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1巻
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◇
「うわああっ! 二人の出会いの場面、見られなかった……!」
侍女の子琴が不思議そうな顔をして見守る中、私は牀榻に突っ伏して嘆いていた。
前世で夢にまで見た永翔と玉蘭のロマンティックな出会いを、目の前で実際に見学できるチャンスだったというのに。
それを、まさか偶然通りかかった軽薄男に潰されてしまうなんて。
天燈にほんのりと照らされた二人が見つめ合う姿は、さぞや美しかっただろう。
(見たかったよ……。イケメン皇帝と、美少女皇后の出会い)
私は牀榻の上で寝返りをうつと、大の字になって大きく息を吐いた。
元はと言えば、私が悪いのだ。橋の上で手を滑らせて、川に落ちそうになったのは私の方なのだから。
何度も自分にそう言い聞かせて納得させようとするも、やっぱりため息は止まらない。
ふてくされる私の横で、子琴まで私の真似をして口を尖らせた。
「お嬢様、昨日はなぜ私のことを置いて勝手に一人でお帰りになったんですか? 酷いです」
「ごめんね、子琴。なんだか怖い人に絡まれちゃったの」
「怖い人に絡まれた!? それで、お嬢様の力で相手をこてんぱんにやっつけちゃったんですか?」
「いくらなんでも初対面の人にそんなことしないわよ。川にそっと落として差し上げただけ」
「さすがお嬢様! 曹先生に青龍古武道を教えていただいた甲斐がありましたね……あっ! そうだ、今日は曹先生のところに行く日でした! 早く準備をしないと」
「え? あ、そうだったっけ……」
子琴は無理矢理に私の腕を引っ張って、鏡台の前に座らせる。
(もう、子琴ったら適当なんだから)
慌てて化粧道具を取りに走った子琴を見て呆れた私は、ため息をつきながら鏡の前で姿勢を正した。
鏡に映った私の額には、真紅の花鈿がくっきりと浮かんでいる。
この花鈿、化粧紅で描いたものではない。お父様が言うには、生まれつき持っていた痣のようなものらしい。
子琴が側で白粉をはたく準備をしている間に、私は花鈿にそっと触れてみる。
指で触ってもこすっても取れないその花鈿は、芍薬か梅の花か。物心ついた時分には既に、私はこの紅の花を額に浮かべていた。
そして実はこの花鈿、人には言えない不思議な力を持っている。
それは、毒を浄化する力だ。
自分の体内に摂取してしまった毒だけではなく、触れた相手の毒までも浄化することができるという不思議な力。この花鈿の力に頼れば、人を死に至らしめるような強い毒から、ちょっとした体調不良や風邪まで、なんだって癒すことができるのだ。
(まあ、ほとんど誰も知らない秘密の力だけどね)
白粉の準備を終えた子琴に化粧を任せ、私は目を閉じる。
私がこの力に気付いたのは、義妹が生まれた頃――私が十歳の時だったと記憶している。
生まれたばかりの義妹が高熱を出した、とある冬の日のこと。
何日も熱が引かない赤子の看病に疲れたのか、その日の夜はお嫡母様もお父様もすっかり自分の臥室で眠ってしまっていた。
普段から黄家の義兄姉たちにいびられ続けていた私は、無邪気に笑顔を向けてくれる義妹のことが大好きだった。しかし庶子である私は普段、義妹の側に寄ることも許されない。
だから皆が眠りこけていたその夜、誰にも気付かれないようにこっそりと義妹の寝ている臥室に忍び込んだのだ。
苦しそうに胸を上下させながら浅い呼吸をしていた義妹は、臥室に入ってきた私に気が付くと、弱々しく笑った。
その姿がいじらしくて愛おしくて、私は義妹の牀榻によじ登り、熱を測ろうと額を合わせた。
その瞬間――
私の額にある花鈿がほんのりと熱を持ったかと思うと、全身が不思議な感覚に包まれた。言葉では説明できないこそばゆい感覚が、手足の指先から全身を通り抜けて額の花鈿に集まっていく。
それがしばし続いた後、私と額を合わせていた義妹の熱はみるみるうちに引いていった。呼吸も穏やかになり、静かな寝息を立てて眠り始めたのだ。
高熱が何日も続いて太医も匙を投げかけていたはずの義妹の病が、なぜ突然治ったのか。
もしかしたら、私の花鈿に何か秘密があるのかもしれない。
私は自分の力を確かめるため、庭園の隅に生えていた毒花をこっそり口に入れてみた。もしもこの花鈿に人を癒す力があるのなら、毒を食べたって平気だろうと考えたのだ。
今思えば、怖いもの知らずの子どもだったからできたこと。我ながら、随分と度胸のある挑戦をしたものだ。
苦い味の花びらを口の中で噛み潰してみたが、結果は想像通り。額の花鈿がほんのり熱を持つだけで、私の体にはなんの変化も起こらない。
やはり私の花鈿には毒を浄化して癒す力があるのだと、その時に確信した。
