消えてくれ

村山ことり

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頼むから消えてくれ

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「これ、俺がいつ好きって言った?」
 夕食が並んだテーブルに着いた夫の目がアスパラガスに注がれていた。
 言ってないけど嫌いとも聞いていない。
 鹿子はガタガタと震えてくる膝を必死で抑えて「ごめんなさい」と謝った。
「え?え?何で謝るの?ただ好きって言った?って聞いただけじゃん」  
 夫がニヤニヤしながらだんだん青ざめていく鹿子の表情を楽しんでいる。
「言ってないと思う・・・」
「だよね?言ってないよね?」
 鹿子は震えながら頷いた。
「じゃあ何で出したの?アスパラガス」
「好きかもしれないと思って・・」
「好きって言ってないのに?」
 そろそろくる、と鹿子はスカートのポケットにそっと手を忍ばせた。
「だからあ!好きって言ってないのに、何で出したの?ねえ!聞こえてる?もしも~し!」
「嫌いとも・・聞いてなかったから」
 いきなり向かいに座る夫が鹿子の髪を鷲掴みして大きく横に振った。
 痩せている鹿子はあっという間に床に放り投げられ、惨めに転がった。
 夫は鹿子に跨り、「そういう屁理屈いってんじゃねーよ!」と怒鳴った。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 鹿子が震えながら泣く。
「ああ言えばこう言う!ほんと、ふざけんなよ!」
 思い切りビンタされて、腹を蹴られた。
 今日はいつまで続くんだろう。
 鹿子の思考はボンヤリしてきた。
 何度も腹を蹴られ、髪を掴まれ振り回されて、壁に叩きつけられた。
 その後は寝室へ引き摺り込まれ、鬼畜の所業が始まるのだ。
 もうこれで終わりにしよう。
 痛みも憎しみも悲しみも怒りも。
 蝋燭の火を吹き消すように一瞬で終わらせられれば上出来だ。
 もし手こずっても、今日こそ、きっと。

 鹿子は夫が悦に入って茶箪笥のガラスに映る自分の姿を確認しているすきに、ポケットからナイフを取り出した。
 必死で夫の足にしがみつき、太ももを思い切り刺した。
「痛ってー!」
 夫が足を抱えて疼くまる。
 鹿子はヨロヨロと立ち上がり、その背中にナイフを突き立てた。
 骨と骨の間に入り込んだナイフが夫の筋肉を破り奥深く侵入していく。
「うがっ!」
 夫が奇妙な声を上げ、熊のように立ち上がると鹿子に突進してきた。
 鹿子は逃げ惑い、台所へ向かった。
 咄嗟に手にしたのはアスパラの皮を剥いたピューラーだった。
 鹿子は迫ってくる夫の顔面をピューラーで削った。
「ヒャアー」
 夫が顔を覆ってまた疼くまる。
 背中にはナイフが刺さったままだ。
 鹿子は悲鳴を上げながら、フライパンで杭を打つようにナイフを何度も叩いた。
 ナイフはドンドン夫の背中にめりこみ、柄の部分のみが飛び出ていた。
 夫はその場でうつ伏せに倒れた。太ももと顔からは血が吹き出ている。
 ダラダラと床に広がる赤い水溜まりが鹿子の両足を濡らしていく。

 終わった。
 これで全てから解放される。
 痛みも、苦しみも、そして自分の未来からも。
 鹿子はこんな男のために捕まるのは嫌だった。
 刑務所に入るということは、罪を償うということだ。
 こんな男を殺したことで誰に償うというのだ。
 償いとは自分が犯した罪について深く反省し、傷つけた相手に謝罪することだ。
 謝罪?
 こんなやつに謝る?
 鹿子は馬鹿馬鹿しくなってその場で笑った。
 気が触れたのではない。
 頭はしっかりしていたし、物事の道理も理解している。
 その上で笑ったのだ。
 こんな男、地獄だって出禁になるぐらいの鬼畜だ。
 地獄よりもっと深い残酷極まりない闇の底へ堕ちるがいい。
 鹿子はふと風呂に入ろうと思った。
 考えてみれば、今まで一度たりとものんびり風呂に入ったことがなかった。
 いつでも途中で夫が乱入してきて、難癖をつけては浴槽に顔を沈められ、意識を失ったことは数えきれない。
 ゆっくり湯船に浸かろう。
 そして鬼畜に汚された体を清めなくては。
 鹿子はその場で服を脱ぎ、全裸のまま、絶命した夫を見下ろした。
 血がべったりとついた足で夫の体を突いた。
 殺しても殺し足りないとはこのことだったのか、と鹿子は思った。
 風呂へ向かおうと鹿子が夫に背を向けた時、うめき声が聞こえた。
「うぐ・・」
 まさか、まだ生きていたとは。
 鹿子は振り返り、その光景に絶望した。

