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【9】
しおりを挟む扉を開け放ったアルフォンス様は、すぐさま部屋を見渡し、寝台の上に私を見つけた。
視線が合うと、何故だろう、少しほっとしたような表情を浮かべる。
そして、そのままつかつかと、こちらへと近寄ってきた。
手を放された扉が再びバタンと音を立てて閉まり、そこで私もハッと我に返ると、寝台の上で改めて居住まいを正した。
「…よかった」
寝台の上に正座した私の目の前に立って、アルフォンス様が、やおらそんな呟きを洩らす。
そして突然、その場で床に膝を突いた。――それはまるで、そのまま頭でも下げようかという姿勢で。
「えっ!? ちょっと、アルフォンス様、何をっ……!!?」
あまりに突然のことで驚き、慌てて身を乗り出さんとする私の手が、そこでやんわりと大きな掌に包み込まれる。
「え……? アル、様……?」
まさに布団の上に自分の手が縫い止められたみたいで、私はそれ以上、動けなくなった。
そんな私を下から見上げるようにして、アルフォンス様が見つめてくる。
思わずどくっと、心臓が、高鳴った。
「こんなに自分が身勝手だったと、痛感したことはないよ。――君を傷つけておいて……それでも、こうやって拒絶されなかったことが嬉しいだなんて思ってる」
「アル様……」
「何も話さず、君を振り回して傷つけてしまった。まず、そのことを謝罪したい」
「そんな、謝罪だなんて……」
アルフォンス様は何も悪くないです――と、続けようとしたはずの言葉が、何故か出てこなかった。
ふいに、さきほど言われたエイスさんの言葉が、頭を過ぎったから。
『――しっかりアルフォンス様と向き合ってみるべきだ。そんで聞け、アルフォンス様がどうしたいのかを、ちゃんと。そのうえで、がっつり腹割って話せ、自分がどうしたいのかを』
「…謝罪をいただくより、話をしたいです」
気が付いたら、そんな言葉を出していた。
出してしまって初めて、ああ今しがた私は自分を取り繕った言葉を言おうとしていたんだな、ということに思い当たる。
「アル様が、どういうつもりで、私をあんな場に連れ出したのか……ちゃんと、私にもわかるように、教えて欲しい……」
自然と出てきたその言葉が、今度こそ私の本音なのだと解った。
なのに、知らず知らず、その言葉が涙で覆われてゆく。
泣くつもりも泣きたい気持ちも全く無かったのに……いつの間にか頬から滴っていた熱い雫に、我がことながら驚いていた。
「じゃないと私も、自分がどうしたいのかが、わからないの……」
「――うん……そうだね、すまなかった」
温かい指が優しく頬に触れて、流れる涙を拭ってくれる。
「話をしよう。――君が納得できるまで、僕の話を、聞いて欲しい」
肯いた私に微かな笑みを返してくれたアルフォンス様は、「隣に座ってもいいかな?」と律儀にも訊いてくれてから、ゆっくりと立ち上がると寝台に腰を下ろした。
より近くなった距離で、自然と私たちは見つめ合う。
さきほどと変わらず布団の上で重なり合う手のぬくもりが、私にアルフォンス様を見つめ続ける勇気を与えてくれるように感じられた。
「――そういえば……」
ふと思い出して尋ねてしまう。
「夜会の方は? こんなに早く抜けてしまって、大丈夫なのですか?」
「…こんな時にまで、真っ先に人の心配?」
少しだけ表情を歪めて、アルフォンス様は苦笑らしき笑みを零す。
「大丈夫だよ。来る客を迎えるところまではちゃんと居たから、ファランドルフ家の人間としての義理は果たした。後は僕なんか居なくても夜会は勝手に回ってる、問題ない」
「そう…ですか……」
「そもそも、こんな夜会、最初から参加する気もなかった」
「え……?」
その矛盾を孕んだ物言いに、思わず疑問を覚えてしまう。――ならば、私をああやって着飾らせた挙句に連れて行く必要も無かったのでは……?