その後、私が毒花を口にしたことをお父様に告げると、お父様はこの世の終わりが訪れたのかと言わんばかりの恐ろしい形相で、私を曹先生の家に担ぎ込んだ。
曹先生はお父様の古くからの友人で、何かあった時にはいつも曹先生に頼っていたらしい。先生に診せたところで、私の体はなんの問題もなく健康そのものだったのだが。
結局のところ、今この花鈿の不思議な力のことを知っているのは父である黄夜白と、曹侯遠先生だけ。
変にこのことが広まって悪用されるのも困るので、できるだけ人には言わず秘密にしている。
「お父様、行って参ります」
「ああ、曹先生にくれぐれもよろしく伝えてくれよ」
お父様から預かった手紙を巾着に入れ、私は家を出た。
柔らかな日差しが心地よい午後。こんな日は、仕事として頼まれたお遣いも、楽しい散歩の時間に変わる。
お父様のお遣いで曹侯遠先生の家に定期的にご機嫌伺いに行くのは、毎月の私の役目だ。
先生は前の皇帝陛下の下で重臣として働いていた方で、一人娘を亡くした心労から体調を崩して官吏を辞任。隠居後は皇都の若者たちに読み書きや武芸、青龍国の歴史などを教えている。
私もかつて、曹先生の門下生の一人だった。忙しく働くお父様や辛く当たってくるお嫡母様よりも、むしろ曹先生に育ててもらったと言っても過言ではない。
先生のおかげで青龍国の歴史にも詳しくなったし、伝統舞踊も舞えるようになった。何より、古来より伝わる青龍国の武芸は特別得意になった。
天青節の夜、怪しい軽薄男を易々と川に落とすことができたのも、曹先生から武道を習ったからに他ならない。
曹家に到着した私は、門を入って裏庭の方へ進む。
こぢんまりとした曹先生の家は、使用人も置いていない。無人の庭を通って建物の裏手に回ると、そこにはすでに先客がいた。
先客の男性二人の背中の向こうには、珍しく険しい表情をした曹先生が見える。
(立ち話のようだし、そんなに時間はかからないわよね。少し待っていよう)
私は先生の邪魔にならないよう静かにその場を離れ、もう一度来た道を戻った。
先生の家の近くには、休憩するのに最適な河原がある。昨晩、見知らぬ男を川に突き落としたことを思い出しながら、私は川堤に置いてあった長椅子に腰を下ろした。
暖かな陽気は、時に人を怠惰にさせるものだ。
眠気に耐え切れなくなった私は、少しだけだと言い訳しながら瞼を閉じた。
◇
――『明凛、幽鬼には絶対に近付いては駄目だ』
大雨の夜、青龍川にしだれる柳の下で、震える一人の少女。
(あの柳の下にいる女の子は、私……? これは夢かしら)
時折頬や腕に触れる濡れた柳葉に悲鳴を上げながら、その少女は父を呼び続ける。
勝手に一人で外に出るのではなかった。
こんなに大雨になるとは思わなかった。
少女は泣きながら、柳の木にしがみつく。
しばらくすると、ごうごうと音を立てて降る雨の向こう側から一人の男が走ってきた。
『お父様!』
『……明凛、明凛!』
少女はその男の腕に飛び込んで泣くが、その泣き声も大きな雨音にすぐにかき消された。
――『明凛、雨の夜には幽鬼が出る。外に出てはいけないし、幽鬼を見ても絶対に近付いては駄目だ。やつらは、人の記憶を食べてしまうのだから……』
……
…………
「……い……おい!」
夢と現の狭間で彷徨う私の半身が、ふと心地よい温もりに包まれた。
(雨は止んだの? なんだか温かい)
「……おい、起きろ!」
(ん? 起きろって、なんのこと?)
「なんだこの花鈿は。化粧ではなさそうだな。花鈿の形をした痣か……?」
「う……うわぁっ!」
目を覚まして瞼をパチパチと開けたり閉めたりしながら、私は自分の置かれた状況を確かめる。
顔を上げるとすぐ側には、私に声をかけていたらしい一人の男。
肩が触れ合う至近距離。
私の額に無遠慮に触れる、ゴツゴツした長い指。
「やめてっ!!」
「……は!?」
あまりの驚きに、私は咄嗟にその男を力いっぱい突き飛ばした。
すると次の瞬間、その男は川堤からゴロゴロと転がって川の中に落ちていく。
「ぐっ……またか……寒っ!」
鈍い水音の後、川の中で体を起こしたその男の袍には、見覚えがあった。
「あれ、あなたまさか昨日の……? 出会い頭に口説いてきた軽薄男じゃないですか!」
「おい、何かの誤解だ。昨日も今日も、私は其方を助けようとしただけなんだが」
「え? ……助ける?」
水の冷たさに震えながら岸に上がった男は、袍の裾を絞ってから堤を登ってくる。
沓の中まで水が入り込んだようで、一歩踏み込むごとにぐちゃりと重そうな水音が鳴った。
どうやら私は、曹先生の来客が帰るのを待つ間に居眠りをしていたらしい。子どもの頃の嫌な夢を見ているところを、この男の呼びかけで起こされたようだ。
「あのまま放っておいたら、眠ったまま地面に落ちて頭をぶつけるところだったぞ。それに、そもそもこんなところで年頃の娘が一人で眠っていたら危ないだろう」
「……もしかして、私が椅子から落ちないように肩で支えてくれていたということですか?」
