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【5】
しおりを挟むポロン、ポロン、と……金属が触れ合う硬質な音が、聞き慣れない異国の旋律を奏でている。
自鳴琴と云うのだそうだ。
発条を回すと自動的に音楽を奏でる仕組みが、その内側に仕込まれているらしい。
私は自室で机に向かい頬杖を突きながら、目の前に置かれた、音楽を奏でるそれを、ただぼんやりと眺めていた。
それを見つけたのは、収穫祭の日だ。
アルフォンス様と露店を眺めて歩いていた時、ふいに近くから聞き慣れない音色の聞き慣れない旋律が聞こえてきて……何の音だろうかと、思わず私は足を止めてしまった。
周囲を見渡せば、その音源は、すぐに見つかった。
『…うわあ、可愛いっ!』
それは、磁器で作られたらしい人形の置物だった。
異国の衣装を身にまとった、まるで人間のような姿にデフォルメされ二本足で立つ猫が、男女二人で寄り添っている。そんなユーモラスな意匠。
そして不思議なことに、その磁器の置物から、件の不思議な音楽が聞こえてくる。
思わず近寄ってそれを覗き込んだら、『イラッシャイマセ』と、おそらく店主なのだろう男性が、奥からそんな声をかけてきた。――とても異国人らしい、カタコトのイントネーション。
『お嬢サン、お目が高いネ。コレ、ワタシの国の王子サマとお姫サマだヨ』
『…猫が?』
『王子サマとお姫サマ、結婚お祝いネ、作られたヨ』
おそらく……この店主さんの国の王子サマのご成婚をお祝いして作られた、と……そういうことなのかな?
『作ったノ、ワタシの国の、有名な人。コレ持ってる、王子サマだけネ』
何やら王室ゆかりの由緒ある品なのだということを伝えたいのだろうが……いかんせん、カタコトだから、あまり伝わってこない。
そもそも、由緒ある品だったとして、私にはそれを買えるだけの手持ちは無いしな。――そもそも、小腹を満たすため以外に買い物する予算なんて持っているハズもない。
そこで、私の背後でずっと黙っていたアルフォンス様が、ふいに口を開いた。
それがまた、やっぱり私には聞いてもサッパリ理解不能な言葉で。――てか、店の雰囲気とかを見るからに、間違いなく東方の国ではなく、おそらくは西方の国のどこかではないかと思うんだけど……だから一体、このひと何ヶ国語とか喋れんの!?
驚いて声も出せない私のことなんか置き去りに、普段どおりのシレッとした顔で店主さんに何事か尋ねていたらしいアルフォンス様が、無表情の中にも“やっと納得できた”といった色を浮かべ、小さく何度も頷いてみせる。
そこから何やかやで、あっという間に売買交渉が纏まったらしく、店主さんの手によって手際よく箱に詰められたその置物が、『ドウゾ』と私の手に渡された。
『あ…あのアル様、これって……』
『ああ、重かった? 持つよ』
『イヤそういうことではなく……!』
『それね、お国の王室御用達の工房で、何代か前の王子のご成婚祝いとして記念に作られたものらしいよ。同じ意匠で作られたのは三点のみで、二つは時の国王と王子当人に献上されて、これは残りの一つ。これを作った工房が潰れて、質草として流れたんだって。そこまで古いものじゃないし、王室の時流も変わったしで、国内じゃ買い手がつかなくてこっちへ売りに持ってきたそうだよ』
『はあ、そうなんですか……イヤだから、そういうことでもなく……』
『どこまで本当の話なのかは保証しかねるけど。でも見た限り、そう出来の悪いものでもないし、気に入ったのなら手元に置いておけば?』
『はあ……―――はア!?』
そんなこんなで、それは私の手元へとやってきた。
その場で即座に固辞はしたが、相変わらずの調子で『だってもう買っちゃったし』などとシレッと言われてしまえば、受け取らざるを得ない。――そして最後まで、お幾らくらいするものなのか、値段は怖くて聞けなかった……お貴族サマの衝動買いとか、想像もつかない分オソロシイこと限りないよ……!
