こころのみちしるべ

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フラマリオン編

002.『闇に咲く光』2

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 三人は噴水のある大きな広場に出た。広場の少し先にはこの街で見た中でもっとも大きな四角い建物があった。おそらくこの辺りはこの街で最も栄えた場所なのだろうと少年は思った。神楽はそこで足を止めた。少年が彼女の横顔を見ると、彼女は広場の一点を見ていた。そこには三人の若者がいた。一人は細い眼鏡の男性だった。一人は眼鏡の小柄な女性だった。一人は金髪の細い女性だった。三人は広場を歩きながらこんな会話をしていた。
「寝不足で授業集中できないよ」
 そう言ったのは細い眼鏡の男性だった。それに対し眼鏡の小柄な女性が皮肉を言った。
「また武器オタクのリビエラは武器に関する文献漁ってたんでしょ? まったく物騒だこと」
 するとリビエラと呼ばれた細い眼鏡の男は反駁した。
「武器研究は物騒なんかじゃないぞ! 平和のための研究なんだ! そういうオーガオタクのエレノアだってオーガの研究してるだろ? そっちのがよっぽど物騒だよ」
 するとエレノアと呼ばれた小柄な眼鏡の女性は反駁し返した。
「あたしはオーガオタクなんじゃなくて、歴史オタクなの! 歴史だって平和のために学んでるんだから!」
 するとその会話を聞いていた金髪の細い女性が言った。
「医療の研究をしてるあたしからすればリビエラもエレノアも物騒よ。まったく、平和を志すなら人の命を守るための学問である医学を学ばないと…」
 するとリビエラはそれに反論した。
「レティシアの場合専攻は平和な学問だけど、内面がサイコパスでドSなところがあるから性格が物騒なんだよ」
 するとレティシアと呼ばれた金髪の女性は怒りに顔を歪めた。
「サイコパスはあんたでしょ武器オタク!」
 だがリビエラは平気な顔をして澄ましている。するとエレノアが何かを見つけて嬉しそうな声を出した。
「あ! ルナちゃんだ!」
 彼女は広場の一角を指差した。そこには二十人ほどの人だかりがあり、その中心にはダンスを披露する若い女性の姿があった。
「ほんとだ!」
 リビエラはそう言ってエレノア同様目を輝かせると、人だかりの方へ走って行った。エレノアもそれに続いた。レティシアも二人を追った。
「ちょっと待ってよ」
 三人は人だかりに合流すると食い入るように女性のダンスを眺めた。三人は同様に目を輝かせていた。若い女性は数名の楽団の演奏に合わせ、きらびやかな装飾を施した扇情的な衣装を纏い、細く白く美しい手足をしなやかに使って踊っていた。ときに素早く、ときにゆっくりと彼女の体は音楽に合わせて感情豊かに波打った。その様に街の人々は足を止め見惚れていた。人だかりの中には周囲の飲食店や商店に勤めているであろう制服姿の人々の姿もあった。仕事そっちのけで見たくなるほどの魅力が彼女のダンスにはたしかにあったし、ダンスを見るために仕事の手を止めるほどの心のゆとりがこの街の空気にはあった。
「あんたはルナちゃんのダンスよりルナちゃんのエロい体が見たいだけでしょ?」
 先ほどのお返しとばかりにレティシアがリビエラに皮肉を言った。顔を赤らめながらリビエラは反論した。
「ば、ばかいうな! 俺は芸術としてダンスを鑑賞してるだけで…」
 そこへエレノアが皮肉っぽい口調でリビエラに追い打ちをかけた。
「まあでもわかるけどねー。あの面積の狭い布! もはや下着よりも狭い! がっつり露出した白い肌! そしていろんなところに付いたヒラヒラやキラキラの装飾! あの腰をくねくねさせるエロい動き! 細いながらも出るとこ出てるナイスなばでー! 何よりあんなエロいかっこでエロいダンスを踊るとは思えない美しくもあどけない整ったかわいいお顔! あんなのを健全な男子が見たら一発で虜になっちまうわな~。女のあたしでもドキドキするし!」
 リビエラはさらにムキになって否定した。