「ああ、それだけだ。声をかけてもなかなか起きないから、致し方なく……。せっかく助けてやったのに、本当に失礼な娘だ」
洟をすすり、足を引きずりながらゆっくりと長椅子に近付くと、男はもう一度そこに腰を下ろす。濡れた沓を脱いで逆さにして、中に入っていた水を地面にばしゃりと落とした。
(あの高そうな生地の袍を、またしてもずぶ濡れにしてしまったわ。それに――)
私はもう一つ、自分がやらかしてしまったことに気付いていた。
恐る恐る、男に尋ねてみる。
「あの……足、怪我しちゃいましたよね?」
「ああ。昨日其方に川に突き落とされた時に足を挫いたようだ。冷たい水のせいで風邪も引いたというのに、またしてもこうして川に落とされるとは……。全く、私が寛容な人間で命拾いしたな」
「うっ、ごめんなさい」
助けてくれた相手に対しての失態を次々と聞かされ、私はいたたまれなくなって下を向いた。
驚いて咄嗟の行動だったとは言え、見ず知らずの人の手を突然捻ったり川に突き落としたりするのは良くないことだと、頭では分かっている。
師匠である曹侯遠先生にも、無暗に武道の技を他人に使うなと口を酸っぱくして言われているというのに。
「……せっかく助けていただいたのに、酷いことをして申し訳ありませんでした。でも、突然手を掴まれて名前や年を聞かれたら、私じゃなくても誰だって驚くと思います。今日だってそうです! 目が覚めたら、知らない顔に覗き込まれているんですもの」
(しかも昨晩、永翔と玉蘭の出会いの場面を見逃したのは、あなたのせいでもあるのだし)
頭の中で色々と言い訳をしてみるが、いずれにしても私の勘違いで二度も川に落とした事実には変わりがない。
永翔と玉蘭の姿を見逃した悔しさよりも、目の前の男に対する申し訳なさの方が勝った私は、顔を上げることができなかった。
「……其方の言う通りだな。驚かせてすまなかった。実は其方が昔の知り合いに似ている気がして……つい力が入ってしまったのだ」
男は俯く私に向かって、隣に座るように促す。私は俯いたまま、男の隣に静かに座った。
「そんなに申し訳なさそうにされたら此方も困ってしまう。私も悪かったのだから」
「でも、怪我までさせてしまったし……」
「もう気にするな。そうだ、改めて名を聞いてもよいか。私は……翔永という」
「私は、黄明凛と申します」
翔永と名乗ったその男は、昔の知り合いを訪ねて皇都に来たと言う。聞けばその『昔の知り合い』とは、なんと私が今から訪ねようとしていた曹侯遠先生らしい。
そう言えば先ほど曹家の裏庭で、二人組の男の背中を見たばかりではないか。
「もしかして、先ほど曹先生とお話しされていた方?」
「ああ、そうだ。曹家から宿に戻る途中で、其方が眠っているのを見つけたんだ」
「曹先生のお客様だったなんて! 私ったら全く知らずに、失礼なことをしてしまって申し訳ありません」
先ほどから何度目だか分からないが、私はもう一度男に頭を下げる。
ずぶ濡れの袍を手で絞っただけの格好をしていても、長身で精悍な顔立ちをした翔永様はなかなかの美丈夫だ。
それに、質の良い藍色の袍は、よほどの名家でないと手に入れられない逸品。曹先生の知り合いだというし、この方は地方で官吏の職にでも就いているのかもしれない。
道行く人たちが、すれ違いざまにチラチラと翔永様に視線を向けて去っていく。翔永様をずぶ濡れにしてしまった罪悪感で、私は居心地悪く肩をすくめた。
「遠くからわざわざ皇都までいらっしゃるなんて……曹先生に、大切なご用事なんですね」
「ああ、そうだな。とても大切な頼みがあったのだが、実は今のところ交渉決裂中でね。しばらく皇都に滞在して根気よく口説かねばならないかもしれん」
そう言って、翔永様は目を伏せる。
どことなく憂いを帯びたその横顔は、田舎から出てきたばかりとは思えぬほど瀟洒たる姿で、私はますます彼の出自に首を傾げた。
(「口説く」で思い出したけど、そう言えばこの人、出会い頭に私のことを口説いてきたんだった。そんなに軽薄な人には見えないんだけどなあ)
「明凛は、ずっとここに住んでいるのか?」
「はい、私は生まれた時から皇都育ちです。父が言うには」
「なんだそれは。随分と他人事のような話ぶりだな」
「幼い頃の記憶なんて、誰しも覚えてないでしょう? 物心ついてからは、この皇都を一度も出たことがありません」
前世では中国各地を一人旅で回りましたけど、とついつい口に出しそうになったが、ここは『玲玉記』の架空の世界。中国ではなかったのだと思い直して言葉を呑み込んだ。
翔永様は、この近くに今夜の宿を取っていると言う。
私たちは青龍川沿いを並んで歩き、その宿に向かった。
足を痛めている翔永様に合わせてゆっくりと歩くうちに話が弾んで、私たちはすっかり打ち解けてしまった。
「翔永様は、曹先生への用事が終わったらすぐに地元に戻られるのですか?」
「そうだな。色々とあちらで仕事がある。早く交渉を終わらせて戻らねば」
