涯(はて)の楽園

栗木 妙

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Ⅰ章.カンザリア要塞島 ─トゥーリ・アクス─

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 日数にしておよそ五日間、カンザリア要塞島沖で攻防の日々が続いたものの。
 結果として、この緒戦は我々の勝利で一旦の収束をみることとなった。ユリサナ軍が退却という形をとったのだ。
 思いのほか粘りを見せたこちらの戦いぶりに、このまま長引かせるのも不利とみたのかもしれない。とはいえ、そう遠くないうちに編隊を組み直し再度攻めてくるのは確実だろう。
 それでも、さすがに余裕とは言い難かった満身創痍のこちら側としては、ユリサナ一時撤退はありがたい限りだった。もうあと一日でも戦闘が長引いていたら間違いなく防衛線は突破されていたはず、それくらい追い詰められていたのだから。
 たとえ数日間であったとしても、再戦までに猶予があれば、こちらも態勢の立て直しを図ることができる。
 さらに、そろそろ増援部隊も到着する頃だ。ほぼ防御一辺倒だったこれまでと違い、少しはまともに討って出ることもできるだろう。
 ようやく肩の荷が下りた。
 援軍がきたら、俺も晴れてお役御免になる。もともと非常事態に際しての一時的な役目だったのだ、ちゃんと王宮から相応の命令をいただいている指揮官に後を任せて、俺はただの一兵卒に戻れる。
「あー長い一週間だったー……」
 一人になると、ついそんなボヤきも漏れてしまった。
 やはり上に立つ立場にいた手前、常に気を張ってなきゃならなかったからな。
 ひとときの勝利に湧く島内でモミクチャにされながら帰還した俺は、本部へ報告に行くべく、中央砦へ向かっていた。
 既にユリサナ撤退の一報を聞いた本部のはからいにより、酒保から酒がありったけ振る舞われ、島内いたるところで酒盛りの場ができている。
 そんな中、まだ人の出入りの慌ただしい中央砦へと、俺は足を踏み入れた。
 俺の姿を認めるなり、皆が笑顔と喝采で出迎えてくれる。
 引っ切り無しにかけられる労いの言葉に俺も笑顔を返して応えながら、その向こうに総督の姿を探した。
 部屋の奥にその姿を見つけた俺は、咄嗟に「総督!」と呼びかけて、そちらへと駆け寄った。
 近付いてくる俺を、眩しそうに目を細めて微笑んで見つめてくれる総督の、すぐ目の前にきてから、俺は足を止める。
「ただいま戻りました」
「よくやった」
「はい!」
「ご苦労だったな。しばらくは、ゆっくり身体を休めるがいい」
「そうします」
 こんなに近くから自分を見上げてくる総督の表情を眺めていると、つい抱きしめてしまいたくなる衝動にかられてしまう。
 しかし、こんな人目のあるところでそんなことはできないか、と諦めた俺の腕を、そこでふいに総督が掴んだ。
「え……?」
 掴んだや否や、そのまま俺の胸元へと凭れかかってきたのである。
 え!? なに、嘘、こんな人目のあるところで総督から!? ――などと驚いたのも束の間。
 次の瞬間、ずるずるっと総督の身体が真下へ崩れ落ちてゆく。
「ちょっ……! ちょっと、あの、総督っっ……!?」
 慌ててその腕を掴んで支えたものの、立っていることすら出来なさそうなその様子に、俺も総督を支えながらそのまま床に膝を付いた。
 覗き込んだその顔は、血の気が引いて真っ白だ。
「――あららー、やっぱり倒れちゃったかー……」
 そこで上から降ってきたのは、のんびりした声。
 見上げると、すぐ近くに立っていた中佐が、こちらを覗き込むようにして見下ろしていた。
「あの、『やっぱり』って……」
「さすがに気が張っていらしたんだろう、戦争が始まってからのここ数日、いつも顔色が悪くてね。あまりよく眠れていなかったようだから仮眠を勧めても、頑としてここを離れないし。この分じゃいつか倒れるんじゃないかと心配してたんだよ。そしたら、案の定だねえ」
 などとのんびり笑える中佐ほど、俺の心臓は頑丈に出来てない。
「…て、笑いごとじゃないですよ! 俺、医務室に連れていきます!」
 そして、改めてその身体を抱え上げようとした、まさにその時。
「――大袈裟なんだ、おまえは」
 うっすらと目を開けて総督が、慌てる俺を呆れたように眺めていた。
「あ、総督! 気が付いたんですね! 大丈夫ですか? 気分はどう……」
「うるさい」
 矢継ぎ早に尋ねる俺を、そのひとことで黙らせる。
「いま中佐が言ったではないか、ただの睡眠不足だ。医務室に行くほどのことではない」
「でも、ブッ倒れるなんて相当じゃ……」
「少し眩暈がしただけだ、余計な心配はするな。こんなもの寝れば治る」
 言って総督が、俺の身体を支えにしながら、なんとか身体を起こそうとした。
 だが、まだ眩暈が治まらないのだろう、起こしかけてフラリと傾いた身体を、慌てて俺は再び支えた。
 改めて総督の身体を抱え直すと、そのまま俺は立ち上がる。
「何をする……!」
「そんなフラフラで歩けるハズないでしょう。寝るんなら、俺が部屋まで連れていきますよ」
「要らん、下ろせ!」
「危なっかしいからダメです」
「その前に、まだ仕事が残ってるんだっ……!」
「ホント意地っ張りだなあ……」
 そこで俺は、傍らの中佐を振り返った。
「ここ、しばらくお任せして大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。ゆっくり休ませてさしあげなさい」
 その返答を受けて、「…ですってよ?」と、俺はニッコリと、腕の中の総督を見下ろす。
「…勝手にしろ!」
 気怠そうな様子ながらもあからさまに不貞腐れた総督が、ぷいっとソッポを向いて、どこまでも不本意そうに呟いた。


