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Ⅰ章.カンザリア要塞島 ─トゥーリ・アクス─
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「――て、そーくるか……」
扉を開けて無人の執務室を確認した時、その場でヘタり込みそうになった。
もしかして…という予感に襲われ、そのまま厩舎へと向かう。
すると案の定、
「やっぱり……!」
総督の馬が、馬房から消えている。
急いで俺も馬を用意すると、そのまま森へ向けて走り出した。
あれから一夜明けた、翌日―――。
昨晩は、ほとんど眠れなかった。
――それもこれも全部、総督の所為だ。
暗闇で目を閉じると瞼の裏に浮かんでくるのは、つい先刻まで目の当たりにしていた総督の、綺麗な…なのに、このうえもなく淫らな顔。
その切れ長の瞳が、涙で潤んだような艶を湛えて俺を見つめて。誘うように半開きの口許からのぞかせる紅い舌。それが、何か生き物のように俺の上で這い回っては、もたらされる快感。その白い肌に飛び散った液体が淫靡なまでにとろりと滴る。――思い出される都度、何度寝台から跳ね起きただろう。
いっそ手触りさえも感じられそうな眼裏の幻影は、現実で確かに起こった出来事を、何度も何度も、繰り返し反芻する。
そのたびに、俺は昂った自身を鎮めなければならなかった。
現実は、想像を簡単に凌駕するものだ。――と同時に、妄想をより増長させるものともなる。
ありとあらゆる総督の姿が、脳裏に浮かんできては俺を絶頂へ誘おうと手招きする。
眠る暇なんて、与えられるワケがなかった。
――この時ほど、自分が騎士で良かったと思ったことは無い。ここでの待遇は新兵ながら、それでも騎士という身分を持っているがゆえに一人部屋を与えてもらえたのだから。こんな淫欲に溺れる情けない自分の姿を、他人の目に曝さずに済む。
そうやって記憶と妄想の狭間を行ったり来たりしながら、一人寝の眠れない夜が明け。
白々とした朝の光の中で、ようやく俺は考え始めた。
昨日は、ただただ混乱して、そのうえ総督の前で粗相をしてしまったことが恥ずかしくて申し訳なくて、その場から逃げ出すことだけが、その時の自分に出来た精一杯だった。
何とか自分の部屋まで逃げ帰ってきて、呼吸を静め落ち着こうと努めて、そうしてから、どうしてこんなことになったのか順を追って考えてみようとしたのだが……順を追って思い出せば、目の当たりにしたばかりの総督の姿までが思い出されてしまうのは必至。
当然のごとく、何も考えることなど出来なかった。
だが、とりあえず夜のうちに自身の欲をあらかた外へ出してしまえたということもあって、今ならば、戻ってきた時よりは落ち着いているような気がする。
そして改めて考えてみたけれど……当然、答えなぞは出なかった。
わからないことが多すぎる。でも、それは俺の中だけでは決して解答には辿り着けない難問だった。
昨日の今日で、顔を合わせ辛いことといったら、このうえもないが……、
『――総督と、ちゃんと話をしなくちゃ……』
呟き、意を決して寝台から起き上がると、手早く身支度を済ませ、とりあえず頭をハッキリさせるためにもまずは朝食を食おう! と、食堂へと向かった。
そうして後、怯みそうになる足を何とか動かして、ちゃんといつも通りの時間に執務室へ行ったというのに。
