こころのみちしるべ

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ルクレティウス編

076.『遠くまで』

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 その日も土砂降りの雨だった。グラウンドはぬかるみ、リングに集まる兵たちの身体を冬の雨は容赦なく叩き、その体温を奪った。その中には悠樹と杏奈の姿もあり、珍しくスレッダの姿もあった。ゲレーロは真琴の前に立つと皮肉を言いながら構えた。
「安心しろ。俺はジンさんほど厳しくない」
 真琴は黙って剣を構えた。彼の構えと表情は一見すればいつもと同じだった。勝敗に頓着しないような、欲も恐怖も感じていないような、淡々とした佇まい。だがその目の色の変化をゲレーロは見落とさなかった。以前対戦したときとは明らかに異なる。冷徹な覚悟と静かな闘志を奥底に秘めている。目を眇めたゲレーロは真琴の奇策と成長を警戒した。
「始めっ!」
 ジンの合図とともに真琴は間合いを詰めた。ゲレーロはこれを充分に警戒していた——はずだった。が、真琴の速さは想像をはるかに上回った。一度対戦した際の記憶から一メートルほど手前まで迫って来るものと思っていた真琴は、すでに懐にまで跳び込んで来ていた。ゲレーロは目を見開いた。そこから斬り上げる真琴。その剣が体に当たる寸前のところでゲレーロは辛うじてこれに寝かせた剣を合わせて防いだ。さらに真琴は斬り下ろしの連撃に繋げた。これも防いだゲレーロだが、明らかに対応は後手に回されていた。なおも真琴は攻めた。ゲレーロは真琴の攻撃の以前とは明らかに違う迷いのなさと太刀筋の鋭さと速さに驚愕した。彼は少しでも押し返したいところだったが防ぐだけで手一杯になっていた。真琴はなおも強烈に迷いなく攻め立てた。ゲレーロは真琴の剣戟の速度に反応するのがやっとで、それを受け止めるたびに体勢が悪くなった。真琴の剣に反応するために距離を取らなくていけないゲレーロはどんどん下がらされたが、真琴はその距離さえ一気につぶした。押す真琴。押されるゲレーロ。初手から十手目ほどまで真琴の一方的な攻勢が続いた。
 それは突然の出来事だった。真琴が攻撃をやめてすっと大きく跳び退いたのだ。彼は元の通り構え直した。そこから一向に攻めてくる気配を見せない。ゲレーロは戸惑った。何だ、何をしている。多くの観衆もゲレーロと同じ反応をした。
 ゲレーロはふとある仮説に思い当たった。彼は恐る恐る足元を見た。コーナーの白線。これを越えれば負けとなるルールだ。彼はその縁に立たされていた。ゲレーロはいつの間にか追い詰められていたのだ。しかしそれならなぜ真琴は攻撃をやめた? 彼は真琴を見てその佇まいと表情の奥底にある意図を探った。それは語っていた。
「こんな終わり方は認めない。お前を痛めつけて叩き伏せる。白線の縁に立ってないでさっさとかかって来い」
 ゲレーロは腹の底から静かに怒りが滾るのを感じた。調子に乗んなガキ。それは彼の表情にくっきりと浮かび出た。いいだろう、今度はこちらから仕掛けてやる。攻撃はなかなか良くなったじゃないか。なら反撃できないほど攻めてやればいいだけの話だ。防御と反撃がどれだけうまくなったか試してやる。
 ゲレーロは低い構えをとり、鋭い目を真琴に向けた。ゲレーロは目を剥き真琴の間合いに跳び込み、その勢いのまま上段から素早く重い剣戟を叩きつけた。真琴はこれを剣で受け、歯を食いしばってその重みに耐えた。ゲレーロはさらに連撃に繋げた。真琴は必死にそれを防いだ。ゲレーロの連撃はなおも続き、真琴はそれを防ぐだけで手一杯となり、防戦一方となった。
