こころのみちしるべ

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アーケルシア編

031.『女難』2

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 冗談としか思えない言葉だった。しかし冗談だとは思えない響きがアイシャの声音にはあった。しかしこの女が本当に流星団のリーダーだとして、わざわざそれを名乗り出るメリットは何だ。ユスティファから聞いた流星団はリーダーの顔さえ知られていない謎の組織だったはずだ。リヒトは半信半疑のまま尋ねた。
「流星団のリーダーが俺に何の用だ」
「あのね、あたしリヒトに提案があるんだ」
 リヒトは目を眇めたが、急に敬称を付けなくなったことはあえて咎めないことにした。
「提案?」
「リヒトさ、一緒にフラマリオン、奪還しない?」
 リヒトは唖然とし、顔中に警戒を滲ませた。
「貴様、何故俺の素性を知っている…」
「窃盗団が情報に疎いわけないでしょ? 新しい騎士王のことくらい調べてるよ。それにね、リヒトってちょっとおもしろいから入念に調べちゃった」
 リヒトはアイシャとの戦闘を覚悟した。やはり只者ではない。こいつは危険だ。
「賊の提案に耳を貸すと思ったか」
 アイシャは残念そうに笑った。
「やっぱりそうだよね~…」
 リヒトはアイシャの次の挙動に注視した。彼女は再び明るく笑った。
「ねえリヒト、実はさっきの嘘なんだ」
 リヒトは呆然とした。
「は?」
「だから、流星団のリーダーっての嘘なの」
 リヒトはうつむいて嘆息した。それはそうだ、世界第二の犯罪集団のリーダーが堂々と騎士王の面前で正体を明かすわけがない。
「で、一体誰なんだお前は」
 アイシャは懇願するように眉根を寄せた。
「あたしね、騎士になりたいの!」
 それを聞いて呆れたリヒトはアイシャの脇を素通りして帰路を辿った。彼は今の言葉でアイシャのこれまでの言動の意図を理解した。足音も気配もなく現れたのはそれだけの気配遮断能力の持ち主であるということを誇示するため。流星団のリーダーだと名乗ったのはリヒトの気を引くため。フラマリオンの奪還の話も同様。そのような会話をリヒトが騎士王に就任してすぐのタイミングで行ったのは、新しい騎士王のリヒトに頼めば何とか自分を騎士団に入れてもらえると思ったため。アイシャは慌ててリヒトの手を取り引っ張った。
「待って! お願い!」
 リヒトはそれを振り払うべく手を引いた。
「放せ。頭のおかしいヤツの相手をしてる暇はない」
 しかしアイシャも頑なに手を引き続けた。
「お願いお願いお願いお願い! すっごくいい情報があるの!」
 「どうせ大した情報じゃないんだろ?」という顔をしながら仕方なくリヒトは振り向いた。アイシャは目を輝かせた。
「虎狼会のアジト知ってるの! すぐ近く!」
 だが先日ユスティファから虎狼会は本拠地すら知られている組織だと聞かされていたリヒトにとって虎狼会の拠点の一つを知っているくらいのことは情報として微塵も価値をもたなかった。リヒトは一応それが彼女の言う「すっごくいい情報」のすべてではないかもしれないと思ってなかば諦めながら確認した。
「で?」
 だがアイシャが次に放った一言はリヒトの想像の斜め上をいくものだった。
「今からそこ行って虎狼会のヤツらやっつけるから手伝って!」
 リヒトはにわかに体をアイシャに振り向けて気色ばんだ。
「お前何言ってんだ! 素人は引っ込んでろ!」
 だがアイシャは頑なだった。
「言ったでしょ! あたし騎士になりたいの! たしかにあたしは女だし貧民出身だし体も小さいけど、騎士になりたいのはほんとだし、あたし真剣なんだから!」
「じゃあ入団試験受けろ! 合格して王都の治安担当になってからそういうのはやれ!」
「応募したよ! でも女だし貧民だからって受験すらさせてくれなかった!」
