こころのみちしるべ

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現世編

020.『彼が今日自殺をする理由』12

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 その夜いつまでも家に帰らない真琴を捜すため、伯母夫婦により捜索願が出され、警察により捜索が行われた。結局翌日の昼過ぎ頃、彼は森の中の古い社の前で倒れているところを発見された。外傷はなかったが意識もまたなかった。



 真琴が目を覚ますと知らない天井がそこにあった。しかしなぜか彼にはそこが柳原中央病院だとすぐにわかった。おそらく母が亡くなったときの記憶と部屋の雰囲気が一致したのだろう。部屋には自分の他に誰もいなかった。彼は状況を理解できずにいた。しかし一つだけ漠と胸中にたしかに横たわる感覚を彼は認識していた。
(俺は由衣を見つけられなかった)
 彼の心には虚しさとやるせなさがこぼした水のようにとめどなく広がった。彼は絶望すると同時に、それ以上に自身への怒りが強く込み上げてくるのを感じた。彼はにわかに体を起こした。彼はまだ力の入らない手で入院用のガウンの胸を強く握りしめ顔を顰めた。



 その日の夜に伯父が病室にやって来た。病室に入り真琴の顔を見た彼は少しだけ笑ってくれた。真琴は彼の表情を見て彼に何か「大事な話」をされるのだと勘付いた。
「起きたか」
「うん」
 ダウンジャケットを脱いだ伯父は壁のハンガーにそれを掛け、ベッドの脇の椅子に腰掛けた。彼は重そうに口を開いた。
「体は大丈夫か?」
「うん」
 真琴は伯父が本題を切り出すのをじっと待った。
「そうか。まあ、無事で良かったよ」
「うん」
 伯父は下を向いて一つ息をついた。
「まあでも本当に心配したよ」
「ごめん」
 伯父は真琴を見た。真琴はそろそろ本題が来るなと勘付いた。
「今度森に行くときは俺も連れて行け」
 それは本題に違いなかったが、真琴が予期したものとは大きく違っていて真琴を驚かせた。真琴は「うん」と答えるか「ありがとう」と答えるか迷った。しかし真琴の口から出てきたのは自身にとっても意外な言葉だった。
「自分が許せなかった」
 伯父は真琴の言葉についてしばらく考えてから尋ねた。
「友達を見つけられなかったからか?」
「それもあるけど、友達を守れなかったから」
「その子はきっとそうは思ってないぞ」
 真琴は少し逡巡してから言った。
「それが悔しい」
 彼の声は自然と震えた。
「必要としてほしかった」
 伯父は一度深くまばたきしてから窓のすりガラスに視線をやった。街灯と車の灯りと夜の闇がそこから見える景色のおよそすべてだった。
「人の心は難しい」
 真琴はうつむいて黙って伯父の言葉の続きを待った。
「自分ですら自分の心が見えない。何が必要で、誰が大切で、本当は何がしたくて、どうありたいか。自分のことだからちゃんとわかってるようで、実は意外とほとんどわかってなかったりする」
 真琴は伯父のその言葉の意味について考えてみた。たしかに自分の心すら見えずに苦しむ自覚が真琴にもあった。伯父の話は続いた。
「その子は森の方へ行く姿が目撃されていたらしい。もし本当に森へ行ったなら、かなり混乱して自分が何をしたくて、誰を大切に思っているかわからない状態だっただろうな」
「助けたかった」
 伯父は真琴の目を見て尋ねた。
「どうすれば助けられたと思う?」
 真琴はじっと考えた。どうすれば良かっただろう。今となっては虚しい言葉を、それでも思いつくままに彼は吐き出した。
「もっと声を掛ける。もっと楽しく明るい言葉で由衣の日常を彩ってあげればよかった」
 伯父は小さく頷いた。
「そうだな」
 伯父はぽつりと付け加えた。
「難しいよな」
 彼は自嘲気味に笑った。
「俺も後悔することばかりだよ」
 真琴にはもう言葉が見つからなかった。
「後悔の連続だよ人生なんて。ああすれば良かったこうすれば良かったって、地獄のように煩悶し続ける」
 伯父の言葉には重い実感がこもっていた。彼は再び窓に映る灯りを見ていた。彼は自身の過去の何かを思い出しているようだった。
「ただ、後悔するときは一人でするな。そうしないとお前までぐちゃぐちゃになっちまう」
 真琴は由衣の気持ちが少し分かった気がした。彼女のチャットの言葉には本当に言い出したいことを言えないでいる節があった。彼女は本当に言いたいことが何なのか整理できていなかったのかもしれない。
「うん」
「ぐちゃぐちゃになりそうになったら俺に話せ。何でもいいから」
 真琴は今度こそ素直に言うことができた。
「ありがとう」
 真琴は一度頷いたあと、伯父を見てからもう一度頷いた。それきり真琴は森で由衣を探すことをやめた。



