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【伍】
しおりを挟む「私としては、本ッ当ーーーッッに! 釈然としないけどッ! でも父上は、心から三位中将をご信頼なさっているご様子ですもの。その中将がこの話を断るというのなら、破談も厭わないお覚悟でいらっしゃられるの……」
私が出した『破談』の言葉を聞き止めたか、やおら「ええッ!?」と、目の前で良政が過剰な反応を見せた。
「そっ…、それは困るっっ……!!」
「ええ、困るのよ。それはコチラも同様だわ」
そして私はタメ息ひとつ。
「先にも話した通り、今の右大臣の権力は、父上のために今後絶対に必要となってくるわ。その有力な後ろ盾を、こんなことでみすみす手放すワケにはいかないのよ。それに、あの右大臣を怒らせたら後が厄介そうだしね。ヘタを踏んで大臣三人ともを敵に回すことにまでなったら、それこそ目も当てられないわ。だから絶対、私は右大臣家に嫁がなくてはいけないの。破談になんてさせないわ」
だが、それをそのまま告げたところで……あくまでも私の幸せを願ってくださっているらしき父上が、素直に頷いてくれるワケが無い。
『わたくしの幸せ…と、おっしゃっていただけるのでしたら―――』
だから私は、それを告げた。
『ならば、わたくしの先行きは、わたくし自身の意志で、決めとうございますわ』
『――姫……?』
父上は、少しだけ驚いたように目を瞠られた。
改めて居住まいを正し、正面から父上へと向き合うと、三つ指ついて頭を下げる。
『どうか父上、いま少し熟考する時間をいただきとうございます。――右大臣家に降嫁するか否か、降嫁となれば、嫁す先は若君か末の君か……それをわたくし自身に選ばせてはいただけないものでしょうか?』
「それで今日一日の猶予をいただいたの。あまり即答しても信用されないでしょ?」
私の言葉に、少しだけ良政が安堵の表情を見せた。
「ならば当家へご降嫁のお話も……」
「ええ、それは私の中で既に定まってるわ。あと問題は相手よね。三位中将の君か、五位蔵人の君か―――」
言いながら、既に何度目になるかも分からないタメ息を再び吐いて。
そのまま、斜めに座っていた姿勢を崩し、ここへ来た時のように、流れる川の水面に再び伸ばした両足を差し入れた。
今度は飛沫を立てず、ゆうらりと上下に水の中の足を動かす。
そうしながら、おもむろに呟いた。
「でも結局、私には……三位中将を選ぶしか、選択肢なんて他に無いのよね―――」
聞こえていないだろうはずはないのに……私の背後で、それでも良政は無言だった。
「中将さまには、気は乗らないでしょうけど帝の下知ってことで、何とか納得していただくしかないわね。こればっかりは」
それをいいことに、まるではしゃぐような明るい口調を無理やりにノドから搾り出して、先を続ける。
「だって、仕方ないじゃない? その末の君には、東宮と一緒の時に何度か東宮御所で会ったことあるんだけど……あの子、可愛いくらい本当に純真なのよね。聞けば、幼い頃から仲良くしてる筒井筒の姫君と、既に結婚の約束を交わされているって言うじゃない? それを、テレながら…でも、本当に嬉しそうに話すのよ。そんなの、応援してあげたくもなるってモンじゃない。――到底、『私の背の君になって』なんてこと言えないわよ……当今の皇女である私が嫁いだら、彼はその筒井筒の姫君を北の方として迎えることが出来なくなってしまうもの……」
当世の慣例として、何人もの妻を持つことが許された貴族男性の正妻の座には、その中で最も高い身分を持つ者が就くと決まっている。
今上の帝の皇女であれば当然、どんな姫君の誰よりも高い身分をいただいているというもの。親王宣下を受けて内親王の待遇までいただいているのなら尚のことだ。
私も、弟の立太子と母の立后の際、まさしく“ついで”とばかりに姉と共に宣下を受け、既に内親王と呼ばれる立場にある。
ゆえに、その私が末の君のもとに降嫁したら、自動的に私が彼の正妻となってしまうではないか。
この今上の御代における現状、その皇女たる私より高貴な身分を持つ未婚の姫など、他に誰一人として居ないのである。居るとすれば、伊勢の斎宮と賀茂の斎院、そのお二人くらいなものだ。