「あの・・・すみません」
 夫がおどおどと声を出した。
「ええと、その」
 夫が鹿子からわずかに視線を逸らしている。
 見慣れたはずの傷だらけの鹿子の体から目の前の夫が目を背けている。
 しかも、やけに照れた感じだし、顔が赤い。
 いや、赤いのは当たり前だ。
 鹿子がピューラーで剥いてやったのだから。
 でもなんだか変だ。
 当たり前だが、妻に殺されかけたのだから、もっと逆上するか、取引きするか、警察に電話するか、何か行動に出るはずなのに、目の前の夫は何もしない。
 ただ恥じらって目を泳がせている。
「し、死ねよ」
 鹿子が小声で言った。
「え?何で同じこと言うの?」
 夫がやけに脆弱そうに聞き返した。
 同じこと?
 夫に死ねよ、と口にしたのは今が初めてだ。
 夫は狂っている。
「だ、だってあなたが・・」
「僕が何をしたって言うの?」
「もしかして、あなた、記憶喪失に?」
「そんなことないよ。記憶は鮮明。さっき彼女に殺されたこともちゃんと覚えているし」
「は?彼女に殺された・・って。彼女って私のこと?」
「違うよ。もっと若くてもっとその・・巨乳で」
 鹿子は慌てて胸を手で隠す。
「誰よ、もっと若くて巨乳の彼女って」
「誰って、だから僕の彼女ですよ」
「じゃあ何でその彼女に」
「何で?って聞かれても僕にはサッパリで」
 夫はきっと、肉体だけでなく脳の神経まで破壊されて、正常な思考ができなくなっているのだ。
 ああ、せっかく殺せたと思ったのに、と鹿子は再び武器となるものを探し始めた。
「ねえ、あの、すみませんが、あなたはいったいどなたですか?しかも全裸で・・って僕たちもしかしてその・・そういうことをする仲とか・・。あ、だから彼女は怒って僕を殺したんだ」
「あの、あなた、生きてますよね?」
「いや、死んだよ、確かに」
「でも、生きてる。動いてるし話してる」
「言われてみればそうだね。でも、ほらこんなに血が出てる」
「それは私が刺したから」
「ええ!僕、あなたにも殺されたの?なんで?悪いことなんて何もしてないのに」
「したでしょ。し尽くしたでしょ」
「いやいや、それはない」
 鹿子はだんだん緊張が取れていき、なんだか全身が弛緩してきた。
 これは悪い夢だ。
 夫を殺した夢を見たけど、現実はそんなに甘くはないよ、と神様に悟られているんだ。
 悪いヤツでも殺したらこっちの負け。
 そう言いたいんだろう。
 でも、夢なら是非覚めないでほしい。
 こんな感じの夫なら、一緒にいられるかもしれない。
 まだ夢の続きを見るとするか。

「とにかく、ちゃんと説明してよ」
 鹿子は服に着替えてソファに座った。
 一応夫にも勧めると、すみませんと殊勝に言ってから夫も座った。
「じゃあ、あなたは彼女に殺されて、気づいたら知らない家にいた、ってこと?」
「そういうことですね」
「じゃあ、夫・・その肉体の持ち主はどこへ行ったっていうの?」
「それはやっぱり死んだんだから魂は天国か地獄へ行ったんじゃないんですか?」
「地獄よ」
「なら地獄ですよ。そこしか行き場がないでしょ」
「じゃあ何であんたはここにいるの?それこそ地獄へ堕ちなさいよ」
「ち、ちょっと待ってよ。さっきも言ったけど僕は何も悪いことなんてしてないんですよ」
「だったらさっさと天国へ行きなさいよ」

 そこへチャイムが鳴った。
 そして鍵が開く。
 え?なぜ?鍵は閉めたはずなのに。
 そろりそろりと入ってきたのは若い巨乳の女だった。
 彼女は私を見て絶句し、その後夫を見て「まあくん!?」と叫んだ。
 夫はキョトンとしながらも、彼女に詰め寄った。
「どうしてこんなことしてくれたんだ」
「ちょ、ちょっとまあくん、どうしちゃったの?今日奥さんを殺すって言ったでしょ?なのに、生きてるじゃん」
 巨乳女が鹿子を睨んだ。
「そりゃ生きてるわよ!こっちがやってやったんだから」
「まあくん!大丈夫?血だらけじゃない」
「あんた、夫の不倫相手?」
「ふ、不倫?リコちゃん、不倫って、そんな」
 は?鹿子は唖然とし、訳の分からない状況を理解しようと懸命に目を見開いた。
「何とボケてるのよ!私たち愛し合ってたじゃない!」
「愛し合ってた?そんな馬鹿な」
「ひどい!まあくんたら騙したのね」
「それはこっちのセリフだよ。よくも僕を殺してくれたな!」
 夫は巨乳のリコちゃんをぶっ飛ばした。
「ひどい!ひどすぎる!」
 巨乳のリコちゃんは泣いたが、ひどいのは誰だよ、と鹿子はもう呆れて物も言えなかった。
「よくも僕をこんな目に遭わせてくれたな」

 夫はゾンビのような顔でリコちゃんに迫ったからリコちゃんは恐怖のあまりその場で心不全を起こして死んでしまった。

 鹿子と夫は呆然としたが、正義は勝つんだな、と2人して笑った。


 そこからあまり離れていない民家で、か弱い妻が夫から暴力を振るわれていた。
「くそ!何で死なないんだ!」
 殴られ続ける妻は叫んだ。
「何で俺が知らねえオッサンに殴られてんだよ!勘弁してくれよ!なあ、ここはどこだよ!」

 この世からDVがなくなる日が訪れますように。
 そして、鬼畜たちよ、揃って地獄へ堕ちろ。


 
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