「傀もの」

綺月しゆい

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序章~水舟篇~

第2話「残存」

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薄く秋の薫る晴天の日。
戸を開けるやいなや、透明な陽の光とともに涼やかな風が首筋を抜けていき、部屋の隅に飾られた花をかすかに揺らした。朝霧が晴れるのを待つ間、志は神棚の水と飯を替え、祀られた水神へと手を合わせた。

「水舟」は稲作によって成り立つ土地——稲を育てるのに水は不可欠で、五穀豊穣のため、古より水神である瀬織姫(セオリヒメ)を祭神とし、信仰している。
今日にいたっては以前ほどの信仰はないものの、それでもきっと今でも瀬織姫はこの土地に住み、俗人に姿をさらすことなくただ聖なるものとして中心にあり続けていると感じていた。
外者である志にとっては、正直なところそこまで信仰するものではなかったが、どこの馬の骨とも知れぬ自分を迎え入れてくれた村の住人たちが汗水たらして懸命に稲を育てている姿を目にするので、彼らのためにも少しでもご利益があればと思って手を合わせる。

「相変わらず、朝は早いね」
江戸での講義のため村を離れていた九葉が帰っていた。
「おかえり」
「うん、ありがとね」
ぽんっと志の頭に手を置き、九葉はふんわりとした笑みを浮かべてみせた。
けれど下がった目尻とは裏腹に、目元にはじんわりと疲れの色をにじませているのが見て取れた。
「少し眠ってくるといい」
「あぁ、そうさせてもらうよ」
互いに言葉数は少ないけれど、なんとなく伝わってくる。そんな程よい距離間を、志は心地よいと感じていた。
九葉は奥の自室へ入ると、寝間着に着替える間もなく、まるで吸い込まれるかのように床に就いていった。

***

志の日課は、九葉の異母弟である為治郎さんの所で稲作の手伝いをし、週に一度お初さんの嫁ぎ先である日埜(ヒノ)宿へ行くことだった。日埜は東州街道の宿場に指定されて以来、その宿屋としての仕事をしている。元々は立日川(タッピガワ)の対岸にある水舟村への農耕作業のために使われていた日埜の渡しが正式な街道となったため、その渡し料の管理も宿場主である東堂家が担うことになっており、千春の代で十五代目になる。

けれど数年前、日埜宿が大火事に見舞われて、その際千春の母・マサが人斬りに襲われた。そのことを機に、より一層自分や家族を守っていかねばならないと決心した千春は、九葉に新刀流を紹介されて武芸を習い始めた。そして僕もこの日埜へ通うにつれて、千春さんから誘いを受け、共に習うことになっていた。

今日はその稽古日なので、早朝から身の引き締まる思いで身支度を整える。ようやく霧が晴れ家を発つ頃となると、志は腰に一振りの小打刀を添えた。
ひとたび外へ出ると、陽の光に照らされた黄緑色の棚田がまるで大海原のようになびいていた。
稲田の間をするりと下り川岸へ出ると、渡しの佃造(テンゾウ)が志を待っているのが見えた。
「やぁやぁ、今日もお早いことだ」
「お世話になります」
「ささ、乗ってくださいな」
志は佃造に促されるまま舟に乗り、そっと腰掛けた。
佃造の舟漕ぎは、どこまでも静かだ。水に抗わず、櫂を利用し水面に切れ目を作ると、その切れ目に上手く舟を滑り込ませていく。

彼がこの稼業を継いだのは、十五の頃だと言っていた。立日川の氾濫で命を落とした父に代わり、渡しとして五十年以上もの間、人や馬、物質を対岸へと繋いでいる。
志は以前、家族の命を奪ったこの川で渡しを続ける理由を聞いたことがあった。その時佃造が言っていたことが、妙に脳裏に焼きつき未だに忘れられないでいた。
———水は生きているのです。ひとたび飛び込めば、そいつは牙をむき容赦なく襲い掛かってくる。けれども、その勢いの中で、人の命など脆く儚い。私の使命は、そんな儚き命をここで散らせないこと、ただそれだけなのです。と。
志は当初、なぜ彼はあえて難しい選択をするのかがわからなかった。けれども今なら少しだけ、その気持ちがわかるような気がした。彼はここで、静かに過去と向き合いながら日々を生きる覚悟を決めたのだ。志は彼のこれから歩まんとする道の先がどうか穏やかであるようにと、心の中で手を合わせた。