「――醜態を曝してばかりだな、私は……」
 部屋に着き、その身体を寝台に横たえたところで、総督が深いタメ息と共にそれを洩らす。
 自己嫌悪の響きさえもうかがわせるそれに、コレそういえば二度目の“お姫様だっこ”じゃないか? と思い当たった俺は、だから「大丈夫ですよ」と、殊更にあっけらかんとしたふうに応えてみせた。
「今回は、総督が倒れたところから知られてるワケですしね。実際、倒れてもおかしくはないくらい総督が働いてたことも皆が知ってるんだから、変な噂になんてなりようがないですよ」
「噂など……そんなものはどうでもいい」
 しかし総督は、そんならしからぬことを言いながら、おもむろに身体を起き上がらせる。
「ちょっと、ちゃんと寝てなくちゃ……!」
「大丈夫だ、もう眩暈は治まった」
 そして、そのまま視線を上げて、傍らに座っていた俺を、じっと見つめた。
「私は……おまえに迷惑をかけてばかりだ」
「そんなことは……」
「現に今だって、こんなふうに、疲れて帰ってきたおまえの手を煩わせてしまった……」
 すまない、と頭を下げてみせるその姿に、さすがに俺も慌てた。
「なに言ってるんですか! 総督を運ぶことくらい、全然負担にもならないですよ! むしろ、俺の方こそ総督に負担ばかりかけてしまったな、って、今ものすごく反省してるんですから……」
 ――それは嘘じゃない。
 指揮を任されたからには、やはり確実な策をとりたくて、何かというと総督へ作戦についての相談を持ちかけていたのだ。連日連夜の盤戯でもわかっていたことだが、さすが総督の一手も二手も先を読んだ助言と提案は的確で、俺の穴だらけの作戦も、ほぼ完璧に補完された。だから今回の勝利は、ほとんど総督のおかげと言っても過言ではないだろう。
「俺の方こそ謝らなくちゃいけないですよね。ただでさえ忙しい総督に、俺なんかの相談にまで乗って貰ってしまって、それがかえって負担をかけてしまったかな、って……」
「何を言うか!」
 しかし、俺に皆まで言わせず、その言葉に遮られた。
「そんなもの、何の負担にもなっていないぞ。それどころか、むしろ私の負うべき職務をおまえに肩代わりして貰ったに等しいのだ、私の方から礼を言わねばならないくらいなのに」
 言いながら総督の手が、俺の手を掴む。
「…すべて私の弱さだ」
 その唇が、自嘲する笑みの形に歪んだ。
「自分が、こんなふうになるとは思わなかった。戦場で戦っているおまえが気がかりで、戦死者の名前が上がってくるたびに、おまえじゃないかと怯えて、いつもいつも気が気じゃなくて……だから、夜も眠れなかった。眠ったら夢をみるんだ、おまえが帰ってこない夢ばかり……」
 話しながら次第に潤いを帯びてゆく瞳から、ふいに一筋の涙が零れ落ちる。
