界の中でも事業のバリエーションの豊富さがウリの会社。
 父親が教師だった影響もあって、私は元々、教育業界に絞って就職活動をしていた。
 そんな私の第一志望の企業が、フロムワンキャリアだった。
 就職活動を始める前は聞いたこともなかった企業だったのだが、就活サイトで目にした経営理念や先輩社員のインタビューがとても共感できる内容で……
 なによりも、面接官をしてくれた先輩社員がみんないい方で、大学生の私達にもとても丁寧に接してくれたし、最終面接で会った社長も穏やかそうなお人柄。
 もちろん大手企業の方が給料がよかったり福利厚生が整っていたり、条件面は良かったかもしれない。でも私は給料や福利厚生よりも、一緒に働く人たちとの相性を重視したかった。
 その点、この会社なら私も上手くやっていけそうだと直感し、選考が進むごとに志望度が上がっていった。
 いざ内定が出た時は、飛び上がって喜んだものだ。
 フロムワンキャリアの研修を受けることで、一人でも多くの人が仕事に前向きになってくれたら。そんな気持ちで、現場に直接関わることのできる営業職を希望した。
 希望の会社で社会人としてのスタートを切ることができるのが嬉しくて、入社の日を心待ちにしていた。
 しかし、入社半年前の内定式で聞いた営業職の先輩社員のスピーチによって、当時の私は急に不安に駆られることとなった。

『――商談の相手は、クライアントの人事部長さんが多いですね。でも、中小企業が相手だと、部長をすっ飛ばしていきなり役員とご対面なんてこともあります!』

 壇上に立った先輩社員は、目をキラキラさせながら内定者の私たちに向けて楽しそうに語った。

『クライアントにとって、自社の担当が若手かベテランかなんて関係ないんです。彼らが私たちフロムワンキャリアに求める価値は、営業が誰であろうと同じです。ですから皆さんも新人という立場に甘えず、ぜひ入社直後から自信と覚悟を持って頑張ってください!』

 フロア全体に拍手が響き渡る中、新入社員向けのスピーチを終えた先輩社員は笑顔で手を振りながら壇上を降りた。
 先輩かっこいいね。私たちも頑張ろう。
 そんな風にささやき合う同期の横で、私は作り笑顔で拍手を続けた。
 完全に怖気づいていた。
 岡山県の田舎いなかでのんびり育ち、大学進学のために上京してからも、ほぼ同年代の友人たちとしか関わってこなかった私が、年配のお偉いさんたちと対等に商談なんてできるだろうか。
 大学の教授に質問しにいく時ですら、ちょっぴり緊張しているというのに。
 営業職が第一希望だったはずの私は、どうか他の部署に配属されますようにと祈り始めていた。
 しかし運命とは皮肉なもので、内定式の数か月後に私の元に届いた辞令じれいには、『第一営業部営業一課勤務を命ずる』とバッチリ記載されていた。
 結局私は不安を抱えたまま、営業職として株式会社フロムワンキャリアに入社することになったのだった。
 株式会社フロムワンキャリア、第一営業部営業一課所属。
 それが私の今の肩書き。
 自信も覚悟もないまま入社した割に、今の私は渡辺さんに次ぐ稼ぎ頭として毎月の営業目標を着実に達成している。陰では密かに、私が営業一課の次期リーダー候補だと言われているとかいないとか。
 そんな自覚も自信もないのだが、私を営業職に配属した人事の目が確かだったということかもしれない。
 入社当初は不安しかなかった営業の仕事だが、三年目ともなるとなんとか形になっているのだから不思議だ。
 それもこれも、今西さんや渡辺さんをはじめ、周りの人たちに恵まれたからだと思っている。
 今西さんは、忙しい中でも時間の合間を見つけて私のクライアント訪問に同行してくれたし、渡辺さんも私の作った見積書や契約書に間違いがないか細かくチェックしてくれた。
 営業一課の皆さんが温かく受け入れて育ててくれたおかげで、不安を抱えつつも、とりあえず私にできるところまではがむしゃらに頑張ってみるかと思えるようになったのだ。
 しかしそんな新卒時代を経て、社会人三年目も半分が過ぎた今――
 私は、このままずっと営業の仕事を続けていくかどうか迷い始めている。
 一通り仕事が回せるようになってきて落ち着いたからか、私の同期入社の三年目たちにも同じような悩みを持つ子が多い。将来を見据えて資格取得のためのスクールに通ったり、転職や異動を考えたり。
 社会人三年目というのは、悩み多き年頃なのかもしれない。
 ちなみにそんな中で、私の一番身近な同期である菜々の目下の目標は、「クリスマスまでに彼氏を作ること!」だそうだ。
 そう意気込む彼女のターゲットは、もちろん我が営業一課のエース、渡辺さん。
 私だったらもう少し真面目な人がいいなあなんて思うのだが、人それぞれ好みがあるのだから黙っておこう。