ふと考えてみた。
(大切な家族か…)
『——はずっとそばにいるからね』
耳の奥底でこだまする声とともに、いつぞやの雨夜に出会った少年がふと蘇ってくる。
ここ数日眠っていたせいでうやむやになっていたが、僕は多くの繋がりによって命をつないでいる「傀もの」という存在であったことを知った。未だに過去の記憶は思い出せず、自分の身に起こったことの整理を何一つできない。正直、自分が一度死んでいることも信じられない。けれど僕自身も、過去と向き合いながら日々を生きると決めたのだ。「真実」を知らなければならない———「僕」は別れ際にそう言い放った、本当の意味を知りたい。けれども、これから僕はどうすればいいのか——。

そうして物思いに更けていると、いつの間にか対岸へ着いていた。佃造は器用に、くるりと舟の向きを変えると、静かに声をかけてきた。
「志、老いぼれの戯れ言を一つ聞いてくだされ。何か気に病むことがあるなれば、時にはその胸の内を明かすことも大切なのですよ」
佃造はにっこりと微笑むと、それ以上なにも言わなかった。志はその時なにも言えなかったが、代わりに小さく会釈をした。

***

川岸をのぼり、家屋が軒を連ねる宿場通りの裏へ出ると、志は宿の中へと入っていった。中ではちょうどお初さんが朝餉の支度をしているところだった。
「いらっしゃい、体調はもう大丈夫なのかい?」
「おかげさまで。あの、千春さんは?」
「まぁだ寝てるんじゃないかね?ちょうどいいわ。悪いけど起こしてくれるかい?」
朝が弱い千春さんは、稽古ギリギリの時刻になってもまず起きることがない。
そのため、いつもならお初さんの処置のもと、師匠の到着前までには準備をさせている。しかし今日は、珍しく僕がお初さんの代わりに彼を起こしに向かうことになった。
「承知しました」
荷物を下ろし、志は少々重い足取りで男の部屋へと向かった。
そっと静かに戸を開けると、汗の臭いが充満した息苦しい部屋で、案の定男はぐっすり眠っていた。
これは結構たいへんだろうな、と、志は内心ため息をついた。
(師範に見つかれば間違いなく𠮟られるのに…)
お初さんの処置には、たしか段階があった。志は、普段ぼんやりと眺めていた朝の光景を思い出し、ぐっと腹に力を入れた。大きく口を開けて、ヒューと息を吸うと、今まで出したこともないような大声を男に浴びせてみせた。
男は、まるで魚のように口をパクパクさせ、われにかえったように跳ね起きた。が、すんでのところで、男の瞼が再び閉じようとしていた。
「ち、千春さん!千春さん!」
志は必死で男の身体をゆすり、目をさまさせようとしていた。男は、ぐっぐっとうなり、つかの間身をふるわせると、ようやく目を開いた。
「…志くん?」
千春は、目をしばしばさせながら、志の顔を見上げた。
「おはよう…ございます千春さん」
千春は、なぜここに志がいるのかわからない様子で、ぼうっと辺りを見回していたが、やがてはっきりと目をさましたらしく、
「すまないね」
と、つぶやいた。
「間もなく師匠が来ますから、身支度を」
千春の着替えを催促していると、外から声が聞こえてきた。
「いつもよりはやく着いちまって、すまないね」
「いいえ、お上がりください」
師匠の陽気な声とお初さんの高ら声が、徐々に宿内を満たしていく。
(このままではまずい…)
師匠の足音が徐々に近づくにつれ、志の心臓はまるで何かに駆り立てられるように波を打ち、気がつく頃には衝動的に部屋を飛び出していた。
師匠がこちらに顔を向け、目線があうと、志は思わず肩をすくめた。
師匠と呼ばれている男・福寿川八郎は、首も腕もがっしりと太い、褐色肌をした老男だ。年を思わせぬその見た目と共に、目には油断ならぬ光が浮かんでおり、志には少々その眼差しが恐ろしいとさえ感じていた。

