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【壱】
しおりを挟む「――姫さま! 二の姫宮さま!」
…ああ、またか。
小脇に抱えるように置いた脇息に全身の体重をかけるかのごとくドップリ凭れ掛かりながら、顔を埋めた袖の中でコッソリとタメ息を吐き出した。
案の定、そう私を呼びながら、あくまでもお上品な小走りでもって居室に入ってきたのは、私付きの女房である奈津。
彼女は私の乳母の娘で、いわゆる“乳姉妹”という間柄。それゆえに、私が産まれてからずっと仕えてくれている。もはや腹心の女房と言い替えても過言ではない大事な存在だ。
――とはいえ、そんな奈津も……今ばかりは、その存在が鬱陶しい。
「まっ、姫さまったら! なにをそんなにだらしない格好でいらっしゃるんです、もっとしゃんとなさいませ!」
座敷へ踏み入るなり、目ざとく御簾越しにそんな叱責を飛ばしてくれた彼女だったが。
しかし目を吊り上げてみせたのは、ほんの一瞬だけ。
グッタリ突っ伏していた私が身体を起こして姿勢を正すのも待たず、すぐ満面の笑みを浮かべると、しずしず御簾のこちら側へとやってきた。
そして私の真横に跪くと、その手に大事そうに抱えていたものを差し出してくる。
「姫さま、またお文が届きましてよ」
「じゃ、またいつも通りにヨロシク~」
「――って、『また』ですの!?」
さっきまでの満面笑顔はどこへいったやら。明らかにコレッポッチの気乗りもしてない私の即答でガックリと両肩を落とした奈津が、これみよがしとばかりに深々としたタメ息を吐き出した。――タメ息を吐きたいのはコッチの方だってのよ。
「いい加減になさいませ、姫さま。仮にも、ご自身の結婚相手となる御方からのお文、ですのよ? 少しくらいは、お目を通すだけでも……」
「見たって、どーせ書いてあるこた同じでしょ。時候の挨拶から始まって歯の浮くような美辞麗句と恋歌と、最後に『今は準備に慌しくお目通りが叶いませんが、近いうちに必ずご挨拶にうかがいます』とか何とかでシメ。――違う?」
「………まあ、概ねその通りでございましょうが」
「だったら読む必要ナシ、時間のムダムダ」
「また、そんなミもフタも無いことを……」
「そもそも、最初のお文を見た限り、見るからに代筆まるわかりじゃないの。どうせ毎回そうなんでしょ、いかにも“イヤイヤ書かされてます”、みたいなー?」
「で…ですが姫さま、今どき代筆は珍しいことじゃございませんでしょ。ひょっとしたら先方は手習いが苦手でいらっしゃるのかもしれませんし……」
「ええ、そうね。ご自身の手跡に自信が無いとか、お歌を詠むのが得意じゃないとか、そういう理由での代筆だったら、私だってわざわざ咎め立てたりはしないわよ? つまり私が言いたいのは、この文が、単なる“事務処理”だ、ってこと」
「姫さま……幾ら何でも、そこまでの仰りようは如何なものかと……」
「だって、そうじゃない? おそらく文面から何から全部、書いた者が作ってるのよ。当人は一切関わっていないんでしょうね。見りゃ分かるわよ、そんなもの。とりあえず当人としては、この話をノリノリで進めてる右大臣の顔を立てるためにも破談にするワケにはいかないから、それでこうやってチョコチョコ思い出したようにお文だけは送り付けてきてる、ってだけよ大方は。――これが“事務処理”でなくて何だというの? 仮にも“結婚相手への恋文”とやらが、これなのよ?」
「姫さまー……!!」
「だから結局のところ、私同様、相手も全ーっっく乗り気じゃない! ってーことでしょーよ?」
そして私もタメ息ひとつ。
――ああ、本当に憂鬱だ。
「目には目を、代筆には代筆を、よ。いつも通り、お返事はあなたに任せるわ奈津」
「……かしこまりましたわ、雪姫さま」
開かれることのなかったお文を抱えたまま来た道を戻っていく奈津を、御簾越しに見送って。
再びグッタリと、私は脇息へ突っ伏した。
そして一人、ひっそりと呟く。
「―――結婚なんてクソクラエよ」
*
昨今の宮中は、何かというとバタバタしていて落ち着かない。
まず端を発したのは、遡ること約二年前。
時の東宮が、流行り病で突如ご薨去あそばされたのがキッカケだった。――というのも……、
それにより急遽立太子されることとなったのが、亡くなられた東宮の弟君であらせられた、前の帝の二の宮たる今上の帝。
今上が新たな東宮となるべく御所へと御住まいを移されると共に、立太子の儀が慌しく執り行われ。