 ◆


 ようやくお開きとなった月末飲み会の帰り道。
 お酒のせいで陽気になった菜々は、私の腕に手を回してはしゃぎ続けている。

「ねえ、芙美! 渡辺さんの背中、かっこよすぎない!?」

 菜々の視線の先を見ると、スーツのジャケットを脱いで振り回している渡辺さんが、今西さんに怒られていた。あの酔っ払い姿をだなんて、菜々も相当酔いが回っている。

「……菜々。ちょっと飲み過ぎ」
「芙美は好きな人とかいないの? 好きな人なら、何をしててもかっこよく見えるんだよ。あ、そうだ! 芙美も彼氏作ればいいじゃん!!」
「はいはい、分かったよ。恥ずかしいから大声出すのやめて。タクシーつかまえるけど一人で帰れる? 私も菜々の家まで行こうか?」
「うーん……渡辺さんと同じ方向だから、一緒に乗る。渡辺さーん!」

 菜々はそう言って、渡辺さんのところにフラフラと走って行く。二人が同じタクシーの中に消えていくのを見届けると、私はすぐに腕時計に目をやった。
 今から走れば、終電の一本前の電車には間に合いそうだ。
 営業一課の皆さんに会釈えしゃくして、私は品川駅の改札に向かって走った。


 ◆


「……ヤバッ! 遅れる!」

 スマホの目覚ましアラームを無意識に止めてしまったのだろうか。
 遅刻ギリギリの時間に目を覚ました私は、ベッドから転げ落ちるように飛び出した。
 慌ててカーテンを開けると、秋の柔らかい朝日が部屋に差し込む。
 今日からもう十一月。
 下半期が始まって二ヶ月目の朝だ。
 先月は個人としても課としても目標数字を達成し、最高の下半期のスタートを切ることができた。
 しかし、月が変われば目標もリセットされるのが営業職の悲しいところで、今月の目標達成に向けて、また営業売上をゼロから積み上げる日々が始まる。
 月末の疲れを取るために、休日はゆっくり家で本を読んだりドラマを見たり、ダラダラして英気を養った。大好きなドラマを見始めたら止まらなくなったのが、運の尽きだったかもしれない。
 壁時計を見ると、もう七時四十五分を回っている。いつもならとっくに準備を終えている時間だ。
 学生時代からずっと、一限の授業でも無遅刻で、朝には強いタイプだったのに……こんなに寝坊するなんて、私らしくもない。

「月初に遅刻するのはまずいんだよ……!」

 慌てて着替えて歯を磨き、綺麗にお化粧するのは諦めて、眉毛だけ描いて家を飛び出した。
 大船おおふな駅まで徒歩なら十分ほどかかるところを全力で走る。
 社会人になってから運動の習慣はなくなったが、営業職は足で稼ぐというだけあって、日々の外回りのおかげで体力には自信がある。駅までくらいの距離ならば、一気に走り切れるのだ。
 改札を通った時には既に八時を回っていて、始業時刻にギリギリ間に合う電車の到着アナウンスがホームに流れていた。

(ふう……良かった、間に合った)

 肩で息をしながら、よろよろと電車を待つ人の列に並ぶ。
 列の最後尾でふと横を見ると、大船駅のホームの壁には、秋の鎌倉かまくらの写真が載ったポスターが貼られていた。白壁に瓦屋根かわらやねの建物を背景に、目が覚めるように鮮やかな紅葉、端っこの方には長谷はせの大仏様。
 できることなら私も今から下り方面の電車に乗って、鎌倉散策を楽しみたい。
 でも、今日は月初の第一営業日。クライアントに先月の請求書をお渡しするために、絶対に出社しなければならないのだ。
 ポスターの大仏様に後ろ髪を引かれながらも、私は東京方面行きの電車に乗る人波に身を任せた。
 私が大田区おおたくからここ、鎌倉市の大船に引っ越してきたのは、つい二週間前のことだ。
 引っ越しした当初は、何故わざわざそんな遠くに……と周囲には驚かれた。
 でも私はこの新しい大船ワンルーム生活が大いに気に入っている。
 仕事で疲れた日には少々奮発して、グリーン券を使ってゆっくり座って帰れる。休日も少し足を延ばせばすぐそこに、観光地である古都鎌倉。
 それに、鎌倉の街を歩いていると、なんとなく地元の倉敷くらしきにいた時のような、懐かしい気持ちになるのだ。都会過ぎることもなく、田舎いなかすぎることもなく。
 どこかレトロな雰囲気の街並みを眺めていると心が緩む気がする。
 品川までの通勤定期代は恐ろしく高くなってしまったが、通勤手当も支給されるから特に困ることもないはずだ。
 満員電車に揺られながら、私はふと菜々のことを思い出した。
 金曜の夜、菜々は無事にタクシーで家まで帰れただろうか?
 酔って足元をふらつかせながら、「芙美も彼氏作ればいいじゃん!!」と品川の街に向かって大声でくだを巻いていた菜々。
 恋する乙女おとめである菜々は恋にも仕事にも一生懸命で、生き生きしている。
 その真っ直ぐさは取引先のお偉いさん方にも好評で、彼女の担当先の多くは、うちの会社の商品そのものだけでなく、菜々と話すことも楽しみにしていることが多いんだとか。


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