「どうして俺がフラマリオンの総督を務めていたか知ってるか?」
 ゲレーロの突然の問いかけに真琴は驚いた。つい先日一方的にやられて一切の対処を許されなかった剣戟を受ける真琴に答える余裕はなかった。ゲレーロはそれを見て歪な笑みを浮かべた。
「ルクレティウスには強い騎士が六人いる。レオ、スレッダ、リュウガ、ハク、フェリックス、グレン」
 真琴にもだんだん話の筋が見えてきた。
「六人はこの国の主力だ。絶対的な柱であり防衛の要だ。だからフラマリオン駐留には六大騎士の次に強い者が選ばれた」
 ゲレーロは目を大きく剥いて嗤った。
「俺だ」
 真琴はゲレーロの体から放たれる自信に気圧されぬよう自身に言い聞かせた。
「俺は力がねえから新兵とじゃれてるわけじゃねえ。フラマリオン陥落の責任をとらされて新兵と同じ鍛錬を一時的に強いられてるだけだ。さっきはお前を見くびってたせいで下がらされたがもう同じことは二度と起きねえ」
 ゲレーロはにわかに声を低くした。そこには彼の怒りが滲んでいた。
「お前は俺を怒らせた。楽に負けれると思うなよガキ」
 ゲレーロは構えた。そこには歴戦の剣の達人としての迫力があった。彼は一歩前に踏み込んだ。もともとやや体格の良い彼は先刻よりも一回り大きく見えた。彼は剣を大きく振り上げ、素早く振り下ろした。真琴はその間合いの倍ほども距離をとってそれを躱した。
 しかしそれがいけなかった。ゲレーロはそれを見越して一気に距離を詰めて来て刺突を真琴の胸に浴びせた。真琴はそれを防ごうとしたがうまく剣を合わせられなかった。ゲレーロが刺突を選んだのには二つ理由があった。一つはもっとも攻撃の面積が狭く、タイミングとポイントをうまく合わせないと防げず、もっとも防御の難しい攻撃であること。もう一つはゲレーロのもっとも得意な攻撃であったこと。なるほど真琴は先日に比べると別人のように強くなっていた。おそらくジンとの戦闘で精神的にも成長し、素振りを何度も繰り返して剣戟の鋭さと威力に磨きをかけてきたのだろう。先ほどの連撃がまさにそれを証明していた。しかし彼が経験の浅い新兵であることに変わりはない。おそらく防御の技術はさほど上達していないはずだ。ゲレーロはそのように看破し、それは正しかった。
「ぐっ…」
 胸を突かれた真琴は呻いた。焦った真琴の胸中には二週間前の敗北の記憶がよぎった。俺はこいつの前に手も足も出なかった。何もできずに負けた。また同じ轍を踏むのか。真琴はその恐怖を打ち払うべく自身を奮い立たせようとした。あれだけ修練したんだ。あの時とは絶対に違う。心のもちようも、技のキレも、何もかもまったく。
 ゲレーロは再び剣を構えた。今度は水平斬りの構えだ。真琴はゲレーロが初めて見せる構えに動揺させられた。今度は何が来る。どこを打たれる。どんなスピードとどんな軌道で…? 真琴は再び体を固くした。ゲレーロは嗤った。それこそが彼の狙いだったのだ。彼は剣を振った。真琴はそれを受けようと構えた。しかしゲレーロは剣を軽く振って突きに切り替えた。真琴は慌ててそれを防いだ。しかしゲレーロはそれすら想定した三段構えだった。彼は剣を縦に振った。彼はそこで一気に剣戟に力を込めた。真琴はゲレーロの攻撃を剣で遮りはしたが、そのガードに込めた力が中途半端になった。強烈な斬り落としに剣を下げさせられた真琴はその勢いで前のめりに体勢を崩されてしまった。彼は肝を冷やし、彼の頭は真っ白になった。次の瞬間、彼は自身の視界が大きく揺らぐのを感じた。痛みは遅れてやってきた。ゲレーロが素早く放った水平斬りにより真琴は思い切り顔を殴られていた。真琴は脳の揺れる中で意識を保とうとした。