また、置物の中に自鳴琴が仕込まれていること、猫が纏っているのが西方の国の婚礼衣装なのだということ、そのお国では猫が神様の使いとみなされていること、…そういった諸々まで細かく教えてくれたのもアルフォンス様だ。――外国語にも通じているし、ホントこのひと何でも知ってるなあ……。
やっぱりアルフォンス様は、私の知らない世界の人、なんだって……この日、それをはっきりと思い知らされたような気がした。
けれど、“日常”というものは、繰り返されるから日常になるのであって。
その後も相変わらず賄い目当てに通ってくるアルフォンス様のいる生活は、既に私の日常となってしまっていて、それが無くなることなど、もはや考えられる気もしない。
そんな繰り返される日々の中で、少しだけ変わったことといったら……、
まずは、日々アルフォンス様に付き従っているらしい数名の護衛の方の分も、昼食を用意するようになったこと。――護衛の方もお昼ご一緒にどうぞ、って誘ってはみたのだけれど、職務上、どうしても主人と同じものを食べるわけにはいかない、とかで頑なに固辞されてしまい、だからといって、傍に何も食べずに主人の戻りを待っている人が居るとわかっているうえで自分たちだけ食事を楽しむというのも気が引けてしまうし、それで仕方がなく『後で休憩の時にでも食べてもらってください』と、お土産に詰めてアルフォンス様に持って帰ってもらうことにしたのである。
また、心付けとしていただいた髪留めを、アルフォンス様の前でだけ、だけど、付けるようになったこと。――嬉しいと思っているのが少しでも伝わってくれたらいいな、と思ってのことなのだが、それが髪留めなのは、他の腕輪なり首飾りなりだと料理を作るうえで邪魔になってしまうが、髪留めなら邪魔にはならない、というだけの理由だ。
あとは、訂正される前に『アル様』と自然に呼べるようになったこと。
…その程度だろうか。
代わり映えもなく繰り返される日常が、でも、それなりにいとおしい日々だと感じられるようになったのは……きっと、間違いなくアルフォンス様のおかげ、なのだろう。
部屋で一人になると自鳴琴を鳴らし、聞こえてくるメロディと共に自然と思い出されるそのひとの面影を追う。
きっと私の心は、アルフォンス様に惹かれてる―――。
その日は、ウチが孤児院での奉仕活動の当番に当たっていた。
孤児院というのは、神殿の管轄する救済院の一部で、身寄りのない子供を養育する施設であると同時に、近場の庶民の子供たちの学校代わりとなっているところでもある。ゆえに、地域ぐるみで子供らの学び舎を支援しようという気風が高く、近隣住民が当番制を布いて孤児院の運営を手助けしているのだ。
その孤児院は、私も幼い頃に通っていた馴染みのある場所だ。そういうこともあり、忙しい母や姉に代わり、当番にあたって孤児院へと出向くのは、自然と私の役目になった。
だから今日も例に洩れず、普段通り昼食を取った後、手土産を携えて孤児院にお手伝いへと赴いたのだった。
『ローザちゃんが髪留めしてるの珍しいね』
気が付いたのは、そんな指摘を受けたからだ。
我ながらうっかりしていた。アルフォンス様からいただいた髪留めを、付けたままで家を出てきてしまった。
紛失してしまったら悲しいから、と、普段から家の中でしか付けていなかったのに。今日は出がけに急いでいたから、髪留めのことをすっかり忘れてしまったようだ。