俺を迎えたのは、ガランとした無人の空気だけだった。
「――てゆーか、ホントどこ行ったんだよ総督は……!」
イラッとしながら俺は呟き、馬上で舌打ちを洩らす。
これまでお伴で行ったことのある場所をひととおり回ってはみたが、そのどこにも総督の姿は見当たらなかったのだ。
あとは、俺とは行ったことの無いどこか……ということになるだろうか。
だが、わざわざ馬に乗って出かけたのであれば、生活域である島中央部ということは無いはずだ。そこら付近ならただの散歩で済む。
馬でないと行けない場所、となれば、やはり森の中しか無い。
ただし南の森は、崖上に築かれた防塁と砲台のために大部分を削られているため、もはや“森”と呼べるほどの広さは無い。それに、常に見張りに立つ者の目が行き届いているという、そんな落ち着けもしない場所に、あの総督が行くはずもない。
そして、普段の遠駆けでよく行く東の森は、崖上の取引の場をはじめ、もうあらかた探し回った。
「あとは西の森、か……」
しかし、そこは東の森よりも更に深く鬱蒼としており、また木々の密集具合も更に煩雑、まさに原生林といった様相を呈していて、馬で行くにはとても進むのに難儀しそうな森だった。
いかに人目は無いとはいえ、あの早駆けの好きな総督が行きたがる場所だとも到底思えないが……とはいえ、所詮ここに来てまだ半年の俺に、別の心当たりなど無いに等しい。
「こうなったら行くしかないな」
心を決めると、馬の首を廻らせて、その腹を蹴った。駆け出した馬の背に揺られながら、俺は前方の空を見上げる。
そこには、まさに空全体を覆うようにして真っ黒な雲ばかりが広がっていた。
――嵐がくる。きっと、もう間もなく。
総督は、なぜ俺にあんなことしたんだろう。――自分だけでは幾ら考えても答えは出ない。
考えると、俺の頭はどうしても自分に都合のいいように解釈してしまおうとする。
でも同時に、そんなことはあり得るはずもない、と否定する自分もいる。
だから、その答えは、ちゃんと総督の口から言葉で聞きたかった。
――総督は、俺のことをどう思っているんですか?
それを早く知りたい。早く答えが欲しい。このままじゃ期待ばかりが膨らんでしまう。
天に昇るも地に堕ちるも、どちらにしても早い方がいい。
だって俺の心は、もうとっくのとうに決まっているんだから―――。
まだ昼間だというのに、辺りはすっかり薄暗くなっており、だいぶ風も強まってきた。ごろごろと遠雷の鳴っている音も耳にはっきりと響く。
「やばいな、すぐにでも一雨ありそうだ」
早いところ、どこか雨宿りできる場所を探しておかなくてはならない。
だが、総督がこの西の森のどこかにいるかもしれないと思うと、そちらばかりに気が逸る。
「ちゃんと雨を避けられる場所に居てくれてればいいんだけど……」
呟いたその時、何か視界の端で灯りのような光が見えた。
即座に馬を止めて周囲を見渡すと、鬱蒼と生い茂る木々の中、明らかに家らしき形が見えた。どうやら灯りは、そこから洩れている。
「番小屋か……?」
一見、あまりにも小ぢんまりとした佇まいの粗末な小屋だったので、誰かが住んでいそうにも見えず、咄嗟にそう思ってしまったのだが。
しかし、森番を置いているという話は聞いたことがない。そもそも、森の手入れをしている話からして聞いたことがないのに。
――俺が知らないだけで、誰かが定期的に通っていたりするのかな……?