 彼は倒れはしなかったが視界はぼやけ、平衡感覚は乱れた。ゲレーロの次の攻撃に対応できるような状態ではとてもない。次に頭にまともに攻撃を受ければ今度こそ倒れる。
 真琴は思った。また負けるのか俺は。こんなヤツに。二度も。いや二度じゃない。こいつにはフラマリオンで殺されかけた。さらに翔吾を、大切な仲間を奪われた。殺したのがこいつじゃないとしても、こいつは何かを知っていて、それを隠しているにも関わらず罪にも問われていない。こうしてのうのうと騎士として自由を謳歌している。翔吾が死んだときにもこいつは酒を呑んでいた。こんなヤツが。こんなヤツに。
 ゲレーロは再び剣を構えた。その構えはすでに真琴が脳震盪を起こしていることを、つまり真琴に勝ち目がないことを知っていたため鷹揚になった。ゲレーロはつい先刻自分に恥をかかせた相手をいかに苦しめるかだけを考えていた。ゲレーロが真琴に一歩近づいた。
 真琴は愕然とした。来る…。やられる…。こんなヤツに。こんなヤツに。こんなヤツに…!! 真琴は呻いた。
「クソが…」
 彼は叫んだ。
「クソが!!」
 彼は一瞬のうちに思考を巡らせた。この状況は何だ。悠樹を殴られて、翔吾を殺されて、自分も負けて、なのに何もできない。これは何だ。これは一体…。自分は何にもなれない。何もできない。また負ける。あれだけ練習したのに、思うように剣を振ることもできず、また不自由なままだ。
 彼は鳥かごの中から出ようと暴れる文鳥を思い出した。六畳一間のアパートを出たがっていた母を思い出した。ゲレーロは悠然と剣を振りかぶり大上段に構えた。真琴はもたげた頭でそれをぼんやりと見ていた。ゲレーロは蔑むような笑みを真琴に向けていた。
 …こんなヤツに!
 そのとき、声が聞こえたような気がした。
「遠くまで歩いて行けるでしょ?」
 真琴は目を見開いた。それは母の声だった。記憶の中の母の声。靴を買ってもらった日の。
「どうしてこんな高い靴買ってくれたの?」
 真琴は母にそう尋ねた。すると彼女は答えた。
「いい靴を履けば遠くまで歩いて行けるでしょ?」
 彼女がどういう意図でそれを言ったのかわからない。しかしおそらく彼女はこう言いたかったんだと思う。
「こんな狭いアパートの部屋に閉じ込めてごめん。こんなに不憫な暮らしをさせてごめん。いつかあなただけでもこの狭く不自由な部屋を出て行って。どこまでも歩いて行けそうなこの靴で。どこへ行っても恥ずかしくないこの靴で」
 真琴は高い靴を買ってもらったせいで家計を圧迫してしまったことを申し訳なく思っていた。だが母は真琴の自由を切実に願っていた。
 また別の声がした。
「諦めるなよ」
 年老いた男性の声だった。諦めるなよ。何を? 決まってる。仲間を、大切な人を守ることを。勝利を。
 眼前のゲレーロの表情は語っていた。この哀れな敗者にとどめを刺す。今度こそ、二度と抗えなくなるように。
「諦めない」
 呟く声がした。その声を発していたのは真琴だった。固く鋭い音がした。ゲレーロは呆然とした。それはゲレーロの剣が地面を叩く音だった。彼は地面を見て次に自身の手元を見た。真琴はいない。剣は持っている。何が起きた?