それが済むのを待ち受けていたかのように、今度は前の帝が譲位を表明され、今上の即位の儀が早々に強行されることとなり、そこまでしてようやく安堵できたとばかりに気が抜けてしまわれたのか、そのままサッサとお隠れあそばされてまでしまわれた。やはり先坊と同じく流行り病に罹ったのだという。
葬儀は当然ながら、立て続きに起きた不幸のために宮中総出で行われた加持だの祈祷だの何だかんだといった大掛かりな厄払いも含み、また立て続く儀式の余韻を残した忙しない空気の中にあって全てが一段落する間も惜しむかのように、次いでは践祚に伴っての除目で大わらわ。
そのゴタゴタが落ち着いてくるや否や間髪入れずに、今東宮――つまり今上の一人息子の、元服の儀、合わせて立太子の儀、そして更には、そのご生母たる一の女御の中宮立后の儀までもが、待ち受けており。
しかし、やっとそういった何やらを越えたと思えば、続いては前の帝の更衣であらせられた今上のご生母たる宣耀殿の大后さまが、ご持病の悪化のため、ご他界あそばされるに至る。
その所為で、葬儀を経てから、またもや大掛かりな厄払いの儀式を経るハメとなった後、やっと喪が明けるや否や今度は、度重なるゴタゴタで延ばしに延ばされ続けていた、今上の長女――女一の宮の婚儀が、しめやかに執り行われ。
それが片付けば次には、こちらも延ばしに延ばされ続けていた、今上の次女である女二の宮の裳着の儀が控えている。
――で、その“女二の宮”ってのが、この私、のことなワケだけどー。
そんなこんなな事情があって、私がここ宮中――というか、その最奥部たる後宮に住まうようになったのも、もうかれこれ二年ほど前からのことである。
父が東宮として立ったことにより、その妻であった母も、東宮女御として入内することになった。
その母の、いわば“オマケ”としてくっついてきたのだ。一の姫である姉と今東宮である弟も一緒にね。
よって以降、後宮で日々を過ごす私は、いつの間にやら周囲から、住まいとしている殿舎の名を冠し『麗景殿の二の姫』などと呼ばれるようになった。
というワケで、私が具体的に聞き知っている宮中事情は、そんな経緯を経て麗景殿に住み始めて以後のこと、に、限られるんだけど。――ぶっちゃけ、前の東宮なんて、伯父にあたる人だと云うのに顔も見たことなんてないわよマジで。
だから、私が後宮にくる以前の経緯については、聞き知っているというだけで、実際どれだけの大騒ぎだったのかは全く知らない。
とはいえ、そんな私でさえも、その事の大きさがどれほどのものだったのかを窺い知ることが出来る。
ここ後宮に住んでいる。ただそれだけで。
――もーう、ホント過言でなく、笑っちゃうくらいに慌しいんだから昨今の後宮事情は!
御代が移る、という大きな節目にあたってはどうしても避けられぬこと、と云ってしまえばそれまでだが、このたかだか一~二年の間に幾度となく繰り返されてきた、めまぐるしい人の移動やら異動やら、そして移転に次ぐ移転の数々。
その合間に、葬儀だったり践祚だったり葬儀だったり婚儀だったり、何やかやと吉凶とりまぜて色々なことが起こるんだから。まったく、たまったもんじゃないってのよね。
こんな騒ぎを目の当たりにしてれば、実体験に基づかない“事の発端”てヤツの重大さも、ヒシヒシと実感できようってーモンよ。
私はただ、この麗景殿に“居るだけ”なのに。
そんな“居るだけ”で何もしない――というよりはむしろ邪魔者扱いで何をさせてももらえない私までもがそう思うくらいなんだもの、直接的に関わった当事者はもっと大変だっただろう。
今上の帝であらせられる父上に至っては、ただでさえ通常の政務にお忙しい御身だというのに、次から次へと煩わしい身内事ばかりの日々に頭を悩ませては気も休まらないに違いない。
――だが、それもあと少しの辛抱なのだ。
この一連のゴタゴタの、とりあえずの終着点は、もうすぐ目の前に見えている。
東宮となった弟が東宮御所へ移り、中宮となられた母が新たに賜った承香殿へと移り、婚儀を終えた姉が婚家へと移り……入内してきた当初は母子四人の住まいだった麗景殿が、とうとう私一人のみの住まいとなってから、そう時を置かずして。
つい先頃、姉の婚儀以上に延ばし延ばしに延ばされまくっていた私の裳着の儀も、十五歳を迎えるに至ってようやく、無事に終えることができた。
あとは、これさえ済めば……まるで喉の奥に刺さった魚の小骨のように、父上の胸に痞えてなかなか取れずにいた気懸りの種も、とりあえずはスッキリなくなってくれるだろうに違いない。
――そう……あとは私が結婚して宮中から出て行くのみ、ってー、カーンジぃー?
