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その日、たまたま普段よりも早い時間に帰途についた僕は、たまたま思い付いて寄り道をし、普段は行く機会もない場所を歩いていた。
そこで偶然、本当に偶然に、喫茶店にいる須田さんを見かけた。
歩いていた通りから窓ガラス越しに見えた彼の隣には、僕の知らない女性が座っていて。
いつも彼が抱っこ紐で抱えている子供が、ごく自然にアタリマエのように、その女性の胸に抱かれていた。
和やかに談笑しているらしい二人の様子は、とても親密そうに見えて……ああ、このひとが『マスミ』さんなんだな、って、だから自然と思えてしまった。
僕は、そのまま踵を返していた。
これ以上、仲睦まじく一緒にいる二人の姿を、見ていられなかったのだ。
その場を立ち去って……どこをどう歩いて自宅まで帰ってきたのかも憶えていない。
その夜、いつも通り予告なく僕の部屋に来た須田さんは、案の定、子供を連れていなかった。
代わりに、その両手には、ビール缶とツマミが詰め込まれたコンビニのビニール袋を携えている。
「リョースケくん、明日は休みだったよな? たまには男同士水入らずで飲み明かそうぜー、子供の居ぬ間は大人の時間、ってね♪」
言ってニパッと笑うや、勝手知ったる何とやらで、そのまま玄関を上がっていそいそと部屋へ向かっていく。
そんな須田さんを、咄嗟に腕を掴んで引き止めていた。
「ん? どうした?」
「――カスミちゃんは……?」
「ああ、別に放置してきたりとかはしてないから心配すんな。母親のとこにいるよ」
「母親……」
「俺らって、会っても子供のことばっかで、じっくり話したこともなかったじゃん。知り合ってから結構たつのに、お互いのことだって、ほとんど何も知らないし。それに、いつもリョースケくんに迷惑ばっか掛けてるから、そろそろお礼もしなきゃ、って思ってたしさ。だから、ちょうどいい機会だな、って。――ま、なにぶん急だったから、お礼の品にしちゃショボイのは申し訳ない限りなんだけど」
「…………」
「てか、なんか元気ない? 何かあったのか?」
普段のように笑顔の一つも返せずにいる僕を訝しんだのか、そこで須田さんが、こちらを覗き込むように顔を近付けてくる。
「俺、何か気に障ることしちゃったかな? ひょっとしてリョースケくん、酒とか嫌いだった?」
思わず顔を背けてしまった。
どこまでも心配そうな視線に見つめられている自分が、どうしても堪え難く感じられてしまったのだ。
そんな屈託の無い好意を向けてもらえるほど、僕は出来た人間じゃないのに。こんなにも醜くドロドロとした想いを抱えている、浅ましい人間でしかないのに。
――もう、限界だ。
まさに今ここに、覚悟していた“いつか”が訪れてしまったのだと、感じた。
須田さんの事情を知って、自分の気持ちにケリを付けなければいけない、それが今この時なのだと。
これまでの、ぬるま湯に包まれているような仮初の幸せに、終わりを告げなければいけない時がきてしまったのだ、と……それを、覚った。
「僕は、須田さんのことが好きなんです。――恋人になりたい、っていう意味で」
あまりに唐突なまで告白に、言葉は返ってこなかった。
代わりに、すぐ傍らからひゅっと息を飲んだような音が聞こえてきた。
ああやっぱり、と思った。
声も出せずに驚くくらいに、僕の気持ちは彼にとって意外すぎるものでしかなかったのか、と。
僕なんて、最初から意識すらされていない存在、でしかなかったのだと……瞬時にして、それを覚った。
「――復縁、されるんですよね?」
「え……?」
「元奥さん、と」
「は? それ、何の話だ……」
訝しげに上げられた声を、最後まで聞く前に「隠さなくていいです」と、食い気味に言葉を被せる。
顔を背け視線を逸らしていたそのまま、無意識に言葉を捲し立てていた。――ひょっとしたら、彼から聞くことになる真実を知るのが怖くて、そうすることで逃げようとしてしまったのかもしれない。
「今日、喫茶店にいらっしゃるところをお見かけしました。そこで一緒にいた女性が、カスミちゃんの母親、なんですよね? 一緒にいるお二人は、とても仲が良さそうで……羨ましくなるくらい、まさに理想の夫婦ってカンジでした。別れていたなんて嘘みたいで、つまり、それも何か事情があってのことだったんですね? だったら僕も、全力で祝福します。もうカスミちゃんの世話を焼けなくなるのは淋しいですが、お二人がカスミちゃんと三人で今度こそ幸せな家族になれるよう、心から祈っていますから、だから―――」