 後ろで荒い息が聞こえた。はあ、はあ、はあ…。疲労してはいるが、それ以上に力の漲りを感じさせる強い呼吸。ゲレーロは恐る恐る振り向いて愕然とした顔でそれを視界に入れた。彼の目にはたしかに彼の背後で佇立する真琴の姿が映っていた。
「は…?」
 真琴の目に宿る光はむしろ戦う前より鋭かった。ゲレーロは考えた。なぜ立っている? なぜ俺の後ろにいる? あの一瞬のうちに何が起きた? ジンも、スレッダも、悠樹も、杏奈も、観衆も全員唖然としていた。ゲレーロにとって恐ろしいことはさらにもう一つあった。真琴の両足から白い光が靄のように溢れ出ていたのだ。ゲレーロは思わず尋ねていた。
「何だ? それ…」
 真琴はそれには答えなかった。代わりに彼は言った。
「俺はお前を許さない」
 ゲレーロは歯噛みした。
「でも…、それ以上に…」
 真琴は低く鋭い声で言った。
「俺は俺を許さない」
 ゲレーロは焦りから叫んだ。
「何ほざいてんださっきから!」
 真琴はそれには答えずに叫んだ。
「俺はこんなとこで負けてられねえんだ!」
 彼は剣を構えた。
「俺は翔吾みてえに強くなる。俺はどこまでも歩いて行ける。俺はみんなをこの世界から救い出す!」
「うるせえ!」
 ゲレーロは剣を振り上げて真琴に斬りかかっていった。真琴はそれを体の前で弾いた。しかしゲレーロの剣戟には真琴の予想以上の力が込められていた。それは真琴の剣を大きく泳がせ、彼に大きな隙を生んだ。ゲレーロはそれを狙っていた。彼は跳び込みつつ突きを真琴の胸元に放った。真琴のガードは到底間に合わないかのように思われた。ゲレーロは戦いを終わらせるべく思い切り踏み込んだ。力強く伸びる渾身の突きを放ったゲレーロは勝利の確信とともに笑みをその顔に刻んだ。
 しかし次の瞬間、ゲレーロは目を見開いていた。受けるべき手応えがなかったのだ。ゲレーロは突きの勢いのまま前のめりに体勢を崩した。真琴はゲレーロが想定していたよりも少し遠くにいた。尋常ならざる速力で距離をとって下がったのだ。
 真琴は微塵も曇りを見せない鋭い眼差しで反撃の構えをとった。ゲレーロは焦った。渾身の突きを放った直後の彼は体勢を立て直しきれずにいた。真琴は横薙ぎに剣を払った。ゲレーロは寸でのところでそれを受け止めた。
 最大限の警戒をもって真琴の反撃を受け止めたゲレーロだったが、その実真琴の剣は荒く鋭さと重さに欠けていた。ゲレーロはニヤリと嗤った。
(こいつの異常な速力、あれはまさに脅威だ。だが攻撃は粗削りで軽い。先ほどこちらから仕掛けた攻撃には失敗した。だがこいつに仕掛けさせてそれにカウンターを合わせればこいつも反応しきれまい)
 真琴はさらに攻撃を仕掛け続けた。しかしそれはゲレーロに悉く防がれた。真琴は試合開始直後の最初の連撃にはゲレーロの油断のため成功したが、今のゲレーロには油断がない。真琴は焦りから剣に込める力を強めた。ゲレーロは真琴が焦れば焦るほど自身の勝機が近づいてくるのを感じた。
(そろそろだな…)
 真琴は歯をくいしばり、剣を大きく振り上げた。スレッダもそれを見て心の中で舌打ちした。
(まずい…)
 その攻撃を受け止めるかに見えたゲレーロは一歩すっと引いた。真琴は目を見開いた。真琴の攻撃はゲレーロの胸元をかすめて足元に落ちた。真琴は前のめりに体勢を崩した。ゲレーロは企みの成功に冷笑を浮かべた。彼は真琴の攻撃を躱しながら同時にすでに剣を引いて構えていた。斜め上からの袈裟斬り。最小限の動きで放たれるそれは大きな威力を生まない。しかしその剣が捉えるであろうものは真琴の頭頂部から後頭部にかけて。それを受けた彼は間違いなく今度こそ倒れる。真琴もまたそれを察していた。