「妻にしたいと考えるほどに愛している人を、なのに正妻として迎えることが出来ないだなんて……そんなのは悲し過ぎるわ」
たかが慣例ごときの問題で、既に出来上がっている可愛い恋人たちの仲に亀裂を入れるような真似などは、出来ることならしたくはない。
「その点、女性の噂で枚挙に遑がない中将さまなら、お心に決めた特定の女性もまだいらっしゃらないのでしょうし、私一人が増えたところで、どーってこともないわよね? ――そりゃ、きっと当人にしてみたら、皇女を貰い受けるなんて重荷になるだけでしょうし、名誉だという以外に利になることも無いし、そこは申し訳ないとは思うけど……でも中将さまなら、私と結婚したところで、ちゃんと別に自らで選んだ妻も娶るのでしょうし、それが許されるお立場でもあるんですものね。とりあえず私を妻の一人として置いておいてさえいただければ何も文句なんて言わないし、夜歩きも好きなだけしてくださればいいわ。それで手打ちにしてもらえるわよね」
「――本当に、それでよろしいのですか……?」
ようやく背後から聞こえてきた、その気遣うような言葉には。
振り返ることなく、無造作に「仕方ないわ」とだけ、返す。
「たとえよろしくなかったとしても、私にはそれを選ぶほか選択肢は無いの。右大臣の思惑から外れることもなく、父上の御心にも沿う、最良の選択でしょ」
「ですが……その選択は、必ずしも帝の御心に沿うものとならないのではないですか?」
思いもよらぬその返答に驚いたあまり、咄嗟に背後を振り返ってしまった。
「何を言うの? そもそも、三位中将を私の背の君にと薦めてきたのは、父上の方なのよ? その彼を選ぶのだから、充分御心に適っているじゃない」
「いえ、そういう意味ではなく……」
「じゃあ、どういう意味よ?」
そこで彼は、しばし返答を言いよどんだ。
口許に手を当て軽く俯いた彼の姿は、次に何を告げるべきか、言葉を選び思案に暮れているように見えた。
しばし、そうして私から目を逸らしていたが、やがて……おもむろに視線を戻したかと思うと、まるで決意するかのように息を飲みこんでから、それを告げた。
「今の姫宮さまは……とても無理をされていらっしゃるようにも見えますから―――」
――ドクンッ…! と、大きく一つ、心臓が鳴いた。
まるで、ぎゅっと突然わし掴みされたように心臓が悲鳴を上げた、痛い、と泣いた、――そう感じた。
『姫に無理強いをさせたいわけでは決して無いのだから』
昨日、父上から言われた言葉が、頭に浮かぶ。
それを言われて私は、『何も無理などしてはおりませんわ』と、当然のように返した。
その言葉に嘘は無いのに……何故こんなにも胸が痛むの……?
「姫宮さまのおっしゃる選択肢には、その当の姫宮さまご自身のご意志がありませんでしょう?」
相変わらず慎重に言葉を選びながら、良政は続ける。
「帝であらせられる父君のため、次代を担うべき東宮のため、はたまた五位蔵人のため、どこぞの誰かの幸せのため、ひいては国家平安のため――そればかりで、肝心要の姫宮さまご自身のお気持ちが、当の選択に何も反映されてはいらっしゃらない。先ほどより何度『仕方ない』のお言葉を聞いたことか……そのひとことで姫宮さまは、ご自身を殺して全てを諦めようとしてらっしゃるようにも見受けられます」
『何につけても、他人のために自分を殺すことだけは控えなさい。姫は姫らしく、思うがままに在ればよい』
良政の告げる言葉が、父の言葉とダブる。頭の中でわんわん反響する。
「姫宮さまの先行きをご自身で選ぶことをお許しになられた、ということは……帝は、何の含みも無い姫宮さまのお気持ちをこそ、尊重なされたのではないでしょうか? 帝ご自身にとっても利となるお話を、破談にしようとしてまで、姫宮さまのお気持ちを大事にされているのではないですか? 姫宮さまご自身の幸せのために―――」
『願うのは単に、姫の幸せ、ただそれだけなのだからね―――』
反響する言葉で頭が痛い。
もうやめて。――私を、これ以上かきまわさないで。
『――もう少し私を信じてみてはくれないだろうか?』
「娘の幸せを想う、父親としての帝の御気持ちを……もっと素直に汲み取ってさしあげたらいかがでしょうか……?」