「では……多分、もう私と会うこともないですよね」
楽しいお喋りの時間を過ごしたからか、これが最後だと思うと少し名残惜しい。
私は並んで歩いていた翔永様の前に進み出て、向かい合うように立った。
長身の彼の顔を下から見上げ、ニッコリと笑みを見せる。
「ん? どうした?」
「今日で会うのは最後だから、私の秘密を教えます。誰にも言わないでくださいね」
私は翔永様の両頬に手を伸ばし、少し背伸びをして花鈿の描かれた額を彼の額にそっと合わせた。突然触れられて身を強張らせる翔永様に、「静かに、目を閉じて」と囁く。
額の花鈿がほんのりと温かくなり、翔永様の額に私の熱が伝わっていく。
「……これは?」
「足の怪我そのものは治せないけれど、これで少し痛みが和らぎませんか? それと、風邪も少し良くなっているはずです」
翔永様は先ほどまで滝のように流れていた鼻水が止まったことに気付いたようで、目を丸くしている。
「私のこの額の花鈿には、体の毒を癒す力があるんです。人に知られてしまうと面倒なので、秘密ですよ」
「その花鈿の力で、私の風邪が治ったのか? その力は、いつどこで?」
「額の花鈿は生まれつきだそうです。まあ、この力に自分で気が付いたのは十歳の頃ですが」
「信じられん……そんな力、初めて聞いたぞ」
川に落ちてずぶ濡れになった袍のことも忘れ、翔永様は足の怪我や自分の鼻を触って確かめ、首を傾げている。
(そんな格好でずっと外にいては、せっかく風邪を治してもすぐにぶり返してしまいそうね)
「さあ、翔永様。また風邪を引いてしまっては治した意味がありません。早く宿に帰って着替えてください。私はここで」
「明凛、ありがとう。……元気で」
「こちらこそ、ありがとうございます。曹先生との交渉が上手くいくように願っていますね!」
翔永様に手を振ると、私は再び来た道を戻り始めた。
いつの間にか、青龍川の向こうでは夕日が沈み始めている。
曹家に手紙を届けるのをすっかり忘れていたことにも気が付かないまま、私は翔永様と額を合わせた時の熱を確かめるように、花鈿にそっと触れた。
◆
「永翔様……いいえ、ここでは翔永様でしたか。また風邪を引いたのですね」
「……さすがに、二度も冷たい川に浸かってはな」
昨日せっかく止まった鼻水と咳は、今日になってまたぶり返していた。
宿の一室で掛布にくるまって寒さに震えていると、側近の羅商儀がそんな私の姿を見てため息をつく。
「この国の皇帝陛下ともあろう御方が、ただの小娘に二度も川に突き落とされるとは笑い話ですね。その気になれば避けることくらいできたでしょうに。油断なさいましたか?」
「すまん……なんだか調子が狂って油断した」
「でしょうね。そもそも偽名の付け方から油断しすぎです。翔永だなんて、文字をひっくり返しただけじゃないですか!」
商儀に説教を受けながら、私は前日に皇都で再会した黄明凛の言葉を思い出していた。
『――私のこの額の花鈿には、体の毒を癒す力があるんです』
不思議な力を持つ、真紅の花鈿。
その花鈿に触れるだけで、体中から毒素が抜けて浄化されていく感覚。
(あの娘は何者なのだ? 四龍の王家が持つ力とも違う、初めて見る力だった)
この大陸には青龍国の他に、玄龍国、赤龍国、白龍国という国があり、これらをまとめて四龍と呼ぶ。
四龍の中でも我が青龍国は最も強い力を持ち、古来よりその他三国を統べる立場だ。青龍の力は絶大で、人だけではなく森羅万象、ひいては幽鬼までもが青龍の前には無条件に服従すると言われている。
四龍の王族は龍の加護を受けた特別な力を代々受け継ぐ。
青龍国皇帝である私も、青龍の力を受け継いでいる……はずなのだが、残念ながら私にはまだこの青龍の力は発現していない。
つまり、王族の者ですら自らの中に眠る龍の力を操ることは容易ではないのだ。
それなのに、四龍の血筋と全く関係のない小娘が、いとも簡単に不思議な力を支配できているとは。
「曹侯遠を通じれば、もう一度あの娘に会うこともできるはずだが……」
そこまで考えたところで、自分の浅はかさに苦笑いが漏れた。
(これ以上犠牲者を増やしてどうする? もしも黄明凛が私と関われば、必ずあの皇太后から目を付けられる。危険に晒してしまうことになるではないか)
これからの私の策に曹侯遠を巻き込むことですら躊躇したのだ。偶然街で出会っただけの無関係の娘を、私の運命に巻き込むわけにはいかない。
邪念を打ち払うように首を横に振り、過去の自分に思いを馳せる。
幼い頃から、私の毒見役の者が目の前で命を落とすのを何度も見てきた。
皇太子である私の命を狙う何者かが、私の食事に毒を盛っていたのだ。しかしいくら食事を調べても、厨房を調べてみても、毒の出所を突き止めることはできなかった。
周到に隠されたその手口は、人の手によるものとはとても思えない。
恐らくその毒の正体は、呪術によるもの。
