こころのみちしるべ

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アーケルシア編

027.『深い森』2

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 男は足音を立てぬよう慎重に近づいたが、リサは作業を続けたまま振り返りもせずに言った。
「密猟者かしら」
 気付かれているとはつゆほどにも思っていなかった二人はその言葉に驚いて足を止めた。しかし背の高い方の男が気を取り直してこう言い放った。
「よくわかったな。ビュルクの狩人ってのは噂通りの超感覚の持ち主らしい。さすがにこの距離じゃ気付かれるか」
 リサは冷淡に言い返した。
「あら、あなたたちが森に入ったときから気付いてたのよ。どうせ密猟に来たけど一頭も獲れなかったからおこぼれにあずかろうって腹でしょ?」
 男たちは愕然とした。しかし「どうせはったりだろ」という顔で笑うと背の低いもう一人が言った。
「なぜそんなことがお前にわかる」
「足音だけで性別と持ち物を含めた体重がだいたいわかるの。脚の運び方と歩幅から男性。森に入ってからしばらく経つのに体重が変わってないから収穫はゼロ。朝早くからこの森にいたでしょ?」
 すっかり図星を突かれた男たちは会話のペースを取り戻そうと無理に強気な笑みを浮かべ、背の高い方が言った。
「いいからその鹿寄こしな。そうすりゃまあそのかわいい顔に免じてあんまりひどい目には遭わせないでやるぜ」
 女は背中を向けたまますっと立ち上がった。あまりに悠然とした立ち方だったので男たちは警戒することもかなわなかった。彼女は振り返って言った。
「悪いけど密猟者をただで済ますわけにはいかないの。あなたたちのせいで森の動物の個体数のバランスが崩れてしまっている。ビュルクのみんなの生活にも影響が出ている。でもあなたたちはまだ森の動物を少なくとも今日は傷つけていない。だからあなたたちが大人しく帰るなら私はあなたたちを傷つけなくてもいい。お願い、帰って。そしてもうここには来ないで」
 男たちはその言葉に呆れた。たしかにこの女は狩人としては優秀らしい。何か特殊な感覚をもっているのも事実だろう。しかし華奢な一人の女であることには変わりない。こちらはそれなりに腕の立つ男が二人。しかも女の得物は弓矢。二人と女はすでに七、八メートルの距離にいて、弓矢を活かせる距離ではない。この距離ならこちらの方が断然有利だ。背の低い方の男は腰の鉈を抜いた。
「おいおい勘違いすんなよ。この距離で弓矢でも撃つってのか? その前にお前の体は真っ二つだぜ?」
 すると背の高い方の男が下卑た笑いを浮かべて言った。
「いやお前鉈で真っ二つはやめとけよ。こんな美人なんだ。せっかくだからたっぷり楽しまねえと」
 背の低い方の男も似たような下卑た笑いを並べて鉈を剣帯に込めた。
「それもそうだな」
 リサは密猟者たちの言葉を聞いて嘆息した。
「どうしてわかってくれないの…?」
 背の低い方の男はこちらの威嚇がまったく通じないことに苛立ちを覚えた。
「お前こそいい加減に自分の立場を理解しろ!」
 そう言うと男はそれを潮にリサに殴りかかった。リサはほんの少し後方に跳び退いて男の拳をわずかに躱した。それと同時にリサは鹿を捌くのに使っていたナイフを逆手に持ち替えていた。男は完璧に捉えたと思った拳が宙を切り、愕然としていた。次の瞬間、男の顎をナイフの柄が強烈に打ち上げた。軽い脳震盪を起こした男はよろめき膝をついた。その首を上から再びリサのナイフの柄が打った。男は今度こそ意識を失いうつ伏せに倒れた。背の高い方の男は、リサのしなやかで正確な戦闘術を目の当たりにして驚愕し、先ほど背の低い方の男に鉈を使うなと諫めた言葉を翻し、腰の鉈を素早く引き抜いて構えた。武器なしで到底勝てる相手ではないことは明白だった。男は剣術の心得があるらしく、隙のない構えを見せた。そんな男の姿をリサはしばらくじっと見たあと、突然持っていたナイフを男に向かって投げ付けた。ナイフは真っ直ぐではなく、回転しながら弧を描くように男に向かっていった。それを男は難なく鉈で叩き落した。男がそうしやすいようにリサがわざとゆっくりナイフを飛ばしたことに気付かない男は得意げな笑みを浮かべた。女は武器を失った。弓矢が機能する距離ではない。こちらの手には鉈がある。勝負あった。