(やられる…)
 しかし真琴は絶望しなかった。その絶対的不利を何が何でも覆すと心の中で誓った。真琴は叫んだ。
「うああああああああああああ!!」
 剣を振ったゲレーロはその先に感じるべき手応えがないことに再び驚いた。さらにゲレーロは驚いた。同じ叫び声が自身の背後からしたためだ。
「うおおおおおおおおおおおお!!」
 それは真琴の声だった。ゲレーロは絶望とともに振り返った。
 先刻から急激に速力を増した真琴。その足元から立ち昇る白い靄。それが何によってもたらされたどういう原理に基づくものかは誰にもわからない。ジンも、スレッダも、悠樹も、杏奈も、その場にいる誰もがその現象に呆然としていた。
 ゲレーロが振り返ると真琴はすでに袈裟斬りの構えをとっていた。ゲレーロは剣を振り上げて防御の構えをとった。両者の剣は重なり合った。歯を食いしばってそれを防ぎきったゲレーロは真琴のスピードを警戒して一旦大きく後ろに下がった。真琴は追撃の構えを見せ、第二撃に踏み込んだ。ゲレーロは叫んだ。
「何度やっても同じことだ!」
 しかし今度の真琴の攻撃は先ほどまでのそれとは大きく違った。明らかに踏み込みが大きく速かったのだ。真琴の攻撃の勢いには足元から立ち上る白い靄による速力が相乗していた。それは剣戟に大きな力を加えた。彼は袈裟懸けに斬った。ゲレーロは慌てながらも剣を寝かせてそれを受けようとした。
 しかし次の瞬間に彼は強烈な衝撃を脇腹に受けていた。彼は自身の剣が後方の地面に叩きつけられて「ガコン」と鈍い音を立てるのを聞いた。真琴の剣戟の生んだ力はゲレーロの剣を叩き落し、そのまま勢い余ってゲレーロの脇を打ったのだ。彼は息もできずに呻いて仰臥した。真琴は息を切らしながらそれを見下ろした。
 数名がゲレーロに駆け寄った。意識はある。苦しそうに呼吸している。体は今度こそ白線を越えていた。またゲレーロは剣を落としていた。そうでなくても彼が起き上がれないことは明白であり、勝敗もまた明白だった。
 真琴は肩で息をした。彼はゲレーロを見、剣を握る自身の手を見、空を見上げた。雨が降っていた。真琴は雨の音と感触を急に思い出したように感じた。観衆から大きなどよめきが起きたが、そのほとんどは肩で息をし空を見上げる真琴の耳には届いていなかった。悠樹が駆け寄って真呼人に抱きついた。杏奈もそのあとすぐに駆け寄って来た。スレッダがニヤリと笑い、ジンが勝者を告げた。
「勝者、真琴!」
 勝利を告げられてなお真琴は戦いの興奮の余韻の中にいて険しい顔をしていたが、悠樹と杏奈の笑顔を見ると自然と顔を綻ばせた。



 その日訓練は休みだった。だが練習熱心な真琴と悠樹は自主的に練習をしに騎士団庁舎へと朝から出ていた。琢磨はいつも通り川へ魚を獲りに出かけていた。杏奈だけが家に残り家事をしていた。この街に来た当初、彼ら四人の取り決めとして単独行動はしないことにしていたが、翔吾が死んだこと、さらに琢磨以外の三人が兵士になったことでそのルールは形骸化していた。
 朝早くに洗濯と庭の草刈りを終えた杏奈は掃除をしていた。彼女は井戸からバケツに水を汲み、階段の手すりを水拭きしていた。手すりの汚れを取り出すとかえって手すりの足元の汚れの方が気になった。彼女は一通り手すりを拭き終わると今度はしゃがんでそこを綺麗にすることにした。雑巾で細かいところを拭こうとしたが装飾や角の形のせいでうまく汚れは落ちなかった。仕方なく彼女はそれを布で拭き取ることを諦めて他に細かいところを掃除するのに適した道具がないか探しに行くことにした。宛はあった。庭の倉庫で頃合の小さく細かいブラシを見かけたことがある気がしたのだ。
