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【参】
しおりを挟む「あーもうっ、ホンッット、楽しかったーっっ!」
心の底から上機嫌で呟いて、そのままぐーっと組んだ両手を上に持ち上げて背筋を伸ばす。
両足の間を擦り抜けていく冷たい水のせせらぎが気持ちいい。
嬉しくなって思わず足をばたつかせた。
飛んだ水飛沫が、日の光できらきらと光る。その一粒一粒が、まるで玻璃の玉のようだ。
「本当に来てよかった! 宮中の外が、こんなに素晴らしい世界だなんて思わなかった―――!」
私と良政は、とりあえず東の市をザッと一巡りし、歩き疲れた足を休めようと鴨川の河原に来ていた。
やはり私のような御簾内に閉じ籠もりっきりの箱入り娘は、日頃から歩き慣れていない所為で、すぐ足が音を上げてしまう。はしゃぎ過ぎていたあまり、足が痛んでも気に掛けるのすら煩わしくて次から次へと物見に夢中だったのだけど、こうして履物を脱いでみれば、やはり案の定、あちこち肉刺が脹らんで、しかも水疱まで破れていた。…どうりで痛いワケだわ。
邪魔な市女笠は脱ぎ捨てて近くに放り投げ、川べりに転がっていた大きめの石に腰かけて流れに両足を浸しながら、ぱしゃぱしゃと飛沫を立てる。
そんな私の横には、相変わらずの仏頂面で良政が立っていた。
「あなたも座ったらどう、良政? 水も冷たくて気持ちいいわよ」
「いや、結構。私はそれほど疲れてはいないので」
「すごいわ、さすが武人だけのことはあるのね」
その返答には、心の底から驚嘆のタメ息が漏れる。――宮中で出会ってから、かれこれタップリ一刻半から二刻は歩き回ってただろうと思うのに……まあ、脇目も振らず急いでガムシャラに歩いていた、っていうワケでもないし、私のような歩き慣れていない者の歩調に合わせて休み休みノンビリ歩くのだったら、彼にとっては散歩程度のことなのかもしれない。
ともあれ、そうやって時間をかけて何やかやと無駄話などしながら一緒に歩いていただけのことはあり、宮中を脱け出したばかりの時に比べて、ようやく会話にぎこちなさもなくなってきていた。
そんな些細なことにさえ、何故か今は無性に嬉しく感じられる。
「本当に市は楽しいところね! 色々なものが売られていて、本当に面白いわ! それに、あの人の多さったら何!? まるで、あそこだけお祭りのようだわね!」
本当に……あの賑やかさと活気には、心が躍った。
すべてが物珍しく、あちこち店を覗いては、置かれている見たこともない品々に目が釘付けになって。
もちろん、さすがにお金は持っていないから買い物は出来ないけれど、何も手に入れることが出来ない代わりに見たものはシッカリこの目に焼き付けておこうと、興味を惹かれるものを見つけるたびに、あっちフラフラ、こっちフラフラ。
当然、足元なんて見ずに歩いていたものだから、幾度くぼみや石に足をとられて転びそうになったことか。前も見ずに歩いていた所為で、何度通行人や建物にぶつかりそうに、馬や牛に跳ね飛ばされそうに、なったことか。
そうなりそうな都度、常に良政が助けてくれた。時には身体を張ってまで庇ってくれて。
一緒にいてさえ無駄な話は一切してくれようともしない、無愛想なこの連れに内心では辟易していたものだけど、ホントあれほど良政が一緒にいてくれて助かったと思ったことはないわ。おかげで私は無傷だもの。…足以外は。
「本当に良政には感謝してもしきれないほどね! 私を宮中から連れ出してくれて、本当に本当に、どうもありがとうっっ!」
彼を見上げ、心の底からそれを告げたというのに……だが彼は、それに応えることなく、真剣な瞳で浮かれる私を見つめ返した。
そして、重々しく口を開く。
「―― 一体どういうおつもりなのですか……?」
ふいに尋ねた良政の言葉を、「ほら敬語!」と、まるで条件反射のように、私はバッサリひとことでもって切り捨てた。
「どういうつもりなんだ?」と言い直す彼の問いに対し、「何が?」と、まるでイヤガラセのように、私も問いで返してやる。
「一人で京を出歩きたがる姫宮なんて、聞いたことが無い」
「だって今の私は姫宮じゃないもの。一人で出歩いたっていいでしょ?」
「だから、そういうことじゃなく……!」
さすがに私の返しでイラッとした様子が、その表情から読み取れたので。
あまりはぐらかすのも失礼か、と、「ごめんなさい」と素直に謝った。
ここならば大丈夫だ。――河原全体を見渡せばちらほらと人はいるけれど、近くには誰もいないし、たとえ誰か近くを通りがかった者が居たとしても、私たちの会話は水のせせらぎの音が掻き消してくれるだろうから。何も怪しまれることは無いはず。
おそらく良政も、こういう場所だからこそ口を開いたに違いない。
誰に聞かれるかも分からない人の多い場所では一切の無駄口を開かなかった分、ここへ来てようやく、腹を括って私を問い質そうという気になったようだ。
そんな彼を、この場でどんなにはぐらかそうとしたところで、到底、逃げられはしないだろう。
よしんば、姫宮という立場をカサに着るなりし逃げおおせることが出来たとしても……一方的に彼を巻き込んだのは私の方なのに、それではあまりにも卑怯者だ。
ここまで口を噤んでくれていたのみならず、誰にも私のことを覚られないように気を遣ってくれていた。――そういう彼ならば、信用できる。きっと大丈夫。