 しかし次の瞬間、男の懐の内で一陣の風が舞った。それに気付いた男がまず目撃したのは女の長く美しい髪がたなびく様だった。次に男が強烈に知覚したのは自身が死の淵に瀕しているということだった。何か鋭利な殺意が自分に突き付けられていて、身じろぎひとつ許されない状況がそこにたしかにあるという感覚だった。男は女の髪から自身の顔に近いところに焦点を徐々に移した。するとそこに白銀の鋭利な光があった。自身の眉間に据えられた矢の穂先であった。そこで男はようやく状況を理解した。
 女はナイフを投げると素早く背中の弓と矢を取り、番え、男の懐に飛び込んで片膝をついてそれを男の眉間目がけて構えたのだ。素早く無駄がない。おそらくこちらがどう忍び寄ろうとどう仕掛けようと最初からこちらに勝ち目はなかったのだろう。それほどの力量差が両者にはあった。それを悟った男は観念した。
「参った。俺たちの負けだ。もうここへは来ない」
 そこに嘘の響きのないことを感じ取った女は立ち上がりながら素早く男の手から鉈を掠め取った。
「これは預かっておくわね。早くあのお友達を連れて帰って」
 男は大人しくそれに従った。男が背の低い方の男を背負って去って行く姿を見ながらリヒトはリサの手練に感嘆の笑みを浮かべた。
 ふとリサは獲物でも見つけたのか再び弓に矢を番え、軽く弦を引いた。リサが見ているのは川の下流の方である。あれだけの戦闘の直後だというのに、そちらに何らかの動物が現れたのだろうか。すると次の瞬間、リサはこちらに向きを変えて矢を放った。矢はリヒトの頭の数センチ上の木の幹に突き立てられた。リサに殺意がなく矢が当たらないことを察知していたリヒトは身じろぎ一つせず笑みを浮かべたままだった。リサはおそらくもっと前からこちらに気付いていたのだろう。
 リヒトは頭上の矢を抜き取ってそれを見た。彼が再びリサの方を見るとその姿は川べりにも、森の中にも、どこにもなかった。リサの力は本物だった。確実に大きな戦力になる。ただし交渉は簡単にはいかないだろうな、とリヒトは覚悟を新たにした。



 宿に戻ったリヒトはリサについて情報を得ようと考えた。本人と直接話す前に近しい人物からその人物像について情報を得ておく方が交渉を進める上で有利と考えたためだ。ビュルクは広い国土をもつがそのうちで人里が占める面積は狭い。宿の主人に森で見かけた狩人について聴くと「ああ、それがリサだよ」と答えてくれた。ダイナーの主人も同様だった。
「誰かリサについて詳しい人はいないか?」と聞くと二人は口を揃えて「それならオルフェに聞け」と言った。念のため「オルフェ以外には?」と聞くと「ルナはどっか行っちまったし、レオナは一緒に住んでるから詳しいけど、ちゃんとしゃべってくれるかは機嫌次第だからな。それにリサと一緒に住んでるから、レオナに聞くくらいなら本人に聞いた方が早い」とのことだった。リヒトは宿の主人にオルフェの住所と勤め先を聞いた。
「あいつは北の森に住んでる。あの辺りは森が深くて住むやつは少ないんだがな。しかもあの辺りに農地を作っとる。変わったヤツだ」
 リヒトは翌日オルフェに会いに行ってみることに決め、同じ宿の同じ部屋を数日分予約した。