*
そー…っと極力音を立てぬよう静かに開いた妻戸の隙間から、きょろきょろと視線を巡らせ、辺りを窺がう。
周囲に人の気配が無いことを確認してから、やはり極力音を立てぬように、戸の外側へと足を下ろした。
「――じゃ、行ってくるね奈津」
小声で声をかけ、返事がないことを確認してから、再びそー…っと妻戸を閉じ。
そのまま、抜き足差し足忍び足で、北隣りの宣耀殿を目指す。
もう間も無く迎えることになるだろう私の結婚の準備のため、姉の時と同様、承香殿から母上までもが何かと口を出しに出張ってきては慌しさ最高潮とばかりにバタバタしている真っ最中の、ここ麗景殿。
そんな中、つい先ごろ突然、奈津が熱を出し倒れた。
おそらく夏風邪でもひいたのだろうと診てくれた医師が言ってはいたが……間違いなく原因は過労だろう。
ここ昨今の慌しさと、自分の結婚なのにコレッポッチの乗り気にさえならない私の世話やきで、じわじわと精神的な疲れも溜まり積もっていたに違いない。
それでも『寝ているわけにはまいりません!』と断固として起き上がろうとする仕事熱心な彼女を、『ゆっくり眠ることが何よりの薬なんだから』と何とか宥めすかしては、『熱が下がるまでは大人しくしてなさい!』と厳命をもって寝かし付けることに成功。
そこで私はフと気付いたのだ。――ひょっとして……これぞ“天の与えてくれた絶好のチャーンス!”ってヤツじゃない?
気付いたと同時、思わずニンマリとほくそ笑んでしまった。
倒れてる奈津には悪いけど、折角のこの機会、有り難く利用させていただくことにしよう。
そこで、他の私付きの女房たちには、しおらしく『熱が下がるまで傍に付いていてあげたいの』と伝え、今日一日、彼女の局に居座っていることを承知させ。
一緒に付いて来た、奈津の看病をと申し付けられた女童を、『私が看ているから、あなたは暮れるまで好きにしてていいわよ』と、早々に局から追い出して。――もちろん、『忙しい者たちを邪魔しないように』という建前を付けて、うちの女房の目の届く範囲に居ないようにすることも約束させた。
ようやく一人になった私は、塗籠に寝かせた奈津の眠りを妨げないよう、隅でコッソリ葛籠の中を引っ掻きまわす。
そうして無断拝借した、奈津の壺装束一式と市女笠。
――そう、私が企んだのは、宮中脱出。
ぐっすり眠れるようにと処方してもらったお薬のおかげで、奈津もそうそうすぐに目を覚ますことは無いだろう。
欲しいのは、ほんの少しの時間でいいのだ。
日が暮れるまでの、せいぜい半日。――それくらいで戻れば、きっと見つかることもない。
日の長い夏の時季の今ならば、まだそこまで日も高くないことだし、行って帰ってくるだけにしても充分な時間が取れるハズ。
この奈津が騒いだりしない限りは絶対、他の女房が姿の見えない私を気に掛ける、なんてことだってないハズだ。
なにせココは、今てんやわんや真っ只中の麗景殿。
私なんて居なかったところで…というより、ヘタに気に掛けては世話を焼かなければならない私が目に付く場所に居ない方が、女房たちにしてみれば、余計な仕事も減って大助かり、ってなモンでしょう?