私も腹を括って観念すると、ようやく静かに、口を開いた。
「確かに…そうね、あなたの言う通りだわ。別に姫宮でなくても普通の姫君ならば、とてもじゃないけどこんなことしないでしょうね」
「――ならば、あなたは何を企んでいる?」
「別に何も企んでなんかいないわ。本当よ、本当に他意はないの。ただ、自分の足で出かけて、この目で京を見てみたかっただけ。それだけのことよ」
「一体、どうして? ――それをうかがっても、よろしいか?」
「…………」
無言のまま、私は伸ばしていた両足を折り曲げ、その膝を胸の方へと引き寄せた。
その膝の上に頬杖を突き、爪先だけを動かしてぱしゃぱしゃと水際で小さい飛沫を跳ね上げる。
しばし、そうしたまま答えを言いあぐねていた。
「殊更に“理由”というなら、それは色々あるけれど……何から言えばいいのかしら? そう、すべてをひっくるめて最も簡潔に言うなれば、きっと……」
やがて心を決め、呟くように、私は口を開く。
「結婚、することになったから―――」
我ながら小さ過ぎる呟きだったけど……でも、決して聞こえていないだろうはずはなく。
なのに良政は、しばらく何も言わなかった。――それを聞いた誰も彼もが真っ先に口にするであろう『おめでとう』という言葉の一つさえも。
「…驚かないのね?」
何の気なしに振り返った私と目が合い、途端ハッとしたように、ばつの悪そうな表情を浮かべる。
「あなた……もしかして知ってたの、このこと?」
少しだけ訝しく思ってカマをかけてみた私の言葉に対し、彼は何か言いかけようとしたが、それを飲み込み、答えを沈黙に変えて言いよどんだ。
――なんて分かり易い肯定反応なのかしら。
「そう…じゃあ、あなたは知っているのね。私が誰に嫁すことになっているのかも」
だから私は、それをたたみかけた。言いようのない確信を以って。
じっと見つめると彼は、もう私に隠しても意味が無いと覚ってくれたのだろう、ふいにくっと唇を引き結ぶと、ひとつ大きく頷いた。
「当今の二の姫宮さまは……内々に、右大臣家へご降嫁されることが決まったと、うかがっております―――」
「…うん、その通りなの」
そう素直に肯定の返事を投げ掛けてから、そこで「ははーん?」と、私はあることに気が付いた。
「ひょっとして良政のお姉さまは、藤壺の女御さまに仕えているんじゃなくて? 確か藤壺さまは右大臣家の姫君でしたものね。なら、あなた自身も右大臣家に仕えているってことかしら?」
そこまで言ってやったら、どうやら良政も降参してくれたようで。
諦めたようにハッと乾いた笑いを洩らし、おもむろに諸手を上げてみせた。
「ええ……おっしゃる通りです」
「やっぱりね。右大臣家の関係者じゃなきゃ、まだ“内々”にしか決まってない結婚のことなんて知るはずもないもの」
どうりで……それだから、どこまでも頑ななまでに自分の姉の出仕先を私に教えてくれなかったワケだ。
「隠し立てする気などは無かったのですが……」
「わかってるわ。そこまで知っていたんだもの、私に気を遣ってくれてたのよね?」
「……いえ、そのようなことは」
「あなたは優しいわね、良政。――なら、あなたはきっと、私がこの結婚に乗り気じゃない、ってことも、知ってるってことよね?」
「…………」
その無言は、つまり肯定、…ね。
「ま、そりゃ誰にでも分かろうってモンだわよねー。いっつもいっつも、お文のお返事が、あからさまに女房の代筆じゃあ、ねー……」
軽くタメ息を吐くと、再び視線を前にやり、また頬杖を突いて川のせせらぎを眺めた。
「――それほどまでに……宮中から逃げ出したいとまで思い詰められるほどに、結婚されるのがお嫌なのですか?」
そんな私の背中に、良政の問いが、遠慮がちに投げ掛けられた。
私は川の水面を眺めたまま、ふるふると首を横に振る。
「いいえ、そうじゃないの。そういうことじゃなくて……結婚すること自体は嫌じゃないのよ。それはもう、女子であるゆえの定めだと、仕方のないことだと、割り切っているから。今さら“嫌”とか、そういうのは無いの」
これは本当だ。
まがりなりにも“姫”などと呼ばれる女として生まれついてしまった以上、家のためと定められた誰かと結婚させられることになるのは、もとより覚悟していた。
それこそ、まだ“姫宮”などと呼ばれる以前、ただの“一貴族の姫”として、母上や姉弟と共に里邸である三条の大臣の邸で過ごしていた時分から。――それくらい幼い頃より、誰からともなく言い聞かせられてきたことだったから。
特に、私たち姉妹を殊更に可愛がってくれていた祖父である三条の大臣には、事あるごとに『二の姫の婿がねは儂みずから良き公達を探してやるぞ』なんてことばかりを、よく言われていたものだ。――後から聞いたところによれば、姉の許婚者を父が祖父に何の相談もなく決めてしまったことで相当拗ねていたらしい。『二の姫の婿は、何としても儂が選ぶ! 儂の選んだ男しか認めん!』と、かなり息巻いていたようだ。
だから私は、いつかは祖父の決めた婿をこの邸で迎えることになるのだ、それが自分のあるべき行く末なのだ、と……そう当然のように、うすぼんやりとながらも結婚というものを心に受け入れていたように思う。
しかし、その後たまたま父が帝となってしまったがために、自邸に婿を迎えるのでなく、相手の家へと嫁ぐことになっただけ。