『ひょっとして、良い人からの贈り物かな?』
『…そんなんじゃないですよ』
好奇心たっぷりの追及を、そのひとことで躱して私は、子供たちに出すおやつの準備に取り掛かった。
おやつを作り、院内の掃除を手伝い、余った時間を子供たちと遊び、それから私は帰宅の途につく。
季節柄、もうすっかり日が落ちるのも早くなり、気が付けば周囲は黄昏時の闇に包まれていた。自然と私の足も早くなる。
――暗くなる前には帰るつもりだったのにな……。
子供たちと遊んでいると、あっという間に時間が過ぎてしまう。やはり夜道は物騒だし、今度からもう少しくらい時間に気を配ろう、と、急ぎ足を進めながらそんなことを考えていた。
まさに、そんな時だった。
ふいに「おい」という低い声に呼び止められ、と同時に、ぐっと強く腕が掴まれて、引っ張られた。
いま私が歩いていたそこには、ちょうど細い路地が走っており、どうやらその路地にいた人間の手によって腕を引っ張り寄せられたらしい。――と気が付いたのは、その路地の陰に身体ごと引きずり込まれた後だった。
「…突然なんなの、ジャン」
そこにいたのはジャンだった。
「何の用よ? こんな待ち伏せみたいな真似して」
彼は、そこにいたのが彼だと認識するや即座にイヤ~な表情をしてみせた私を、しばし無言のまま見つめていた。掴んだ腕は放さないままで。
「いい加減にしてちょうだい。用もないのに人を引き留めたりしないで」
言いながら、こちらを掴む腕を振り払おうと試みるが、それは全く外れてくれない。
それどころか、掴む手に更に強い力が籠められた。まるで、放すまいとでもしているかのように。――てか、普通に痛いんだけど。アザになったらどうしてくれるんだ。
「一体、どういうつもり? 用があるなら、サッサと言いなさいよ」
早くこの場を切り上げたくて渋々ながら促してみるも、それでも彼は何も言わない。
「アンタに付き合ってられるほど、私だってヒマじゃないのよ。いい加減、この手、放しなさい……」
「―――おまえ、は……」
「なに……?」
ようやっと口を開いたと思ったら、その言葉は独り言めいていて、私には聞き取れなくて。
聞き返した途端、掴んだ手にまた更に力が籠められた。
「いっ…痛いわよ、放して……!」
「おまえは……おまえこそ、一体どういうつもりだよ……!」
「何がよ!? さっきからアンタが何を言いたいのか、サッパリわからないわ! それより、まずはこの手、放しなさいよッ……!!」
「おまえは、あんなヤツを選ぶのか……!」
「だから、何なのさっきから……」
「あの貴族の男だよ!! あいつ、おまえの何なんだよ!!」
「…………!!」
唐突に荒げられた声にびっくりして、思わず私は、出そうとしていた言葉ごと、息を飲んで固まった。
そんな私を、鋭い視線で覗き込むように見つめてジャンが、なぜだかわからないけど、まるで怒りを無理やり抑え込んでいるかのような口調で、それを続ける。
「毎日おまえンちに出入りしてる、あの男……こないだの収穫祭でも、おまえ、あいつと一緒にいただろ?」
間違いなく、ジャンの言う『あの貴族の男』というのは、アルフォンス様のことだろう。