けれど千春は、気おくれする様子もなく、のそのそと部屋から出てきた。
「やぁやぁ、師匠。ずいぶんと久しぶりでありますね。それに、今日は一段とお早い到着で」
先ほどまで、うなるように寝ていた男とは思えぬほど、ずいぶん切り替えの早いことだ。
「おお、久しいな。って、おめぇさんは相変わらずみてぇだな」
勘の鋭い八郎は、千春の着崩れた襟元を見ると、にやっと笑った。
が、すぐに表情を引き締め、顎をさすりながら言った。
「さぁてと…。まぁ、なんだ。じつは今日、用があってな。二人ともすまねぇが、今日の稽古はなしにしてくれ」
急な話に、千春と志はその場でポカンと立ちすくんでいた。師匠から稽古を休むという申し出は、これまでに一度もなかった。それほどまでに、何か急を要する用でもあるのだろうか。

とたんに、お初さんが笑いだしたので、志はびっくりしてお初さんを見つめた。
「なんだい、今日は休みかね?珍しいこったわ。志にせっかくうちの旦那を起こしてもらったのに、悪かったね」
お初は、にやっと笑った。
「お気遣いなく。千春さんの朝はなかなか見ものでしたので」
そういって志は千春を見ると、千春は小さく肩をすくめた。
「改めて言われると、お恥ずかしい…。今日はほんとにすまなかったね。志がまさか、あんなに大きな声を出すだなんて思わなかったから驚いたよ」
意外な話に、思わず八郎はつぶやいた。
「そりゃあ見ものだな。酒を飲みながらゆっくり聞きてぇもんだ」
「お酒は出ませんけど、朝餉の支度なら整っておりますよ。立ち話も何ですし、いかがですか?」
そういって初は居間を示したが、八郎は首を横に振った。
「お初さんの逸品飯はまたの機会にとっておくよ。今日は九葉に用があっから、先を急ぐわ。…って、あぁ、いけねぇ。志、お前さんに用があるって、来てるやつがいんだ。ちょっといいか?」
「私に?」
志には、自分をわざわざ訪ねて来るような知り合いなどおらず、まるで見当もつかなかった。
師匠の後を辿るように門前へと廻ると、そこには年端がちょうど同じくらいの、小麦肌をした成年が立っていた。
「師匠、そちらは?」
「突然すまねぇな。こいつは諫(いさみ)ってぇ言うんだ。オレの倅で、志と年端も同じくれぇだ。剣の術だけはお前より勝るがな」
額にじんわりと汗をにじませた成年は、目が合うやいなや深々と頭を下げた。
あまりにも丁寧なお辞儀に、志も思わず深々と一礼を返した。
「おらぁ、これから九葉と話があるから、二人でちっと話しといてくれ」
師匠はぶっきらぼうにそう言い放つと、一礼をし、足早に川岸へと消えていった。

***

突然二人きりとなり、志は今更ながら何を話せばよいのか分らず、内心しどろもどろしていた。
ひとまず縁側へと案内し、二人はそっと腰を下ろす。

木に止まった鳥のさえずりがやけに大きく聞こえ、心臓をむしるように、鼓動を掻き立てる。
成年は志の横顔をそっと覗くと、上体をこちらへ向け、流ちょうな江戸弁でいった。
「お前さん、志っていったか。俺は父からお前さんの話をようけ聞いていてな、会えてうれしいよ。俺も年端の近い友はいねぇんだ」
のっしりとした見た目とは裏腹に、どこまでも通るように澄み切った声は、薄浅葱色の空へカーンと響く。
「…君は…僕を知っていると言ったけれど、僕は君を何も知らない…」
「そうだったな。そらぁ、すまなかった。何が知りたい?」
二人は徐々に打ち解けていった。おもに話すのは諫で、志はそれに時々相づちを打った。おかげで、志は彼自身のことをいろいろと聞くことができた。子供の頃、ばらがきと呼ばれていたこと。門限を破り、母に締め出された思い出。彼の都での生活や師匠のずぼらな話。

諫は、誠心誠意の男であった。僕よりもたったひとつ年上だとは思えないほど、彼の言葉一つ一つには多くの見聞きした経験が刻まれていた。
志にはそれが、眩しく、少し羨ましいとも思った。自分には友と共に語らえるはずの記憶を、未だに思い出せないでいる。記憶のあるたった五年の月日では、彼の二十一年という歳月と比べようもなかった。