その相手が、たまたま右大臣家のご子息に決まった、というだけのことだ。
また、間違ったって、会ったこともない相手との結婚なんて嫌だ、という理由でも、サラサラ無い。
「でも、本当のことを言えば……上手いこと宮中を脱け出せた暁には、そのまま尼寺にでも駆け込んで出家してもいい、なんて、考えたこともあったな―――」
ポツリとそれを呟いてみた途端、背後でギョッとしたように良政が息を詰めるのが分かった。
結婚は嫌じゃない。――だが、出家したい、これも本当の気持ちだったのだ。
そもそも践祚の際に、伊勢の斎宮にでも賀茂の斎院にでも、私を任じてもらうべく父上に願い出てはいたのだ。
だって、本来ならば私が任じられてもおかしくはないものでしょう? ――今上に皇女はまだ二人しかおらず、その時点で二人とも未婚ではあったものの、一の姫には既に許婚者がおり結婚まで決定していたのだ。
よって、最も斎皇女に相応しい“未婚の皇女”といったら、私しか居ないじゃないの。
だが、まだ裳着も済ませていない子供の言うことだからと取り合ってもらえず、アッサリそれは却下され、そうこうしているうちに従姉妹にあたる兵部卿宮家の姫君が斎宮に決まってしまったのである。同じ理由で、ちょうど空位となった斎院の座には、やはり従姉妹にあたる式部卿宮家の姫君が就くことになった。
斎宮も斎院も塞がっているのなら……あとは仏門しか無いじゃない。
「…冗談よ。もう、そんなこと思ってないわ」
振り返って笑顔を見せても、まだ疑わしそうに私を見つめる良政。
「出家したいと考えていたのは、宮中から出てみたいという想いが高じてのことだったの。帝の娘である私が結婚すること以外で宮中から出られる道があるとしたら、斎宮になるか斎院になるか、じゃなければ出家するしかないかなー? なんて。――そんなふうに、この結婚が決まる前まで考えていた、ってだけなのよ」
ようやく身体を斜めにし横据わりすると、真正面から立った彼に向き合った。
「では、なぜそうまでして宮中を脱け出されたかったのですか? やはり結婚が原因では……」
「いいえ、違うわ。こんなこと言っちゃった後じゃ信じてもらえないかもしれないけど、脱け出したかったのは、本当にただの気分転換なのよ。…だって、こぉんな私の乗り気の無さなんて何のその、ってカンジで周りだけが大乗り気で、あまりにも景気よくトントン拍子に話だけ進めてっちゃうもんだから。当事者の私は置き去りにされた感ばっかりが一杯で、ここ最近ずっと不貞腐れ気味で過ごしてたの。それで、ずっと忘れられずにいた子供の頃の夢を、この結婚前に何としても実行したくなっちゃったの。それをすれば、この鬱々した気分も少しは晴れてくれるかな、って」
「その、『子供の頃の夢』、というのは……?」
「自分の知らない広い世界を、御簾の内側からじゃない世界を、この目で見ること。――少しでもいい、それを叶えてみたくて……」
――あの“抜け穴”の向こうに広がっていた、この素晴らしい世界を。
「私にとって、それを叶えること、すなわち宮中脱出、ていうことだったのよ」
わずかなりとも、こうやって体験することが出来た今。――もう、それだけで本望だ。
「こうして願いが叶った今、腹は括ったわ。もう結婚だって何だってドンと来い! てなモンよ。たとえ顔も知らない相手だったとしたって気にしないわ。そんなの最初っから諦めてるもの」
「結婚が嫌だ、ということでないならば……姫宮さまのおっしゃる『乗り気じゃない』という理由が、では何かほかにあるということですか……?」
まるでワケがわからないとでも言いたげに、そうおずおずと良政が問うと同時。
なんだか我知らず、くくくーっと眉根がひそめられていくのが、手に取るように分かった。
私の突然の顰めっ面に、それを見下ろしていた良政が軽くビクッとしたのが、そちらを見ずとも気配で伝わってくる。
それをキロッと小さく睨み付けるように見上げて、「そういえば…」と、おもむろに彼へ問うた。
「―――右大臣の若君って、どんな人よ?」
「は……?」
即、きょとん、という目をした彼に思わずイラッとして、「だーかーらーっ…!」と、そのイライラに任せてまくしたてる。
「あなた、右大臣家に仕えてるんでしょ? つか、そもそも結婚のこと知ってたことといい、私が乗り気じゃないことまで知ってることといい、もしかしなくても若君付きだったりするんじゃないの? それとも右大臣当人の方? じゃないにしても、どっちかに近しいところで仕えてたりするんでしょ絶対? どちらにせよ、だったら間違いなく知ってるわよね、どんな人なのか!」
「いや、あの、え、あ、まあ、それは確かに……知ってるといえば、そうなのですが……」
「じゃあ教えてよ? 良政から見て、右大臣の息子って、どんな人なの?」
「そんな、薮から棒に言われましても―――」
そこでモゴモゴと言い辛そうに言葉を濁す煮え切らない彼の姿を見て、…そりゃー言い辛いのも無理はないか、と。
この気ィ遣いーな忠義者では、何を語るにも主人の不利にならない当たり障りのないことだけしか言わないだろうし、かつ、それが結婚相手である私に対しての礼儀とも思っているに違いないだろうから。畳み掛けるだけ無駄かもしれない。
…と、私もアッサリ諦めることにする。
「もういいわ。――その分じゃ、あなたも知ってるようね。右大臣家の若君が、後宮でどんな噂の的になっているのか」