言葉には出さなかったものの、こちらの表情から、その疑問を覚ってしまったのだろうか。おもむろにアルフォンス様が、「いや、その言い方では正しくないか」と、まるで正しい言葉を探しているかのような素振りで、少しだけ目を伏せた。
「訂正するよ。――正しくは、行くつもりではあったけど、参加する気はなかった、だね」
訂正してもらって、更にわからなくなった。
「つまり僕はね、この夜会にかこつけて、父に目通りを願うつもりだった。それで、こちらの“お願い”を聞いてもらったら、そのまますぐに帰るつもりだったんだ。その場に君もいてくれた方が話も早いと思って、それで一緒に連れて行った。まがりなりにも公爵閣下の前に立つわけだからね、それなりの装いも必要だろうと、君には大変な想いを強いてしまったけど」
「そうだったんですか……」
一応、そこに至った経緯については納得ができた気がする。――だが、まだ解せない。
「アル様の、その“お願い”というのは……? なにか私が関わっていること、なのですか……?」
「いや……あくまで僕の、勝手な願いでしかないよ」
少しだけ不安を覚えた心を支えてくれるかのように、少しだけ微笑み、アルフォンス様が優しく私を見つめてくれる。
「前々から、何度も願い出てきたことだ。父もそれを覚っているから、改まって目通りを願い出ようとしても、のらりくらりと断られてしまって、こういう夜会とか皆が集まる機会でもなければ顔すら合わせてもらえない。顔を合わせられたところで話を聞いて貰えなかったら意味も無いし、だから君を連れて行こうと考えたんだ。これまで全く女性の気配なんか見せなかった僕が、よりにもよってこの夜会に女性連れで現れれば、さすがに知らん顔は出来ないだろうと踏んでね。――まさか、その前に母が押しかけてくるとは想定外だったけど」
そのボヤきにも似た呟きに、私も目の当たりにした事の顛末を思い出し、思わずクスッとした笑いが零れてしまった。
あの時は、わけもわからないまま、その場を逃げ出そうとするだけで一杯一杯だったけど……こう改まって事の次第を聞いてみれば、可笑しくて笑いがこみあげてくる。
「笑いごとじゃないよ。おかげで君には逃げられるし――勿論、すぐにでも君を追いかけていきたかったよ。なのにアレクから『少し頭を冷やせ』とか言われて引き留められるし、挙句、母には『あんなに怯えさせるなんて一体どんなプロポーズをしたの!?』なんて謂われのないことで怒られるし、そうこうしているうちに、そろそろ客が来る時間になるからって、ばたばたし始めて……こっちは踏んだり蹴ったりだ」
「そ…それは、ごめんなさい……」
「本当に……離れていた間、ずっと君のことを考えて気が気じゃなかった。やっとの思いで客を迎え終えて身体が空いて、すぐさま屋敷に戻ってみれば、居ると思ってた君は居ないし……その時の僕が、どれほど焦ったか、君に、わかる?」
――少しだけ、わかるような気もする。
さきほど扉を開けたアルフォンス様の姿を思い出した。ああやって階段を駆け上がる大きな足音と、おまけに息まで切らせていて……そんな、よほど急いでいたのだろうと窺えるご様子には、終始ゆったりとした動作でいらっしゃる普段のアルフォンス様らしからぬ焦りが、そこに見て取れるようだった。おまけに身に纏っている服は、ああやって別れた時のままの、夜会用のそれ。それこそ着替える時間も惜しんで、ここまで駆け付けてくださったのだろう。
「また一人でふらふら歩いているんじゃないかと、ここに来るまでずっとはらはらし通しで、こうやってちゃんと無事に帰宅してくれていたからよかったものの……そうでなければ、僕は一生の後悔を負うところだった」
「そんな、大袈裟な……」
「ちっとも大袈裟なことなんかじゃないよ。――それほどに、君の存在は大きいんだ、って……僕は、それすら君に伝えそびれていたんだね……」
そこで言葉を切ったアルフォンス様が、ほんのひととき、目を閉じる。
次に瞼を上げたその瞳は、何か決意を宿したような光を湛えて、真っ直ぐに私を映していた。
「今日、僕は父に、爵位の返戻を願い出るつもりだった」
「――――!!?」
ふいにもたらされた思いもよらぬその言葉に、思わず私は息を飲む。
爵位を返戻する――つまり、アルフォンス様が伯爵サマではなくなる、ということ……?