私が奈津の局に引っ込むことを言い出したことからして、体のいい厄介払いが出来たものだと、内心で安堵してただろうに違いない。
一応、念を入れて奈津が早めに目を覚ましてしまった時のために、枕元へ『ちょっと出かけてきます。日暮れまでには戻ります。心配しないでね』といった旨の書き置きだけは残して、局を出てきた。
奈津のことだ。よく目端の利く有能な女房である彼女なら、私がいなくなったと大袈裟に騒ぎ立てるようなことはしないだろう。
私が戻ると書き置いた日暮れまでは、決して公にせず、騒ぎ立てず、静かに私を待っていてくれるはず。…ま、その時は、戻った後で大目玉が待ち受けていることは間違いないだろうけどね。
奈津はいつも、何だかんだお小言は言いつつも最終的には私のワガママを許してくれる。理解しようともしてくれる。そして庇ってもくれる。
だから私は、奈津が大好きなのだし、だからこそ奈津に一番の信頼を置いているのだ。
今回も、結婚前の最後のワガママ、ってことで、なんとか大目にみてもらおう。
宣耀殿へ辿り着くと、さすがにそこは閑散としていた。
…当然だ。主人であった大后さまが亡くなって以来、ここを住まいとして賜った方は、まだどなたもいらっしゃらないんだから。おおかたのとこ、宿直の者が何人か居るくらいだろう。
やっと私は、ここでホッと安堵の息を吐いた。
大后さまご存命中に何度も遊びに来ていた、勝手知ったる宣耀殿だ。目を瞑ってたって歩けるくらい、どこをどう行けばどこに着くのか、隅から隅まで知り尽くしてる。
とはいえ、しかしまだまだ油断は禁物。
さっきまで居た、やたら人の出入が多い麗景殿よりは見つかる心配が少なくなったとはいえ、それでも誰にも見咎められず出られるに越したことは無いものね。用心しなきゃ。
今の私は、略装もイイトコな女房姿。しかもコレ、決して趣味は悪くないというのに宮中の女房としては珍しいくらいどこまでも地味で落ち着いた色味を好む奈津の性格を反映したかのような外出着、なんだもの。
初対面の人間になら、絶対に“姫”だなんて思われるハズがない。
麗景殿に詰めてる女房以外にはホトンド私の顔なんぞ知られてもいないだろうし、何らかの用を言いつけられて使いに出る新参女房、あたりに見えてくれれば、きっと怪しまれないで外に出られると思うのよ。
そういえば……大后さまが宣耀殿へと移ってきて間も無くの頃、子供同士ここに遊びに来ていた時に、庭で“抜け穴”を見つけたことがあったっけ―――。
宣耀殿の東側には、やっぱりここ同様まだ住人の居ない空き殿舎となっている桐壺があるんだけど。
それは本来なら、帝のお妃となったお方の住まいとして与えられる殿舎、ではある。
とはいえ、桐壺の在所は後宮の北東の端に位置していて帝の御在所である清涼殿から最も遠く、どこへ行こうにも不便きわまりない配置となっているためゆえのことだろうか。今もそうだが、前帝の御世においても、どなたかのお住まいとして使われてはいなかったらしい。
それをいいことに私たちは、『探検!』と称しては、しょっちゅう桐壺の敷地内にまで足を伸ばして遊んでいたようなワケだった。
そして、見つけた。――私の知らない、もう一つの世界が広がっているのを。
確か場所は、桐壺北舎の西の端の近く、だったような気がする。
隠れ鬼で、宣耀殿との庭境になっている垣の近く、内裏を外界と隔てる高い築地塀に沿った植え込みに隠れた時。
塀の下方に、私の歳くらいの大きな子供一人がやっと通れるくらいの小さな穴が開いていたのに、気が付いたのだ。
そこから覗いた向こうには、更に植え込みがあり、それを透かした向こうには、知らない建物のある見たことも無い景色が広がっていた。
その頃は、ちょうど後宮内での生活にも随分と小慣れてきた頃で、あちこちの殿舎をまたにかけては遊びに走り回って、もうおおかた宮中を把握したつもりでいたのだったけれど。
まだまだ宮中は広い、知らないことだらけだと、子供心にそれを覚った瞬間でもあった。
それからすぐに、夕餉の時間だと大后さまに仕える女房の呼ぶ声がして隠れ鬼もそこそこに引き上げることとなり、結局“抜け穴”もそれきりとなってしまったのだったが。
しかしその存在は、私だけの秘密として、常に心のどこかに引っ掛かかり続けてきた。
夢を見た。いつかその“抜け穴”を使って外に出、まだ知らない広い世界をこの目で見るのだ、と。