「――はい……?」
「トボけなくてもいいわよ。つまり当人は、あなたの口から言い辛い素行の人物、ってことなんでしょう?」
「いえ、そういうわけでは……」
あくまでも庇い立てするつもりか。――おもむろに私は深く息を吐き、昂ぶりかけていた気を静める。
そして改めて、「とりあえず、噂でとはいえ私も一応は知ってるのよ」と、じっと真っ直ぐに良政を見つめながら、淡々と、それを語った。
「右大臣のご次男でいらっしゃる右近衛中将の保晃さまと云えば、指折りの有名人ですもの。私はまだ実際にお会いしたことは無いけれど、噂には事欠かない方だから、知りたくなくても自然に耳に入ってきちゃうのよね。つい先だっても、とうとう三位中将にまで昇進なされたって話題で、過言じゃなく女房総出の大騒ぎになってたものよ。――でも……確かに、騒ぎたくなるのもわかるのよね。だって、聞けばまだ二十歳ほどだと云うじゃない? それで既に右の司の次官筆頭にまでおなりでいらっしゃって、従三位にまで叙せられて。てことは、もはや右大将への昇進も目前、どころか、叙留のうえ参議や中納言を兼任するお話だって、いつ来てもおかしくないワケでしょう? これは、たとえ順調な出世を約束されてる公卿のご子息であるにしても、すごいことよねえ? 皆が騒ぎ立てるのも無理はないご栄達ぶりだわ。それに、またこれが、目もと涼やかなハッキリしたお顔立ちの美男子でいらっしゃるとか言うじゃない。…ま、確かに、そこまで完璧な経歴もってて見た目ブ男だったら笑っちゃうけど。それにしたって“お約束”すぎるわよ。完璧もそこまで徹底されてると、もはや凡人には何も言えないわよね」
そう、あくまでも淡々と抑揚も無く語る私の言葉を聞きながら、こちらを見返す良政は、どこまでもキョトンとした表情を返す。
それもそうだろう。――直前にあんな思わせぶりな言われ方をしたのだから、次は若君のどんな不名誉な噂を聞かされるのかと身構えていたことだろうに……よもや、出てきたのは褒め言葉だったとは。彼にしてみたら、一体どういうことだ? と訝しく思っても、全くもって不思議じゃないわよね。
それを心得ている上で、更に私は、言葉を継ぐ。
「ホーント、まさに存在自体がイヤミなホドじゃなくって? 家柄も良く、身分もあり、才覚もあり、能力もあり、帝の信頼まで厚い、おまけにお顔までおステキで? なーんていう、非の打ちどころなんて全く無い将来有望にも有り余るくらいにホドがあり過ぎる若公達、ときたら! 誰だって羨んでしまうわよねー当然。のみならず、憧れたり恋焦がれたりだって、してしまうわよ。そりゃもう、まさに世の女性たちが放っておくハズもない、ってーものだわよ」
「は…はあ、それは、お褒めにあずかりまして……」
「――てなだけあって……常に女性の影が絶えない方でも、いらっしゃるようだしぃー……?」
それを告げた途端、ギクッとしたように良政が一瞬だけ表情を強張らせた――のを、迂闊にも見逃すような私では決して無い。
気付いたや否や、おもむろにブスッとした表情になって半眼を向けた私の、その視線の先で。
「さ…さて何のことやら、私には……」
良政は、強張ったと見えた表情もカンペキなまでに元へ戻した上、言われたことになど全く心当たりが無いような素振りでもって平静を装っている。
――でも、視線が完全に泳いでるのよね。私の視線から目だけが必死に逃れようとしてる。見るからに分かる。
思わず「ふうん…」と鼻を鳴らしてみたら、それでハッとしたように、恐る恐る、また私の方へと視線を戻してきた。
そこを捉まえて畳み掛ける。――ついでにニッコリ満面の笑顔も張り付けて。
「やはり世の女性たちの熱い眼差しを一身に受けるようなお方は違うわよねー恋のお噂も華やかでいらっしゃってー。…ま、それも当然ってものかしら? どちらへいらっしゃっても引く手数多でしょうからっ?」
「や、あの、その、そんなに言われるホドそこまでのことは幾ら何でも……」
「あら、そうなの? 毎夜毎夜の夜歩きはアタリマエ、流した浮名も数知れず、お手をつけた女房なんて、それこそ後宮の七殿五舎すべてに渡っていらっしゃる、…とまで、聞いてるけど?」
その瞬間、今度こそキッパリハッキリ、良政の表情がピクッと大仰なまでに引き攣った。
「……そ、それもまた凄まじい言われようですね」
「自業自得でしょ、そんなもの」
引き攣りながらも何とか平静を取り繕おうとして答えを返す良政の努力は窺がえたものの……しかし、それを私は一刀両断。
今の今まで浮かべていた満面笑顔をアッサリ剥がすと、ニベもなく言い放つ。
「それもこれも、遊び慣れてる女房やら年増の未亡人やら夜離れて久しい人妻やら、食っても後くされのない女にしか手を付けないからでしょーよ」
「…………ッ!!?」
――あららー、とうとう引き攣った表情が痙攣までし出しちゃったわねー。
…てなことをノンビリ考えてる私が冷静すぎるのかもしれないが。
良政にとって、今の私の言葉ってば、よっぽどの衝撃だったんだろう。引き攣った片側の頬をぴくぴくさせながら、ついでに唇までわなわなさせてまで絶句してるもの。
ま、そりゃそうかもねえ? 我ながら、“当今の皇女”なんていう雲上の姫君なら絶対に言っちゃいけないよーな発言したなー、とは思うもの。
でも、右も左もオンナばっかり、って中で暮らしてれば、こんなもん、まだ序の口よ?