訝しく思いつつも近付いていったが、その小屋の全貌が徐々に目にはっきりしてくるにつれ、俺は自然と馬足を速めていた。
なぜなら、それが見えたからだ。
小屋の隣に小さな馬屋があったこと。そして、今その中に繋がれた馬が居ることも。
もしかして、という想いで馬を駆り、まずその馬屋の前に付けて止める。
「やっぱり……!」
案の定、そこに居たのは総督の愛馬。
俺も馬を降り、その隣に自分の馬を繋ぐと、急いで小屋の正面へと回った。
出入口らしき扉の前に立つと、逸る気持ちを何とか抑えて、おもむろに二~三度、ノックする。
「すみません、少々お尋ねしたいのですが……」
言って少し待つも、何の返事も無い。
だが、窓の鎧戸の隙間から灯りが洩れていることから、中に確実に誰か居ると思われる。
しびれを切らして俺は、おもむろに持ち手へと手を掛けた。
それは何の抵抗もなく回り、きぃっと小さく軋んだ音を立てて少しだけ扉が動く。――どうやら鍵も閂も掛けられていなかったようだ。
「入ります、よー……?」
一応、おそるおそるそれを言ってから、えいっとばかりに一気に押し開いた。
その途端、扉の風圧と外から入り込んできた風の所為だろうか、目の前を何か白いひらひらとしたものが舞い上がる。
「紙……?」
ふわりと落ちてゆくその行方を追って下に目を向ければ、床には一面に白い紙が散らばっていた。どの紙にも、木炭で素描されたらしき絵が描かれてある。
ゆっくりと視線を上げ、さほど広くもない部屋の中、その最も奥へと向かって目を遣れば。
壁を背に置かれていた寝台代わりにもなりそうな長椅子の上、そこに座る人影があった。
膝の上に画板を乗せ、何かを描いていたらしいその姿勢のままで、扉を開けた俺を見つめていた。
「――やっと、見つけた……!」
無意識に呟いていた俺の言葉に、ふと唇を笑みの形に歪めてみせる。
そして言った。
「案外、早かったな」
それは、普段と何ら変わらない総督の姿だった。
降り出した雨は、次第に強さを増してゆく。外の嵐は、まだ当分おさまりそうな気配がなかった。
「しばらく、ここから動けませんね」
開け放したままだった馬屋の戸を閉めてき、窓の鎧戸の隙間を塞ぎ、閉めた扉に閂を下ろし……嵐に対するとりあえずの備えを一通り終えてから、ようやく俺は総督に声をかける。
だが総督は、珍しいことに俺が傍に居るにも関わらず絵を描くことに夢中で、何も返してはくれず。
なんとなく自分の身の置き所がわからなくなって、とりあえず目に付いた椅子に腰かけた。
「でも、ちょうどよかったかも。――総督に話したいことがあったので」
ぴくりと、そこで総督の肩が小さく震えたのが分かった。と同時に、動かしていた手も止まる。
あ、話をしてくれる気になってくれたのかな、と思って俺が「あの…」と口を開いた――まさにその途端、
いきなり総督が、今の今まで描いていた絵をビリッと音を立てて破いたのだ。
思わずビクッとして、俺も咄嗟に出しかけていた言葉を飲み込んで押し黙った。
すかさず顔を上げた総督が、改まったように俺を真っ直ぐに見据えると。
「モデルになれ、アクス」
あまりにも唐突に、それを言う。
「――は……?」
「そろそろ静物画にも飽きてきたところだ。雨が止むまで、まだまだ時間がかかりそうだからな。確かに、ちょうどいい」
「いや、モデルって……」
これまでさんざん、他人が近くにいると気が散って描けないとか何とか言っておきながら、これはどんな冗談だと。
そう反論しかけた俺の口を塞ぐかのように、間髪入れず「いいから、さっさとこっちへ来い!」という、イラッとした声が飛ぶ。
仕方なく、俺は座っていた椅子から立ち上がり、総督の前まで歩み寄った。
「ああ、そのへんでいい」
座る総督の真正面、二~三歩ほど離れた場所で立ち止まる。
「よし。じゃあ、脱げ」
「へ……?」
「聞こえなかったのか? 着ているものを脱げ、と言ったんだ」
「はいっ!?」
まさかの要求で、思わず顔が引き攣った。
しかし総督は、いかにも当然だろうとばかりに平然とした表情。
「あの…それ、つまり、ひょっとして……全裸になれ、ってゆーことです、か……?」
「当然だ」
「えっと、それはさすがに……あ、上だけじゃダメですかね?」
「…………」
おもむろに総督の口許だけが弧を描く。――ああなんて重くのしかかる無言の圧力。
「あーもう、わかりましたよ! 脱ぎますっ、脱げばいーんでしょっ!」
早々に諦めると、もそもそと服を脱ぎ始めたが、やはり総督の目の前だと思うと恥ずかしさばかりが先に立って仕方ない。
だって当然だけど、否が応もなく視線を感じざるを得ないのだ。これでうっかりムスコが元気になってしまったら、それを曝すこと以上に恥ずかしいものなど無いではないか。
これが他の誰かならそんな心配などしないのだが、よりにもよって総督だし、絶対に無いとは言い難い。――昨夜さんざんオカズにしてしまった前科があるだけに。
とりあえず、ささやかな抵抗とばかりに、脱ぎながら総督に背を向けた。
それでも、さすがに最後の一枚は、脱ぐのが躊躇われる。
しばしの躊躇いの後、腹を括ってそれも取り払い、ようやっと正真正銘の全裸になるも。
また改めて総督へと向き直ろうとするにあたり、そこで二の足を踏んでしまう。
――ああもう、昨日からこれは何のイジメだ……!
