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仕事

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 この間職場に行ったことが、つい昨日のように感じられていた。しかし、いつの間にかまた職場へ行かなければならない日になっていた。気が重い。吉瀬は在宅ワークで使用していたタブレットを専用のケースへ入れる。鞄にはタブレットとタンブラーとスマホのみが入っている。忘れ物のしようもない状態だと思って靴を履く。そして車のキーがないことに気付くのだ。靴を履いたまま、四つん這いになってリビングへ入る。膝が痛い。玄関を出る。そしてまた気が付くのである。家の鍵がない。ここまでが吉瀬の出社のルーティーンだ。駐車場で車に乗るまでの間に、吉瀬祐司はふと、小学校のプール上がりの授業を思い出していた。
 感染者が爆発的な増え方をしてからというもの、出社が月一になった。国民は月に四回しか外出ができなくなり、人間がする仕事はめっきり減ってしまった。決められた曜日にしか外には出られないため、直接会う人間も限られてくる。この状況に対して、吉瀬は寂しさを感じるよりも効率が上がったことに対しての喜びの方が上回っていた。物を買うにしても、何かを食べるにしても、対機械なために、日常会話というものが無くなった。これは、大半の人間が失くしたくないと思い続けてきた「温かさ」というものなのだが、今回の件で捨てても仕方がないものとして認識されたようだった。「温かさ」は接触であり、感染経路なのだ。
 吉瀬が出社する。頭からつま先まで消毒液の匂いがする。マスクを付け替えるとフロアへ足を踏み入れる。フロアには誰もいない。ただ声は聞こえてくる。
「今日吉瀬さんなんですね。お疲れ様です。」
「商材の件ですが、どうなっていますか。」
「質問が三件あるので、質問箱見といてください。」
 ため息を一つついてから、吉瀬は声のする方へと歩いていく。テレビ画面には数名が映っている。プライバシー保護の観点から、よくわからないキャラクターの顔がしゃべっている状態である。ウサギにカエルにネコ。サルにワニにニワトリ。宇宙人のようなのもいる。部屋や顔を映したくない人にはもってこいの機能である。基本的に朝からこの画面にいるのは、出社が誰かわかっていて要件を伝える人か、ただのしゃべり好きかどちらかだ。タブレットを出して質問箱を見る。質問の解答を送る。商材の宣伝用動画を提出する。すべての要件が済んだところで、初めて自分の席に座る。タブレットを叩きながら、ただ時間が経つのを待つ。
「今日は絶対に来た意味ないですよ。」
 ウサギのキャラクターがしゃべりだす。来た意味がないといっても出社命令が出ているのだから仕方ないではないか。吉瀬はウサギのキャラクターをタップして「どうしてそう思うんですか?」とチャットした。
「どうしてって、ねえ」
 ウサギは周囲に同意を求める。周囲は気まずそうに退出していった。中には面白半分で退出した人間もいるだろうが、八人いたスタッフは三人に減る。吉瀬とウサギともう一人。最後の一人にウサギはもう一度「ねえ。」と引き気味に声をかけるも、虚しい沈黙が続くだけだった。吉瀬は暇つぶしにもならなかったウサギに対して「確かに、仕事ないですもんね」と個人宛にチャットを打ち、字面だけフォローを入れた。
 仕事がないというのも、吉瀬の会社は塾なのだ。タブレットでその日一日の授業内容を生徒に送ってしまえば、後は解答が送られるのを待つのみである。それを採点、書き込みしてまた返し、また新しい授業内容を送る。それだけなのだ。最近では教育商材にも手を出しており、動画「自宅でできる超難関校合格」シリーズはそれなりに人気を評している。それでも、なぜ出社しなければならないのか。それは、未だ塾に通う生徒がいるからである。「いる」と言っても来ないかもしれないから仕方がない。来るかもしれない生徒は三名いる。この三名は偶然にも国から許可されている曜日が同一で、来ない曜日が存在する。それが今日なのだ。わざわざ臨時許可証を国から発行してもらって来るようなことは、まあないだろうから、吉瀬が今日来た意味は「ない」に等しい。吉瀬はさっきから十五分も経っていない時計を見て、もう一度ため息をついた。
 寂しいわけではない。一人が嫌なわけでもない。話し相手が欲しいわけでもない。ただ、時間が過ぎるまでの間に仕事がしたい。仕事の動画を撮ったり作ったりすればよいのだろうが、吉瀬の分はもう早々に作り終わっていた。三年後の教材ならばまだ手を付けていないが、早めに作って作り直しになることの方が面倒だ。ネットの中で教育をし始めてから、きっと上も暇なのだろう。すぐに教育方針や指導の観点を変えてくる。個人の積極性を高めることに特化した教育は今となっては廃れ、自身の能力をどこまで理解できているかに重きが置かれるようになった。簡単に言えば、もっとコミュニケーションを取って引っ張っていけ。ガンガンいこうぜ。から。自分のできることを考えて仕事しろ。バッチリがんばれ。になったわけである。機械化が進み、人間でなくてもできることが増えてしまったために、職を失った人たちがたくさんいる。彼らに一番必要な力はAIロボットでもできるコミュニケーションではなく、自分にしかできないことを探すことだった。だからこそ上も自分にしか考えられない方針や観点を提示するために必死なのだ。吉瀬も必死になりたかった。職場で一人、何もしない。来ない生徒を待つしかできないこの空間が嫌いだった。役に立たないモノは、仕事からあぶれてしまうのだ。自宅で仕事をする分には、自分の時間だと勘違いすることができるし、生徒の解答が来ればひたすら仕事に打ち込むことができるから気が楽なのである。職場に出れば、その生徒の解答を受け取る仕事ですら他の人に回されてしまう。何かを考えたくなくて後回しにしているわけではない。実際に何一つすることがないのだ。
 もう一度、吉瀬はタブレットをタップする。グループチャットの画面には入室者の数が五人に増えていた。だが、会話はない。さっきの件に関係ない人が何も知らずに入室し、繋げたままにしているだけだろう。四人が吉瀬を見張っている。ウサギはもういなくなっていた。
「吉瀬さん。今日、来ますよ」
 一件。チャットが届いた。時計の針は十時をさそうとしている。目が滑って一瞬理解が追い付かなかったが、生徒が来るのだと気づいた。吉瀬は慌てて教材を準備する。準備をしながらチャット画面に文字を打つ。「誰が来るんですか?」チャット画面に映る文字の横にはすぐに既読がつく。しかし、それきりチャット画面は動かなかった。三人、誰が来てもいいように準備をするしかなかった。もしかしたら三人とも来るのかもしれない。ここまで考えて、吉瀬は冷静になった。なぜ、来ることがわかったのだろうか。本来の来塾日は別曜日だ。臨時許可を出してでも来たいと思って来てくれるであろう本人たちは、このチャットには入れない。タブレットを持つ。チャット欄を開ける。「吉瀬さん。今日来ますよ」を送った相手を確認する。そこには、吉瀬の知らない人物の名前が書かれていた。
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