ホント後宮ってトコロは、どこ行っても常に殿方の噂ばかりが飛び交っているような場所なのだから。男女の仲のあれやこれやだって、知りたくなくても聞こえてきてしまうもの。
おかげで私も、まだ裳着を済ませたばかりの年齢だというのに、耳だけは既に大年増よ。
「つまり彼にとっては所詮、恋なんて、単なる女遊びでしか無いのよね。もとより、やってることからして身を固める気なんてサラサラ無いのが丸わかりなのよ。だからこそ、あれやこれやと面白おかしく噂のネタにもされるのよね。一人くらい、どっかの名家の深窓の姫君あたりと契りを結んでいれば、また違ったんでしょうけれど」
「…………」
「てゆーか、そういうことすらしないから殊更、後宮の女房みたいなホドホドに遊び慣れてて娯楽に飢えた熟女が、わんさか群がってくるのよね。たとえ“ごっこ”でも恋の駆け引きなんて、ヒマ持て余した女には最高の娯楽じゃない。素敵な殿方がいれば、噂するだけじゃなく、実際に恋を仕掛けて楽しむに越したことはないものね。それに、三位中将ほどの公達を落としたともなれば、女ぶりも上がるというものだし? またそれで上手いこと当人に気に入られれば、北の方にしてもらうのは無理でも妻の君の一人にはしてもらえるかもしれないんだから、そうなれば一生安泰ってものでしょ?」
「…………」
「こういうの、何て言うべきなのかしら……いわば〈持ちつ持たれつ〉、みたいな? それ考えるとやっぱ、つくづく良家の坊ちゃん育ちってのはツメが甘いわよね。遊び人を気取ってたって、その実、逆に遊ばれちゃってるんだから」
「…………」
「――で、どうなのよ良政? そこらへん、事実なの?」
「え!? あー…いや、そこは、あの、えー……わ、私の口からは何とも、その……」
「わかったわ、事実なのね。もう訊かないわ」
「…………」
相変わらず引き攣った表情のまま、更に何とも形容のし難い色まで付け加えた良政の硬直しきった顔を、やはり相変わらずの半眼のまま斜に見上げて私は。
「だから、つまり……それが、この結婚に気乗りできない一因でもある、ってーことなのよ」
おもむろに、はーっと深々とした息を吐き出した。
「さすが、あの今ノリにノッてる右大臣のご子息だけあって、遊び方まで計算づくよね。どこぞの姫君なんかにお手を付けないのも、ご自分の出世に有利となる最も有力な方はどなたか、それをジックリ選んで見極めている真っ最中、だからかしら? 何にせよ、彼に選ばれる姫君は幸せね。そこまで厳しく選びに選び抜かれた方ならば、きっと大事にされるに違いないもの」
「…ならば、お言葉をお借りして言うなれば、そのようにして選び抜かれたのが姫宮さま、ということになるのではないですか?」
差し挟まれたその言葉に、「違うわ」と、即答で私は返す。
「私は、三位中将に選ばれたんじゃないの。――右大臣に選ばれたのよ。出世に使える“駒”として、ね」
本当に…つくづく右大臣という人は、この天下泰平な平安の世にあってこれほどまで切れ者はいるまい、って称されるに相応しい、出世欲旺盛な極めて有能な官吏だと思う。
聞いたところによれば彼の御方は、任官すると同時にあれよあれよという間に出世して、とうとう現在の地位にまで登り詰めたのだそうな。
しかも元々は、その地位を約束された摂関家の生まれではなく、傍流の縁家出身なのだと云う。公卿になれる家筋ではあるものの、どんなに頑張っても出世は納言止まり、と目されている家格でしかない。
どこへ行っても家名や家格が大きくハバをきかせているようなこの世界にあって、しかしそんな障害をものともせず、その実力だけを頼みとし、有力者を、時の帝を、また時には運までもをも味方に付けながら、自力で今の地位まで伸し上がってきた。
そういう人物、だからこそ……せっかく自らで築き上げた自家の地位を、このまま失うのは惜しい、後の世にまで亘る揺るぎ無きものとしておきたい、といったことを考えたのかもしれない。――それも富と名声を手にした者の常よね。
ゆえに、打った次の手が、正当な地位を約束された血族――つまり皇統との縁組。
…ま、使い古された常套手段ではあるけれど。それだけに確実、ってーモンでもある。
でもって、現状で取れる手段のうち最も手っ取り早いのが、当今の皇女である私を自身の息子に嫁がせることだ。
本来の常套手段で言うならば……特に“大臣”なんて地位に在る公卿ならばやはり、今上へ娘を嫁がせ、その娘が産んだ皇子を次代の帝にし、自身は摂政もしくは関白となって陰ながら政治の実権を握る。――てーカンジでいきたいものだろうが。
それを考えの内に入れているからこそ、今上が即位した早々に娘の一人を『藤壺の女御』として入内させたのでしょうけれどね。
だが、入内して日も浅い女御が帝の皇子を宿すまで悠長に手をこまねいて待っているだけ、ってのは、如何にも建設的ではない。
何より今上には、はや元服も済ませて正当に立太子された日嗣の皇子が、既にいらっしゃるのだ。
たとえ早々に娘が上手いこと皇子を産むことが出来たとしても、その子が帝となれる日は、いつになるものやら―――。
とくれば……そりゃー“手っ取り早い”って方法を採るわよねー誰しもー?