そして、この青龍国で呪術を使える者と言えば、ただ一人しかいない。
「うわああっ! 二人の出会いの場面、見られなかった……!」
侍女の子琴が不思議そうな顔をして見守る中、私は牀榻に突っ伏して嘆いていた。
前世で夢にまで見た永翔と玉蘭のロマンティックな出会いを、目の前で実際に見学できるチャンスだったというのに。
それを、まさか偶然通りかかった軽薄男に潰されてしまうなんて。
天燈にほんのりと照らされた二人が見つめ合う姿は、さぞや美しかっただろう。
(見たかったよ……。イケメン皇帝と、美少女皇后の出会い)
私は牀榻の上で寝返りをうつと、大の字になって大きく息を吐いた。
元はと言えば、私が悪いのだ。橋の上で手を滑らせて、川に落ちそうになったのは私の方なのだから。
何度も自分にそう言い聞かせて納得させようとするも、やっぱりため息は止まらない。
ふてくされる私の横で、子琴まで私の真似をして口を尖らせた。
「お嬢様、昨日はなぜ私のことを置いて勝手に一人でお帰りになったんですか? 酷いです」
「ごめんね、子琴。なんだか怖い人に絡まれちゃったの」
「怖い人に絡まれた!? それで、お嬢様の力で相手をこてんぱんにやっつけちゃったんですか?」
「いくらなんでも初対面の人にそんなことしないわよ。川にそっと落として差し上げただけ」
「さすがお嬢様! 曹先生に青龍古武道を教えていただいた甲斐がありましたね……あっ! そうだ、今日は曹先生のところに行く日でした! 早く準備をしないと」
「え? あ、そうだったっけ……」
子琴は無理矢理に私の腕を引っ張って、鏡台の前に座らせる。
(もう、子琴ったら適当なんだから)
慌てて化粧道具を取りに走った子琴を見て呆れた私は、ため息をつきながら鏡の前で姿勢を正した。
鏡に映った私の額には、真紅の花鈿がくっきりと浮かんでいる。
この花鈿、化粧紅で描いたものではない。お父様が言うには、生まれつき持っていた痣のようなものらしい。
子琴が側で白粉をはたく準備をしている間に、私は花鈿にそっと触れてみる。
指で触ってもこすっても取れないその花鈿は、芍薬か梅の花か。物心ついた時分には既に、私はこの紅の花を額に浮かべていた。
そして実はこの花鈿、人には言えない不思議な力を持っている。
それは、毒を浄化する力だ。
自分の体内に摂取してしまった毒だけではなく、触れた相手の毒までも浄化することができるという不思議な力。この花鈿の力に頼れば、人を死に至らしめるような強い毒から、ちょっとした体調不良や風邪まで、なんだって癒すことができるのだ。
(まあ、ほとんど誰も知らない秘密の力だけどね)
白粉の準備を終えた子琴に化粧を任せ、私は目を閉じる。
私がこの力に気付いたのは、義妹が生まれた頃――私が十歳の時だったと記憶している。
生まれたばかりの義妹が高熱を出した、とある冬の日のこと。
何日も熱が引かない赤子の看病に疲れたのか、その日の夜はお嫡母様もお父様もすっかり自分の臥室で眠ってしまっていた。
普段から黄家の義兄姉たちにいびられ続けていた私は、無邪気に笑顔を向けてくれる義妹のことが大好きだった。しかし庶子である私は普段、義妹の側に寄ることも許されない。
だから皆が眠りこけていたその夜、誰にも気付かれないようにこっそりと義妹の寝ている臥室に忍び込んだのだ。
苦しそうに胸を上下させながら浅い呼吸をしていた義妹は、臥室に入ってきた私に気が付くと、弱々しく笑った。
その姿がいじらしくて愛おしくて、私は義妹の牀榻によじ登り、熱を測ろうと額を合わせた。
その瞬間――
私の額にある花鈿がほんのりと熱を持ったかと思うと、全身が不思議な感覚に包まれた。言葉では説明できないこそばゆい感覚が、手足の指先から全身を通り抜けて額の花鈿に集まっていく。
それがしばし続いた後、私と額を合わせていた義妹の熱はみるみるうちに引いていった。呼吸も穏やかになり、静かな寝息を立てて眠り始めたのだ。
高熱が何日も続いて太医も匙を投げかけていたはずの義妹の病が、なぜ突然治ったのか。
もしかしたら、私の花鈿に何か秘密があるのかもしれない。
私は自分の力を確かめるため、庭園の隅に生えていた毒花をこっそり口に入れてみた。もしもこの花鈿に人を癒す力があるのなら、毒を食べたって平気だろうと考えたのだ。
今思えば、怖いもの知らずの子どもだったからできたこと。我ながら、随分と度胸のある挑戦をしたものだ。
苦い味の花びらを口の中で噛み潰してみたが、結果は想像通り。額の花鈿がほんのり熱を持つだけで、私の体にはなんの変化も起こらない。
やはり私の花鈿には毒を浄化して癒す力があるのだと、その時に確信した。
その後、私が毒花を口にしたことをお父様に告げると、お父様はこの世の終わりが訪れたのかと言わんばかりの恐ろしい形相で、私を曹先生の家に担ぎ込んだ。
曹先生はお父様の古くからの友人で、何かあった時にはいつも曹先生に頼っていたらしい。先生に診せたところで、私の体はなんの問題もなく健康そのものだったのだが。