デカい図体で後ろを向いたままもじもじする俺を、相ー当ーに見かねたものだろうか、そこでタメ息混じりの「もう、そのままでいい」という総督の言葉が聞こえてきた。
「そのままでいいから、ポーズを取れ」
「え? ポーズ、って……」
「そうだな……じゃあ、まずは片手を腰に、もう片方の手は自然に下ろして、足はやや開いて片側に体重をかけるようにして立って、あと少しだけ首を横に向けて……いや、そうじゃない、視線は部屋の角あたりへ、天上の辺りを見上げるようにして……」
矢継ぎ早に背後からあれこれと飛んでくる指示に従って、あたふたしながらぎこちなく身体を動かし、なんとかポーズらしき態勢を取る。
「まあ…よし、そんなものだろう」
ようやく納得のお言葉をいただけたと思ったら即「動くなよ」の命令が下り、すぐさま紙に木炭を滑らせるシャッシャッという掠れた音が、小さく耳に届いてきた。
しばらく無言の時間が流れる。
紙の擦れる音しかしない部屋の中、雨粒が屋根を叩き付けるけたたましい音と、その向こうにで吹き荒れる風の唸り、時折轟く雷鳴、それらが必要以上に大きく耳の鼓膜を穿った。
こんなに騒がしい中にあっても気が紛れないほどに、部屋の中の沈黙が耐えきれないほどに重い。
嵐に閉ざされた密室で総督と二人きり…のみならず自分は全裸、などという常ならぬ状況下、なおかつ、こう黙りこくったままでいたら、何かよからぬ方向に考えが及んでしまいそうだったので、気を逸らすため俺は慌てて言葉を探した。
「あ、そういえば……」
「――黙れ」
しかし即座にピシャリと出鼻から挫かれる。
「だって、ただジッとしてるのは退屈……」
「うるさい、動くな」
「動いてはいませんが」
「口が動いてる」
「でも、口描いてないじゃないですか」
「うるさい、ちゃんと描いてる」
「………俺の口って、頭の後ろに付いてたんでしたっけ」
呆れたような俺の言葉で、憎々しげな舌打ちが聞こえてきた。
「ちゃんと動かないようにしますから、ちょっと雑談するくらいはいいでしょ?」
「…勝手にしろ」
「じゃあ、ずっと気になってたんですが……何なんですか、ここ? どう見ても番小屋ですが……」
「ああ、番小屋だろうな。ずっと使われていなかったようだから、詳しくは知らないが」
「その割には、あまり荒れてないですね」
「もともとの造りが頑丈だし、中は私が手を入れた。――といっても、おまえが来てからは何もしていなかったがな」
「じゃあ、ここは総督の秘密基地のよーなもんですか」
「まあ、そんなものだ。こんなところへ来る者もまず居ないし、何より静かだからな、絵を描きたくなると、よくここに来ていた」
「なるほど、総督らしい」
返しながら、首を動かさないよう視線を左右に巡らせる。長い間使われていなかったのも然もありなん、狭いその部屋の中は殺風景で驚くほど物が少なかった。それでも、ここで絵を描きながら寛ぐのに必要な最低限のものは揃っているようだ。小さな竈の横に茶器一式が揃って置かれているのも微笑ましいではないか。
「そんな場所なら尚更、俺なんかに知られたくはなかったでしょうね……すみません、図々しくお邪魔しちゃって」
「そうだな。でも、どうせ隠したところで、おまえは見つけてしまうだろうとも思っていた」