アルフォンス様がウチの店に毎日のように通っていることは、既に近隣の人の目にも留まっていて、噂にもなり始めている。収穫祭の日に一緒にいたことも、二人でいる時に知り合いと会って挨拶を交わした覚えがあるから、そこから漏れたのだろう。それらが人づてにジャンの耳にまで届いたとしても、何ら不思議なことは無い。
ただ、何故それを、こんなふうに問い詰められなければならないのか……わからないのは、そこである。
「それが、何だっていうの……」
「その髪留め……それも、あいつに貰ったものか?」
「――――!!」
咄嗟に自由な方の手で、その髪留めを覆っていた。
もしかしたら『そんな似合わないもの付けてる方が悪い』だのと難癖を付けられてジャンに取り上げられてしまうかも、という危機感に襲われ、彼の視線からそれを隠すべく、反射的に身体が動いてしまったのだ。
そして、その私の行動は、投げられた問いを肯定しているのだと、彼へと伝えてしまったらしい。
「…やっぱりか、ちくしょう」
また更に加えられた力で腕をぎりぎりと掴み上げられ、思わず私の口から悲鳴にも似た呻きが洩れた。
「だから、何なのよ! 痛いって言ってんでしょ、いい加減にしなさいよ!」
「うるせえ、黙れ!!」
わめいた私を、その一喝で黙らせると、そして掴んだ腕ごと私を更に引っ張り寄せる。
「…おまえ、わかってんのか?」
そこから更に顔を寄せ、まさに至近距離で、それを告げた。
「相手は貴族なんだろ? ――テメエなんざ遊ばれてるだけだって、いい加減、気付け」
「…………!!?」
「まさか、普通の平民がお貴族サマと結ばれる、なんて御伽話を、本気で信じちゃいないだろうな?」
――わかってる、そんなことくらい。
平民と貴族との間には、埋まりようもなく深い“身分差”という溝が横たわっている。そんなこと、この国の人間なら子供でも知っていることだ。
「少しくらい優しくされたからって、舞い上がってんじゃねえよ。おまえなんかを本気で欲しがるヤツなんて、いるはずもないだろ。少しは身の程を知れよ、このアバズレ女が」
「…………」
思わず、唇を噛み締めた。
――なんでアンタにそんなこと言われなくちゃならないのよ……!!
言い返したかったが、無理やりに言葉を飲み込んだ。
もう何も、言葉にしたくはなかった。――ただ一方的に人を罵倒する、こんな男と、言葉なんてひとことすら交わしたくはない。
それに……口を開いたら最後、弱気になった自分を覚られそうで。
ジャンの言葉は、確かに私の中の何かを抉った。私が必死で目を背けたかった何かを暴いてしまった。――そんな弱みを、よりにもよってこんなヤツに、曝け出してしまうなんて私のプライドが許さない。
唇を噛み締めたまま言葉も出せずに小さく震えているだけの私の姿は、どうやらジャンには、しおらしいものとして映ったようだ。
「…いい加減、目を覚ませ」
やおら声音を軟化させた彼が、そんなことを囁いてくる。
「貴族の男なんて見てないで、もっと自分に合った男に目を向けろよ。おまえみたいなつまんねえ女でも、貰ってくれる男がいるかもしれないだろ。おまえが、ちょっとでも浮かれた自分を反省する、ちゃんと身の程を知って身近な相手を探す、っていう、殊勝な態度を見せるなら、な」
「…………」
「それでも、やっぱり相手が見つからなくて適齢期を逃しちまう、ってんなら……そん時は、オレが貰ってやってもいいからよ……」
――パシッッ……!!