「もともと今の爵位は、僕自身が自力で得たものじゃない、父から引き継がされたものだ。あればあったで便利だろう、程度の親心でね。でも僕にとっては、爵位なんて不要なものでしかなかったし、そもそも興味すらなかった。自分が伯爵位を得たと、知らされた時には既に全ての手続きが済んでしまっていて、もう僕にはどうすることも出来なかったから、返戻を申し出た。しかし、聞き入れてもらえず……それを何度も繰り返しながら今に至る、というワケでさ」
私は何の言葉も差し挟むことが出来ず、ただその話を聞いていた。
アルフォンス様の表情を、その瞳を、覗き込むように見つめているしか、出来なかった。
「確かにね……便利なことは、あったよ? 仕事でも、爵位のおかげで利となることも増えたしね。だけど、ずっと気が引ける想いが付き纏っていた。そもそも僕は、そんな待遇を得られる身分じゃないのに、と」
そこで一つ、息を吐く。
そして決意を籠めたように絞り出された告白は、私を更に絶句させた。
「僕は、ファランドルフ家の養子だからね―――」
「…………!!?」
これでもかというほど目を見開いて固まった、そんな私を覗き込んで面白そうに「気付かなかった?」と、アルフォンス様が苦笑の形に表情を歪める。
「前にも話したことがあったよね。僕は、家族の誰とも似ていない、って。それに……僕とアレク、幾つ歳の差があると思う?」
「え……?」
訊かれて初めて、あれ? と思った。――考えたこともなかったけど……言われてみれば、お二人は同年代にしか見えない。ともすれば、その言動から、アルフォンス様の方が年下なんじゃ? とまで思えるくらいで。
「そう、わからないのが正解だよ。僕とアレクは同い年だ。僕が先に生まれたとはいえ、ひと月しか誕生日も離れていない。――これが実の兄弟なハズ、ないだろう?」
「…………」
「これでも一応、ファランドルフの血を引いてはいるらしいけどね。でも直系じゃない。実の父親は……公爵である養父とは従兄弟同士の関係、に当たるのかな? 興味も無いからよく覚えていないけど、そういう近くて遠い間柄だったことは確かだよ。そして実の母親が、公爵夫人である養母とは親友同士で、まさに姉妹同然の仲だったと聞いている。その縁があったからこそ、僕はファランドルフ本家に引き取ってもらえることになった」
淡々と語られる告白に、何故か言いようの無い苦しみにも似た感情が流れ込んでくる、そんなふうに感じられて……思わず私は、重ねられていた大きな手を、自分の手で握り直していた。
無意識に、なのだろうか、その手が更に強く握り返されてきた、そのぬくもりに、少しだけ安心を覚える。
「聞いた話によると、僕の実父は、とても酷い男だったらしくてね。ロクに職務も果たさず、遊興に溺れ、挙句、酒に酔っては暴れ、妻にまで暴力を振るい……母は、それでも何とか我慢はしていたそうだよ。けれど、とうとう自分のみならず子供にまで手を上げられそうになったことで、さすがに耐え切れなくなった。そして母は、まだ幼い僕を連れて父のもとから逃げ出し、その足で救済院へと駆け込んだ。救済院は、そういう不遇な女の駆け込み所ともなっていると、どこかで母も知ったんだろうね。そこに逃げ込むことさえ出来れば、たとえ誰が連れ戻しに来たとしても、その門扉が開かれることはない。と同時に、それは母の、身一つからやり直したいと貴族である身分ごと全てを捨てようとした、きっぱりした決意の表れでもあったと思うよ。だから僕は、物心ついた頃には既に、孤児院で生活していた。おそらくだけど、まだ幼かった僕がいたから、母には孤児院での仕事を割り振ってもらえたんだろうと思う。働く母の傍らで過ごすことが出来、困ることのない程度の衣食住もあり、適度な学びも得られたうえに、多くの同朋にも囲まれて、それなりに幸せな生活を送っていたと思うよ」
話を聞きながら、私は幼い頃のアルフォンス様を想像した。