「こんな女々しい自分など曝したくはなかったのに……けれど、おまえの姿を目にしただけで、もう力が抜けて誤魔化せなくなった」
 そして、握った俺の手をとり、まるで頬ずりするように、自分の頬へと押し当てた。
「よかった……おまえが無事に帰ってきてくれて、本当によかった……!」
「総督……」
 頬に触れている手で、そのまま流れる涙を拭う。
 空いているもう片方の手で総督の身体を抱き寄せると、俺はその唇に軽く口付けた。
「心配かけてすみません。でも、ちゃんと俺は帰ってきましたから――ちゃんと総督の側に居ますから。だから安心して休んでください」
「うん……ありがとう」
 しかし、言いながら両腕を俺の首に回し、その身体をさらにこちらへと寄せてくる。
 俺としては嬉しい限りなのだが、とはいえど……、
「あの……そろそろ身体を休めたほうが……」
「もう少しだけ、こうさせてくれ。おまえの無事を、ちゃんと感じたい」
「でも俺、汗と血と煤まみれでどろっどろだし、しばらくマトモに風呂も入れなかったから臭うし、あまりくっつかない方が……」
「気にするな。おまえが戦場で立派に戦ってきたという証だ」
「いや、だから、あの……」
 もう何と答えていいのやら分からなくなって俺は、もはや力任せでその身体を自分から引き剥がすと、そのまま布団の上に押し倒した。
 びっくりしたように目を瞠ってこちらを見つめてくる、その表情を見下ろして、「ホント勘弁してください」と、タメ息混じりに呟いた。
「もう何日も総督に触ってないから、今ホントしたくてしたくて堪らないっつー切羽詰まった状態なんですよ。そうくっつかれちゃうと我慢できなくなる……」
「…なら、していいぞ? 幸い、誰かさんが仕事も抜けさせてくれたから、時間もある」
「そう無駄に煽らないでくださいってば……」
「私にだって……おまえと触れ合えなかった時間が、同じだけ、あったのだがな……」
 まるで絡み付くかのような熱っぽい視線に、堪え切れず俺は目を背けた。――ああもう、ホント理性が飛びそうだ。
 そこを何とか踏みとどまって身体を起こすと、「とにかく!」と、焦って俺は言葉を繋いだ。
「今すぐ仮眠とって、身体を少しでも回復させてください! さすがに病人を襲えるほど俺も非道じゃないんで!」
「病人って、また大袈裟な……」
「俺も、これから風呂にでも入って身体を清めてくるつもりなので……夜、また来てもいいですか?」
「え……?」
「どうせ今夜は、気が昂って眠れないだろうから……だから、あなたをこの腕に抱いていたいんです。朝までずっと」
「…………」
「勝利したご褒美を、いただけませんか?」
 おもむろに総督が両手を伸ばし、見下ろす俺の頬に触れる。
「ならば、“おやすみ”のキスをくれないか? じゃないと眠れない」
 そしてキスをした俺を引き寄せて、耳元に囁いた。
「――今夜、ここで待ってる」