結局のところ、今この花鈿の不思議な力のことを知っているのは父である黄夜白と、曹侯遠先生だけ。
変にこのことが広まって悪用されるのも困るので、できるだけ人には言わず秘密にしている。
「お父様、行って参ります」
「ああ、曹先生にくれぐれもよろしく伝えてくれよ」
お父様から預かった手紙を巾着に入れ、私は家を出た。
柔らかな日差しが心地よい午後。こんな日は、仕事として頼まれたお遣いも、楽しい散歩の時間に変わる。
お父様のお遣いで曹侯遠先生の家に定期的にご機嫌伺いに行くのは、毎月の私の役目だ。
先生は前の皇帝陛下の下で重臣として働いていた方で、一人娘を亡くした心労から体調を崩して官吏を辞任。隠居後は皇都の若者たちに読み書きや武芸、青龍国の歴史などを教えている。
私もかつて、曹先生の門下生の一人だった。忙しく働くお父様や辛く当たってくるお嫡母様よりも、むしろ曹先生に育ててもらったと言っても過言ではない。
先生のおかげで青龍国の歴史にも詳しくなったし、伝統舞踊も舞えるようになった。何より、古来より伝わる青龍国の武芸は特別得意になった。
天青節の夜、怪しい軽薄男を易々と川に落とすことができたのも、曹先生から武道を習ったからに他ならない。
曹家に到着した私は、門を入って裏庭の方へ進む。
こぢんまりとした曹先生の家は、使用人も置いていない。無人の庭を通って建物の裏手に回ると、そこにはすでに先客がいた。
先客の男性二人の背中の向こうには、珍しく険しい表情をした曹先生が見える。
(立ち話のようだし、そんなに時間はかからないわよね。少し待っていよう)
私は先生の邪魔にならないよう静かにその場を離れ、もう一度来た道を戻った。
先生の家の近くには、休憩するのに最適な河原がある。昨晩、見知らぬ男を川に突き落としたことを思い出しながら、私は川堤に置いてあった長椅子に腰を下ろした。
暖かな陽気は、時に人を怠惰にさせるものだ。
眠気に耐え切れなくなった私は、少しだけだと言い訳しながら瞼を閉じた。
◇
――『明凛、幽鬼には絶対に近付いては駄目だ』
大雨の夜、青龍川にしだれる柳の下で、震える一人の少女。
(あの柳の下にいる女の子は、私……? これは夢かしら)
時折頬や腕に触れる濡れた柳葉に悲鳴を上げながら、その少女は父を呼び続ける。
勝手に一人で外に出るのではなかった。
こんなに大雨になるとは思わなかった。
少女は泣きながら、柳の木にしがみつく。
しばらくすると、ごうごうと音を立てて降る雨の向こう側から一人の男が走ってきた。
『お父様!』
『……明凛、明凛!』
少女はその男の腕に飛び込んで泣くが、その泣き声も大きな雨音にすぐにかき消された。
――『明凛、雨の夜には幽鬼が出る。外に出てはいけないし、幽鬼を見ても絶対に近付いては駄目だ。やつらは、人の記憶を食べてしまうのだから……』
……
…………
「……い……おい!」
夢と現の狭間で彷徨う私の半身が、ふと心地よい温もりに包まれた。
(雨は止んだの? なんだか温かい)
「……おい、起きろ!」
(ん? 起きろって、なんのこと?)
「なんだこの花鈿は。化粧ではなさそうだな。花鈿の形をした痣か……?」
「う……うわぁっ!」
目を覚まして瞼をパチパチと開けたり閉めたりしながら、私は自分の置かれた状況を確かめる。
顔を上げるとすぐ側には、私に声をかけていたらしい一人の男。
肩が触れ合う至近距離。
私の額に無遠慮に触れる、ゴツゴツした長い指。
「やめてっ!!」
「……は!?」
あまりの驚きに、私は咄嗟にその男を力いっぱい突き飛ばした。
すると次の瞬間、その男は川堤からゴロゴロと転がって川の中に落ちていく。
「ぐっ……またか……寒っ!」
鈍い水音の後、川の中で体を起こしたその男の袍には、見覚えがあった。
「あれ、あなたまさか昨日の……? 出会い頭に口説いてきた軽薄男じゃないですか!」
「おい、何かの誤解だ。昨日も今日も、私は其方を助けようとしただけなんだが」
「え? ……助ける?」
水の冷たさに震えながら岸に上がった男は、袍の裾を絞ってから堤を登ってくる。
沓の中まで水が入り込んだようで、一歩踏み込むごとにぐちゃりと重そうな水音が鳴った。
どうやら私は、曹先生の来客が帰るのを待つ間に居眠りをしていたらしい。子どもの頃の嫌な夢を見ているところを、この男の呼びかけで起こされたようだ。
「あのまま放っておいたら、眠ったまま地面に落ちて頭をぶつけるところだったぞ。それに、そもそもこんなところで年頃の娘が一人で眠っていたら危ないだろう」
「……もしかして、私が椅子から落ちないように肩で支えてくれていたということですか?」
「ああ、それだけだ。声をかけてもなかなか起きないから、致し方なく……。せっかく助けてやったのに、本当に失礼な娘だ」