翌日になるとリヒトは聞いた通りの道順を辿って彼の家を目指した。たしかに聞いた通りの道を歩いているはずだが、あまりにも住宅地を離れて深い森に入って行くのでリヒトはそれが本当に正しい道なのかと不安を覚えた。しかも道は思っていたよりも長く、歩けば歩くほど不安は募った。しかしそれは獣道の類ではなく、たしかに人が作った広くて平らな道だった。
 森の中に開けた場所が現れたのは宿を出て一時間以上経ってからのことだった。さらにその先には小さな家が見えた。それはちょうど一人暮らしのために造られたようなこぢんまりとした家で、その外観は「誰とも一緒に住むつもりはない」と言っているようにリヒトには見えた。家には人がいる気配はなかったが、念のためノックをしてみてもやはり誰も出て来なかった。家の向こうには農地があり、よく目を凝らしてみるとその中に一人の男の姿があった。それはブロンドの長髪をもつ色の白い男だった。およそ農作業には縁のなさそうな見た目をしていたが、聞いていた特徴と一致したためリヒトは彼こそがオルフェに違いないと思った。リヒトは近くまで歩いて行って「こんにちは」と声を掛けた。
「いい天気だな」と作業の手も止めず、こちらに向き直りもせず、しかし微笑みながら男は言った。彼の肌にはうっすらと汗が浮かんでいたが、彼はそれを気にする様子もなく体をせっせと動かしていた。
「多分もうすぐ雨になる」
 リヒトがそう言った。それを聞いたオルフェはようやくリヒトを見たが、その顔はリヒトが冗談を言っているのか確かめているように見えた。空には雨雲は一つもなかった。オルフェは再び鋤と地面に目を向けて「不吉な予言だな」と言った。
「湿度と気圧でわかるんだ。傷が疼く」
 オルフェは再びリヒトを見た。彼はその言葉を聞いて半分だけリヒトの説を信じたようだった。彼は少しだけ笑った。
「だったら今日は早めに作業を切り上げよう。ちょうど客人も来たところだ」



 家に着くと彼は「狭いですがどうぞ」と言ってドアを開けた。鍵はかけていないようだった。オルフェはリヒトを顧みずに中へ入っていった。彼は紳士的だったが、終始あまりリヒトの方を見ようとはしていなかった。おそらく自分はあまり歓迎されていないのだろうとリヒトは思った。
「お邪魔します」
 そう言ってリヒトは家に入った。そこは狭い家だったがダイニングは広く、物がよく整理され、彼が客間としていつでも人を迎えられるように常に綺麗に整えていることがわかった。
「狭い家だが一人で住むにはこれくらいがちょうどいい」
 そう言ってオルフェは家を見渡した。リヒトもまた興味深そうにその小さくも広く、小綺麗な家を見渡した。
「座ってくれ」
 そう言われてリヒトは席に着いた。
「何か飲むかい?」
 正直かなり歩いたので喉は乾いていた。
「紅茶にハーブティーにレモネード。ジンジャーティー。ハチミツ湯もある」
「ではレモネードを」とリヒトは言った。
 オルフェは何も言わずにレモネードを作り始めた。器も材料も綺麗に棚に整理されていた。彼は慣れた手つきでそれを作った。レモネードにはミントが添えられ、ガラスの器は涼しさを演出していた。リヒトがそれを飲んでみると砂糖は少な目で薄味で素朴で健康的な味がした。
「で、アーケルシアからはるばる何のご用で?」
 自らの分のレモネードを入れて席に着いたオルフェがそう尋ねてきた。リヒトはアーケルシアの人間であることを看破されていること自体には驚かなかった。ビュルクの人間からすれば余所者などすぐにわかるだろうし、リヒトの武装を見れば特別な用事があって訪れた者だということは一目瞭然だった。ムーングロウ全体が閉塞的な状況で国をまたいだ人の行き来は少ないため、実際のところビュルクを訪れるのはアーケルシアの人間かロイシュネリアの人間くらいのものなのだろう。ロイシュネリアとアーケルシアは大きな山脈を挟んでいるため文化が大きく異なる。そのため出で立ちを見ればどちらの国の出身かは判別できるというわけなのだろう。