今だって綺麗な人だもの、きっと子供の頃だって、それはそれは可愛らしかったことだろう。自分の知る孤児院の庭を思い浮かべ、そこを元気に走り回る子供たちの姿に、幼いアルフォンス様を重ねる。
「その生活は母が亡くなるまで続いた。転機となったのは、その時だろう。突然、僕に迎えが来た。――いや、『迎え』というのは語弊があるか。正しくは、僕を引き取りたいという人間が孤児院に現れた、だね。それが養父母――現在の僕の両親だ。二人はね、ずっと前から母と僕がその孤児院に居ることを突き止めていた。突き止めてからすぐ、一度だけ母に会いに来たとも言っていた。だが母が、一緒に戻ろうという誘いを断り、ここで子供と共に静かに生活していきたいのだと、そう二人へ伝えたそうだ。それで母の希望を尊重して、二人は手を引いてくれた。だが、その母も亡くなり、庇護者を失った僕のことまでは、どうしても放ってはおけなかったらしい。それで僕を迎えに来てくれた。母は僕に何も話してくれなかったから、その時はじめて、自分が貴族の出であったことを知らされた。実父が既に亡くなっているということも」
咄嗟に、握った手に力を籠めてしまう。
そんな私に気付いたのか、アルフォンス様が軽く微笑み、その手で五本の指同士を絡めて、掌同士のぬくもりがより感じられるような形に繋ぎ直した。――まさに、何も心配することなどないのだと、言ってくれているかのように。
「その時、僕は十二歳になっていてね、そろそろ自分の身の振り方を真剣に考えなければならない年頃に差し掛かっていた。孤児院には、長くとも十五歳までしか居られない。孤児院内での職を得られれば別だけど、そうでなければ、ほかに何らかの仕事を見つけて出ていくか、もしくは神殿に入って神官になるか、二つに一つだ。その頃の僕は、できることなら、どちらの道も選びたくはないと思っていた。とにかく本を読むことが好きでね、もっと勉強がしたかったんだ。だから、好きなだけ本を読んでいいと言ってくれた養父母の誘いに、二つ返事で快諾した。その時から、僕はファランドルフ本家の子供になった」
「そんなことが…あったんですね……」
「うん。ファランドルフ公爵家に引き取られるなんて、我ながら、とんだ幸運を掴んだものだと思うよ。ぽっと入ってきた僕なんかにも、家族の皆が優しくしてくれたし、好きなだけ勉強もさせてもらえた。わざわざ家庭教師まで付けてもらえて、大学に進むことまで許してもらえた。おかげで望んだ仕事にも就けたし、独立しての生活も出来ているし、おまけに爵位まで与えてもらって、正式にファランドルフの名を名乗ることまで許された。――これを幸運と言わなかったら、ほかに何と呼べばいいんだろうね……」
「アル様……」
「わかっているんだ、誰に言われなくても、僕は幸せだってことくらい。でもね……僕は、どこまでも貴族にはなりきれない。ずっと市井で育ってきて、平民だと信じて疑わずに生きてきた、それなりに幸せだったあの十二歳までの自分を、僕は決して捨てることなど出来ない。――捨てることができないからこそ……だから君に惹かれたんだろうな……」
「え……?」
繋いだ手に、ふいに痛いくらいの力が籠もった。
触れ合うぬくもりが熱を帯びて……知らず知らず、心臓の鼓動が早くなる。
「初めてこの店に来た時、出されたスープの味に、どこか懐かしさを感じた。それがどうしても引っかかって、二度目に店を訪れたら、今度は君がスープを出してくれた。君の作ったそのスープを味わった時、ようやくこれだったのかとわかった。僕は、君の作る料理に、実母と共に孤児院で生活していた頃を思い出していたんだ。母の作ったスープの味と、それなりに幸せだった、あの頃の記憶を……」
どうしよう、頬が熱い。
重なる手の熱いほどのぬくもりと、こちらを見つめるアルフォンス様の熱を帯びた視線が、どうにも私を落ち着かない気分にさせる。