「だからそんなんじゃないって!」
 そんな光景を眺めていた神楽がぽつりと言った。
「踊っているのはルナ」
 少年は神楽の横顔を見た。
「他の街の出身ですが、たまにこうしてこの街にやって来てみんなに踊りを披露して元気をくれるんです。彼女はムーングロウのいろんな街を回ってダンスを披露しています。ムーングロウでは戦争が絶えません。それでもいろんな人にダンスを楽しんでほしいと、彼女は無償で街を回っています。たとえそれが戦地となっている街であってもです」
 神楽は視線の向きを少し変えた。
「先ほどしゃべっていた三人はアカデミーの学生です。フラマリオンは学問がムーングロウで一番盛んな街です。
 男性はリビエラ。武器や戦争について学んでいます。とっても真面目で正義感が強くて、この小国家であるフラマリオンを守るための戦術や兵器を考案して自警団に入るのが彼の夢です。
 眼鏡の小柄な女性はエレノア。歴史学を専攻しています。とっても好奇心が強くて、ムーングロウの歴史をまとめた歴史書を作るのが夢です。
 金髪の女性はレティシア。ちょっとツンツンしたところはあるけれど、本当はすっごく優しい子です。流行り病を治すために医学を研究しています」
 少年は街の人々のことを語る神楽に深く感心した。この街にどれだけの人がいるかわからないが、きっと全員のことをこんな風に細かく覚えているのだろうと少年は思った。
「みんな戦争があるからこそ、強く明るく生きるんです」
 その一言を聞いて樹李が先ほどしていた戦争の話の続きを神楽はしているのだと少年は気付いた。
「悲しみを乗り越えて、すぐそこにある恐怖を力を合わせて跳ねのける、それがこの国の人々の姿であり強さです」
 神楽の言う通り、往来や街並みや人々の様子に戦争の暗い影はなかった。神楽は本当に誇らしそうに少年に笑顔を向けた。
「素敵でしょ?」
 神楽が街のみなから慕われる理由に少年は得心した。
「はい」と少年は素直に返事をした。
「神楽様、こちらにおいででしたか」
 背後から若い男の声がして振り向くと、そこに制服然とした白い衣服に身を包んだ男がいた。神楽も振り向くと、その男に挨拶をした。
「リヒト、見回りご苦労様です」
 男は神楽に恭しく礼をした。神楽は少年に彼を紹介した。
「彼はリヒトです。この街の警備を務めてくださっています」
 リヒトは少年にも恭しく礼をした。
「初めまして、リヒトといいます」
 いたずらっぽく樹李が言った。
「この街の自警団長であり、神楽様を守る近衛兵長様だよ」
 リヒトは少しだけ照れくさそうに苦笑いした。少年がリヒトの目を見るとそこには戦いに身を置く者の覚悟と強靭な者だけが帯びる自信が漲っていて少年を萎縮させた。少年は慌てて自己紹介をしようとした。しかし樹李が先回りした。
「この子記憶を失くしていて自分が誰だか覚えてないんだ」
 それを聞いてもリヒトは特に気にした様子もなく応じた。
「そうでしたか」
 少年は彼が腰に剣を帯びていることに気付いた。そこに覚えた少年の緊張を知ってか知らないでか、リヒトは「君も一緒に騎士としてこの街を守らないかい?」と冗談めかして尋ねた。少年は慌ててかぶりを振った。
「僕は、そんな、役に立たないです…! 子どもだし…」
 それを聞いたリヒトはさわやかに微笑んで少年を諭した。
「そうか。でもね、大切なのは体の大きさじゃない。心のあり様だ」
 その言葉は冗談であるともそうでないともとれる響きをもっていた。
「心の…あり様…」
 少年はその言葉を反芻した。
「そう。心だ」
 リヒトは広場に目を移した。
「この街の人々と同じだよ。強かな心があれば、状況がどんなに悪くても耐え忍び、いつか本願を遂げられる」
 少年はそう言い切るリヒトを羨望に近い眼差しで見上げた。
「お互い精進しよう。いずれ君の力を借りることがあるかもしれない。君も俺の力が必要なときにはいつでも俺を頼ってくれ。喜んで手を貸そう」
 そう言ってリヒトは握手の手を差し出した。少年は恐縮しながらその手を取った。リヒトは見回りがあるからとその場を辞した。