「―――やめて!!」
我知らず、まるで悲鳴のような金切り声を上げて、彼の言葉を止めていた。
「もうやめて、聞きたくない!!」
頭を左右にブンブンと大きく振りながら、掌が無意識に両耳を塞ごうとする。
「あなたに何が分かるというのよ!? 今日初めて会った私の何が分かるの!? 会ったこともない父上の何を知っているというの!? 何も知らないクセにっ……賢しらに諭そうとしないで!! 不愉快よ!!」
「姫宮さま……!」
「うるさい、うるさいうるさいっっ!! もう聞きたくない!! 何も聞きたくないっっ!!」
そして私は、バシャッとした水飛沫を立てながら、すぐさま立ち上がろうとした。
しかしその瞬間、まるで鋭い針を刺したような痛みが足の裏から突き抜ける。――どうやら、立ち上がるため踏みしめた河原の細かい砂利の、中でも鋭く尖っていた粒でも、たまたま水疱の破れた肉刺に刺さってしまったのだろう。
思わず「痛ッ!」と悲鳴が漏れ、咄嗟に痛んだ方の足を浮かせようとした。
だが、立ち上がりかけで不安定な姿勢だったためか、また、場所も河原で足元が悪い所為もあったのか、ふらつく全身を支えきれず足がよろめき、そのままぐらりと身体が傾いでいくのが分かった。
「きゃっ……!!」
「――危ないっ!!」
転ぶ! と思った刹那、私の身体はガッシリとした腕に受け止められる。
良政だった。
あわやのところで差し伸ばされた彼の腕が傾ぐ私の身体を抱き止め、その勢いで、彼の広い胸の中へ包み込まれるかのように抱きしめられた。
そうやって彼の腕に包まれ、彼の胸に顔を埋めていたら……どうしてだろう、ものすごく泣きたくなってきた。
私の両手が、知らず知らずのうちに持ち上がり、彼の肩下のあたりで袖を背中側から握り込む。まるで溺れている者が縋り付くような必死さで。
「姫宮さま……?」
戸惑いを含む彼の声を真上に聞きながら、それでも私は彼の袖を放さなかった。
更に強く彼の胸に顔を寄せる。――まるで、もっとキツく抱きしめて欲しいとでも言わんばかりに。
「どうなされました、二の姫さま……?」
「――あなたは……」
そうしながら、気遣わしげに問うてくる彼の声を遮るようにして、やおら私は呟いた。
「あなたは本当に優しいのね、良政―――」
ピクリ、と――そこで彼の身体が小さく強張るのを、触れ合わされた全身で、私は感じた。
「そうだったわ……あなたは、こんな風に今日一日、ずっと私を助けてくれていたのよね。今みたいに身体を張ってもらうことばかりだった。私を守ってくれて、本当に本当に、どうもありがとう」
彼を真っ直ぐに見上げることも出来ず、そのまま彼の胸の中で呟く。
「なのに、ごめんなさい……私の方は、あなたにヤツアタリするくらいしか出来なくて……!」
我知らず、彼の袖を握り締めていた手に力が籠もる。
いつの間にか小刻みに震え始めた両手を、握った拳に力を入れて押さえつけることだけで精一杯だった。
「本当にごめんなさい。ヤツアタリだって自分でも分かってるのよ。あなたの言うことだって尤もよ。私は、父上の御気持ちを無下にしてる。――でも、だめよ……それを認めると、私自身が崩れちゃう……!」
告げる声まで微かに震え、徐々に徐々に掠れていく。
「自分の気持ちに正直になって『嫌』と言うことは簡単だわ。結婚なんて嫌、宮中に居るのなんて嫌、皇女で居ることさえ嫌、本当はもう何もかもが嫌で嫌で堪らないの! ――けれど……そんなことは絶対に言えないわ。どんなに自分の境遇に不満を持っていたとしても、そんなこと絶対に口に出してはいけないの。当今の皇女となったからには、もう私は、私だけのものじゃない、この国の最高位に在る“帝”という公人の一部分となったも同じだから。そんな私が、自分勝手に生きてちゃいけないに決まってるじゃない。たとえ、どんなに父上が私を思いやり慈しんでくれているとしても、だからといって、それに甘んじて私心を持つことなど、仮にも皇女である身には許されない。そうでなければ、私が皇女である価値など無くなってしまうわ」
まだ彼の胸から顔を上げることが出来ない。
いま顔を上げて良政の顔を見上げたら……見上げてしまったら……!