「最初はね……覚えていた味に似ている、ただそれだけのことだと思ってた。自分は、ただ君の作る料理を求めているのだとばかり思っていたんだ。でも、それは違うと気付かされたのは、君がキッシュを作って持ってきてくれた時だよ。あのあと君が帰ってから、一人になって置いていってくれたキッシュの残りを食べていて……何か違うな、と、そこでフと気が付いた。君と一緒に食べていた時と、なんだか味が違う、って。違うはずもないのに……だからこそ、これが一人で食事をする淋しさというものなのだと、それがわかってしまったんだ。君と、君の家族と、賑やかに食卓を囲んでいた日々が、いつの間にか一人に慣れきってしまっていた僕に、団欒のぬくもりというものを思い出させてくれたのかもしれない。一人の食事を淋しいと感じたと同時、君が隣に居ないことが淋しい、とも感じてしまった。君が作ってくれた料理はもちろん欲しいけど、でも自分が本当に欲しかったのはそれじゃなかったんだ、って。どんなに美味しい料理を味わったところで、君が一緒にいなくては意味がないんだ、って……否応も無く、気付かされたよ」
「アル様……」
「僕がいちばん欲しいのは、君、だったんだ、って……」
おもむろに重ねられた手を取られ、その甲に口付られた。
「君が好きだ、ローザ。僕と、一緒になってほしい。――これからの人生を…僕と共に、歩んでほしい」
あまりに唐突なまでの告白に、私は真っ赤になったまま言葉を返せない。
空いている片手で、そんな私の頬に触れ、それこそ耳元から囁くような近くから、なおもアルフォンス様が言葉を続ける。
「君を、他のどんな男にも渡したくないんだ。君が幼馴染みに連れ去られそうになったと報告を受けて、そこで初めて、もう時間はないと焦りを覚えたよ。こんなにも魅力的な君だからね、今すぐにでも捕まえておかないと、すぐに誰かに攫われてしまう」
「アル様、口がお上手すぎです……」
「僕は本心しか口にしないよ。こと君の前では、嘘なんかで取り繕ったりしない、と……これも何度言ったら、君は解ってくれるのかな」
「…………」
「君が、身分差を気にしていることはわかってる――というか、今日あんなことがあって、ようやく理解させられた。あんなこと言わなければよかったと、ものすごく後悔したよ。初めて会った日、僕があんなことを言わなければ、あの場で君にあんな選択肢を選ばせてしまうこともなかった。そんなにも君が、僕との間に身分の隔たりを感じていたということに、ああ言われて初めて気付かされたよ。情けないが、あまりに僕の認識が甘かった、うえに言葉まで足りていなかった、その所為で君を傷つけてしまったことは、本当に申し訳ないと思っている。そんな僕が、こんなこと言える立場じゃないことは重々承知の上だけど……たとえ自分が傷付くことになってさえ、そんなにまでして僕を気遣ってくれた君の心が、とても嬉しかった。なおさら、手放すことなんて出来ないと、改めて惚れ直した」
「…………」
「僕はね、伯爵位なんて、そもそも要らないんだ。君と共に在ることの障害となるなら、そんなもの、喜んで捨てるよ。さすがに出自までは如何ともし難いけど、それでも君と居るためになら、僕は何を捨てることだって厭わない。君のためになら、何だって出来る。――お願いだから……どうか、こんな僕を受け入れて欲しい」
「…………」
無言のまま、おもむろに繋がれた手を自分のもとへと引き寄せる。
そして、アルフォンス様の手の甲に、私からキスを返した。
「――もっと…いっぱい、話をしましょう? 私、もっと知りたいです、アル様のこと……それに私のことも、知って欲しい……」
「ローザ……」
「まずはお互いのことを知って、それから一緒に探しましょう? ――二人で一緒になるためには、どうすることが最善なのか」
少しだけ瞠られた瞳を、私も見つめ返しながら。
自然と浮かんできた笑顔で、私は告げる。
「私も、アル様のことが好きだから……これからもずっと、一緒に居たい」
「そうだね……一緒に探そう、二人で共に在るための最善の方法を」