「ありがとうございました! 私はムーングロウのあちこちを旅しながら踊っています。いつかまたどこかでみなさんとお会いできることを楽しみにしています!」
 そう澄んだ声で言ってルナは深く丁寧にお辞儀をした。それはルナがダンスを終えた際に決まってする挨拶だった。蠱惑的な衣装を纏い、あどけない顔立ちをしていながら、大人びた清潔感のある言葉遣いと立ち振る舞いができることもまた、彼女の人気の理由だった。彼女の顔貌のかわいらしさと衣装の大胆さは男性に人気がありそうだが、実のところ女性の人気の方が高いほど彼女は万人に支持されていた。ダンスと挨拶の言葉に対して人々は惜しみなく拍手を送り、やがて広場の人だかりは三々五々と散っていった。
 ダンスを見終えるとアカデミー生の三人の若者はこんな会話をした。まずリビエラが問いを切り出した。
「そういえば論文は間に合ったの?」
 それはエレノアに向けられたものだった。何の気なしにエレノアは答えた。
「え? あ、うん。余裕だったよ」
 するとリビエラは口を尖らせた。
「何だよあんなに焦ってたクセに。心配して損した」
 それに対しエレノアは苦笑いした。
「ああ、まあ歴史書漁ってるとどうしても脱線するのが悪い癖でね。でもまあ本気になりゃ何とかなるもんよ」
 それを聞いたリビエラは「まったく調子のいい」と言わんばかりに肩をすくめた。するとエレノアが急に声のトーンを低くしてこんなことを言い出した。
「そういえば…、ちょっと気になることあったんだよね…」
 リビエラは「どうせ大したことないんだろ?」とでも言いたげな顔をして尋ねた。
「気になることって?」
 他方レティシアは存外エレノアの「気になること」が気になるようで、じっとエレノアの目を見ていた。
「いや、最近オーガについてまた調べてるんだけどさ」
ここぞとばかりにぽつりとリビエラが呟いた。
「オーガオタク」
 先を早く話したいエレノアは手短にリビエラを黙らせた。
「うるさい」
 彼女は切り替えて真面目に続けた。
「オーガの神と八体の悪鬼はこのムーングロウの大地を支配し、その強大な力で人を従え、人を虐げていた。ところが一人の女性が現れ、オーガに言った。『この地を人間に委ねましょう』。そしてオーガはこのムーングロウの大地を去った」
 それに対しリビエラが退屈そうに言った。
「そんなの知ってるよ。このムーングロウの成り立ちであり、神話であり、歴史。専攻じゃない俺でも習うし、何ならアカデミー生でなくても知ってる」
 リビエラの茶々を想定していたエレノアはたじろぐことなく言葉を継いだ。
「でもね、歴史書がないの」
 それを聞いたリビエラの表情がにわかに神妙になった。
「オーガがこの地を支配し、人間を虐げていた頃の歴史書は残ってるし、今のアーケルシアやフラマリオンの独自の歴史書もある。でもオーガがムーングロウから立ち去ったときの歴史書なんてどこにもないの」
 リビエラは一応思いつく反論を試みた。
「歴史書が紛失するなんてよくあることだよ。俺が専攻してる戦争史にだって歴史書の紛失により『空白』になってる時代はあるよ」
 リビエラと違ってレティシアはエレノアの言葉の重要性を正しく理解していた。
「歴史書がないのに誰もが常識の様に『歴史』だけを知っている」
 エレノアがレティシアを真っ直ぐに見て頷いた。
「そう。歴史書や歴史的事実を示す遺物があってこそ歴史は事実として推定され認知されるものよ。なのにオーガを説得した女性がいたことや、オーガが説得に応じてこの地を去ったこと、その辺のことはどんな歴史書にも史跡にもないの。それなのに誰もが知ってる」
 リビエラもここに来てエレノアの指摘の重要性をようやく理解した。
「たしかにおかしい…」
 レティシアは一つの仮説を立てた。
「『口伝』…かしら…」
 それを聞いたリビエラはやや呆れ顔で言った。
「口伝なんて歴史を伝える手段にならないよ」
 だがレティシアは冷静に反駁した。
「そうかしら。ビュルクのシャーマンは一族の歴史や大地の成り立ちを口伝していたって聞くわ」
 リビエラはなおも納得しなかった。
「それはビュルクという小国家のシャーマンという閉塞的な少数のコミュニティだからこそ成立したことだろ? 一つの歴史的事実をムーングロウの人々の共通の認識にするなんて口伝じゃ難しいだろ」
 しかしエレノアはレティシアに同意した。
「ううん。私も口伝はいい線いってると思う」
 リビエラは「冗談だろ?」と言わんばかりの顔をした。構わずエレノアは言葉を継いだ。
「問題は誰がどう伝えたか。それもムーングロウ全体に。しかもこれほど互いの国が仲違いをしている状況で」
 リビエラはしぶしぶその仮説について考えてみた。
「そりゃまあ、そんなことできるとすれば国の指導者くらいのもんだろうな…あるいは…」
 リビエラはそこで一拍置いた。
「『禁書』」
 エレノアとレティシアは同時に神妙な目をリビエラに向けた。リビエラは続けた。
「この世界の重大な歴史のすべてが記されているとされる本。だが所在は不明。実在するかどうかも不明。あるいはそこに記されているのかも…」
 三人は思考を巡らせたが、その命題についてそれ以上の仮説は思い浮かばなかった。レティシアはそれを潮に話頭を転じた。
「そういえば、私も少し気になることがあるの」
 エレノアはそれを聞いてきょとんとした。
「医学の研究で?」
 医学といえば歴史学に比べると個人の推定や仮説の余地が限られる学問という見識をエレノアはもっていた。
「そう、あたしもこないだ一人で勉強してたときにちょっと変なことに気付いちゃって。エレノアが言ってたこととは全然関係ないことなんだけどね。多分」
 するとリビエラが思い出したように言った。
「あ! 俺も気になることがあったんだ!」
 エレノアがジト目でリビエラを見た。
「何よ。人の意見散々けなしといて、あんたも気になることあるんじゃない」
 リビエラはそう言われてさすがに少し反省した。学問の話を三人でするときにいつも他者の仮説に対して否定的立場をとるのが悪い癖だと彼は自覚していた。
「いや、まあ悪かったよ」
「今日はもう遅いから、続きは明日にしましょう。あたしお腹すいちゃった」
 レティシアがそう言うとそれを潮に三人は議論を切り上げることにした。三人は話頭を転じて他愛もないことを話しながらアカデミー生の寮の方へ歩き出したが、各々の脳裏には互いの「気になること」が靄のようにかかって離れなかった。それは単に「気になること」に過ぎなかったが、何かそれでは済まされない重要な事実を背景にもつように思えてならなかった。そのためか帰路を辿る三人の会話は先ほどとは対照的にほとんど弾まなかった。