 真琴は自分が何をしてももう由衣を救えないことを悟った。
 真琴は事件に関する世間やマスコミの見方に懐疑的だった。事件後の彼女の言動を辿っても、彼女が自殺を望むほど父の死に絶望していたとは思えなかった。友達を思い、クラスメイトを思い発言し行動する彼女の姿から、父の死に心を支配されるほど彼女が父親に依存して生きてきたとは思えなかった。
 しかし由衣が失踪した動機を考えるとき、真琴は必ず自身の落ち度を可能性として考えないわけにはいかなかった。ときにはそれどころか自分自身こそが原因なのではないかとさえ思った。もっと由衣を大切にできたんじゃないか、もっと由衣を支えられたんじゃないか、もっと由衣の心の苦しみに気付いてあげられたんじゃないか、知らず知らずのうちに由衣のことを傷つけていたんじゃないか、由衣にとって自分の存在こそが重荷だったんじゃないか…。
 抜け殻のようになった真琴に対し杏奈はこう言った。
「真琴は悪くないよ。真琴がいなかったら由衣ちゃんはもっとつらかったんだよ」
 担任はこう言った。
「俺のせいだ。お前は悪くない」
 悠樹と琢磨はそれらしいことは言わなかったが、真琴を頻繁に遊びに誘うようになった。