洟をすすり、足を引きずりながらゆっくりと長椅子に近付くと、男はもう一度そこに腰を下ろす。濡れた沓を脱いで逆さにして、中に入っていた水を地面にばしゃりと落とした。
(あの高そうな生地の袍を、またしてもずぶ濡れにしてしまったわ。それに――)
私はもう一つ、自分がやらかしてしまったことに気付いていた。
恐る恐る、男に尋ねてみる。
「あの……足、怪我しちゃいましたよね?」
「ああ。昨日其方に川に突き落とされた時に足を挫いたようだ。冷たい水のせいで風邪も引いたというのに、またしてもこうして川に落とされるとは……。全く、私が寛容な人間で命拾いしたな」
「うっ、ごめんなさい」
助けてくれた相手に対しての失態を次々と聞かされ、私はいたたまれなくなって下を向いた。
驚いて咄嗟の行動だったとは言え、見ず知らずの人の手を突然捻ったり川に突き落としたりするのは良くないことだと、頭では分かっている。
師匠である曹侯遠先生にも、無暗に武道の技を他人に使うなと口を酸っぱくして言われているというのに。
「……せっかく助けていただいたのに、酷いことをして申し訳ありませんでした。でも、突然手を掴まれて名前や年を聞かれたら、私じゃなくても誰だって驚くと思います。今日だってそうです! 目が覚めたら、知らない顔に覗き込まれているんですもの」
(しかも昨晩、永翔と玉蘭の出会いの場面を見逃したのは、あなたのせいでもあるのだし)
頭の中で色々と言い訳をしてみるが、いずれにしても私の勘違いで二度も川に落とした事実には変わりがない。
永翔と玉蘭の姿を見逃した悔しさよりも、目の前の男に対する申し訳なさの方が勝った私は、顔を上げることができなかった。
「……其方の言う通りだな。驚かせてすまなかった。実は其方が昔の知り合いに似ている気がして……つい力が入ってしまったのだ」
男は俯く私に向かって、隣に座るように促す。私は俯いたまま、男の隣に静かに座った。
「そんなに申し訳なさそうにされたら此方も困ってしまう。私も悪かったのだから」
「でも、怪我までさせてしまったし……」
「もう気にするな。そうだ、改めて名を聞いてもよいか。私は……翔永という」
「私は、黄明凛と申します」
翔永と名乗ったその男は、昔の知り合いを訪ねて皇都に来たと言う。聞けばその『昔の知り合い』とは、なんと私が今から訪ねようとしていた曹侯遠先生らしい。
そう言えば先ほど曹家の裏庭で、二人組の男の背中を見たばかりではないか。
「もしかして、先ほど曹先生とお話しされていた方?」
「ああ、そうだ。曹家から宿に戻る途中で、其方が眠っているのを見つけたんだ」
「曹先生のお客様だったなんて! 私ったら全く知らずに、失礼なことをしてしまって申し訳ありません」
先ほどから何度目だか分からないが、私はもう一度男に頭を下げる。
ずぶ濡れの袍を手で絞っただけの格好をしていても、長身で精悍な顔立ちをした翔永様はなかなかの美丈夫だ。
それに、質の良い藍色の袍は、よほどの名家でないと手に入れられない逸品。曹先生の知り合いだというし、この方は地方で官吏の職にでも就いているのかもしれない。
道行く人たちが、すれ違いざまにチラチラと翔永様に視線を向けて去っていく。翔永様をずぶ濡れにしてしまった罪悪感で、私は居心地悪く肩をすくめた。
「遠くからわざわざ皇都までいらっしゃるなんて……曹先生に、大切なご用事なんですね」
「ああ、そうだな。とても大切な頼みがあったのだが、実は今のところ交渉決裂中でね。しばらく皇都に滞在して根気よく口説かねばならないかもしれん」
そう言って、翔永様は目を伏せる。
どことなく憂いを帯びたその横顔は、田舎から出てきたばかりとは思えぬほど瀟洒たる姿で、私はますます彼の出自に首を傾げた。
(「口説く」で思い出したけど、そう言えばこの人、出会い頭に私のことを口説いてきたんだった。そんなに軽薄な人には見えないんだけどなあ)
「明凛は、ずっとここに住んでいるのか?」
「はい、私は生まれた時から皇都育ちです。父が言うには」
「なんだそれは。随分と他人事のような話ぶりだな」
「幼い頃の記憶なんて、誰しも覚えてないでしょう? 物心ついてからは、この皇都を一度も出たことがありません」
前世では中国各地を一人旅で回りましたけど、とついつい口に出しそうになったが、ここは『玲玉記』の架空の世界。中国ではなかったのだと思い直して言葉を呑み込んだ。
翔永様は、この近くに今夜の宿を取っていると言う。
私たちは青龍川沿いを並んで歩き、その宿に向かった。
足を痛めている翔永様に合わせてゆっくりと歩くうちに話が弾んで、私たちはすっかり打ち解けてしまった。
「翔永様は、曹先生への用事が終わったらすぐに地元に戻られるのですか?」
「そうだな。色々とあちらで仕事がある。早く交渉を終わらせて戻らねば」
「では……多分、もう私と会うこともないですよね」
楽しいお喋りの時間を過ごしたからか、これが最後だと思うと少し名残惜しい。