「神楽、奇遇ね」
 声を掛けられて神楽は振り向いた。そこには先ほど広場で踊っていたルナの姿があった。
「あらルナ。久しぶりね」
 ルナは目を細めて挨拶をした。
「ご機嫌麗しゅう、お元気そうで何よりだわ」
「あなたこそ」
 ルナは改まった調子で尋ねた。
「あなたの悲願は叶いそうかしら?」
 神楽は少し思案顔で笑った。
「まだ時間が必要だわ。あなたの方はどう?」
 ルナは肩をすくめて困ったように笑った。
「私の願望はきっと満たされることはないわ。ただどこかで何かに納得したらそれを最後に踊るのを辞めるだけ。でもあなたの願いはきっと叶う」
 少年は二人の妙なやり取りを不思議そうに聞いていた。神楽はやや自嘲気味に笑った。
「そのためにできることをするわ。でも、いつまでの猶予があるか…」
 神楽は神妙な顔をし、それを見たルナも同じ顔をした。この二人は少し似ているなと少年は思った。ルナは気を取り直したように笑った。
「でも彼らが帰って来ることはしばらくないはずだわ」
 それを聞いた神楽の顔にはルナのそれとは対照的に笑みはなかった。神楽は思い出したようにルナを少年に紹介した。
「こちらはルナ。さっき紹介した通りムーングロウじゅうを旅して踊りを披露しています」
 白い肌をわずかばかりの煌びやかな衣装で隠すルナの姿は少年にとってまぶしく、彼はそんな心理を気取られないように目を泳がせながら会釈した。
「はじめまして」
 神楽はルナに少年を紹介した。
「こちらは旅の方よ。今街を案内していたところです」
 ルナは微笑を浮かべて挨拶をした。
「はじめまして、ルナよ。私は色々な方に会うのを楽しみにムーングロウを旅しているの。あなたともきっとまた近いうちにお会いできるわ」
 少年はルナの言葉の予言めいた響きに何か引き込まれるような名状しがたい感慨を覚えた。



