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22.温かな誘い、涼やかな誘い

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 薄緑色のTシャツ、ネズミ色のハーフパンツに着替えてリビングに出た。奏人かなとと同じ石鹸の香りがする。黒い壁時計は午前7時をさしていた。

 部屋に戻ってベッドに入る。眠れるはずがない――なんて思っていたのに気付けば意識を手放していた。呑気なものだ。

「ん……」

 部屋に差し込む光で目を覚ました。寝返りを打つと、サイドチェストに目がいった。奏人の黒いスマホが置かれている。

「兄さんからの誘い……ちゃんと断ったのかな……?」

 最悪、無視を決め込んでいる可能性もある。時刻は午後1時。仮に無視をしていたとしても、奏人と兄さんの関係性を思えば謝ることは出来ない。だけど――。

「…………」

 スマホを手に取る。待ち受けは黒いライフル銃。種別はAR。奏人本人が撮ったものだ。場所は銃器見本市。ガラスの反射もキレイに取り除かれている。粗の1つも見当たらない。完璧だ。

 改めて思う。奏人は射撃が好きなんだと。

「だから、これで……いいんだ……」

 語尾が揺れた。図々しいな。

「……4件きてる」

 いずれも兄さんからだった。

 1件目・午前9時頃
『やっぱ来るの難しい? 無理しないでな』

 2件目・午前10時頃
『11月の連休、空いてたりしない? 良かったらナオと3人で――』

「3人で……?」

 続きはメッセージを開封しないと読めない。内容から察するに何かしらな誘い。想定される返事は実質一択だ。僕からは返せない。でも、早く返すよう促すことは出来るから。意を決してロックを解除する。ナンバーは奏人と僕の誕生日だ。

『11月の連休、空いてたりしない? 良かったらナオと3人で『お疲れさま会』とか、どーかなって。最寄りは石和いさわ。露店風呂付の離れの予約が取れそうなんだ。本館に行く必要もないから、2人にも迷惑をかけずに、のんびりできるんじゃないかな~……とか思ってるんだけど、いかがでしょうか?(笑)』

 メッセージの下には旅館のHPのURLが。その次のメッセージには、費用は全額兄さんが負担する旨が書かれていた。

「……ごめんなさい」

 届くはずもない懺悔の言葉を呟いて、画面を黒く塗り潰した。

「っ! えっ……?」

 不意にチャイムが鳴り響いた。荷物、頼んでたかな? 心当たりがない。奏人のかな? 慌ててリビングに出る。

「えっ!? ……、……うっ、嘘……」

 絶句した。表示された人の姿を見て。そこにいたのは坊主頭の涼やかな目元の人――留持るもち りょうさん。僕のシューター時代の目標であり、恩人でもある人だった。

「……どうして?」

 頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。留持さんは変わらずドイツにいるはずだ。就職先も向こうだと、奏人伝いに聞いている。

 それなのにどうして甲府に? 過ったのは射撃の全日本選手権。だけどそれも3週間近く先のことだ。いくら何でも早すぎる。それに会場は東京だ。東京には留持さんの実家がある。甲府に来る必要はない。

尚人なおと。いるんでしょ?』

 僕に会いに来てくれたのかな…? でも、尚人として会うことは出来ない。

「ナオなら今、試合に出ていませんよ。帰りは夜になります」

 奏人になってまともに話すのはこれが初めてのことだった。顔を合わせても交わす言葉は挨拶だけ。支障はなかった。留持さんはマイペースな人。交流には消極的というか、だから。

『…………』

 留持さんは何も言わず苦笑を浮かべた。ガッカリさせてしまったんだろう。

「……アイツには俺から連絡入れときます。なので今日のところは――」

『信じてもらえないかもしれないけど、これでも僕、なんだよね』

「知ってますよ」

 鬱屈とした調子で返す。留持さんはAR10メートルの絶対王者だ。国内では12歳のころからずっとトップ。海外戦でも表彰台の常連で、2年前の東京五輪では日本人初の金メダルを獲得している。

『射撃の話じゃないよ』

「は……? …………………………っ」

 理解した途端、雫が零れ落ちた。涙だ。拭っても拭っても溢れ出てくる。止まらない。

においでよ。で待ってるから』

 留持さんはそう言って歩き出した。遠ざかっていく。心臓が激しく脈打っているのが分かった。思い起こされるのは早撃ち特訓の日々、そして留持さんの笑顔。

「っ!」

 留持さんの姿が、例の記者・谷原たにはらさんの姿に変わる。下卑た笑み、ヤニで黒ずんだ歯に嫌悪感を抱く。

『極めつけは、アナタの転向です。協会が猛反発していたことすらご存知ないのでしょうね。切り札は留持選手の留学です。胸は痛まないのですか? 留持さんの気持ちを踏みにじっておいて』

「……っ」

 謝らないと。謝って済む問題ではないけれど。

 その上でお願いするんだ。出来ることなら黙っていてほしい、と。

「虫がいいな……ほんとうに……」

 額を壁に押し付ける。漏れ出た吐息から、ヤニとコーヒーの香りがしたような、そんな気がした――。



 あれから30分後。僕は家を出た。自転車で走ること10分。周囲をイチョウの木で囲まれた施設が見えてくる。

 大型バスが2台すれ違えるぐらいの広い門の表札には『甲府・スポーツの森公園』とある。

 フェンシングの練習場、射撃場はこの先だ。けど、今の目的地はここじゃない。目の前にある横断歩道を渡って向かい側の施設に入る。

 甲府・芸術の森公園

 広さは約6ヘクタール。園内にはオブジェや美術館が併設されている。現役だった頃は毎週土曜日の練習終わりにここに立ち寄って、留持さんと反省会をしていた。

 とはいっても、反省――射撃の話は3割程度。メインは雑談だった。本、テレビ、映画の感想。学校での出来事。留持さんはそんな取り留めもない話題を振ってくれた。察してくれてたんだろうと思う。僕には友達が、ただの1人もいないのだということを。

 申し訳ないと思う反面、とても嬉しかった。嬉しくて、嬉しくて――。話してしまったんだ。決して表に出してはいけない願いを。

 ――奏人のもう1人の兄になりたい。明言出来なくてもいい。ただ、兄らしくありたいのだと。

「……バカだな」

 自転車を駐輪場に置いて歩を進める。子供のグループ、ポメラニアンを連れた男の人とすれ違った。

 こっちもそれなりに賑わってはいるけど、スポーツウェアを身に纏った人の姿はほとんどいない。同じだ。あの頃と何ら変わらない――。


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