私は並んで歩いていた翔永様の前に進み出て、向かい合うように立った。
長身の彼の顔を下から見上げ、ニッコリと笑みを見せる。
「ん? どうした?」
「今日で会うのは最後だから、私の秘密を教えます。誰にも言わないでくださいね」
私は翔永様の両頬に手を伸ばし、少し背伸びをして花鈿の描かれた額を彼の額にそっと合わせた。突然触れられて身を強張らせる翔永様に、「静かに、目を閉じて」と囁く。
額の花鈿がほんのりと温かくなり、翔永様の額に私の熱が伝わっていく。
「……これは?」
「足の怪我そのものは治せないけれど、これで少し痛みが和らぎませんか? それと、風邪も少し良くなっているはずです」
翔永様は先ほどまで滝のように流れていた鼻水が止まったことに気付いたようで、目を丸くしている。
「私のこの額の花鈿には、体の毒を癒す力があるんです。人に知られてしまうと面倒なので、秘密ですよ」
「その花鈿の力で、私の風邪が治ったのか? その力は、いつどこで?」
「額の花鈿は生まれつきだそうです。まあ、この力に自分で気が付いたのは十歳の頃ですが」
「信じられん……そんな力、初めて聞いたぞ」
川に落ちてずぶ濡れになった袍のことも忘れ、翔永様は足の怪我や自分の鼻を触って確かめ、首を傾げている。
(そんな格好でずっと外にいては、せっかく風邪を治してもすぐにぶり返してしまいそうね)
「さあ、翔永様。また風邪を引いてしまっては治した意味がありません。早く宿に帰って着替えてください。私はここで」
「明凛、ありがとう。……元気で」
「こちらこそ、ありがとうございます。曹先生との交渉が上手くいくように願っていますね!」
翔永様に手を振ると、私は再び来た道を戻り始めた。
いつの間にか、青龍川の向こうでは夕日が沈み始めている。
曹家に手紙を届けるのをすっかり忘れていたことにも気が付かないまま、私は翔永様と額を合わせた時の熱を確かめるように、花鈿にそっと触れた。
◆
「永翔様……いいえ、ここでは翔永様でしたか。また風邪を引いたのですね」
「……さすがに、二度も冷たい川に浸かってはな」
昨日せっかく止まった鼻水と咳は、今日になってまたぶり返していた。
宿の一室で掛布にくるまって寒さに震えていると、側近の羅商儀がそんな私の姿を見てため息をつく。
「この国の皇帝陛下ともあろう御方が、ただの小娘に二度も川に突き落とされるとは笑い話ですね。その気になれば避けることくらいできたでしょうに。油断なさいましたか?」
「すまん……なんだか調子が狂って油断した」
「でしょうね。そもそも偽名の付け方から油断しすぎです。翔永だなんて、文字をひっくり返しただけじゃないですか!」
商儀に説教を受けながら、私は前日に皇都で再会した黄明凛の言葉を思い出していた。
『――私のこの額の花鈿には、体の毒を癒す力があるんです』
不思議な力を持つ、真紅の花鈿。
その花鈿に触れるだけで、体中から毒素が抜けて浄化されていく感覚。
(あの娘は何者なのだ? 四龍の王家が持つ力とも違う、初めて見る力だった)
この大陸には青龍国の他に、玄龍国、赤龍国、白龍国という国があり、これらをまとめて四龍と呼ぶ。
四龍の中でも我が青龍国は最も強い力を持ち、古来よりその他三国を統べる立場だ。青龍の力は絶大で、人だけではなく森羅万象、ひいては幽鬼までもが青龍の前には無条件に服従すると言われている。
四龍の王族は龍の加護を受けた特別な力を代々受け継ぐ。
青龍国皇帝である私も、青龍の力を受け継いでいる……はずなのだが、残念ながら私にはまだこの青龍の力は発現していない。
つまり、王族の者ですら自らの中に眠る龍の力を操ることは容易ではないのだ。
それなのに、四龍の血筋と全く関係のない小娘が、いとも簡単に不思議な力を支配できているとは。
「曹侯遠を通じれば、もう一度あの娘に会うこともできるはずだが……」
そこまで考えたところで、自分の浅はかさに苦笑いが漏れた。
(これ以上犠牲者を増やしてどうする? もしも黄明凛が私と関われば、必ずあの皇太后から目を付けられる。危険に晒してしまうことになるではないか)
これからの私の策に曹侯遠を巻き込むことですら躊躇したのだ。偶然街で出会っただけの無関係の娘を、私の運命に巻き込むわけにはいかない。
邪念を打ち払うように首を横に振り、過去の自分に思いを馳せる。
幼い頃から、私の毒見役の者が目の前で命を落とすのを何度も見てきた。
皇太子である私の命を狙う何者かが、私の食事に毒を盛っていたのだ。しかしいくら食事を調べても、厨房を調べてみても、毒の出所を突き止めることはできなかった。
周到に隠されたその手口は、人の手によるものとはとても思えない。
恐らくその毒の正体は、呪術によるもの。
そして、この青龍国で呪術を使える者と言えば、ただ一人しかいない。
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