お互いの視線が絡まり、ひととき無言で見つめ合って。
やがて、どちらからともなく唇が合わさる。
初めてのキスは、びっくりするほどあたたかくて……涙が出るくらい、優しかった―――。
それからしばらく、私たちは時間を忘れて語らい合った。お互いの隔たりを埋めようとするみたいに。
でも、やはり時間というものは限りがあるもので。
ふいに聞こえてきた扉を叩くノックの音に、私たちは同時に口を噤む。
「――アルフォンス、そろそろ時間だ」
扉の向こう側から聞こえてきたのは、低くて落ち着いたアレクさんの声。――同時にチッと、アルフォンス様が小さく舌打ちを洩らす。
「残念だけど、もう行かなくちゃ。――実は、両親に呼ばれてるんだ。話があるから夜会が終わる前までに戻れとね。きっと、ついでに客の見送りもさせられるんだろうな……面倒くさいったらないよ」
タメ息交じりに言いながら億劫そうに立ち上がったアルフォンス様に続いて、「そこまでお見送りします」と私も立ち上がる。
扉を開けると、アルフォンス様と一緒に立っていた私の姿に、その場にいたアレクさんが驚いたように軽く目を瞠ったのがわかった。
だが、次にはもう「行くぞ」と、何事も無かったかのように踵を返し、階段を降り始める。
その後に続いて階段を降りようとしたところ、その真下、階上を見上げるように立っていたエイスさんとクロウさんの姿に気付いた。――お二人とも、ずっとここで待っていてくれたのだろうか。
階段を降りきってから足を止め、お二人に向かって「ご心配おかけしました」と頭を下げると、示し合わせたように揃って苦笑を浮かべ、そしてエイスさんが、無言のまま頭をぽんっと軽く叩いてくれた。まるで『気にするな』とでも言ってくれているかのように。
そこで改めて、晩の営業時間を過ぎているというのに、思いのほか周囲が静かなことに気が付く。
もしかして…と思って覗いてみたら案の定、店内にはお客さんが誰一人として居ない。どころか、お客さんの代わりに家族が全員集合していた。店に立つ姉二人と厨房担当の義兄はもとより、営業時間中は子守で引っ込んでいるはずの母までも。
「ひょっとして……お店、開けてないの?」
「まあ…店の外にお貴族サマの馬車が停まってちゃあ、開けたところで誰も寄り付きやしないだろうしね」
殊更おどけたように言って苦笑を浮かべてみせた長姉の言葉に、思っていた以上に家族に心配をかけていたことに、そこで気付いた。
――確かに……私も落ち込んでるのを隠せていなかったし、そのうえ、ああやってアルフォンス様が血相変えて駆け込んできちゃったら、何かあったのかと考えるのが普通だよね……。
家族にも……エイスさん、クロウさん、アレクさん、ここに居る人みんなに、余計な心配をかけていたことに改めて恥じ入り、「ごめんなさい」と、自然に頭が下がった。
「元を質せば私の所為だよね……ホントごめんね、今日の売り上げ……」
「なに言ってんの。あんたの所為じゃないから気にしなさんな。それに、これからちゃんと店は開けるから、稼ぎの方も大丈夫よ」
「そうはいっても……」
「――どうやら、ずいぶんと迷惑をかけてしまったようだね」
そこで、ふいに口を挟んだアルフォンス様が、「すまない」と、そう言って頭を下げた。
「元はと言えば、彼女を振り回した挙句、営業前の忙しい時間に押しかけたこちらに非がある話だ。出してしまった損失の分は僕が補填するよ。本当に申し訳なかった」
「い…いいえ、いいえ! とりたてて何事も無かったんですし、そこまでしていただくわけにはまいりません……」
「それと迷惑ついでに、もうひとつ、聞いてもらいたいこともあるから」
「え……?」
そして、改まったように椅子に座る母の方へと視線を向け、身体ごと向き直った。
「お母上に、折り入ってお願いしたいことが」
「はい……? ――何でしょうか?」
訝しそうな表情ではあったが、それでもアルフォンス様の真剣な様子は感じられたようで、小首を傾げつつも座っていた椅子から立ち上がる。