――そう、あの右大臣にかかってしまえば……私なぞ、そして実の息子でさえ、彼の手の中の“駒”でしかない。
「でも仕方ないわ。今の父上には、有力な公卿の後ろ盾が無いに等しいんですもの―――」
いくら世間知らずの私だって、まるっきりの馬鹿じゃない。
帝の位に就いたところで、有力貴族を味方に付けないことには宮中で生きてはいけないのだと……それくらい、ここに住んでれば馬鹿でも解る。
「今の父上には、義父である三条の大臣しか、実質的な後見が無いも同じなのよ。私の結婚を通じて右大臣とも誼を結べたなら、それを上回る強い後ろ盾となってくれるわ」
そもそも先坊の突然の御薨去によって急遽“転がり込んできた”とでも云うに等しい今上の即位は、誰もが予想だにしていなかった、いわば万人の死角とでもいうべき、降って湧いた大事件だったのだ。
それも元を辿れば、その出自に由縁する。
今上のご生母たる大后さま――前の帝の後宮において『梅壺の更衣』であられた私のお祖母様は、践祚に伴い准三后宣下を受け、准后としての待遇を得られたからこそ、新たに賜った殿舎の名を冠し『宣耀殿の大后』と、生前は称されていたワケだけれど。
しかし元々、どんなに頑張っても末端の中流貴族、としか目されない出自であらせられたのだそうだ。
当時すでにご他界されていたというお父君は生前正五位下まで叙せられた元大学頭であり、また、その父君から家督を継いだ実の兄君は、今でこそ大后さまの御威光に与り従四位上たる右大弁まで昇られているものの、その頃はまだ、助教を経て正六位下をいただいたばかりの新米大学博士。――とまあ、そこからして元来、貴族、というよりは、有能な人材を多く輩出することで知られるソコソコ名門の学者の家系、という家だったようだ。
五位を得て初めて“貴族”と呼ばれる世にあっては、その当主が六位でしかなかった以上、確かに『どんなに頑張っても末端の中流貴族』などと云われても仕方が無かっただろう。
また、聞いたところによれば大后さまは、最初から更衣として入内されたわけでもなかったらしい。そもそもは掌侍として宮中に出仕されたのだが、その聡明さと美しさゆえ前の帝のお目に止まり、勾当内侍として重用され、ご寵愛を受けるに至り、高じてついには更衣の待遇と梅壺を賜ることにまでなったのだという。
それがゆえに、女御にも等しい地位に在った今上のご生母、という御方にもかかわらず大后さまは、生前は准后の待遇に留められ、皇太后として立后せられることも無かった、というワケだった。
たとえ帝の皇子として生まれようと、母君の身分が低ければ、必然的にそれに見合う位しか与えられない。――それが当世の常識である。
今上の父君である前の帝もこれを憂いて、そこに儲けた皇子を臣籍降下させるべきか否か、ずっとお悩みになっては常に気に掛けていたというほどだったらしい。
――というより、もとを質せば今上は、先に述べた大后さまの出自ゆえ、また、位確かな後見役にも恵まれずにいたこともあり、親王の身分など得られるべきお方ではなかったはずなのだ。
それを、臣籍にも降ろさず皇籍に留め置き、のみならず、あえて親王の待遇と品位までをも与えられた前の帝は。
なにせ“一の寵妃”とまで称せられていた梅壺更衣との間に儲けた初めての御子のこと、母子ともどもに、ひとかたならぬ深いご愛情を注いでいらしたゆえに、ということも、当然ながらあっただろうが……しかし、そうであるならば尚更、ロクな後ろ盾も付けないままに二の皇子を皇籍に留めておくはずがない。臣籍に降ろし臣として身を立てさせたほうが、当人にとってはよっぽど幸せというものだろう。そのことに、『賢君』との呼び声も高かった英邁な前の帝が、気付いていなかったはずもない。
では何故か、と問うならば……一番の理由はやはり、時の東宮――今上にとっては兄君である前の帝の一の皇子に、当時まだ男御子がお産まれでいらっしゃらなかったこと、これに尽きるのだろう。
推察されるだに前の帝は、ゆくゆくは東宮へ譲位されるにあたり、二の皇子であった今上を次の東宮に立てることを、お考えだったのではあるまいか、と―――。
そもそも前の帝からして、兄君であられた前々帝のご崩御に伴い、帝位を受け継いだ御方である。前々帝も、やはり男御子に恵まれずにおられたがため、生前より前の帝を東宮に立てておられたのだという。
御自身の御血統を後の世にまで伝えられぬ兄帝の無念さを、東宮というお立場から前の帝は、痛いほど身近に感じていらっしゃったことだろう。
その無念を御自身の御代でまで繰り返すことを厭われたがゆえに……だからこそ前の帝は、自らの御血統を確実に後世に伝えられる手段を講じられたのではないのだろうか。
二の皇子であった今上は、つまり、その“布石”とされたのだ。
その“布石”が、何故よりにもよって身分低き更衣腹たる皇子でなければならなかったのか、と問うなれば……理由は極めて簡単なこと。
前の帝と、次代の東宮となるべき皇子をお産みあそばすに相応しい身分をお持ちでいらっしゃる他のお妃がたとの間には、東宮となった一の宮以外の男御子を儲けられなかったため。ただそれだけのことである。
万が一、東宮がこのまま男御子を儲けられず身罷られてしまうようなことがあったとしても、やはり実子たる二の宮が帝位を継いでくれさえすれば、御自身の御血統は後の世へと続けられる。
だからこそ前の帝は、母君の身分には釣り合わぬとは重々承知してはいつつも、まさに断腸の決断でもって、二の皇子を親王とし皇籍へ留め置かれることとされたのだ。
しかしながら、東宮がご健在であり、まだ日嗣となる男御子がお産まれになる可能性がある以上。
