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【断章】―現在、それから― [1]
しおりを挟む【断章】―現在、それから―
それは、全き闇だった。
一筋の光すら全く差し込むことの無い暗闇に、僕は飲み込まれていた。
そう……きっと、あのときからずっと僕は、この闇の中に囚われ続けていたのかもしれない―――。
――お母さん……いつまでこうしていればいいの?
闇の中で声を出さぬまま、もう何度それを問い掛けたことだろう。
――だって、“約束”したんだから。
『呼びにくるまで、ここで耳を塞いでジッとしてるのよ。声を出してもダメ。――約束よ?』
言い付けを守って『良い子』で待っていれば、きっと母は迎えに来てくれる。この暗い場所から自分を掬い上げて、明るい場所へと連れて行ってくれる。
ただただ、ひたすらにそれだけを信じて、母の手を待ち続けていた。じっと声を殺して―――。
「――もういいぞ、コルト」
ふいに、そんな声が聞こえた気がした。
やっと母が迎えに来てくれた。――咄嗟に、そう思ってしまった。
でも、すぐさま目を開けるのを躊躇ってしまう。
ひょっとしたら、これは自分の願望が聞かせた都合のいい幻聴なのかもしれない、と……そう考えたら怖くなったのだ。
もうすぐ来てくれる、今すぐ来てくれる、という期待を……抱く都度、いつも裏切られてきたから。
また裏切られ絶望を味わうくらいなら、最初から期待など抱かぬ方がいい。目も耳も閉ざし続けている方がいい。
しかしその言葉は、聞こえてきたと同時、何かあたたかなぬくもりを共にもたらしたのだ。
幻聴…だと、さすがに思い込むことは出来なかった。
恐る恐る、閉ざしていた瞼を押し上げる。
そして、声の振ってきた方へと、ゆっくりと首を巡らせた。
「もう出てきていいぞ。遅くなってごめん。よく頑張ったな」
そこに、眩いばかりの“光”が見えた。――そんな気がした。
視界いっぱいに映ったのは、だいすきな笑顔。
愛しくて仕方ない人のぬくもりが、優しく髪を撫でてくれる。
――ああ……僕はずっと、この手を待っていたんだ……!!
自分を、この暗い場所から掬い上げ、陽の当たる道へと導いてくれる、その手を。
自分の中に、明るい光のあたたかさを教えてくれる、このひとの存在を。
――やっと掴まえた……!!
気が付けば自分は、そのぬくもりに縋り付くかのようにして、目の前にある身体を力いっぱい抱き締めていた。
これは、決して手放してはならないもの、絶対に失ってはいけないもの。
ずっと感じていた。でも、それが何故であったのか、今やっと、心の底から解った気がする。
それを確かめたくて……何度も何度も、彼の名を呼ぶ。
でも、届けられない。声なき声では何も伝わってはくれない。
声を出したい。ちゃんと自分の声で、彼の名を呼びたい。――声を殺して以来、こんなにも強い意志をもってそれを願ったのは、初めてだった。
なのに……胸の奥深くから込み上げてくる何かが、喉を塞いでしまう。
それを吐き出したくて、もがいているうち……知らぬ間に自分が号泣していることに気が付いた。
同時に、自分の背中に回された、力強く抱き締めてくれている腕の存在にも。
ただただ縋り付くしか出来ずにいた自分を、まるで安心させてくれるかのように、全身に伝わってくるぬくもりが包み込んでくれていた。ずっとそうやって背中から支えてくれていたのだろう。
なおさら涙が止まらなくなる。
――いつも、いつも……これまで自分は、その深い優しさに赦されていたからこそ、ここまで生きてこられたような気がする……。
「あ、りが、とう―――」
堪えきれない嗚咽を、それでも懸命に抑えながら、ようやっとその言葉を唇に乗せた。