暗闇の中、小気味いい音が響く。
我知らず私の手が、ジャンの頬を張っていた。思いっきり渾身の力を籠めて。
もう限界だった。
「こっちが黙って聞いてりゃ、勝手なことをぺらぺらぺらぺら……!!」
ジャンのあまりにも手前勝手な言葉に、気持ち悪くて怖気が走る。
「アンタこそ自分を反省しなさいよ!! そんな横暴な態度で、マトモな嫁の来手があるとでも思ってるの!?」
「何だと……!?」
「幾ら嫁のあてが見つからないからって、手近で済ませようなんて虫がいい話よね!! 一体、ナニサマのつもりなの!? こっちはいい迷惑よ!! アンタなんかに情けをかけられるくらいなら、私は一生、独り身でいるわ!! その方が何倍もマシだもの!!」
「…………!!」
「前々からアンタなんか大嫌いだったけど……今日ほどそれを思ったことはないわ! もう金輪際、私の前に姿を見せないで! アンタの顔なんて、もう見たくない! 私の前からサッサと消えて、今すぐに!」
「…………」
そこまで言っても、彼の手が腕から離れる気配がない、立ち去ろうという気配もない、そのことを訝しく思って私が、「だからいい加減に…」と、彼を促す言葉を出しかけた――それを遮るようにして突如、無言のまま彼が歩き出す。その路地の奥の更なる暗がりへと向かって。そして、まだ掴んでいた私の腕も放さないままに。
「ちょっと……!!」
さすがに抵抗の声を上げ、引きずられまいとして踏ん張るが、彼は見向きもしてくれない。
「放しなさいよ!! なぜ私がアンタと一緒に行かなくちゃいけないのよ!!」
詰って叩いて、私がどんな抵抗をしても、それでも彼は無言だった。
無言のまま、ただ私を引きずるようにして歩いていくだけ。
普段らしからぬ彼の様相に、そこでようやく私も気が付いた。
そして、今更ながら恐怖を覚えた。
何が彼をこんなふうに突き動かしているのかは、私にはわからない。でも、わからないからこその恐怖が、そこにあった。
今すぐに逃げなくちゃ……彼の前から逃げなくちゃ……! ――思っているのに、掴まれた腕は私の力では外せない。どんなに私が力を籠めて踏ん張っても、彼の歩みを止めることはできない。
私では、この状況をどうしようも出来ない。
――助けて……!!
こんなにも強く、それを念じたのに……なのに言葉にできず、ただ唇が震えただけ。
――お願い、誰でもいいから、今すぐ助けて……!!
その祈りが通じたのか……ふいに、掴まれていた腕が離れた。
「ぐあっ……!!」
と同時に、何やら苦しげなジャンの呻く声が聞こえてくる。
ハッと我に返ると、私の目の前に大きな背中があった。その向こうに、その背中の主にジャンが腕を捩じり上げられている姿が見える。
「…嫌がる女性を無理やり連れていこうとするなんて、感心しないな」
その声には、私も聞き覚えがあった。
「あなた……!」
「大丈夫ですか?」
私の呟きを聞き止めて振り返ったのも、もう見慣れた顔だった。
――アルフォンス様の、護衛の……!
その彼が、なぜ今ここにいるのだろうか。どうして私を助けてくれたのだろうか。――聞きたいことがありすぎて頭の中でぐるぐる回って、結局なにも言葉にして訊けない。
とりあえずこくこくと頷いて応えてみせた私を一瞥してから、そのひとが改めてジャンに視線を向け、その捩じり上げた腕を突き放した。すると当然ながら、ジャンが絵に描いたように地べたへと転がる。
「これ以上の痛い目を見たくなければ、今すぐ立ち去れ。警告に従わないというならば、こちらも容赦はしない」
ちゃきっと、そこで腰に帯びた剣へと手をやり鍔鳴りの音を立ててみせる。それは、手向かうようなら剣を使うことも辞さない、という彼に対しての脅しでもあるのだろう。
丸腰のジャンは、やはりその脅しには怯んだようだった。大人しく後ずさりながらこちらとの距離を取り、のろのろとした動作で立ち上がる。
しかし、その視線はまだ剣呑な光を帯びて、こちらを――目の前に立ち塞がる男性を通り越し、私へと直接、注がれていた。
「――ローザ……」
ふいに呼びかけられて、咄嗟に私は、目の前の背中に縋りつく。
彼の視線から身を隠したかった。隠れられるところが、その背中の陰しかなかったのだ。
「そこまで、オレを拒むのか……! そんなに、あの男がいいのかよ……!」