そして、話を聞くにつれ、心の片隅でくすぶる問いがあった。

———もしも今、自分の過去を尋ねられたら、僕はなんと答えればいいのだろうか。

考えるだけで、頭が痛い。
自分には、皆のように自分を語り、互いを分かち合う、そんな当たり前が当たり前のようにできないのだと思うと志は少しばかり沈んだ気持ちになった。
けれどこうした空想は、否応なしに現実となって降りかかってきた。
「すまねぇな、俺の話ばかりしちまって。お前さんの話を聞きたい。志は昔どんな奴だった?」
志はこのまま、どうしようもない現実に臆病になっていることが正しいことではないことを知っていた。
それは、あの長い夜に、十五年もの道のりを歩んできた「僕」が教えてくれた、ほんの少しばかりの心持ちであった。

本当のことを話しても苦笑されるかもしれない——そんな後ろ向きな気持ちを、肺いっぱいに吸い込んだ空気とともに吐き出していく。そして志は、新たな空気を腹いっぱいに吸い込んでいった。
(大丈夫。僕は、僕だ)
志は心の中で、自分を鼓舞した。

***

志は自分自身のことを、彼に一つ話すことにした。人の目ばかりを気にして、自分自身と向き合うことを恐れた、愚かなる記憶喪失の男の話である。
「…僕の最初の記憶は、確かに触れる手の感触と暖かい言葉。その人は、「家族」と「記憶」を失った僕に家族にならないかって言ってくれて、ここへ来た。だから…、臆病だと思われるかもしれないが、もう僕は、これ以上何かを失いたくなかった。だから、過去の自分のすべてから目をそらし、今まで生きてきたんだ」
そうだ。僕は、欠陥だらけの自分に、唯一残された「今」に、死に物狂いでしがみついていたかったのだ。
そうしないと、自分が、まるで用済みの廃棄物のように捨てられ、忘れられ、生きる価値を見失うのではないかと思ったからだ。
志は、一通り話し終えると、心なしかすっと楽な気持ちになったような気がした。

「あぁ、わかるよ」
諫の声はやさしかった。
「でもそらぁ、愚かではないと思うね。」
諫は少し間を開けてから、ささやくように言った。
「俺らぁ幼い時に父さんを亡くして、母さんの実家がある市ヶ谷へ来た。母さんは朝から晩まで働いて、子供の俺を必死に養ってくれた。けど、十三の時母さんは過労で死んだ。だれも、母を看取る者はいなかったよ。誰もね…。
そんな時、一人ぼっちの俺に手を差し伸べてくれたのは師範だった。今でも覚えているよ。腹をすかせて野垂死んでるところに、そっと握り飯を差し出してくれた。俺らぁ呼吸するのも忘れて、必死に平らげたよ。師範はそんな俺をみて、ケラケラ笑ってさ、そんで俺と一緒に来ねえかって言ったんだ。最初は驚いたけど、やっぱり嬉しくて。
その後結局十四で新刀流に入門して、その腕を見込まれて福寿川家に養子としてもらわれた。周りはひいきだとバカにし、影口をたくさん言われた。このままでは、ここでも一人ぼっちになるんだとも思った。だからこそオレは、必死だった。誰にも引けをとらぬとう、必死に腕を磨くことに精を出していた。それが、俺が生きるための唯一の道だったからだ」

お前さんはそれを愚かだと思うかい?———諫は志を真剣な眼差しで見つめた。

そんなこと思うはずがなかった。それよりも、彼の笑顔が、二十一年の歳月が羨ましいと思った先ほどまでの自分が恐ろしく恥ずかしかった。
彼にもまた、乗り越えてきた過去があったのだ。