「いつもご馳走様」
 そう言って小銭をトレーに置くと飛茶は喫茶店を出て空を見上げた。後ろからは店主の「毎度どうも」という言葉が返ってきた。空は曇りとも晴れとも名状しがたい限りなく白に近い水色をしていた。それはあまりにも表情のないのっぺりとした空だった。もう夕刻に差しかかっていたため遠くの空は赤かった。この時間になるとせわしなく飛び回る鳥の姿がなぜかその日はまったくなかった。にわかに生ぬるい風が横合いから吹き付けてきて老人の白く長い髭と眉毛を弄んだ。風が去ると嫌な湿度がいつまでも顔の皮膚にまとわりつき、雨のあとの運河のような生臭ささが鼻にこびりついた。
「嫌な予感がする」
 飛茶は呟いた。
「また多くの血が流れる」
 飛茶の声はあてどなく空に溶け、自身の耳朶にだけいつまでも残響した。



 屋敷に戻ったマリアは食事の支度をしていた。急に来客が決まったため、彼女は来客者用の寝室の用意といつもより一人分多い食事の支度をしなくてはならなかったが、手際よくそれをこなし、寝床の用意は先ほど済ませ、料理の支度もほとんど終わっていた。食器の用意もほとんど終え、あとは簡単な味付けと盛り付けを残すばかりになっていた。
「マリア」
 そう後ろから呼ぶ声を聞いてマリアは顔だけそちらへ振り向けた。声の主の顔を見る前から彼女は微笑んでいた。
「リヒト、今日の街の様子はどうかしら?」
 白い制服に身を包んだリヒトは笑顔でそれに答えた。
「平和そのものだよ。みんな傷跡から立ち直ろうとしてる」
 冗談の混じった調子でマリアは言った。
「素敵な騎士様がいてくれるおかげね。みんな心強く思ってるわ」
「この街に平和があるのは、君の笑顔があるからだよ」
 マリアはくすっと笑った。
「やめて」
 だがリヒトは真面目に続けた。
「この街が強かなのは、君の様に強く生きる者があるからさ」
 マリアはリヒトが真面目だと知って笑うのをやめて調理の手を止め彼に向き直った。彼女はただ彼の言葉に耳を傾けた。
「最近はずっと見回りばかりしてる。朝も昼も夜も。退屈なものさ。でもね、その退屈がどれだけありがたいことか。ふと気付くとみんなが傷跡から立ち直ろうとしてる姿が目に留まる」
 マリアはリヒトの話が終わったことを確かめると静かに口を開いた。
「ずっとこうだったらいいのに」
 リヒトは少しだけ声に力を込めた。
「守ってみせるさ」
 マリアは困ったように笑った。
「無理しないでね」
 リヒトはマリアに一歩近づき、その髪を撫でた。
「無理を押してでも大切な人を守るのが騎士の本懐さ」
 マリアは照れくさそうに笑った。するとリヒトは思い出したように言った。
「ところで、先ほど少年に会ったんだ」
 「少年」と聞いてマリアも一人思い当たる人物があった。
「それってもしかして、神楽様がお連れになってた…」
 リヒトは驚いた。
「マリアも会ったのか」
「ええ、買い物の帰りに。神楽様がその方を今晩このお邸に泊めるとおっしゃったの」
 リヒトは食事の支度の進む食卓を見た。
「それで今日は食事がいつもより豪華なのか」
 マリアも食卓に目を移し肩をすくめた。
「ええ。でもちょっと作り過ぎちゃったかも…」
 リヒトはマリアを見て微笑んだ。
