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20.蜃気楼(☆)

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 快適でどこよりも心休まる場所であるはずの我が家が、今はどこよりも重く、息苦しい。

 時刻は16時。中扉の向こうからは夕日がさしている。戸が僕の腕を掠めた。靴箱のものだ。目の前には奏人かなとがいる。FSから一緒に帰って来た。稀事だ。けど、楽しくはなかった。互いの目的がであったから。

「さっさと来いよ。時間が惜しい」

「……うん」

 奏人に続いて中扉をくぐる。入って早々僕は背負っていたバッグを壁に立てかけた。身体は軽くなったけど、心は依然重たいままだ。

「で、何考えてんだよ。お前は」

 奏人は、数歩先にあるダイニングチェアに腰掛けた。手前側、僕が普段座っている方の席だ。横向きに腰掛けて壁に背を預けている。

 奏人の席に座るべきか。考えてみたけれど、何となく気が引けて立ったまま話しをすることにした。

「もう入れ替わる必要はない。そう思ってやったことだよ」

「理由は?」

「奏人になって分かった。疑う必要なんてない。信じていいんだ。安住あずみ君も、久城くじょう君も、射撃部のみんなも、先生も、東雲しののめさんも……それこそ滋田しげたさんだって……」

 息を整えて奏人を見据える。奏人の目は変わらず疑念に満ちたままだ。

「みんながくれる言葉は、そのままの意味だよ。裏なんてない。失敗したっていいんだ。あの人達みたいに嗤ったりしないから」

「…………」

「だからさ、もう……疑うのは止め――」

「バカだな」

 一蹴された。足りないんだ。こんなんじゃ。

「……ほんとバカ」

「お願い。話しを聞いて――」

「兄ちゃん」

「っ!」

 思わず息を呑んだ。甘酸っぱい。固く引き結んだはずの口がほころんでいく。

「っは、好きだねぇ~」

 奏人の顎が背もたれに乗る。したり顔だ。ばつが悪い。堪らず目を逸らすと嗤われた。顎先を擽られているみたいだ。背中がムズムズする。

「でも、俺は大っ嫌い」

「知ってるよ」

 あの日のことは1日たりとも忘れたことはない。

「理由は?」

「双子だから」

「違う」

「えっ? ……あっ……」

 言われてみれば確かにそうだ。あの頃の奏人は、『同じ』であることに執着していた。だから、兄、弟、みたいな括りを嫌った。

 でも、今はその逆。『違い』を重視している。勿論それは入れ替わりのためでもあるけれど。……もしかして我慢しているのか。今も変わらず同じでありたいと思っているのか。頭が混乱してきた。

「分かんねえの?」

 緊張が走る。答えを、答えを見つけないと。軽く咳払いをして言葉を紡ぐ。

「……僕が頼りないから」

 鼻で嗤われる。同意というよりは、呆れているようだった。これも違う。

「僕を守る……ため?」

「…………」

「弟のままだと、僕がその……ウジウジして煩わしいから」

 重たい溜息が返ってくる。これも違う。どうして。どうして辿り着けないんだ。ヒントに繋がる事柄にはちゃんと触れてきているはずなのに。

「……何で分かんねえんだよ」

「……っ」

 失望。落胆。軽蔑。漂う感情に返す言葉もない。僕はまた応えることが出来なかった。

「お前は俺なのに。俺でいられるぐらい俺なのに」

 まさにその通りだ。奏人に成り切ることで、奏人のすべてを知ったような気になっていたんだ。痛感する。自惚うぬぼれも甚だしい。

 両手を握り締めて、顔を俯かせた――つもりだった。正面を向いている。目の前には奏人の顔。黒いビー玉みたいな瞳に、僕のほうけた顔が映り込んでいる。

「ッ!? えっ……?」

 眼鏡を取られる。どうして。困惑している間に放り投げられた。

「ちょっ、何すっ――んぅ」

 何かが口にあたった。温かくて。やわらかい。少し湿ってる。

「はっ……ん……?」

 音が鳴った。僕の唇から。鈍く痺れる。また鳴った。僕は何もしていないのに。

 ――吸われてる?