 リヒトはアイシャの言葉に信憑性を感じた。女であるから、貧民であるからと入団試験さえ受けさせない。それは実に今までのアーケルシア騎士団のやりそうなことだった。リヒトは急にアイシャが不憫に思えた。
「だからって無謀なことはやめろ。お前一人が行って勝てるわけないだろ」
 アイシャはリヒトの手を揺すった。
「だから手伝ってよ! リヒトって強いんでしょ?」
 彼は彼女を手伝いたい気持ちに駆られたが、相手は虎狼会だ。下手に思い付きで手を出すわけにはいかない。虎狼会討滅は望むところではあるが、相手は手強く、狙うべきはあくまでもその首魁たるゼロア。その手際は慎重かつ確実でなければならない。
「だいたい何でアジト潰したいんだよ!」
「あたしの住んでる街のみんなが虎狼会に苦しめられてるの! でも騎士団は何もしてくれなかった! あたしは自分の力で自分の街を変えたいの!」
 リヒトはその言葉にもある種の重みを感じた。虎狼会に苦しむ貧民街の住人を放置する。それもまた実にアーケルシア騎士団のやりそうなことだった。アイシャは自分が手伝わなければ一人でも虎狼会のアジトに乗り込んでしまいそうに見えた。リヒトは顔を顰めて頭をかいた。
「わかった。でもアジトは俺が潰す。お前は安全なところにいろよ」
 アイシャは目を輝かせた。
「ありがとうリヒト!」
 アイシャは嬉しそうにはしゃぎながらリヒトをアジトへ向けて案内し始めた。先を歩くアイシャがリヒトに見えないようにほんの一瞬だけ邪な笑みを浮かべたことにリヒトは気付かなかった。



 アイシャの案内を受けながらリヒトは貧民街の中心にある商店街の裏通りを歩いていた。思えば彼にとって貧民街に入るのは初めてのことだった。そこには飲食店に混じって風俗店が建ち並び、奴隷や麻薬の密売人たちの姿もあった。薬物中毒者か浮浪者か知れない者が路傍に座って体を前後に揺すったり何事かを呟いたりする姿も散見された。こうして貧民街の景色を眺めるとリヒトはアーケルシアの騎士王でありながらアーケルシアのことをほとんど知らなかった現実を突き付けられている気がした。貧民街の人口は実にアーケルシアのそれの約半分に上るといわれている。先日のビュルクへの移動の際の馬車から見た景色もしかり、この大国アーケルシアにはリヒトがまだ見知らぬ景色や側面が大いにあるのだろうなと思った。あるいはそれがアストラが貧民街にたびたび足を運んだ理由かもしれないとリヒトは考えた。
 アイシャは入口に「閉店」の札がかけられた小さな喫茶店の数メートル手前で立ち止まった。その脇には何かの密売をしていると思しき大柄な男が立っていた。
「ここか?」
 リヒトはアイシャに尋ねた。
「うん、そう」
 やや神妙になったリヒトとは対照的に、アイシャは虎狼会のアジトの目の前だというのに飄々としていた。リヒトは嫌な予感がして釘を刺した。
「アイシャはここにいろ。俺が潰してくる」
 アイシャは声を張って抗議した。
「何でだよ!」
「お前は騎士見習いだろ。ここは本物の騎士に任せろ」
 留守番を命じられたことはアイシャにとって不服だったが、同時に『騎士見習い』と半ば騎士であることを認められたような言い方をされたことに彼女は嬉しさを感じてもいた。すっかり毒気を抜かれたアイシャはそれ以上抗議をしなかった。アイシャがついて来ようとしないことを振り返って確かめてからリヒトは喫茶店の入口へと歩を進めた。その後ろ姿を見送るアイシャはにわかに邪な笑みを浮かべると、リヒトに気付かれぬようにそろりそろりと裏路地に歩を進めて姿を消した。リヒトが喫茶店の前の大柄な男の正面に立つと男は無機質な表情でリヒトを見下ろした。リヒトは不敵な笑みでそれに応じた。
「ちょっと通してくれよ」
 一戦交えることも覚悟していたリヒトにとって男の言葉は意外なものだった。
「参加希望か?」
 リヒトは一瞬迷ったが、話を合わせることにした。