 彼女が探しに行くと果たしてそこにブラシはあったが、少しブラシ自体が汚れていた。彼女はまずそれをよく水ですすいだ。しかしブラシ自体の汚れはほとんど落ちなかった。それでも階段の隅の汚れが落ちるなら良いと判断した。実際に使ってみると手すりの足元の汚れはかなり落ちた。しかししつこくこびりつく汚れには歯が立たなかった。
 杏奈はもう少し固く尖っていて、なおかつ階段を傷つけないものがあれば良いのにと思った。彼女は一つの案に行き当たった。それは同じ倉庫にある薪だった。薪は不規則な形をしていたが、中には細いものもあり、それを少し削ればしつこい汚れをこそぎ取る道具にできそうな気がした。
 早速彼女は倉庫に行き頃合の薪を三本とナイフを一本取ってきてそれを庭で削った。天気の良い日だった。日差しが強く、彼女は目を細めながら作業をした。木は細く削れたが、それが汚れに対してどの程度の強度をもつかに関してはやや心許ない印象をもった。彼女はそれを使って必死に汚れをこそぎ落とそうとした。ある程度の汚れは取れたが、隅に入り込んでなおかつ固い汚れは最後まで取れなかった。彼女は大きなため息をついた。もうあとはフォークを使うくらいしか思いつかなかったが、さすがに高価な食器を掃除用具に転用するわけにはいかなかった。
 彼女はその汚れを落とすのを諦めて食事の準備にとりかかることにし、階段から立ち上がった。
 すっといつも通りスムーズに立ち上がった彼女だが、しかしそこから急激に視界が変転した。ぐにゃりと歪むそれを平衡に保つべく彼女は手すりを掴もうとしたが、逆の方に体が傾いでいたため手が届かなかった。壁に勢いよく側頭部を打ち付けた彼女はその際に痛みをほとんど感じず、呻くこともなく、ただ鞄を床に落とすようにすとん、と階段に座り込んでしまった。彼女の息はいつの間にか荒くなり、額には汗が浮かんでいた。



 練習が終わり家の前に着いた真琴はすぐに違和感を覚えた。それは明確な根拠のない漠としたものだった。言い知れぬ胸騒ぎに突き動かされて彼の家に向かう足は自然と速くなった。悠樹も真琴の異変に気付き、それに続いた。真琴はドアノブを慎重に回した。鍵はかかっていなかった。それが真琴をさらに不安にさせた。ドアを慎重に薄く開けるとすぐにリビングの入口から廊下にかけて横たわる人の腕が見えた。
「杏奈!」
 そう叫んで急いで駆け込むとすぐそこにうつ伏せに倒れた杏奈がいた。真琴は杏奈を仰向けにした。真琴の反対側に回り込んでしゃがんだ悠樹も心配そうに杏奈の様子を見た。外傷はなさそうだった。しかしひどく汗をかき、荒く息をし、眉根を寄せ、熱っぽかった。真琴は必死に声を掛けた。
「杏奈! おい杏奈!」
 すると彼女は薄く目を開けた。
「杏奈! どうした、何があった!」
 しかし杏奈はぼんやりと天井を見たまま何も答えなかった。
「杏奈…?」
 杏奈は口をやっと動かした。
「あれ…あたし…?」
 杏奈の意識は朦朧としていた。彼女の健康状態が尋常でないことは明らかだった。二人は彼女から事情を聴くことよりも彼女を病院へ連れて行くことを優先した。
「俺馬車拾ってくる!」
 そう言うと悠樹は表に跳び出した。真琴が悠樹から腕の中の杏奈に目を移すと彼女は再び目を閉じていた。
「杏奈! 杏奈!」
 真琴が何度呼び掛けても彼女は目を覚まさなかった。彼女の首筋にはうっすらと黒い斑模様が浮かび上がっていた。
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