 由衣が行方不明になって十日後くらいに真琴は放課後に翔吾と会った。それは真琴が塾の帰りに家に向かっているときのことだった。
「よお」
 翔吾は自転車を停めて真琴を振り返った。真琴は翔吾の笑顔を見てなぜか非常に安心した。
「すげえ偶然だね」
 翔吾の住んでいる地域は悠樹の家と同じ旧山名町に近い地域だったが、真琴の住んでいる場所とは少し離れていた。しかし翔吾は意外なことを言った。
「いや、お前を探してたんだ」
 真琴は驚いた。何の用件があってのことだろうと考えたが、何か用件があるとすれば真琴にとってそれは一つしか思いつかなかった。しかしその件に翔吾がどのように関わっているのだろうか。それが事件の解明に繋がる有益なものであることを真琴は願った。真琴の顔はにわかに神妙になった。
「少し話せるか?」
 そう尋ねられた真琴は近くで話せる場所を考えてみた。公園にはベンチがあり翔吾が「そこのベンチでいいか?」と尋ねた。真琴は「うん」と答えた。二人は公園の入口に自転車を停め、公園の奥のベンチを目指した。木のベンチだったが、座るとひんやりと冷たかった。翔吾がこう切り出した。
「由衣を捜すためにだいぶ無理をしたらしいな」
 真琴は約一週間前のことを思い出した。彼は無理をしたとは思っていなかったが、しかし周囲に言わせれば無理に違いなかった。
「らしいね。実はあの日のことほとんど覚えてなくて」
「それだけ夢中で捜したってことだな。まあ無理もねえな」
 真琴の胸中には由衣を見つけられなかった不甲斐なさが蘇ってきていた。
「俺も一緒に探す」
 唐突に翔吾がそう言った。驚いた真琴は「どうして?」と聞こうか「ありがとう」と言おうか迷った。迷っているうちに翔吾が口を開いた。
「これはお前だけの問題じゃないし由衣だけの問題でもない。すぐに手伝えなくて済まなかった」
 真琴は謝られて戸惑った。
「それに俺がお前と一緒に由衣を捜したいと思うのは由衣やお前が友達だからってだけじゃねえんだ」
 真琴は「どうして?」と聞こうか迷ったが、ただ黙って翔吾の次の言葉を待つことにした。
「お前将来のことは決めてるか?」
 それを聞かれた真琴はかつて自身が描いた夢について考えた。『夢』という言葉は彼にとってすでに遠いものとしての響きをもっていた。彼のかつての夢は柳原高校に合格して良い大学に行って金持ちになることだった。しかしそれは母のための夢であり、由衣のための夢だった。その由衣さえ今は自分の近くにいなくなってしまった。彼の心にはぽっかりと大きな穴が開いていた。彼は虚しさを覚えながらも従来の自分の『夢』を翔吾に語った。その言葉は嫌でも空々しい響きをもった。
「柳原高校に行って大学に進学したいなって」
「そうか。お前頭いいからな。俺は高校出たら月見が丘商工会議所入るよ。そんで自警団に入る」
 真琴はそれを聞いて驚いた。彼は翔吾の将来について考えてみた。彼はどこの高校に行くのだろうか。商工会議所に入るということは商業高校か工業高校かもしれない。あるいは運動神経が良いので野球の強豪校に行くのかも知れない。そのあとは月見が丘のどこかのお店か事務所に勤めることになるのだろう。おそらくは店舗か観光関連の施設。彼はどうしてその道を選ぶのだろうか。自警団に入る理由は? 自警団とは地元の治安を守るために設けられた有志の集まりだった。主な活動は暴走族の発見と不良行為の発見・通報、自殺志願者への声掛け。表向きはそういったものを主な活動とするが、ここ数年は自警団の人員増強が活発になっていて、その主な目的はウサギ教の再起を監視・防止することであった。真琴は少し迷ってから尋ねてみた。
「翔吾頭いいのに大学行かないの?」
 翔吾は笑って平然と答えた。
「ああ。大学の勉強は実務に役立たないからな。まあ野球でいいオファーあれば考えるけど」
 真琴は「野球でプロになりたいとは思わないの?」と聞いてみようかと思ったがあまりにも野暮なのでやめた。車が目の前の道路を大きな音を立てて横切って行った。車が特別大きな音を立てていたのか、それが大きな音に聞こえるくらい周りが静かなのか、真琴はどちらなのか判じかねた。真琴は「何で自警団に行くの?」と聞いてみようかと思ったがそれもやめた。それは翔吾が人助けが好きだからに違いなかったからだ。
「翔吾はすげえな」
「何が?」
「自警団」
 翔吾はそれを聞いて少し笑った。
「ああ、まあ普通は入らねえよな。でもお前が今やってることと変わんねえよ」
 真琴は本当にそれが等価か考えてみた。しかしやはりたまたま自分に近しい人が失踪したため助けようとする自分と不特定多数の人を守ろうとする翔吾とではその根本の気構えや覚悟が違う気がした。多分自分にはできない。でもそれを言ったところで翔吾は認めないだろうなと思ってやめた。
「就職先はもう決めてるの?」
「ああ、観光案内所で雇ってもらえることになってる。あと野球のコーチもやるからそこでも収入あるし。観光案内所の経営に関わりながらわらじ作って売って、土日はコーチ。で、交代制で自警団」
「すげえな」
 真琴の「すげえな」には「すでに内々定を得ている翔吾の才能や人望に対する賛美」も含まれていたし「多忙なスケジュールをこなすことへの驚嘆」も含まれていた。特に野球のコーチになることが中学生のうちから決まっているというのは野球をやっていない真琴にも異例のことであるとわかった。また、将来のことが漠然としか決まっていない自分に比べてそれが明確に決まっている翔吾はやはりすごいと思った。いやむしろ、そんな翔吾に比べて自分のことが惨めに思えた、という方が真琴の心理を的確に表しているだろう。
「高校はどこ行くの?」
「工業」
「そっか」
 真琴の胸中にはまた別の思索が浮かんだ。翔吾はこの先幸せだろうか。きっと高校でも野球でエースとして活躍し、工業を学び、それが終わったら商工会議所兼観光案内所で働き、わらじを作り、それを売り、土日は野球のコーチをし、当番が回れば自警団の活動をし、容姿も良いので異性からも好かれるしきっとすぐに結婚相手が決まり、子どもができ、家かマンションを買い、車を買うのだろう。それはとても充実した人生にも思えたし、なぜか同時に少し寂しい人生にも思えた。
「勉強結構してんの?」
 翔吾は真琴にそう聞いた。真琴は翔吾に心配をかけまいと「してるよ」と答えようとしたがやめた。
「いや」
 そう言って真琴は笑った。翔吾もその答えを察していたのか笑った。
「全然してない。この一週間くらい」
 真琴は事件以来様々なことを淡々とこなしていたが、そのどれに対しても意識が散漫になっており、身が入らなくなっていた。
「そりゃそうだよな。大変だもんな」
 真琴は首を横に振った。
「逃げてるだけだよ」
「何から?」
 真琴は翔吾の質問に答えようとした。しかしうまく答えは出てこなかった。翔吾はそんな真琴の苦悩を横からそっと覗いていた。季節外れの虫が街灯にぶつかっては弾かれていた。真琴はそれを見た。その姿は誰かに重なって見えた。それは自分自身だろうか。あるいは翔吾か。由衣か。母か。父か。悠樹か、杏奈か、琢磨か。伯父さんか。きっと誰もが苦しんでいるのだろう。ぶつかることをいっそやめれば楽なのに。きっとそうせずにはいられないのだろう。何かに駆り立てられて日々を夢中になって生きている。その先に救いなんてないってどこかで理解しながら。
「お前は偉いよ」
 そう翔吾が言った。
「え?」
 真琴は翔吾を見た。
「何で?」
「お前が琢磨にいじめられてたときのこと覚えてるか?」
 それは真琴にとって唐突な問いだった。それは悠樹や杏奈とさえも話すことのない思い出だった。わけてもそれが翔吾の口から出るとは思わなかった。真琴はおずおずと首肯した。
「…うん」
「俺は悠樹から聞いた話でしかわかんねえけど、お前やり返さなかったんだろ?」
 真琴には苦い記憶が蘇ってきた。たしかにあのとき自分は琢磨にやり返さなかった。
「それって普通できることじゃない」
 たしかに普通は悠樹のように戦うだろう。勝てない相手だとわかっていても言い返すくらいはするだろう。しかし真琴に言わせればそれは単に琢磨を恐れていたからに違いなかった。
「琢磨が怖かったからね」
 しかし翔吾は否定した。
「いや、違うよ」
 真琴は不思議そうに翔吾の横顔を見た。
「悠樹が言ってたんだけどさ、お前がその気になれば琢磨といい勝負できたんじゃないかって。悠樹も加わって二対一なら確実に勝てたって。なのにやり返さないからいつももどかしかったって」
 真琴は悠樹に「お前やり返せよ!」と怒鳴られた日のことを思い出した。
「悠樹そんなこと言ってたんだ」
「お前は大人だったんだよ。争いに意味がないことを知ってた。頭がいいんだよな要するに」
 真琴は苦笑した。
「そんなことないよ」
 翔吾は真琴の言葉を意にも介さずに自身の主張を続けた。
「それにお前は優しいんだよ。琢磨にやり返して勝っちまったら琢磨がクラスで孤立することを知ってたんじゃないか?」
 真琴は否定しようとした。
「そんな…」
 しかし真琴はその頃の自分を思い返すと、たしかにそんなことを考えていたような節があった気がした。同時にそれを看破した翔吾の洞察力に驚きを覚えた。見ると翔吾は笑っていた。真琴は素直に認めることにした。
「まあ、そうかも…」
「だろ? それってすげえ大人だしすげえ優しいよ」
 真琴は否定することができなかった。
「お前のその性格は必ず誰かを救う。誰かを守る」
 真琴は翔吾が今日自分に声を掛けてくれた理由に気付いた。
「みんなが慕うからお前は学級委員長になったんだし、悠樹も杏奈も琢磨も由衣も俺もお前が好きなんだよ」
 そう言って翔吾はベンチを立った。真琴はその背中を見上げた。
「ありがとう」
「自信もて。いい大学行けよ。いい仕事に就け」
 真琴は足元を見た。
「うん」
 白い息がこぼれた。その行方を追うように真琴は顔を上げた。街灯の虫を見てみたが、彼はもうどこにもいなかった。
「そろそろ行こうぜ。寒いだろ」
「うん」
 真琴もベンチを立った。翔吾は先に歩き出していた。真琴は翔吾の背中を見た。そのとき、なぜかもう翔吾と話すことはないような気がした。