ただの“布石”でしかない、しかも親王たる身分にも余る二の宮は、いずれ東宮に男御子が誕生した暁には晴れて臣籍に降るものと、そう誰もに目されており。また当人もそのつもりだと早々に公言されていたというから。
ゆえに当然の如く、そんな名ばかりの皇子に肩入れしようとする者など、居ようはずもなかった。
だから正式に東宮として立太子されるまでの今上は、時の帝の第二皇子というお立場にありながら、兄である時の東宮の栄光の陰で日の目を見ることもなく、両親以外の誰に顧みられることもなく、ましてや確固たる臣として身を立てることも出来ず、実質“無品の親王”として生きるほかなかったのだ。
それが僅かながらも好転をみたのは、今や承香殿中宮とおなりあそばした姫君と出逢い、ご結婚なされてからだろう。それを機に、義父となった舅の――当時は権大納言の地位にあらせられた有力公卿の後見を、ようやく得られることとなったのだ。
それが今の『三条の大臣』――すなわち准大臣の位にいらっしゃられる御方である。
だが、それでも……やはり時の東宮がご健在でいらっしゃるうちは、身内となった准大臣とて、日の当たらぬ二の宮を殊更に周囲へ推し立てるようなことはなされなかった。
そのため、今に至るまで今上には、他の誰の後見・後援の手の一つすら、回されることはなかった。
――皇女である私を望んだ右大臣の狙い目は、まさにそこだったのだ。
今の准大臣は、不遇なる皇子の後見役となったことで前の帝の覚えもめでたくなり、順調な出世を重ねられ、その位を戴く前には、数いる大納言・権大納言の筆頭に在る『一の大納言』と称される地位にまで上られていた。それが、実娘の入内決定に伴い、遠からず立后となるのを見越した上での人事だったのだろう、一の大納言に叙留のうえ従二位を授かり、准大臣への兼帯を任じられるに至った。
よって以来『三条の大臣』と、住まいである邸宅の在所から、そう呼ばれるようになったのだが……しかし、そもそも“准大臣”などと呼ばれる職は、位階としては内大臣と大納言の間に置かれるものの、特に職掌を持たない令外の官、いわば名ばかりの名誉職。ゆえに職掌は未だ一の大納言としての政務を担っていらっしゃる。
つまり、准大臣以上の地位と権力を有する公卿――その一声で政局をも左右することのできる、名実ともに“大臣”たる国家の最高機関を束ねる太政官の長官には、今上と誼を通じている者が誰もいない、ということになる。
そのようなところに、まず真っ先に、“右大臣”という地位に在る自分の手が届いたとすれば……それは、他の誰をも差し置き、より自身が多くの物事を采配できる、ということに繋がるに違いない。
それを為すための手駒が、実の息子、そして今上の皇女たる私。
娘を入内させることは公卿ならば誰でも出来るが、一人しかいない未婚の皇女を自家に降嫁させることは、当然ながら一人にしか赦されない。
ならば、何よりも先に、それを確保しておくが先決である。
その一人となることこそが、現状では、今上と最も“手っ取り早く”誼を結べる唯一の方法なのだから。
能吏と名高い右大臣が、これをみすみす見逃すテは無いだろう。
なにしろ、すべては姻戚関係がモノを言う世界である。この“手っ取り早い”縁組が叶えば、追っ付け右大臣自身も帝の外戚となることができ、朝廷での地盤がより強固となって発言力も増すことになるのだ。また、実際に皇女を娶った息子も帝の義理の息子となるゆえに、親子ともどもで確固たる地位を築くことも出来るだろう。そうなれば、帝を通して様々な事柄を自身の思う通りに推し進めることも、より容易くなるに違いない。
その時点で、右大臣の築いた栄華は、少なくとも今上の御代の続く限りは、次代にまで継承させ得ることが確実となる。
娘の女御入内など、念のために打った布石、いわば保険をかけたようなものでしかないのだろう。――今後もし帝の御子をお産みまいらすようなことにでもなれば、その権勢も益々磐石なものとなるのは必定。男御子にしろ女御子にしろ、“駒”は多いに越したことはないのだ。あわよくば、次の次の帝とすることも可能となるやもしれないのだから。
さすがは右大臣、どう贔屓目に見ても打つ手に抜かりが全く無い。
これほどの者だからこそ……今上も、自身の後見役にと望まれ、私を降嫁させることを受諾したのだろう。
この右大臣が味方に付いていてくれる間は、今上の帝位も安泰には違いない。
だからといって、それで磐石かと問われれば、そうだとはとても言えない。
今は良くとも、次の代を考えればどうなるか。――それは自ずと知れる、っていうものだろう。
「皇女である私を降嫁させる、という申し出を先に承諾しておけば……さすがの右大臣でも、今上が左大臣の姫を東宮女御にと望まれることに、表立って否やは申し立てられなくなるでしょう? 元服したばかりの東宮と年齢も釣り合う左大臣の姫、といえば、御年十二歳におなりだという末の姫だけよ。その末姫の母君は、内大臣にも縁ある御方。――その事実があるからこそ……東宮に立った息子のためにも、父上にそれを断る術は無いわ」
帝と臣との不和は、確実に後継者争いに発展する。
父の代で有力公卿たちとの繋がりを密に築いておかないと、せっかく立太子された息子に帝の位を譲ることさえ難しくなってくるかもしれない。
なにせ、まがりなりにも“大臣”などという地位にある公卿にかかってしまえば、あの手この手と策を弄し今東宮を正当に廃位させたうえ御し易い者に挿げ替える、という半ば乱暴なまでの強攻手段だって、充分に実現し得ることなのだから。
自身が不遇な親王時代を経験してきたからこそ、せっかく日の目を見た息子には同じ想いを味わわせたくはないと考えるのが、親心、っていうものでしょう?