 リヒトがむしろ気になったのはオルフェがわざわざそれを最初に口に出したことだった。礼儀として家に招き客間で水を出したが、余所者とゆっくりと世間話に興じるつもりはないという意思の表れに思えた。リヒトは経験からこのような人物には嘘や誤魔化しが逆効果であることを知っていた。
「実はある人のことを知りたい」
「リサか」
 ある程度予期してはいたが彼はリサを目的としてリヒトが訪ねて来たことを最初から看破していた。そして彼の敵愾心の源もおそらくそれであろうとわかっていた。
「ああ」
「傭兵として雇いたいと?」
 リヒトは少し迷った。「傭兵ではない。もっと良い待遇だ」と言えば彼の機嫌をかえって損ねるような気がしてやめた。
「傭兵ではないが戦力として招きたいのは事実だ」
 それまでリヒトの方を見ずにグラスや壁の方ばかりを見て話していたオルフェがようやくリヒトにじっくりと目を向けた。
「先に二つ言っておく。あなたの条件を飲むかどうかはリサ次第だしリサと話したければ勝手に話せばいい。俺は別に交渉の邪魔はしない。だが俺は彼女の友人として彼女にはあなたとは関わるなと忠告する」
 オルフェの話には続きがあると待ち構えたリヒトだが、彼の話はそこで唐突に終わった。リヒトは必然的に理由を聞かなければならなかった。
「なぜ?」
「あなたはアーケルシア騎士団の方だろう? リサを虎狼会と戦わせるのかルクレティウスと戦わせるのか知らないが、そんな泥仕合に友人が巻き込まれることに賛同する者があるか?」
 オルフェの表情と口調には怒りも悲しみもなかった。しかし彼の言葉の中には彼が感じた「怒り」と「侮蔑」が潜んでいるような気がした。リヒトは言っても無駄だろうなと思いながらも思うところを口にした。
「申し遅れたがアーケルシア騎士王のリヒトだ。詳しくは言えないがかなり大胆な作戦をとる。そのためにリサの力を借りたい。なるほどたしかにこれまでの虎狼会やルクレティウスとの戦線はまさに泥仕合だった。だが確実に勝って泥仕合を終わらせるための作戦だ。決して泥仕合にはさせない」
 リヒトが騎士王だと名乗ったときにはさすがにオルフェも顔色を変えた。しかし彼は首を縦に振ろうとはしなかった。
「こちらこそ申し遅れたがオルフェだ。話はわかった。騎士王自ら戦力を見定めにビュルクまで訪れるとは、新しい騎士王のリヒト殿はまさに気鋭のようだ。リサのことも相応の理由があって適役に配置されるおつもりなのだろう」
 彼がそのあとに反駁を述べることをリヒトは知っていた。リヒトは黙ってそれを待った。彼はこの会話を辛抱強く進めることを自身に課していた。
「しかし戦いに絶対はない。そして友人を危険に遭わせたくない気持ちは変わらない。リサに会いたければ止めはしないが、俺はやはりリサが戦いに加担するのには反対するしかないし、あなたを進んでリサに引き合わせることはしない」
 リヒトは諦観とともに笑った。実際リヒトはオルフェがリヒトの主張を真摯に受け止めた上で自分の立場を素直に表明してくれたことを清々しく感じており、彼の笑いにはそのような意味も含まれていた。立場の異なる者同士の会話ではあったが、気持ちの良い意見の交換ができた。
「そうか。ありがとう」
 リヒトはそれを潮に席を立った。オルフェはリヒトがあっさりと諦めたことにやや驚きを見せた。リヒトは荷物を抱えた。オルフェは壁の方に目をやって少し考えてから言った。
「しかし山奥の開拓地に一人で住んでいると話し相手がいなくて寂しいものだ」
 リヒトもまた少し考えてから言った。
「ビュルクは良い場所だ。作戦までにはまだ時間がある。もう少しここには逗留するつもりだ」
 オルフェはリヒトを見て笑った。
「ならせっかくだ。世間話でもして行け。少し焼き菓子を余らせていたところだ」
 リヒトも笑った。
「せっかくだ。ご馳走になろう」