「ああ」
「参加料二千。あと武器はここに置いていけ」
 リヒトは金を男の手の平の上に置き、武器を男に手渡した。並の騎士なら武器を入口のゴロツキに預けて犯罪組織のアジトに乗り込むことなどとてもできないが、リヒトの場合いざとなれば武器は自身の体の内から現出させることができた。男は金と武器を受け取ると黙って入口のドアを開けた。喫茶店と思われたドアの向こうは意外にも下り階段になっていた。やや顔を顰めてリヒトはその暗がりを下りて行った。階段を下りると左に通路があった。その狭い通路に見張りの男が一人いた。リヒトは挨拶もせずそこを通り過ぎた。男はリヒトに睨みをきかせたが止めようとはしなかった。その通路の突き当りにもう一つドアがあった。
 それを開ける直前にその向こうから怒号とも歓声ともつかないものが複数入り混じった声が聞こえてきた。彼は少しためらってからドアノブに手をかけた。ドアを開けるとやはり多くの声が激しく鼓膜を叩き、すえた汗の臭いが鼻をつき、彼は顔を顰めた。部屋の中は想像していたより広かった。彼の視界には、殴り合う二人の男とそれを囲んで熱狂する五、六十人の男たちの姿が飛び込んで来てリヒトを唖然とさせた。
 二人の男がバンテージを巻いた拳を相手の顔面目がけて繰り出し合う。一人は屈強な男だが、もう一人は痩せている。前者がパワーとリーチに勝り、後者がスピードとテクニックに長ける。試合は痩せた男のスピードに屈強な方が翻弄されて押される展開となっていた。
 ここは噂に聞いたことのある地下格闘技場に違いないとリヒトは考えた。ここが虎狼会の拠点だという話はおそらく本当だろう。ユスティファは虎狼会の資金源の一つが賭博だと言っていた。リヒトはここにいる関係者を全員『新月の瞬き』をチラつかせて脅して捕縛してやろうかと考えた。しかしどのような使い手がどこに隠れ潜んでいるか知れない。リヒトは一旦様子を見ることにした。また、実のところそれ以上にリヒトは試合の続きが気になっていた。
 多くの観衆は試合は痩せた方の勝ちになると思っているようだった。しかし屈強な男が痩せた男の攻撃を受けながらもしっかりとそれを見切ってガードをし、ダメージをほとんど受けていないことをリヒトは見落とさなかった。やがて試合は観衆にとって意外な結末を迎えた。屈強な男がカウンターのショートフックを相手の顎に入れたのだ。痩せた男は糸の切れた人形のように背中から倒れて動かなくなった。鮮烈なノックアウトだった。一際大きな歓声と怒号が轟いた。それは地下の密閉された部屋に反響して鳴り止まなかった。勝った男は喜びもしなかった。スタッフと思われる男が二人観衆の間を縫って現れ、倒れた選手を抱きかかえてどこかへと運んで行った。どうやら死んではいないらしい。司会役と思われる男が歩み出た。
「勝者、カシアス! これで十五戦十五勝十四KO! 現役最強、いや歴代最強ともいえる強さです!」
 どうやら今の試合の勝者はこの格闘技場で無類の強さを誇るらしい。リヒトはこの場にいる人物全員が虎狼会の構成員だとして、今から全員を相手にやり合うとすれば、もっとも手強い相手はこのカシアスという人物なのだろうとあたりをつけた。
「さてカシアス選手に挑戦する人はいるでしょうか」
 司会がそう言って見渡しても強烈な一撃を見せつけられた直後で挑戦を名乗り出る者が現れる気配はなかった。
「さすがにこれだけ強いと挑戦する人も現れないようです…。残念ですが本日は——
 司会がそう言いかけたときよく通る凛と澄んだ女の声がそれを遮った。
「やらせてくれ」
 地下室は静まり返った。続いて部屋の奥の方がざわついた。そちらから男たちをかき分けて来る者があった。観衆の間を割って現れたその女の姿を見てリヒトは愕然とした。アイシャだった。
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