――きっと泣いてしまう。何故だかわからないけれど。
「お願い、私に優しい言葉なんてかけないで。私に、自分が無理してるだなんて気付かせないで。私は、私を殺していないと、ただのワガママ姫でしかなくなっちゃう。私の所為で大切な人たちを困らせたりしたくなんてないの。――お願いだから……!」
俯き、彼に縋りながら……いつの間にか立っていられなくなって、ずるずると崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込もうとしていた。
我に返れば、思い出したようにぶり返してくる足の痛み。
思わず私は小さく呻き、顔を顰めた。
そのことに、目の前の良政が気付かないはずもなく―――。
ふいにふわっと膝の後ろを掬い上げられたと思ったら、次の瞬間には、彼の腕に横抱きに抱え上げられていた。
そして、そっと静かに、もと座っていた平らな石の上に下ろされる。
彼は、そうして座らされた私の前で膝をつくや否や、おもむろに私の足首を掴んで軽く持ち上げ、そのまま足の裏を見分し。
「――こんなになるまで……! 何でここまで我慢してるんですか!」
即座に驚いた表情を浮かべると、今度は私の顔を見やった。
「これでは、もう歩くのは無理ですね」
「歩けるわよ! 大丈夫、歩くわ! これから日暮れまでに、何としてでも宮中に戻らなければならないんだから!」
「…………」
ややヤケっぱち口調で“意地!”とばかりに言い放った私を、呆れたように無言で眺めやってから。
おもむろに、はーっと深々とした息をひとつ、良政は吐き出した。
そして呟く。やはり明らかに呆れたような色を湛えた声音を隠そうともせずに。
「――本当に……無理を通すのがお好きな姫宮でいらっしゃいますね、あなたは……」
そのことには少しばかりムッとして。
咄嗟に強い口調で「悪いの!?」と、思わずムキになって返していた。
「放っといてちょうだい! これ以上あなたの手は煩わせないわよ、どうぞご心配なくっ! これは私の矜持の問題なんだから!」
「その矜持が……あなたに泣くことさえも許さないわけですか?」
「え……?」
ふいに静かな口調で発されたその言葉は……次に続けようとしていた私の言葉を奪った。
我知らず口を噤んでしまった私を、どことなく哀れむような色を湛えた双眸で、言った張本人――良政が見つめている。
「本当に…つくづくあなたは聡明な方だ。年齢よりも数段に大人びた視点と考え方をお持ちでいらっしゃる。それはとても素晴らしいことです。――しかし……」
そこで一旦、彼は言葉を止めた。
双眸に宿した翳りを色濃く映しながら、まるで言うのを躊躇うかのようにも見える仕草で、ひとつ短く、息を吐く。
刹那、苦しげに目を伏せて。次には覗き込むように真剣に、再び私の瞳を見つめてくる。
そして言った。
「その姫宮たる境遇が、あなたに年齢相応の子供でいることを許さなかったのだとしたら……それは、とても哀れなことだ」
告げられたその言葉で……自分でも探れないほどに胸の奥の奥の深いところで、なにかがチクンと私を刺した。――それは鋭く…なのに柔らかく。
「今日このように思いもかけずお会いし、語らい合うことが出来、そのお人柄に触れ、次第にあなたという方を徐々に理解してゆくに伴って……私は無性に、あなたが哀れに思えてならなくなる」
良政の告げる言葉ひとつひとつが、私の意思の及ばない内側の部分を的確に貫いているかのようで、どんどん私を落ち着かない気分にさせる。
――続けられる言葉を……彼の口から発される言葉を、こんなにも怖く感じるだなんて……!