 夜も更けて、いつもなら島中が寝静まっているだろう刻限になっても、まだ酒宴の灯があちこちで灯されている。
 勝利の喜びに酔いしれる夜は、どんなに身体は疲れていても、さすがにただ眠ってしまうのが惜しい。心ゆくまで酒を酌み交わし喜びに浸りたい。それは誰しも同じなのだろう。
 さきほどまで加わっていた宴席から一人脱け出した俺は、密やかに中央砦へと向かう。
 それを見咎める声なども無い。皆それぞれで酒宴を楽しむのに夢中なのだ。それに中央砦は、兵舎を中心とした宴会場から外れており、もはや閑散としていて人気もまばらだった。
 部屋まで辿り着くと、念のため周囲に誰もいないのを確かめながら、小さく開けた扉の向こうにするりと身体を滑り込ませる。
 後ろ手に扉を閉めて部屋の中を見渡すも、そこに総督は居なかった。
 寝室の扉の前まで来て、やや遠慮がちにノックする。
 案の定、応える声は聞こえてこない。
 持ち手に手をかけると、あっさりとそれは開いた。
 開いた扉の向こうを覗き込むと、寝台で寝息を立てている総督の姿が見える。
 少しだけ安心して、閉めた扉に内側から鍵を掛けると、俺は眠る総督のもとへと近付いた。
 あれからずっと眠っていたのだろうか、食事はちゃんととったのだろうか。――そんな心配も、眠るその姿を見て立ち消えた。
 その姿は、ちゃんと夜着に身を包んでいる。仮眠から一度は醒めて、おそらく食事もちゃんととって、普段どおりの寝支度を整えてから寝台に入ったのだろう。
「よかった……」
 ちゃんと眠れているらしい総督の姿に、少し俺は安堵する。その傍らに腰を下ろすと、唇に軽くキスを落とした。
 せっかく寝ているのに、起こしてしまうのもしのびない。このまま一晩中、こうして眠るその顔を眺めていようか―――。
 頬に流れる柔らかな髪をかき上げる、その俺の指の下で、伏せられた長い睫毛が微かに震えた。
 ゆっくりと開かれていく瞼の奥、その瞳が俺の姿を捉える。
「――遅いぞ、トゥーリ」
 まるでほころんでゆく大輪の花の蕾のように、その表情が艶やかに微笑み、俺の目を奪った。
「すみません。さすがに腹も減ってたんで、夕食がてら、宴会に加わってました」
「…だと思った」
 おもむろに伸ばされた両手が俺を引き寄せ、至近距離まで顔と顔とを近付ける。
「だって、酒の匂いがする」
「あーごめん……そんなに臭い?」
「いや……おまえの匂いなら、悪くない」
 言いながら更に俺を引き寄せると、まるで首筋に顔を埋めるようにして、大きく息を吸った。
「おまえの匂いは、安心する」
 そして、突然がぶりと耳を噛まれた。
「でも、さすがに待ちくたびれた」
 その囁きは、どこまでも甘く、俺の頭のシンまでをも蕩けさせるかのように、耳から全身へと流れ込む。
「ご褒美、要らないのかと思ったぞ」
「…要るに決まってるでしょ」
 だんだん俺も辛抱が効かなくなってきて、言うや否や身体を引き剥がすと、乱暴に唇を奪った。
 そうしながら、互いを隔てていた毛布を剥ぎ取って、手が柔肌を求めて這い回る。
「ごめん、今夜も俺の所為で眠れないね」
「何だ、眠らせてくれる気なぞあったのか?」
「…うーん、無いかも」
「なら言うな、馬鹿」
 そんなふうに笑い合いながら、何度も繰り返し深いキスに舌を絡ませ、俺の手が一枚ずつ互いの服をはだけさせては次第に深い部分にまで忍び込んでゆく。
 密やかな笑い声が艶めいた吐息に取って代わられるのにも、そう時間は要らなかった。
 そうやって俺は、心ゆくまでその“ご褒美”を味わいつくす。
 夜は、まだまだ長い。きっと明日の朝は、島内の時間が動き始めるのも、普段より遅いだろうから―――。


 そして翌朝、ずいぶん日も高くなってから目を覚ました俺に、既に起きて待っていた総督が告げた。
「身体は、ちゃんと休まったか? 疲れが残っているようなら、まだ寝ていてもいいぞ」
「大丈夫です、充分回復してます。――あなたのくれた“ご褒美”のおかげでね」
 言いながらキスしようとする俺の鼻を摘まんで、「調子に乗るな」と総督が笑う。
「その様子なら本当に大丈夫そうだな」
「ええ、どうぞご心配なく」
「わかった。――それでは、今度は私のお願いを、聞いては貰えないだろうか」
「お願い……?」



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