――そんな埒も無い子供の願い事。
しかし以来、おそらく私の裳着の話でも持ち上がったからだろう、折りしも初花を迎えてしまったことも相まってか、それから間も無く弟や歳の近い子供たちと外で遊ぶことを窘められるようになり、庭に出ることさえも禁じられ、母や乳母から“皇女たるもの、すべての子女の手本であれ”とばかりに“女性としての嗜み”とやらを耳にタコが出来るくらいまで諭され始め。
十四歳を迎えるや否や、部屋の中、それも御簾の内側へと、半ば強制的に押し込められるようになってしまったのである。
だから私も、抱いた願い事が一生かかっても叶えられないことを、身に沁みて覚った。
良家の姫君は、みだりに外に出たり姿を見せたりしてはいけません。――ってことは、私が“姫”と呼ばれる者である以上、いつか広い世界へ自分の足で出かけていって、この目で見る、なんてこと、絶対に無理ではないか。
世の中は、なんて不公平なんだろう。
今上の息女たる“姫宮”である以上、これからは“御簾の内側”という狭い空間だけが、私の世界の全てになってしまうのだ。
いつか誰かと結婚して、その婚家に嫁したとしても、それは変わらないだろう。私が皇女である限り確実に、嫁ぎ先も宮家か貴族だろうから。軟禁される“御簾の内側”の在る場所が、後宮から婚家に変わるだけだ。
もう私には、諦めること以外は何も出来ない。するべきは、自身の現状を素直に受け入れることだけ―――。
頭ではそうと理解していつつも……しかし、心では納得しきれなかった。
思い描いた夢だけが、ときめきの残滓の如く、いつまでも胸の中にくすぶり続けた。
外に出たい。――まだ知らない世界を知りたい。この目で見たい。
人気のない宣耀殿を何事も無く通り抜け、階を伝って庭へと降りた。
左手の方には、後宮の北を囲う築地塀に設けられた掖門が見える。
だが私はそれに背を向け、被った市女笠から下がる薄い虫垂衣越し、きょろきょろ辺りを見回しながら誰も居ないことを確認しつつ、桐壺の方へと向かい歩みを進めた。
すぐ真横には、庭境の垣を隔てて、桐壺北舎である建物の屋根が見えている。そこを横目に見やりながら、垣を左手に、念には念を入れて植え込みに身を隠しながら、垣の切れ間を目指して進んでいく。
――例の“抜け穴”は、この垣の桐壺側の北の端、そのあたりに在った筈だ。
私は、記念すべき脱出の第一歩として、とりあえずそれを捜してみることにしたのだ。
まだあるのなら、それを使ってみるのも面白い。
あの当時にして大きな子供一人がやっと通れるくらいの小さな穴だったけど、上手いことすれば、ちょっと広がって大きくなっているかもしれないし。それに私にしても、小柄すぎて我ながら嫌になるくらい、当時からほとんど体型が変わってないし。穴があのままの大きさであったとしても、ひょっとしたら通りぬけられるかもしれない。
いずれにしても希望的観測であることは否めないが……ま、とにかく面白ければいいってものよ。
そもそも、後宮の庭に出たこと自体、本当に久し振り。
たまに奈津の目をかいくぐっては、廂…どころか簀子にまで出て、気分転換に景色を眺めることくらいはあるけれど。こうして自分の足で地面を踏みしめるのは、もうどのくらいぶりになるだろう。
そのことさえも嬉しくなって、頬を撫でていくそよ風の気持ちよさに、思わず浮かれて深呼吸なんてしてみたり。――お忍び行動中だってのに、我ながら何やってんだろうと苦笑するけど。
ともあれ、そうこうしながら、ようやく垣の切れ間に辿り着く。
垣が切れているのは、ちょうど宣耀殿と桐壺を繋ぐ渡殿の真横あたり。つまり、庭から南下して麗景殿の方向に逆戻りしてきちゃったよーなワケである。とはいえ、渡殿の陰に隠れて麗景殿からコチラは見えてないハズだし、この格好ではパッと見で私だと見分けが付くこともないだろうし、心配には及ばないだろう。
今のところ渡殿にも人の気配は感じられないものの、相変わらずきょろきょろ周囲を窺がいながら私は、そこから桐壺の敷地に立ち入ろうとした。
――その時だった。
「…そこの女房どの」
ふいに背後から声がかかった。
咄嗟にギクッとして全身が強張る。
――低い声……明らかに男の人の声よね。
誰も居ないと思ってたのに、まさかこんな近くに人がいたなんて……!