そんな母に真っ直ぐな視線を送り、あくまでも淡々とした様子を崩さず、そして言った。
「お嬢さんとの、結婚を前提とした付き合いを、お許しいただきたい」
「――は……?」
咄嗟に私も、それを告げたアルフォンス様の隣に、急いで駆け寄る。
まるで何を言われたのかわからない、と言わんばかりの表情でいる母の前に立ち、「私からもお願いします」と頭を下げた。
「結婚、って、何をいきなり……! ローザ、あなた何を言っているのか、わかってるの?」
「わかってるよ。アル様のご身分を考えれば許されるはずもない、ってことは、重々承知のうえだけど……でも、どうしても私は、アル様がいいの。今はまだ、どうしたらいいのか、わからないけど……」
「どうするべきかは、これからお互いでよく話し合って決めていこうと考えています」
言いよどんだ私の後を引き取るかのように、そうアルフォンス様が続ける。
「彼女を傷つけることになど決してならないよう、お互いにとっての最善の方法を選んでゆきたいと思っています。どうか認めていただけないでしょうか」
しばらくの間、絶句したまま、そんな私たちを交互に見つめていた母ではあったが……おもむろに深々と息を吐いた。
そして、もはや諦めたかのような表情になって微笑むと、「好きになさい」と、言ってくれた。
「どうせ一度決めたら反対したところで聞かないでしょう? それに、ローザがアルフォンス様に懐いていたことは、見ていてわかっていたつもりだしね、今更よ」
「ヤダなにそれ……! 『今更』って、私そんなこと一度も……」
「ええ、一度も口に出して言ったことは無いわね。でも、あなたわかりやすいもの。すぐに顔と態度に出るんだから。もう家族みんな、とっくにわかってるわよ」
マジでか!? と慌てて周囲を見渡すと、したり顔の姉二人と義兄が、これみよがしにうんうん首を振って頷いている。――なんだそれ……なんて恥ずかしすぎる……! なんだこの公開処刑……!
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「まさかの振られること前提の覚悟!!?」
「当たり前でしょ。あなたと違って、アルフォンス様には全くそんな素振りなんて見えなかったもの。それに、苦労することが目に見えてわかるお方と、娘が結ばれて欲しいだなんて、そんなこと願う母親がどこにいるの」
「そんな言い方しなくても……」
「でもまさか、そのアルフォンス様までがローザを好いてくれていたとはねえ……しかも、それが突然、あろうことか結婚っていう話にまで大きくなっちゃうなんて。本当に、男女の仲というのは、わからないものだわ。――でも母親なら……相手がどんなお方であれ、娘が幸せであることを願うべき、なのでしょう、ね……」
「お母さん……」
「二人とも、もう大人だもの。今さら親が口を挟むことじゃないでしょ。あなたたちの思う道を、好きなようにお行きなさいな」
「うん……ありがとう、ございます……!」
「ですが、これだけは約束してくださいねアルフォンス様。――娘を、日陰者には決してしないと」
「約束します、そんなことは絶対にしない」
力強く答えてくれたアルフォンス様の様子に、満足したようにひとつ頷き、母は改めて私を見つめる。
そして、言った。あたたかく柔らかな微笑みとともに。
「どうか幸せに…おなりなさい、ね―――」
*
それから、一年ほどが経った頃―――。
ここ王都において、詩人の詠う物語が二つ、大流行することとなった。
一つは、『カンザリア英雄譚』。
我が国最南端にあるカンザリア要塞島沖で開かれたユリサナ帝国軍との初戦を詠んだものだ。
そこで我が軍の指揮をとった、今や『カンザリアの英雄』と呼ばれているトゥーリ・アクス騎士が、援軍も無く、あまりにも数少ない軍艦と不充分な武器だけしか無かったにも関わらず、その見事な戦略をもって数で勝るユリサナ艦隊を退けることに成功した、そこに至るまでの彼と我が軍の奮闘ぶりが語られる。