「んっ……?」

 吸われて、食まれて、また吸われて。奏人の吐息が僕の頬を撫でた。

「……んんッ!?」

 キスだ。それも唇に。

「何っ、やぅ……んぅぅっ!!」

 これはたぶん当てつけだ。さっきの会話で東雲さんの名前も出したから。

「んんッ!! はっ! やっ、奏人――んンッ!」

 奏人の手が頭の後ろに回った。顎を掴む手にも力が籠る。骨が軋んだ。キスは――止みそうにない。止めないと。互いにきっと後悔することになる。「ごめん」内心で一言謝って、右足を持ち上げた。

「っ!? ~~っ」

 力の限り奏人の左足を踏みつけた。効いたみたいだ。奏人の身体が離れていく。背を丸めてしゃがみ込んだ。

「ハァ……ハァ……」

 唇をジャージの袖で拭う。乾いたけど熱はまるで冷めない。繰り返されていく。奏人の唇、キスの記憶が。内側から爪を立てられてるみたいだ。僕は首を左右に振って奏人を見る。

 目はまるで合わない。奏人は依然、顔を俯かせたままだ。加減しなかった。もしかしたら腫れているのかもしれない。

「ごめん。救急箱取って――がはっ!!??」

 一瞬意識が飛びかけた――と思ったら、背中に凄まじい痛みが走った。床に転がってる。もだえる間もなく奏人が覆い被さってきた。

「かっ、奏人! もうこんなこと……は……っ」

 言葉を失った。あの目があったから。暗くて底の見えないあの目が。

「んっ、んん!」

 唇が交わる。身体をよじってもビクともしない。し掛かられて、首もホールドされてしまった。頭がぼーっとする。

「っ……!!!」

 硬い。どうして? 何で……?

「はっ……! ゲホッ、ゲホ……っ!」

 不意に解放された。みっともなくむせ返る。流れ込んできた空気を受け止めきれなくて。

「はぁッ、はァ……うっ……ぁ……!」

 奏人の舌が首筋を這っていく。熱く、しっとりとしている。でも、離れると直ぐに冷たくなって。

「だっ、ダメ! 僕、汗……!!」

 ジャージのファスナーが下ろされる。深緑色のジャージが左右に割れて、白いTシャツが露わになった。

「っ! あっ……」

 Tシャツの中に奏人の手が入ってきた。薄くて骨ばった硬い手だ。腹筋や胸の辺りを撫で回していく。

「っ! ぁ……っ、そんな……とこ……っ」

 右側の乳首を摘ままれた。芯を持っていく。吸うつもりなのか。――居た堪れない。止めないと。奏人もきっと後悔する。

「かな――あっ! ぐぅ……っ!?」

 首を噛まれた。いや、吸われてる。理解した瞬間、血の気が引いた。

「だっ、ダメ!!!」

「暴れんなよ。綺麗に付かないだろ」

「やっ、ヤダ!!!!」

 肌がチリチリと痛む。熱い。条件反射か、目尻から涙が零れた。

「ヤダッ! やめて! ~~っ、やっ……」

「……付いた……」

「っ!!!」

 奏人は僕の目を見て嗤うと、首筋にそっと口付けた。顎の下、右側の外側の辺りだ。

 何も、考えられない。真っ暗だ。墜ちていく。掴まないと。何か、何か――。

「お前は俺の――」

「~~っ、こんなのおかしいよ!!!!!!!!」

 奏人の動きがぴたりと止まった。

「…………………………おかしい? ……おかしいだ……?」

 奏人の声が止む。

「………………?」

 雫が落ちてきた。上から止めどなく。

「あっ! ……あっ……」

 あの日の光景がフラッシュバッグする。幼い日の奏人の姿が。大粒の涙を流す奏人の姿が。

「……~~っ、分かってんだよ! ンなことは……ッ!!!!!」

「~~っ」

 僕はとんでもない間違いを犯してしまった。謝らないと。今すぐに。思うのに何も言えない。早く。早くしないと。

「まっ……、~~っ……まっ……っ、……~~っ」

 奏人が離れていく。遠のく背中。扉が閉まる。僕は床に転がったまま、伸ばした手を握り締めた。

 奏人はとうに実践していたんだ。僕を信じて示し続けてくれていた。4年もの間ずっと。だったんだ。

 にもかかわらず僕はその気持ちを汲むことなく、あまつさえ傷つけた。何度も。何度も。

 信じられるはずがない。奏人の疑いの根拠、その最たる存在こそが僕だったんだ。

『何で分かんねえんだよ。お前は俺なのに。俺でいられるぐらい俺なのに』

 唇を噛み締める。血が滲んだけど構わなかった。寝返りをうって、膝を折る。戻らない時。後悔に浸るうちに暗闇に包まれていく。

 償うんだ。この罪を。立ち上がって奏人の部屋の扉をノックする。満たすんだ。奏人の心も体も。分かってる。分かってるのに、脚に力が入らない。

「……っ」

 性欲は僕には曖昧あいまいで、おぼろ気で。けど、奏人にはちゃんとあった。特別なことじゃない。あって当然なんだ。人だって生き物なんだから。

 ――僕だけが不完全。改めて思う。どうしてこうも遠いんだろう。

「……僕さえいなければ……」

 奥歯を噛み締める。漏れかけた願いを呑み込んで硬い腕の中に顔を埋めた――。


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