その今上の足元を見たからこそ、右大臣が“後見”というエサをチラつかせて私の降嫁をゴリ押ししてきたのだとしても、何ら不思議でなことではない。
だが、それはなにも右大臣ばかりのことではない。
政務を掌る臣の頂点たる“大臣”は、まだほかにもいらっしゃるのだ。
最高位に太政大臣、その下に、左大臣、右大臣、内大臣、そして末席に准大臣。――うち、太政大臣は、つい先だって身罷られたので現在のところ空位だし、もとより政治へ参画する権限はお持ちではない立場である。加えて、末席の准大臣もあくまで名誉職だから、実質“大臣”として政務を執ることの出来るのは、左大臣、右大臣、内大臣、のお三方のみになる。
そもそも私の降嫁についての申し出にしたって、当然のことながら決して右大臣からだけのものでなく、左大臣と内大臣からも、それぞれ同じようにあったのだという。…皆、考えることは似たりよったり、ってことかしら?
だが、その中で父上は、真っ先に右大臣の申し出から受諾することを選んだのだ。
おそらく、三人の現大臣の中で右大臣こそが最も敵に回したくない存在だと踏んだからに相違ないだろうけれど……とはいえ、いくら有力だからと右大臣とばかり誼を通じれば、他の大臣が、それを良く思わないのは必定。
帝と臣との不和だけでなく、臣同士の不和も当然、国の乱れる元となる。
ゆえに今上が、その御位に就かれてから真っ先に御心を砕かれたこと。――それこそ、現大臣お三方の均衡を保つ、ということだった。
そのために今上は、さしあたりの措置とはいえ、私の右大臣家降嫁を承諾すると時を同じくして、立太子した息子の正式な妃となる姫君を左大臣家に求められ、今上の女御として入内された内大臣家の姫君には後宮の七殿五舎で最も格式高い弘徽殿を賜られた。
これで、大臣お三方それぞれの面目を保つことができるうえ、今上は右大臣の後見を得られることとなるし、やはり外祖父である准大臣の後見しか持たない東宮にも、左大臣、内大臣、准大臣という、太政官の長官に在るお三方が後ろ盾として揃いぶみすることになる。なにせ、今上が東宮女御にと望まれた左大臣の末姫は、ご生母が内大臣の実姉という御方なのだから。
後々までをもお考えに含めた、見事なまでのご采配。
そのような父上のお心配りを理解できるからこそ、私も……自分が右大臣家に降嫁するしかない、それが私の取らなければならない道なのだということを、痛いくらいまで分かりきっている。
――しかし、それでも……、
「多少なりとも、どうなの? くらいのことは思いたくもなるってモンでしょうよ? すべては右大臣の掌の上で転がされてるだけ、ってところからして、ただでさえ釈然としなくて心の底からの手放しでは気乗りもできないでいる、ってーのに……それに加えて、よりにもよって当の結婚相手が、そーこーまーでーのー噂が立ってらっしゃる女遊びも甚だしい御方、となれば余計に、ねー……いくら正妻の座が確実とはいえ、愛されもしないことが最初から分かりきっている政略結婚ほど、淋しいものは、無いわよ、ねー……」
そして私は、改めて深々とタメ息ひとつ。
「…どう、良政? これでは、せっかく括った私の腹も緩もうってモノじゃない?」
と、そこで水を向けてはみたものの。
既に若君の話題あたりから頬を引き攣らせて絶句しかけていたこの右大臣家の忠臣に、ハナっから返事は期待しちゃいない。
「でも、それ以上に気に食わないのが……」
「そ、『それ以上』っ……!!?」
続けて告げた私の言葉で、“これ以上まだ何かあるのか”とばかりに、あからさまにビクッと肩を震わせた、そんな良政を睨み付けて。
これぞ不機嫌! って表情を隠そうともせず心の底から憎々しげに、それを私は吐き捨てる。
「当の相手が、現状でもそんな素行不良きわまりない、ゆくゆくは私を“淋しい女”っていう名の不幸のドン底に突き落とすだろう張本人、だっつーのに……! そんなヤツを父上がこの上もない信頼を寄せて重用している、ってことが、まったくもって信じらんなくて釈然としなくて、――ぶっちゃけ腹が立つのよねッッ!! すーっごくッッ!!」
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