それを止めるかのように、ふいにそこで僕の肩が強い力で掴まれる。
頑なに逸らし続けていた僕の視線が、その強い力に引き寄せられるまま、無理やりのように元の位置へと戻された。
「――だから、何の話だ、って、言ってるだろ……!」
聞けよ、と怒ったように告げられた言葉と、初めて目にする、どこか睨み付けるかのような眼差しに。まさに絡め取られたかのように動けなくなって硬直する。
「どんな気ィ回してそんな素っ頓狂なこと言い出したのかは知らないけどさ……」
須田さんの言葉を聞くのが怖い。なのに、どうしても身体が動かない、視線を逸らすことすら出来ない。
そんな僕に向かって、事も無げに彼は告げる。その言葉を。――どこか呆れたような色まで、その声音に乗せて。
「それ全部、勘違いだから」
「―――は……?」
報われない僕を慰めようと言ってくれたのかもしれない、とはいえ、言うに事欠いて『勘違い』って何だそれ? ――と、咄嗟に思ってしまったそれが、無意識に表情にでも表れ出てしまっていたのだろうか。
「少しは人の言うこと信じろよ、っての……」
どこか疲れたように深々とタメ息を吐いた須田さんが、「とにかく聞けって」と、改めて俺を射抜くように見つめてくる。どこまでも真っ直ぐな視線で。
「確かに今日、俺が喫茶店で一緒に居たのは、カスミの母親だけどな。でも彼女は、俺の『元奥さん』とか、そういうのじゃないし」
「え……?」
「俺には、離婚歴どころか結婚歴からして、全く無いから」
「そんな嘘……」
「嘘じゃねえっつの! 彼女は、俺の弟の奥さん! つまりカスミは、俺の姪っ子!」
「………え?」
「俺はただ、義理の妹に頼まれて、弟の忘れ形見を一時的に預かっていた、っていうだけだ」
「忘れ…形見……?」
「ああ。もう二年は経つかな、弟の真澄が亡くなってから。彼女――花ちゃんって云うんだけどな、弟の嫁さん。あの子、見た目か弱そうなクセして案外たくましい女でなー、くよくよ悲しんでるヒマがあったらカスミのために一刻も早く自活できるようにならなくちゃ! 保険金で生活できてるうちに何とか目途をつけなきゃ! って、唐突に一念発起して子育てしながら猛勉強し始めてさ。その結果、めでたく司法試験に一発合格したんだわ」
「司法試験……」
「もともと結婚前の花ちゃん、弁護士めざしてたんだよ。だけど、子供ができて、大学卒業後は家庭に入る道を選んだ。その選択を周囲から惜しまれるほど、花ちゃんめちゃくちゃ優秀だったみたいだからな、そら天下の司法試験にだって一発合格するわな」
「…………」
「で、弁護士になるのに司法修習はどうしても避けられない、って泣き付かれて頼み込まれて。仕方ないから、その間は俺がカスミを預かることになったワケだ。ウチも花ちゃんとこも両親が居ないから、頼れる身内は俺だけだし。それに俺なら、仕事も在宅のフリーランスだから、保育園に子供を預けたりもしなくて済む。なにかと都合が良かったんだよ」
「…………」
「だから司法修習が終わっても当面、ある程度カスミが成長するまでは、このまま俺が面倒みていくことになるんだろうな。弁護士になったらなったで、まだ下っ端のうちは激務だろうし、そう簡単に独立できるってワケでもないだろうし。彼女がシングルマザーとして働く以上、誰かしら子育ての協力者は必要になるから、まあ当然の流れだよな。――単に、子供付きの生活が今後も変わらずに続いていく、ってだけの話だけどさ」
何だか、もう……入ってくる情報が、あまりにも想定外のこと過ぎて、こちらの思考がついていけてない。混乱しすぎてオーバーヒートしそうだ。
「そういうことを、これまで何も話していなかった俺も、悪いっちゃ悪いんだろうけど……でもまさか、そんな誤解をされるとはな……」
何も考えられない、とは云いつつも、聞こえてきたそんなタメ息混じりの声を処理できるキャパくらいは、それなりに残っていたらしく。
途端、かあっと頬に血を上らせた僕は、反射的に「ごめんなさい」と謝っていた。
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