特に子供と男性に大人気を博した、勇壮な軍記物語である。
一方、もうひとつの物語は、おもに女性の支持を集めた恋愛物語だ。
内容としては、下町の食堂で働く一人の平民の少女が、あるとき出会った貴族の男性に料理の味を見初められ、想いを交わし合うようになった二人は身分差をも乗り越え結ばれる、という、どこにでもありそうな御伽話めいたものではあったが。
その主人公の少女を見初めた貴族は、物語の中では公爵と語られ、最終的に少女は公爵夫人として迎えられるという結末となっており、一介の平民が貴族女性の頂点を極めることになるというその筋立てが大いにウケ、こと幸せな結婚を夢見る女性の間で『良縁を掴みたいなら胃袋を掴め』という言葉が合言葉となるほどに人気を博すこととなった。実話をもとにした物語、だというフレコミもあったため、より信憑性をもって伝わったことも、一因として大きかったのかもしれない。
『下町食堂の賄い姫』と呼ばれるこの物語は、今や女性の玉の輿恋愛物語の代名詞である。
――この物語が誰をモデルにしているのかは、言わずもがな。
でも、これだけは声を大にして言っておきたい。――吟遊詩人の詠う物語なんて、かなり盛り盛りですからね! 嘘も満載、ですからね!
はてさて……私たち二人の幸せな結末は、一体どうなっていることやら―――。
【完】
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旧題:完璧すぎる君は一人でも生きていけると婚約破棄されたけど、騎士団長が即日プロポーズに来た上に甘やかしてきます
「君は完璧だ。一人でも生きていける。でも、彼女には私が必要なんだ」
なんだか聞いたことのある台詞だけれど、まさか現実で、しかも貴族社会に生きる人間からそれを聞くことになるとは思ってもいなかった。
彼の言う通り、私ロゼ=リンゼンハイムは『完璧な淑女』などと称されているけれど、それは努力のたまものであって、本質ではない。
私は幼い時に我儘な姉に追い出され、開き直って自然溢れる領地でそれはもうのびのびと、野を駆け山を駆け回っていたのだから。
それが、今度は跡継ぎ教育に嫌気がさした姉が自称病弱設定を作り出し、代わりに私がこの家を継ぐことになったから、王都に移って血反吐を吐くような努力を重ねたのだ。
そして今度は腐れ縁ともいうべき幼馴染みの友人に婚約者を横取りされたわけだけれど、それはまあ別にどうぞ差し上げますよというところなのだが。
ただ。
婚約破棄を告げられたばかりの私をその日訪ねた人が、もう一人いた。
切れ長の紺色の瞳に、長い金髪を一つに束ね、男女問わず目をひく美しい彼は、『微笑みの貴公子』と呼ばれる第二騎士団長のユアン=クラディス様。
彼はいつもとは違う、改まった口調で言った。
「どうか、私と結婚してください」
「お返事は急ぎません。先程リンゼンハイム伯爵には手紙を出させていただきました。許可が得られましたらまた改めさせていただきますが、まずはロゼ嬢に私の気持ちを知っておいていただきたかったのです」
私の戸惑いたるや、婚約破棄を告げられた時の比ではなかった。
彼のことはよく知っている。
彼もまた、私のことをよく知っている。
でも彼は『それ』が私だとは知らない。
まったくの別人に見えているはずなのだから。
なのに、何故私にプロポーズを?
しかもやたらと甘やかそうとしてくるんですけど。
どういうこと?
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「番外編 相変わらずな日常」
いつも攻め込まれてばかりのロゼが居眠り中のユアンを見つけ、この機会に……という話です。
※転載・複写はお断りいたします。
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