 リヒトはまずオルフェ自身について尋ねてみた。すっかり遠慮のなくなったリヒトが「どうして里の外れの森の奥で農業なんてしてるんだ?」と聞くとオルフェは「よく友達がいないからだと言われるが、少ないながらに友人はいる。リサもレオナもルナもそうだ。里の平らで水路のある場所に農地を広げるのは簡単なんだ。でもせっかくなら木を切って土をならして水路を引くところからやってみたいと思ったんだよ。ここの水路と農地が新しい拠点になって、ここを中心に誰かがさらに農地を広げる。そうなったら誇らしいだろ?」と不躾な質問を気にした様子もなく答えた。
「一人で住んでて寂しくないか?」とリヒトが聞くと「里まで毎日行くから寂しくないよ。主な目的は談笑と買い物。それと自警団の作業を少し。レオナの様子も見に行く。農作業や農地の開拓は実はそんなに急いでないんだ。のんびり自分にできることを続けていきたいんだよ」と答えた。
 オルフェはマドレーヌとパウンドケーキを棚から取り出してリヒトに差し出した。パウンドケーキは洋酒をふんだんに含んでいるらしく、しっとりとしていい香りがした。
「農作業は退屈じゃないか?」
 だんだん遠慮のなくなってきたリヒトはそんなことを尋ねてみた。オルフェは笑って答えた。
「そのうち飽きるだろうね。でも今はまだ農地も広げているところだし、新しい作物に挑戦しているところだから楽しいんだ。それにここでの生活は農作業だけじゃない。家の設備を充実させたり、風呂を直したり。最近は家の外に大きな窯を作ってるんだ」
「窯? パイでも焼くのか?」と聞くとオルフェは「焼き物だよ」と答えた。
「料理用の皿をいずれ自分で焼いてそれで料理を作るのが目標なんだ」
 リヒトはさらにオルフェにビュルクというこの広く自然豊かで、それでいて謎めいた国についていろいろと尋ねてみたくなった。
「ここに来ればロイシュネリアの人にも会えると思ったんだが、それらしい人は見かけないな」
「いや、ロイシュネリアの人も来るよ。交易はお互いにとってプラスだからね。今はたまたま見かけないだけさ」
リヒトは「ルクレティウスやフラマリオンの人が来ることもあるのか?」と尋ねた。オルフェの顔が一瞬曇ったのをリヒトは見落とさなかった。オルフェは少し硬い声で答えた。
「いや、フラマリオンとルクレティウスの人は来ないよ」
 リヒトは「そうか、やっぱりこんな情勢だからな」と言っておいた。彼は一度話頭を転じた。
「さっき自警団と言ったな。どんな活動をしてるんだ?」
 人と話すときに相手の方を見ないで上や正面を見ることの多いオルフェが珍しくリヒトの目を見て答えた。
「里を守ってるのさ。こんなのどかな国でも犯罪はある。それに外部から来る密猟者も多い。戦争の脅威もある」
 リヒトはさらにそこを掘り下げてみた。
「アーケルシアと衝突したこともあったと聞く」
 ややセンシティブな話題ではあったが、彼がそれについて気を悪くしている様子はなかった。
「ああ、それ以来アーケルシアの属国扱いだ。でも、本当の脅威はアーケルシアじゃない」
 リヒトは少し目を眇めた。オルフェは少し迷った末に口を開いた。
「もともとアーケルシアとビュルクとの小競り合いはあったものの、ビュルクはそれなりに安定してきた。それこそ平原を争うルクレティウス、フラマリオン、アーケルシアとは違ってね。それにオーガの被害の多かった滅びの街レオミュールやロイシュネリアとも違ってビュルクは山間にあって争いと縁のない国だった」
 オルフェはそこで言葉を区切って壁を見た。その目は壁の向こうの遠くの何かを見ているようだった。リヒトはオルフェの話の続きを辛抱強く待った。
「事件があったんだ」
 オルフェは唐突にそう切り出した。
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