――その、瞬間。
ふいに自分を抱きしめていた腕から力が失われ、同時に、ずるっと目の前の身体が自分から滑り落ちる。
「え……?」
続いて、どさりと何かが床に落ちる音。
咄嗟にそちらへと目を遣って……即座に自分の周囲が真っ暗になる感覚を覚えた。
「――――!!?」
無意識の中、声なき声が迸り、喉がひりつくかのような叫びを上げる。
反射的に動いていた身体が、まさに転び出るかの如き有様で長櫃から躍り出、そこに駆け寄る。
「ニールッ……!!」
彼が倒れていた。
月の光しか差し込まない暗闇の中にあってもハッキリと判るほど蒼白な顔色をしたニールが、気を失い硬い床の上に横たわっていたのだ。
「嫌だニール、なんで、こんなっ……!!」
半狂乱、――というのは、まさしくこのときの自分を表したものなのだろう。言葉にもならぬ声で喚き散らしながら、動かぬその身体に泣きながら縋り付いて、ただただ彼の名を呼ぶことしか出来ない。そんな無力で愚かな自分の様を。
「嫌だニール、死んじゃやだ、僕を置いていっちゃやだ、お願いニール、ニール起きてよ、お願い誰か、誰か助けて、助けて助けて、ニールを助けて……!!!!!」
「―――落ち着け」
ぱしっと、唐突に頬を張られる感触と共に、ものすごく近くからそんな声が響いてきて。
思わず動きを止めて固まってしまった僕の目の前に、いつの間にいたのか、セルマ騎士の姿があった。
「ニールは大丈夫だ。死にゃしねえよ」
「え……?」
「おおかた貧血でも起こしたんだろ。怪我して、ちっとばかり多めに血を流しちまったからな」
「死なない……? でも、怪我したって……?」
「心配すんな。ちゃんと手当てすれば治る傷だ。死ぬほどのこっちゃねえよ」
「じゃあ……ニール、生きてる……?」
「ああ、生きてる。こいつは、おまえを置いて先に逝くようなヤツじゃねえだろ。少しは信用してやれ」
「…………」
混乱と絶望と安堵と……もたらされる感情の振り幅が大き過ぎて、しばし反応もできず茫然としてしまう。
そんな僕に向かい、「わかったなら手ェ貸せよ」と、言ってセルマ騎士が、改まったように横たわるニールを見下ろした。
「こいつ運ぶぞ。どっか手当てのできる、落ち着ける場所にでも――ああ、いいや、おまえの部屋あるよな、とりあえずそこ連れてくから案内しろコルト」
そう口を動かしながらもきびきびと身体が動き、ぐったりしたニールを手際よく抱き起こす。さすが騎士サマというべきか、脱力した大人の男を軽々と抱え上げたうえに難なく立ち上がる、そんな如何にもか弱そうな外見を裏切るセルマ騎士の姿を、しばし座り込んだまま、どこか呆気に取られたかのように眺めてしまった。
「…なにボサッとしてんだよ。ニール放っとく気か?」
再び声を掛けられ、そこでハッとし弾かれたように立ち上がる。
自分の部屋まで先導すべく歩き出そうとしたところで、おもむろに「コルト」と呼ぶ声に足を止められた。
咄嗟に振り返って、引き止めてきた声の主――セルマ騎士を見上げれば。
その表情に浮かんでいたやわらかな微笑みが、まず真っ先に目に飛び込んでくる。
か弱い月光に照らされ少し影を落として視界に映えたそれは、この世のものだとは思えないくらい、とてもとても美しくて……その美貌にそぐわぬ中身を充分に知っている僕でさえ、うっかり見惚れかけてしまったほどだ。
そんな僕の視線を捕らえ告げられた、その言葉。
「よかったな」
「え……?」
「声、出せるようになって、さ。――おめでとう」
遅まきながら……自分が声を出して言葉を喋ることが出来ている、ということに、そう言われて初めて、ようやく僕は気付いたのだった―――。
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