「君は気の利くところが長所だが、気の利き過ぎるところが短所だな」
 マリアは少し照れくさそうな不服そうな顔をして笑った。リヒトは急に神妙になって言った。
「マリア、いつか二人で家をもとう」
 マリアはその言葉を嬉しそうな、困ったような表情で受け止めた。
「でも神楽様の身の回りのお世話をするお仕事が…」
「きっと神楽様もわかってくださる」
「あなただって神楽様の近衛兵でしょ? このお邸にいるべきだわ」
「このお邸にいなくても神楽様はお守りできる。近くに居を構えればいいし、毎晩見回りをすればいい。それに世話ができるのは君だけじゃないし、近衛兵は僕だけじゃない」
「そうだけど…」
 そのとき、音は唐突に鳴った。それは日常生活に起こりうるどれにもそぐわない異音だった。同時に風が起こり二人の間近にあったキッチンの窓を乱暴に叩いた。二人は同時に窓の外の遠くを見た。窓枠の中の景観の中心で白い大きな光が湧いていた。それは窓から二人の顔だけでなく、部屋全体を染めるほど強い光だった。マリアは恐怖に身をすくめていた。リヒトは呆然としつつもマリアをかばうようにその身を抱き寄せた。光は市街の中心部、ちょうどアカデミーや円形広場のあるあたりで起こっているように見えた。



 少年と神楽と樹李は街の案内を終え、邸に向かう途中で強烈に鼓膜を叩くその音を聞いた。振り向いた三人は白い光に染め上げられた。その音と光の発生源が何なのか、その場にいる誰にもわからなかった。光は円形広場から発せられ、その場にいるすべての者の視線はその一点に集まった。そこを見つめる多くの目に不安の色が躍ったのはそれが戦争を想起させる音だったからだ。
やがてその白い光に異変が起きた。光が一気に小さく、広場のちょうど真上で収斂したのだ。それは広場から上空二、三十メートルほどを覆う縦長の楕円形になった。人々は口々に悲鳴と不安の声を漏らした。樹李もその一人だった。
「神楽様! …これ!」
 神楽は白い光を呆然と見上げながら呟いた。
「そんな…早すぎる…」
 少年は二人を交互に見た。二人は何かを知っているようだった。しかしなすすべもなく立ち尽くしているという点では二人も少年を含むその他大勢と同じだった。近くにいた誰かが口々に言った。
「ルクレティウスの兵器か…?」
「そんな…、ルクレティウスがこの街に攻撃を仕掛けるだなんて…!」
 神楽が呟いた。
「違う…。あれは…」



 同刻、飛茶は少し離れた往来からそれを見上げていた。眉毛と髭に覆われた彼の表情はやはり知れない。それでも彼が遥か遠いものを鋭い目で見ていることは皺の形と顔の向きから知れた。彼は独りごちた。
「また、戦いが始まる」
 またひとつ、誰かの悲鳴が聞こえた。
「戦争は恐ろしい」
 彼は硬い声でぽつりと付け加えた。
「だがこれは、戦争よりも、もっと恐ろしい」



 窓から入り込む光の強さが落ち着きを見せてもマリアは眉を顰め体をこわばらせていた。そんなマリアの肩かばうように抱いていたリヒトもまた呆然と光を眺めることしかできなかった。
「ルクレティウスがこの街を攻撃するはずがない…」
 彼は誰にともなく問うた。
「誰が一体…」