 心配する周囲をよそに、真琴は勉強に励んだ。その努力の仕様は由衣が失踪する以前よりも激しかった。何かに取り憑かれているかのようでもあり、同時に心の痛みを忘れようと必死にもがいているようでもあった。杏奈と悠樹の目にはそんな真琴の姿が痛々しく映った。何とかしてあげたいと思ったが、二人も自分たちの力のなさに絶望していた。彼は以前と同じように食事を摂り、友人が冗談を言えば以前と同じように笑い、風が寒ければ以前と同じように寒がった。しかしそのすべてがどこかぎこちなかった。彼の睡眠時間は大幅に減り、何があっても涙を流さなくなった。
 真琴はたまに自分がどこにいるのかわからないような感覚や自分が何をしているのかわからないような感覚に陥ることがあった。短いながら睡眠をとることはできた。しかし疲労を感じなかったので疲れがとれたのかもわからなかった。食事を摂ることはできたが、おいしいともまずいとも思わなかった。彼は勉強をこなしてはいた。しかしそれが何のためのものなのか本人にももはやわからなかった。
 彼は学校で勉強を終えると塾のある日は塾へ行った。塾のない日は学校が終わってから、塾のある日は塾が終わってから、彼は家で勉強をした。その日の勉強がすべて終わると彼は一人で由衣のことを考えた。彼の記憶の中の由衣は心に傷を負い、しかしそれを見せまいと気丈に振る舞った。彼はそんな由衣を守ろうと思った。彼女を励まし、彼女に寄り添おうと思った。
 しかし彼女への思いに比して考えたとき、彼は言葉も行動も足りていなかったと自身を断じた。伴っていなかった。彼は自身の不手際を恨んだ。自身の行動力のなさを憎んだ。何より、自分が彼女にとって何にもなれていなかったにもかかわらず、何かになれる気でいたおごりを恥じた。彼はそれを考えると本当に情けなくなって消えてしまいたくなった。周りからは彼は明らかに由衣の失踪以来憔悴しているように見えた。しかし本人は日常で課せられたすべてのタスクを淡々とこなしたし、まったく疲れを感じなかった。