これまで覚えたことのない感情。どきどきと高まってゆく鼓動。
まるで自分が自分のものではなくなっていく……すべてを彼の言葉で暴かれてしまうだろう予感に苛まれる。
「姫宮さま―――」
私の心の内を見透かしているからか、それとも気付いていないからなのか……相変わらず静かな口調で、おもむろに彼は、私を呼んだ。
「あなたは……これまで自分のために、己が感情の命ずるままに、涙を流したことが、おありですか?」
「――――!!?」
咄嗟に、いま自分が何を訊かれたのか、それが理解できなかった。
何故そんなにも当然なことを訊かれるのかが分からなかった。
反射的に、『当たり前』『あるに決まってる』――そんな返答を返そうとして……でも返せない自分に気付く。
涙を流さない人間など居ない。
でも、私は……一体、いつ涙を流しただろうか?
その瞬間、ハッと胸を突かれた。
――後宮を住まいとするようになって以来、私が自分のために涙を流したことなど、あっただろうか……?
私は……宮中に来て以来、何があっても泣くまいと、常に唇を噛み締めて生きてきたはず―――。
「そんなにまでも大人びていらっしゃるというのに……なのに、あなたは泣き方すら知らない。産まれたての赤子でさえ知っている簡単なことなのに」
思い当たることがあった私を見透かしたかのように、相変わらず静かに、そして淡々と、抑揚のない言葉を流暢に良政は次々に紡いでゆく。
「私には、あなたの中に、姫宮たるあなたと、たった十五歳の少女でしかないあなたが、不均衡に同居しているように思えてなりません。姫宮としてのあなたが、ただの少女でしかないあなたを、無理に抑え付けていらっしゃる。だから泣き方すら忘れてしまった。当今の皇女という身には、人前で安易に泣くことさえも許されないから。――違いますか?」
それを訊かれても、私に返す言葉は無かった。
それを否定したくても……良政の言葉を打ち消せる力を持つ何をも、私は持っていなかった。
「聡明であることは、決して悪いことではありません。心延え美しいあなたの抱く矜持は、とても素晴らしいものだ。だが、それに囚われ過ぎて己の本心を見失うようなことがあらば、もはや本末転倒ではありますまいか」
――やおら、そういえば…と思い出される。
そういえば父上が、私をこう言っていた。――『女としては要らぬものまで、良く見えてしまうのかもしれぬ』、と。
あの時の父上は、このことを言いたかったのだろうか。
いま良政が告げている、まさにこのことを……私に自ずから悟って欲しかったのだろうか―――。
「あなたには……泣くことを忘れて欲しくはありません」
つと、おもむろに彼が、そこで私の手をとった。私の手を自身の両手で包み込むようにして。
「泣くことに限らず、笑うこと、怒ること、喜ぶこと――心の命じるままの感情を身に表すということを、決して忘れて欲しくはないのです」
そして彼は、ふいに柔らかな笑みを浮かべた。
まるで、ふわりと花開くかの如きその微笑みに……一瞬にして私は目を奪われた。
綺麗、と感じた。――男性への褒め言葉にはならないかもしれないが、今の私にとってこれは、“綺麗”という言葉以外の何も当て嵌まらない。
そこで初めて、良政がとても綺麗な人であるのだということを、私は覚った。
会った時から凛々しい顔立ちの人だとは思っていたけれど、こんなに美しい人だとは思わなかった。こんなにも優しい雰囲気を持った人だなんて知らなかった。
宮中を出てから今までずっと二人で一緒に過ごしていたというのに……なのに私は、未だ彼のことを何も知らない。
私は、自分のことばかりで、彼のことを何も見ていなかったのかもしれない。見ようともしていなかったのかもしれない。
それはつまり、彼を対等の人間だと思っていなかった、ということではないだろうか。
――私……最低だ。
そのことに思い当たった途端、驕り高ぶった自分が無性に恥ずかしくなり、彼を正視できなくなった。
自分でも頬が紅潮していくのが分かり、咄嗟に目を伏せて俯いた。
そんな私に向かい……囁くような優しい口調で、おもむろに彼が告げる。
「―――雪、どの」
その瞬間、今までになく心臓が大きくドクッとした音で、鳴いた―――。