 踊りを終え、宿に向かう途中でルナは背後から照らしつけてきたその光に気付いた。振り向いて見上げたルナの視線はその光に釘付けになった。にわかにその光の正体に思い当たった彼女はぽつりと呟いた。
「そんな…また始まってしまう…」
 一つ息を呑んだ彼女は付け加えて言った。
「あの地獄が」



 光を間近で見ていたアカデミーの三人の若者は恐怖に顔を引きつらせていた。レティシアはリビエラに向かって叫んだ。
「何これ! ルクレティウスの兵器!?」
 リビエラは慄きながらかぶりを振った。
「こんな兵器あるわけない! こんなの、人間の力じゃないよ!」
 歴史学を専攻して得た知識の中からその光の正体に思い当たったエレノアは呆然としながら呟いた。
「白い光…。もしかして…」
 リビエラとレティシアは同時にエレノアを見た。エレノアはもう一つ呟いた。
「オーガ…」



 やがて白い光はだんだんと形を成した。それは頭をもち腕をもち脚をもった。それは人の形をしていた。その段に及んでもそれを見ていた多くの人はその場に留まった。ルクレティウスの侵攻と早合点した者だけが城壁に向かって駆け出していた。白い光は徐々に弱まった。するとその光の中に人の十倍はありそうな質量をもつ大きな人の形をした何かが佇立していた。「人が立ってる」と誰かが言った。
 それはゆらり、と動いた。それはあまりにも大きくはっきりした動きであり、その正体が生物であることはこの段に及んで誰の目にも動かしがたい事実になった。
「神楽様!」と樹李が叫んだ。
 神楽はやはり呆然とそれを見たまま呟いた。
「もう、戻って来たっていうの…?」
 その巨躯は顔をもち、それは笑っていた。その笑みは不吉な何かを想起させた。悪辣な意思をもっているように見えた。それを見たほとんどの人はその段に及んでいよいよ逃げ出した。一部の者は大切な人の安否を確かめるように彷徨った。一部の者は逃げるより隠れる方が賢明と判断したらしく、物陰や建物に素早く駆け込んだ。
 その巨躯が人と異なる点は五つあった。一つはあまりにも巨大であったこと。身の丈十メートルはあるであろうか。二つ目は大きな牙をもっていたこと。三つ目は頭に二つの角をもっていたこと。四つ目は体表が灰色をしていること。五つ目はその巨体に相応の大きさをした棍棒のようなものを手に握っていること。
 巨躯は一歩前へ歩み出た。ずしり、と嫌な五臓に響く音がして夕闇のフラマリオンを震撼させた。
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   日野 玖虎(ひの ひさとら)は長距離トラック運転手で生計を立てる26歳。    そんな彼の学生時代は荒れており、父の居ない家庭でテンプレのように母親に苦労ばかりかけていたことがあった。  しかし母親が心労と働きづめで倒れてからは真面目になり、高校に通いながらバイトをして家計を助けると誓う。  高校を卒業後は母に償いをするため、自分に出来ることと言えば族時代にならした運転くらいだと長距離トラック運転手として仕事に励む。    確実かつ時間通りに荷物を届け、ミスをしない奇跡の配達員として異名を馳せるようになり、かつての荒れていた玖虎はもうどこにも居なかった。  だがある日、彼が夜の町を走っていると若者が飛び出してきたのだ。  まずいと思いブレーキを踏むが間に合わず、トラックは若者を跳ね飛ばす。  ――はずだったが、気づけば見知らぬ森に囲まれた場所に、居た。  先ほどまで住宅街を走っていたはずなのにと困惑する中、備え付けのカーナビが光り出して画面にはとてつもない美人が映し出される。    そして女性は信じられないことを口にする。  ここはあなたの居た世界ではない、と――  かくして、異世界への扉を叩く羽目になった玖虎は気を取り直して異世界で生きていくことを決意。  そして今日も彼はトラックのアクセルを踏むのだった。

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