 事件に巻き込まれた者にも平等に高校受験の波は押し寄せた。ついに受験当日がやってきた。真琴は県立柳原高等学校を志望し、その受験に挑んだ。受験会場はまさに同高校であり、それは市立中央病院と父のアパートの近くにあった。早めに受験会場に着いた彼は試験が始まる前にノートにまとめた苦手箇所の見直しを行った。窓際の席にあたった彼はそれが終わるとぼんやりと窓の外の景色を眺めた。受験当日にも彼の心には母の姿と由衣の姿が去来していた。するとその窓ガラスに二人の姿が映った。彼は特に驚きもせずに虚ろな目で二人に尋ねてみた。
「俺は何のために高校なんて受験するんだろうな」
 二人は口をそろえてこう答えた。
「自分のためでしょ?」
 真琴は問い返した。
「合格して何になるんだよ」
 またも二人は声をそろえて言った。
「あなたの将来が有望なものになるじゃない」
 真琴は首を横に振った。
「俺が幸せになってどうする。どうして俺に幸せになる権利がある?」
 二人は顔を見合わせた。母が真琴に尋ねた。
「どうしてあなたが幸せなってはいけないと思うの?」
 真琴はその質問の意図を理解しかねた。彼は絞り出すように言った。
「だって…二人を不幸にしただろ…?」
 由衣が答えた。
「私たちは不幸なんかじゃない」
 真琴は再び首を横に振った。
「じゃあ何でいなくなったんだよ」
 するとちょうどそのとき試験監督が教室に入って来た。彼は手元に受験用の問題用紙と解答用紙を一式抱えていた。いよいよ受験が始まる。緊張はほとんどなかった。真琴は再び窓の方を見てみたがもうそこに母と由衣の姿はなかった。



 卒業式は事件を受けて自粛された。結局真琴は県立柳原高等学校に合格した。悠樹と琢磨と翔吾は同じ工業高校に合格した。杏奈も大学進学率の高い公立校に合格した。高校生になってから四人が同時に会う機会はなくなった。それでも悠樹や杏奈は真琴を心配してたまに遊びに誘ったりしてくれたがその頻度も次第に少なくなっていった。



 一連の事件以来真琴は恐ろしい夢を見るようになった。それは自分が母親と由衣を殺す夢だった。殺し方は様々だった。手に触れた瞬間に相手を砂に変えてしまうこともあった。自分の体から生えた棘が相手を刺し貫くこともあった。自分が爆発してそれに相手を巻き込むこともあったし、誰かに脅されて刃物で刺し殺すこともあった。相手の死ぬ瞬間の顔が見えることもあれば見えないこともあった。その顔は自分をまったく責めていないときもあれば少しだけ責めていることもあった。いずれにせよ真琴は二人を殺めたあと非常に自身を責め、自身を憎んだ。一晩に何度も同じ相手を殺めることもあった。夢には区切りも救いもなく、ただそれはアラームの音でのみ中断されるばかりだった。