思わず全身がビクリと震え、その勢いで弾かれたように顔を上げると……すぐ目の前には良政の優しい微笑み。
そして、いまだ彼の両手の中に包み込まれている自分の手。
目の当たりにし、再び頬が紅潮してくるのが分かった。
――でも、動けない……。
この時の私は、まさに“魅入られた”という言葉がピッタリだった。
すごく恥ずかしくて堪らないのに……穏やかに微笑みかける彼から目が離せない。自分の手を包み込む温かさを振り払うことが出来ない。
そんな私を真っ直ぐに見つめたまま、彼は言う。
「そういえば何度もおっしゃられていましたね。――今の自分は姫宮などではない、ただの『雪』なのだ、と」
言いながら彼は、何事かを思い出したような表情になり、クスッと忍び笑いを洩らした。
何を思い出したのだろうかと、少しだけ眉根が寄る。
「その都度、無茶ばかりおっしゃる御方だと、内心では思っておりましたが……」
「む、無茶で悪かったわねッ!」
「しかし、ある意味、それは正しかった」
「え……?」
咄嗟に言われた言葉の意味を掴めず、思わずキョトンと首を傾げてしまったのだったが。
「こうやって宮中をお出になられたあなたならば……この場では、ただの『雪姫』に戻られることも可能でしょう。――当今の皇女などではない、本来のあなたに」
そんな私に、まるで諭すように良政は語りかける。
「一人で京を出歩きたがる姫宮などおりません。姫宮でいらっしゃる以上、このようなこと決してなさるはずがない。ゆえに、今ここに居るあなたが姫宮であるはずなどないんでしょう。――だから……」
続けられた次の句に、息を飲んだ。
「だから、ここでは何を我慢する必要も、無いのですよ―――」
その微笑みが湛える優しさが、まるで春風のように穏やかに吹き流れて、私の中のカラッポの部分を通り抜けていった。
彼の両の掌から伝わってくる温かなぬくもりが、まるで雪を溶かす春の陽だまりのような温度で、私の中の閉じた場所に根ざしていた氷を溶かした。
―――ふと気付けば、自分の頬に涙が伝っていた。
「やだ……なに、これ……?」
思わず頬に触れた指に、温もりを帯びた雫が滴り落ちる。
「な…んで……? 私、泣いてるの……?」
そのまま指の背でゴシゴシと目の下をこするも、だが涙は全く止まってはくれず。
こすって拭おうとすればするほど、それを嘲笑うかのように、こする指をしとどに濡らしてゆく。
「なんで……どうしてっ……?」
呟く自分の声に嗚咽が混じり始めて。
唇が震え、上手く言葉が紡ぎ出せない。
「やだ、なんでよっ……?」
自身で制御できない涙に苛立ち、目と頬をこすっている手へ更に力を籠めようとした時。
やおら両手首を何か温かいもので握り込まれた。
そのまま手首が優しい力で引っ張られ、徐々に頬から離れていく。
ふと顔を上げれば、涙でかすむ視界の中に、困ったように微笑む良政の姿が映った。
「そんなにこすっても、赤く腫れるだけですよ」
「良…政……!」
彼の微笑みを視界に映した途端、口から彼の名が零れた途端。
ぶわっと再び溢れ出してきた、温かい雫。
「――あなたのせいよ、良政……!」
一生懸命に嗚咽を堪えながら、精一杯の虚勢を張る。
「優しい言葉なんてかけないでって言ったのに……! 自分が無理してるだなんて気付かせないでって言ったのに……!」
「はい……すみません」
「あなたのせいよ……! 私は、こんなに弱くないんだから……! もっと強いハズなんだから……!」
「ええ……わかっています」
「わかってないわよ! あなたのせいで、私、こんなに弱くなっちゃったんじゃない……!」
「雪姫……」
「そうやって、あなたが私を、ただの『雪姫』にしちゃうから……! だから私、わた、し、はっっ……!」
――ここまでで私は言葉を失った。
しゃくりあげるあまり、もう何を言いたくても言葉にならない。
気持ちが溢れて……言葉に、出来ない。
何も言えずにただ泣きじゃくるだけしか出来ずにいた私の前で。
良政は、ずっと同じ姿勢で、ただ黙ってそこに居てくれた。
私が泣き止むまでの間、ただそこに佇んで、ずっと私の手を温もりで包み込んで―――。
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