分厚い背中の向こうから尚も響いてくる、その声を聞きたくなくて、ぎゅっと目を閉じ両手で耳を塞いだ。
それでもなお追ってくる、抑えきれぬ苛立ちをあらわにした、その言葉。
「おまえ、そんなにあの男が好きなのかよ……!!」
「――――!!」
その言葉は……過たず私の心臓を貫いた。
知らず知らず私は、耳を塞いだまま、その場に蹲っていた。
「…立ち去る気が無い、と受け取っていいか?」
頭の上からそんな声が聞こえてき、そして次には、遠ざかっていく足音が地面から響いてくる。
一呼吸の後、蹲った私の傍ら、誰かがしゃがみ込む気配がした。
「怖い想いをさせて申し訳ありませんでした」
その声に誘われるようにして目を開き頭を上げると、片膝を突いた姿勢から、助けてくれたそのひとが、私を覗き込むように見下ろしていた。
「助けに入るのが遅くなったことはお詫びします。相手があなたの知り合いのようでしたので、少々様子をうかがっておりました」
「いえ……助けてくださって、ありがとうございます……」
「立てますか? 家まで、お送りします」
差し出された手を借りようとして、伸ばした自分の手が未だ小さく震えていることに気付く。
咄嗟に握り締めてしまった拳を、その大きな手でやんわりと包んで、空いたもう片方の手で私の身体を支えながら、そのひとはゆっくりと立ち上がる力を貸してくれた。
ようやく立ち上がることが出来てから、改めて目の前のそのひとを見上げる。
「ところで、あなたはどうしてこんなところに? アル様の護衛のお仕事は?」
私の問いに、どこまでも実直そうなそのひとが、普段どおり真面目くさった顔を崩すこともなく「これも仕事ですので、お気遣いなく」などと返してくれる。
「あなたを護ることが、主人からの命ですから」
「アル様の、ご命令? ――どういうこと?」
「今日あなたが一人で外出すると知って主人が、私に陰ながらあなたを警護するようにとお命じになられたのです」
「何で、そんなこと……」
「あなたは『意外にヌケてるから危なっかしい』のだと、仰っておりました。『日が落ち切った真っ暗闇の中を一人でほいほい歩きかねない』と」
「…………」
「実際、その通りでしたしね。あなたも、もう少しくらい警戒心を持って行動した方がいい。下町の暗闇は、そもそも若い女性の一人歩きに優しくはありませんよ」
「…………」
「まずは家に帰りましょう。何があったのか、私からご家族にお話しします。ですから今後は、外出する時は必ず、ご家族の誰かを伴うようにしてください」
そして、支えられた手から歩くよう促されるも……しかし私の足は、その場に縫い止められたように動くことはなかった。
代わりに、堰を切ったように両目から涙が溢れてくる。
唐突に泣き出し始めた私の目の前で、ぎょっとしたような気配が伝わってきた。――確かに自分でも、そりゃ助けた女性に目の前で泣き出されたら困るよなあ…って思う。私いま困らせてるなあ…って、すごく思う。とても思う。
でも私は、泣くのを止めることは出来なかった。
――気付かなければよかったのに。
気付かなければ、アルフォンス様のくれる優しさを、こんなにも痛いと思うことなんてなかったのに。
気付かなければ、こんなふうに泣くこともなかったのに。
――アルフォンス様を好きになんてならなければ……こんなに苦しい想いを味わうことなんて、なかったのに……!!
ジャンによって突きつけられた自分の気持ちを、今はっきりと、自覚した。
しかし、自覚したところで……彼の言った通りだ、平民と貴族の間にはハッピーエンドなんて存在しない。この想いに行き場なんて、どこにも無い。
気付きたくなんかなかった、と……知らず知らず目を背け続けてきたこの気持ちを、これから私は、どうすればいいのだろう。
とにかく今は、泣くことしか出来なかった。
目の前に立つ人が私を持て余していることがわかったけれど、それでも今の私には、ただえぐえぐと泣き続けることだけしか、他に出来ることが見つからなかった。
ただ、とにかく、泣きたかった。それだけだった。
止まることなく流れゆく代わり映えの無い日常の中でも、少しだけ変わったことといえば。
それ以来、部屋で一人でいる時でも私が自鳴琴を鳴らすことはなくなった、ということ―――。
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