「このようなところで何をしておられる?」
続いて掛かった声で、咄嗟に両手が被った笠を目深に低く引き下げていた。
そのまま俯いて顔を伏せる。
後宮から抜け出そうとしていたことに対する後ろめたさゆえに、すぐさま振り返ることは出来なかった。
「見たところ、いずれかへお出かけのご様子だが……そちらへ向かわれても御門などありませぬぞ? 迷われたのか?」
続けて問われ、ようやく私は、まだ俯いたままではあったが、そろそろと背後へと身体ごと向き直る。
それと共にザッザと地を踏みしめながら近付いてくる足音が響き、俯いた私の視界に映る地面の上に、やがて草鞋を履いた一対の足が並んだ。
そのまま、私はゆっくりと視線を上へと向けてゆく。
むき出しになった脛と、膝下に丈を詰められた小袴。腰に佩いた太刀。やや褪せた縹色の、雑なまでに着崩された狩衣。頭には烏帽子。
見るからに殿上人とはほど遠い、地下の下級武官といったいでたち。――てゆーか、武官にしたって適当な格好すぎる。腰の太刀が無ければ下働きの雑色にも見えるくらいだ。さすがに雑色は太刀なんて持ち歩かないでしょうから、武官であるには間違いないんでしょうけれど。…非番なのかしら?
この後宮に詰めている者だとしたら、近衛府の者か、それとも蔵人所の滝口の武士か……どちらにせよ、厄介な輩に見つかったことには違いない。
「申し訳ありません、まだ不慣れなもので方向を見失ってしまいまして……」
狩衣を纏ったその体躯は、さすが武人らしくガッシリとしていて、それに思いのほか背も高く、人並み以上に小柄な私は顔を合わせるのに随分と上を仰ぎ見なければならなかった。
そうして見上げた目の前の男性は、掛けられた声からおぼろげに想像はついていたけれど、まだ若く、見たところ二十歳そこそこ、ってくらいだろうか。
すっきりとした形よく凛々しい眉の下で、切れ上がった鋭い瞳が、どことなく不審そうに私を見下ろしている。
ここで疑われて不審者扱いされては元も子もない。
慌てて表情に、さも“助かったわ”と言わんばかりに安堵の色をムリヤリ貼り付けると、それを告げる。
「わたくしは承香殿さまにお仕えしております。このほどは、頭命婦さまにご用を言い付かりまして、三条の大臣さまの御邸へお使いに」
『頭命婦』というのは、母上が最も信頼する腹心の古参女房であり、かつ、私の乳母を務めてくれた奈津の母君でもある。長年の付き合いから母上のみならず父上の信頼をも得た彼女は、今や五位を賜った内命婦となり、母上付きの筆頭女官として承香殿で采配を揮っている。まがりなりにも中宮であらせられる母上が、同じ後宮内とはいえ、はしたなくもこうちょくちょく私のもとへ気軽に来ることができているのだって、多方面への根回しも含めた彼女の有能さでモノを言わせている部分が大きいゆえに違いない。
――という頭命婦の名を出しておけば、とりあえず怪しまれることも無いだろう。
また『三条の大臣』は、母上にとっては実の父君である。その御邸は、すなわち母上の里邸。
仮にこの人が頭命婦の名を知らなかったとしても、承香殿の中宮が『三条の大臣』と呼ばれる公卿の実娘であることは、宮中に出仕している以上、いくら何でも知っているはずだ。
娘が実父に何かしらの御用事があったところで、何ら不思議なことではないものね。
案の定、私の言葉に納得してくれたものか、彼は「左様でしたか」と頷いて応えた。…とはいえ、不審そうな顔色は変わらないままだったけど。
「ならば、某が近くの御門まで案内してさしあげましょう」
「いえ、大丈夫です。方角だけ教えていただければ、一人で参れますわ。お手を煩わすには及びません」
「それでは、…もう見えているだろうが、この垣伝いに北へ真っ直ぐ進まれるとよい。そこが最も近い」
言いながら、人差し指と視線で、自らの背後を指し示した。
彼の肩越しに、その先に見えたのは……さきほど背を向けてきた、北を囲っている築地塀に設けられた掖門。
――つか、“あそこに見えてるのに何を迷ってるんだこの馬鹿は?”って、半分馬鹿にされているのかしら……でも、教えてくれた、ってことは、もう疑ってない、ってことよ、ね……?