「志、お前さんはいつも真剣に人と向き合ってんじゃねえかな。だから、てめぇの足りない部分によく目が行き届く。人とは違うことを悪いことだと思って、周りに合わせようとする。そうでもしないと、てめぇがまるで周りとは切り離された存在のように感じっからな。でもそれってよ、本当のお前さんの、心からの声を見失うんじゃあねぇか。
俺らぁ、志がどんな過去を送って来たのか知らねぇ。でもよ、お前さんの心は今きっと、多くの傷を負っている。だからこそ、他人の傷に、悲しみに、心に敏感なんだ。そらぁ、お前さんの優しさでもある。でも同時に、お前さんの弱さでもあるね。そうしたお前さんの優しさを知っていながら付け込むこんちきしょうがいるかもしれねぇ。でも大丈夫。俺らぁこうして、志の話を腹を割って聞いているじゃねぇか」
「志、お前さんの気持ちを、言っていいんだ。それを笑うケツ曲がりなヤツがいるなら、こちとらぁ叩きのめしてやんよ」

俺はお前さんよりつえーからなと、彼は笑って言った。

日向の干し草のような諫の温かさに触れた瞬間、とたんに胸の中で何かがつきあげて、喉の奥がかぁと熱くなった。そして、いつの間にか自分が、どうしようもなく涙もろくなっていることに気が付いた。

彼は、志がこれまで誰にも触れられたくなかった開かずの扉を、いとも簡単に開けてきた。
けれどもそれは、不愉快ではなく、怒りさえもなかった。

   ***

昼時を過ぎても、師匠が戻ってくることはなく、二人は茶を傾けながら話を続けた。
話題はいつしか、つい先日都で起きた、奇怪な出来事の話になっていった。
子の刻時に、娘が一人朱い目をした獣にさらわれたという話だった。
「俺はちょうどその日、宴会があったんだが、それほど飲めぬので一足先に宴席を立っていたのだ。帰り道街道を歩いていると、突然強い風が吹いてきて、風になぶられた提灯の明かりが消えかかるのも束の間、妙な香りが鼻にさわった。気になったもんで、前をみ上げると、月明かりに照らされて、紅々とした目がこちらを見つめていた。はじめは冗談かと思ったんだけど…でも、すぐにこれは、この世のものではないと、確信した」
「それで、無事に生きているということは、そいつはお前を見逃したということか…」
志がそうつぶやくと、諫は握っていた手をさらに握り直して言った。
「ヤツは俺を見逃してその場をすぐに去っていったよ。けど…、」
諫は握っていた手を緩め、袖口からなにかを取り出した。
「…かんざしが落ちてたんだ。これは…、このかんざしは…、俺があげたものだった」

そういって諫は、そのかんざしの話をし始めた。聞くとそのかんざしは、諫との縁談が決まっている娘にあげたものらしく、その娘は名をつねというらしい。いつも控え目な彼女だが、かんざしを渡した時の表情は、この上ない笑顔で可愛らしかったと諫は嬉しそうに話した。それに、格式高い家の生まれである彼女が、夜な夜な一人で出歩くなど考えられないと付け加えた。
「俺はすぐにでも確かめようと思ってつねの家に向かったんだ。…でも、…だれも、だれ一人として彼女のことを覚えていなかったんだよ…」

神隠しなんて、ここらでは特段珍しい話でもない。未だに、有象無象の者が跋扈しているような世の中だ。
志は、所詮これは他人事だ——と、そう思いたかったが、一度気にかかるとどうも、その娘と、彼がこの先落ちていくやもしれぬ闇を思わずにはいられなかった。
志は彼の横顔を見つめた。彼はきっと、僕にこのことを話してよいのか悩みながらも、つねさんが心配でたまらずに、思わず言ってしまったのだろう。

考えたくないことだが、これはまず、凶夷の仕業とみて間違いない。それに、彼が一度やつらに目を付けられてしまった以上、何をされるかわからない状況だ。

いま、志の心の秤は微妙なところで揺れていた。僕が彼の言葉で救われたように、僕も彼を助けたい。けれど、それを言葉にするには、僕はあまりにも無知で非力だった。けれどもし、ここで断ってしまったら、諫は心を閉ざしてしまうだろう。志にはこれ以上に、彼を追い詰める気にはなれなかった。

志は頭の中で、彼を助けるための方法を考えるため、脳内で考えを巡らせた。
志には不可解な点がいくつかあった。神隠しのように人が消えること、そしてその縁者は記憶を消されていること。そして何より、諫が遭遇した赤目の凶夷は何もせず立ち去ったと同時に、痕跡を残していること。