 中学を出ると真琴は柳原の父親のアパートで彼と同居することになった。久しぶりに同居する父親は以前と同じ父親のままであるようにも見えたし、そうでないようにも見えた。しばらく一緒に暮らすと、真琴が声を掛けたときの父親の反応の鈍さや動き出すときの遅さが気になり、やはり以前と比べて父親は衰えたのだと知った。しかしもしかしたら父親が変わったのではなく自分が機敏になってしまったのかもしれないし、神経質になってしまったのかもしれないとも思った。父親は他人のように親切にしてくれたが、そのたびに真琴は父親とはもう二度と自然な親子の関係には戻れないのだろうなと悟った。父親との距離を詰めるため、はじめは無理して愛想よく話したが、次第にあまり話すことはなくなった。
 父は一度だけそのアパートに女性を連れて来たことがあった。父は気まずそうにしたが女性の方がむしろ明るく愛想よく挨拶してくれた。真琴は戸惑いながら挨拶を返した。父は「最近仲良くしてる知り合いの方」だと説明したが、二人が恋仲なのは恋愛に疎い真琴にも明らかだった。二人は照れくさそうにしているし、女性は香水の匂いをさせてミニスカートとヒールの高い靴を履いていたし、一時間もしないうちに二人は部屋を出て行き、その晩父は遅くまで帰って来なかった。それ以来父は土日になるとよく出かけるようになったが、それも三か月ほどするとなくなった。真琴は何気なく父に「再婚とかしないの?」と聞いてみたことがあったが、父は気のない返事をした。それで二人が別れたと知った。その後父とその女性の話をすることはなかった。
 父親は部活をすることを勧めてくれたが、部活という名の青春への憧れを中学生のときに諦め、今は勉強のみを生きる原動力と理由にしている真琴は帰宅部を選んだ。
 父は一度だけ母の話を真琴の前でしたことがあった。それは夕食を摂りながらウサギ教とは異なる新興宗教が起こした事件について取り扱っているニュースをテレビで見ていたときのことだった。その日父は仕事で嫌なことがあったらしく、ビールを飲み、愚痴っぽくなっていた。
「また宗教かよ。次から次へと」
 その話題を避けたかった真琴は父の言葉を無視した。
「こんな宗教にハマる人の神経がわかんねえよな」
 真琴は一瞬自身の頭に血が上るのを自覚したが、それでも何も言わなかった。
「どう思う?」
 父は真琴に同意を求めてきた。真琴はいっそ言ってやろうかと一瞬思ったが、できるだけ簡単にあしらうことにした。
「さあ」
 それはニュース番組の中の特集コーナーだったため、しばらく宗教の話題が続いた。したり顔の学者や芸能人がコメンテーターとして言いたいことを言っていて、真琴は次第に不愉快になった。父も真琴もしばらく黙っていた。
 父は再び口を開いた。
「母さんも宗教なんかにハマらなければ良かったのにな」
 下を向いて黙々と食事を摂っていた真琴は顔を上げた。彼はにわかに箸を食卓に叩きつけて立ち上がった。椅子が床に倒れる音が派手に鳴った。驚いて真琴を見上げた父の顔は半ば怯えていた。それを見た真琴は急に父が気の毒になった。しかし自身の思うところを伝えないとかえってあとあとギクシャクすると思ったため、真琴はそれを口にした。言葉はどうしても乱暴になった。
「お前が浮気してお前が捨てたんだろ!」
 父は真琴の言葉を理解するのに少し時間を要した。
「母さんの不幸をお前が語んなよ!」
 父はやっと真琴の言葉に理解が及んだらしく、言い訳をした。
「捨てたって…自分から出てったんだろ…?」
 しかしそれは真琴の怒りの火に油を注ぐ結果を招いた。
「同じだろ! 浮気したクセに自分かわいさに自己弁護してんじゃねえよ! てめえは反省だけしてればいいんだよ!」
 父は閉口した。彼はもう何を言っても状況を悪くするだけだと理解した。真琴自身も自分の怒りに内心驚いていた。それでも彼の怒りは収まらなかった。
「母さんを不幸にしたのは宗教じゃねえ! お前だ!」
 父は何か反論をしようとしたが口が少し動くばかりで何も出てこなかった。
「お前は母さんが自殺寸前まで精神的に追い込まれてたとき何してた? この部屋でメシ食ってテレビ見て知った風な口利いて人の不幸語って他の女のこと考えて漫然と日々を過ごしてたんじゃねえのかよ!」
 父は口を閉じてうつむいてため息をついた。真琴は顔に悔しさを滲ませた。
「俺は苦しむ母さんを目の前で見てたぞ。そして母さんを守れなかった。その後悔は多分死ぬまで消えねえ」
 真琴は玄関へ向かった。彼は吐き捨てるように言って外へ出て行った。
「お前が母さんを語るな」
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