相変わらず表情は変わっていないけれど。ひょっとしたら、もともと普段から、こう眉間にシワ寄せた不機嫌面している人なのかもしれないし。気にする必要はないのかな。
とにもかくにも、納得してくれたのなら、これ幸い。
「ありがとう存じますわ」
例の“抜け穴”を探し出せなかったのは残念だけど、こういう事態になってしまえば仕方ない。諦めるしかないわよね。
これ以上怪しまれないよう、お礼を言うと共に軽く頭を下げ、素直に彼の指差した方向へと歩みを進めた。――の、だが……、
「…行かれる前に、お尋ねしたい」
私の身体が彼の脇を擦り抜けようとした、まさにその時。
ふいに私の右手首が強い力で掴まれた。――勿論、それをしたのは件の彼。
「なっ……!!?」
驚いて振り返れば、彼は、そのすぐ目の前にまでスッと顔を寄せてきて。
そして、私の耳元に囁いた。
「桐壺には、何のご用がおありだったのか―――」
「――――!!?」
思わず息を詰めてしまった。
と同時に、掴まれた腕が上へと引っ張り上げられ、身体が反転する。
気付いた時には、真正面から至近距離で、例の彼に見下ろされていた。
「それに、承香殿さまに仕えていらっしゃるというあなたが、何故宣耀殿から出てこられたのか……そちらについても詳しくうかがいたいものですね」
――バレてる……!! 宣耀殿から出てきたところから、バレてるっっ……!!
驚きのあまり言葉を失い、唇がわなないた。――こういう時は、とことん腹芸に向いてない己が恨めしい。
私のその様子を薄布越しに目の当たりにし、“それみたことか”とばかりに、目の前の彼の表情が変わる。
「その様子じゃあ、承香殿に仕えているというのも嘘か。…まったく、尤もらしい口実なんぞ取り繕いやがって」
口許に浮かんだのは、まるで獲物を追い詰めた時の肉食獣が如き酷薄さと残忍ささえをも感じさせる、正真正銘“してやったり”って風な微笑み。
「宣耀殿から出てきたかと思えば、妙にコソコソと動き回ったり、挙句、桐壺へまで向かおうとしてたな。―― 一体、何が目的だ? 何の目的があって、誰に頼まれて、こんなところを嗅ぎ回ってる?」
「あ…あの、わ、私っ……!!」
この窮地を脱するためには、何か弁明しなければと思っているのに……頭が真っ白になって、何も言葉が浮かんでこない。
「違うの、あの、だからっっ……!!」
「『違う』だと? 何がどう違うというんだ」
「私、本当は女房じゃなくて……!!」
「ああ、わかってるさ。オマエは単なる不審者だ。狼藉者になる前に、これから滝口に突き出してやるよ」
「そうじゃなくて、だからコッチにも事情ってモンが……!!」
「事情なら詰所で聞いてくれるさ。つべこべ言わずに黙って来い!」
どこまでも“聞く耳持たず”とばかりに踵を返したかと思うと、おもむろに更に強い力で掴まれた腕が引かれ、まるで私を引きずるようにしてサッサと彼は歩き出してしまう。
「だから違うって、聞きなさいよっっ……!!」
そこで咄嗟に私は、渾身の力を振り絞って、その掴まれた腕を振り払っていた。
「違うって言ってるでしょ!!? 私は、女房でもなければ不審者でもない、麗景殿の二の姫なんですっっ!!」
――あ、やっば……!! 自分から正体バクロしちゃったよ……。
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