もし仮に、巧妙で高い知能を有した凶夷であるならば、痕跡を残すなどあり得ないだろう。けれど、かと言って低知能な獣のように生き人を見るやいなや襲い掛かるような素振りもない。
とすれば、これは、あえて遺したものだと考えるほかなかった。

では、なぜ凶夷はあえて簪を遺したのか。それは…見つけた者を敵地におびき寄せるため…?なんのために?
敵の姿を見てしまった者を始末するなら、その場で抹殺もできただろう。それなのに、それさえもしなかった。

ということは、敵は諫を引き付ける以上に別のねらいを定めていたということか…。

そのねらいが分れば、助ける手段が分るかもしれない。

「諫、今から九葉のところに行こう」

***

部屋の一室では、男たちが神妙な面を向かい合わせていた。
「戻ったばかりすまねぇな。事が急いているもんでね」
「いや、構わんよ。お前さんから話があるってことは、何か良からぬ情報を掴んだんだね」
九葉は、ここ最近江戸で噂となっている、神隠しの話だと思っていた。がしかし、八郎の口から出た言葉は、予想とはまったく違うものだった。
八郎は、じっと九葉を見つめ、しずかに言った。
「五年ぶりに、ヤツがしっぽを出しやがった」
その一言は、九葉の胸を、矢のように打ち抜いた。

これまで、じっと冷たい闇の中にいたはずの〈ヤツ〉が、じわじわと日常を赤黒く塗りつぶす足跡が近づいてきている気がして、九葉は思わず、あの日目にしたすさまじい光景を絶えず心に浮かばせていた。

——ものもいわぬ骸が、地面に点々と散らばり、みな、おなじように、原型をとどめぬほど無残に枯渇して死んでいる光景。血赤く染まった満月が、息をしなくなった人々の上を覆い、それがまるで血の海のように見えたあの光景。

なぜ、あんな恐ろしいことが起こってしまったのだろう?なぜ、だれも止められなかったのだろう?
なぜ、あんなに恐ろしい、悲劇を…。

あれから、九葉は血眼になって〈ヤツ〉の情報を探っっていた。けれど、まるであの日の出来事がなかったかのように日常は徐々に取り戻され、次第に語ることさえも禁じられていった。

そしてこの五年、〈ヤツ〉の足取りをつかめぬまま、平凡な日常が過ぎた。術師の仕事を辞め、新たな土地で新たな家族と共に過ごす日々は確かに穏やかで、正直このままの日常が続くのであれば、それもまたいいのではないかと思っていた。
しかし、〈ヤツ〉がそんな人間のささやかな暮らしを許すはずもなかった。
それが今、確信に変わろうとしている。

「よく話してくれた。感謝するよ。」
「なぁに、俺とお前の仲だろうが。それに、あの日を忘れられないのは、お前さんだけじゃねぇんだぞ」
あの日の惨劇を語ることは、モノノ府が発行する禁止令により厳重に禁止されている。最近では、都にあったツテを辿っても、みな一様に口をつぐみ、密かに語ることさえも恐れられている。
そんな中、彼は危険を承知で、こんな老い耄れに付き合ってくれているのだ。

「いまは、あの日を想って黄昏ている場合ではないな。ずっと待ち望んでいた機会だ。」
「あぁ、そうだ。しがみついてでも引っ張り出さねぇとな」
互いに拳を突き合わせて、契りを交わした。
その時、襖の向こうから、驚いたことに志の声が聞こえてきた。
「九葉、取り込み中すまないが、話したいことがある」

この五年、志が自分から意思を示すことはなかった。
何をするにも私が望む通りに、完璧な「志」を演じており、それがまるで“生きた屍”のごとく感じていた。
それが九葉には歯がゆく、本当の意味で彼を救えていない気がしていた。

それがここ数日、あの夜の出来事からだろうか。
志は、明らかに何かが変わった。自分なりに、伝えるようになった。
未だにあの夜に何があったのかは教えてはくれぬが、もしアレに関わったのであれば、この変化を喜びだけで済ますことはできまい。

「あぁ、構わないよ。入りなさい」
そうっと襖がすべり、志は大きな人影を連れて入ってきた。
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