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プロローグ
魅せられて
しおりを挟む2年前の大晦日。その日は、珍しく都内で大雪が降っていた。
雪が積もった街路の上を、空色に劣らないほど曇った顔を浮かべて歩く男がいた。
その男の手には、小型のジュラルミンケースがぶら下がっている。ケースの中身が重いのが原因で、顔を曇らせているようには見受けられない。
「よりによって、なんで大晦日なんかに降るんだよ。俺とか年賀状運ぶ郵便配達員のこと考えろよ」
粛々と降ってくる雪に対して愚痴を並べ立てながら歩いていると、どこからか女性の声が男の耳に入った。
「わたし、もう疲れ果てたわ…。毛布に包まって、ぐっすりと寝たいわ」
その演技かかった声は、どうやら男の目の前の公園から聞こえてくるようだ。
「ぐっすり寝てしまいたい…。明日なんて、来なければいいのに!」
声の主が気になり、男は好奇心の赴くままに公園へと吸い寄せられる。
男が公園の入り口から顔を覗かせると、滑り台の頂上で膝をつき天を仰ぐ女性が佇んでいた。
公園で佇む女性は、遠目からでも美人の類だと判るが、津々と降り続ける雪と色白な肌が相まって、美人ではあるがどこか浮世離れした印象を抱かせる。
ゆっくりと女性が目を瞑り、数秒が経つ。その間、男はその女性を見つめていると、ある欲求に駆られた。
この女性を撮りたい。
男は手に持っていたケースの中から、映画撮影などに使う業務用ビデオカメラを取り出す。
悴んだ手でビデオカメラを起動させ、ディスプレイ越しに公園の女性を凝視する。
遠目からでは判断できなかった表情を見てみようと、レンズを彼女の顔に向けてズームアップする。
絶世の美女。月並みな表現で口に出すのは憚られるが、世の男性が好む顔立ちをしていると男は確信した。
暫くして彼女がゆっくりと目を開き、微笑を浮かべる。まるでなにかを悟ったかのように。
「いいえ、きっと大丈夫。明日になれば、きっとうまくいくわ」
女性は立ち上がり、両手を広げる。表情は微笑から満面の笑みへと変わっていく。
男は彼女が立ち上がったと同時に被写体を小さく写し、雪の降る寒空の下に女性を捉える。それは彼の直感からなる咄嗟の行動だった。
「いい画」
小さな声でそう呟くと、男は固唾を呑んだ。
「明日に。明日に希望を託すのよ!」
空に向かって高らかに発された声は力強く、今にも雪空の切れ間から光が差し込んできそうな澄んだ音だった。
「明日に希望を託す……か」
どこかで聞いたことのある科白の出処を記憶の中で模索していると、ディスプレイの中の彼女と目が逢う。
「やっべぇ」
女性に向かって遠くからビデオカメラを構えている姿は、傍から見たらただの盗撮である。いや、間違いなく盗撮であり言い逃れできない。
当の本人も今になって盗撮している罪悪感に駆られ、申し訳なさそうに彼女に向かって会釈をする。女性も律儀に会釈をし返す。
気まずい沈黙がしばらく続く。彼女はただ男をジッと見つめている。
その沈黙に耐えかねた男は早々にカメラをケースに戻し、踵を返した。
雪踏みの不愉快な音が鳴るたびに、自分のしたことへの気恥ずかしさが増していく。
あの盗撮は雪に惑わされたせいだ。雪のせいだ。男は何度も身勝手な言い訳を唱えて罪の意識を和らげようとした。
すると、男はふとその場に立ち止まり、ケースからビデオカメラを取り出し電源をオンにする。ボタンを操作して過去に録画した映像のライブラリをディスプレイに表示する。そこに、先ほどの公園の映像はどこにも見当たらない。
「録画し忘れてた」
男はあからさまにガクッと肩を落とし、家路へと向かった。
当時、大学1年生の石上俊三には印象的な出来事だったが、彼女に再び会うことはなかった。2年経った今では、あの光景は雪の魅せた夢幻だったのではないかと思うようになっていた。
再び、彼女の声と出会うまでは。
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