「それは……どういう意味ですか?」
「意味なぞ言葉通りだ。現に、こうやって私は見つかってしまったからな」
「はあ、そうですね……こうやってせっかく見つけ出したのに、よもや俺がモデルやらされることになるとは、全く及びもつきませんでしたが……」
そこで俺も、タメ息一つ。
「俺なんか描いて何が楽しいんだか……」
ボヤくように漏らしたそれも、ちゃんと総督には聞こえていたらしく、当たり前のように「楽しいぞ」という返事が返ってくる。――全く楽しそうに聞こえない声音ではあったが。
「昔から人を描くのは好きだった。それに、おまえの身体は綺麗だ。だから、ずっと描いてみたいとは思っていた」
「は……?」
思いもよらない言葉が聞こえてきて、驚いた拍子に思わず振り返りかけてしまったが、そこを即座に「動くな」というピシャリとした声に叩かれる。
「そんな、『綺麗』って……」
慌てて元のポーズを取りながら、動かせないなりに首を捻る。
「こんな、ゴツくてどこもかしこも傷だらけの身体の、どこをどう見たらそんな単語が出てくるのか……」
「無駄が一切ない、という点において、おまえの身体はとても美しい」
やはり到底人を褒めているようには聞こえない声音ではあったが、俺に皆まで言わせず、総督が言葉を継いでゆく。
「均整がとれていることも勿論だが、何よりも筋肉の機能美だろう。それこそまさしく戦うためだけに在るというもの。おまえの身体こそ、日々の鍛錬と節制の積み重ねによる最高の芸術作品だ。その美しさの前に、傷痕の一つや二つ、何の障りになるはずもない。むしろ、幾多もの戦闘をくぐり抜けてきた鋼の肉体だと証明するものではないか、その美しさを助長してくれるだけだ」
どこまでも自分とは関係のない世間話のように淡々とした話し方ではあったものの、いつになく饒舌に語られたその言葉は、なら総督の本心なんだろうなと、素直に受け止めることが出来る気がした。――ただ、言われ慣れてない分、ものっすごいこそばゆいけど。
「芸術に携わる者であれば、この身体を自らの手で描いてみたいと、そう思わぬ者など、きっと居るまい」
「俺に芸術云々を言われても全く共感はできませんけど……でも素直に嬉しいな、総督にそこまで褒めてもらえると。鍛えてきた甲斐もあったというモンですね。たとえお世辞であっても光栄です」
「部下に世辞なぞ言うものか。本当に心からそう思っているんだ。だから、ずっと描いてみたかった。その身体の全てを、余すところ無く見てみたかった。それに……」
軽快だった木炭のシャッシャッと紙を滑る音が、そこで少しだけ鈍ったように感じられた。
「その身体に、ずっと触れてみたいとも思っていた―――」
「え……?」
俺が訊き返すよりも早く、ハッと総督が小さく息を飲んだのがわかった。
と同時に、描く音が止まり、カランとした乾いた音が床から響く。――おそらく、総督が手が木炭を床に取り落としたのだろう。
「あの、総督……」
「動くな! そのままでいろ!」
焦ったような苛立ったような声に制されて、俺は背後を振り返れなかった。
「今の言葉……」
「何でもない! 少々大袈裟に言い過ぎただけだ、大したことじゃないから忘れろ!」
「でも……」
「うるさい! おまえは黙って前を向いていればいい!」
そして、木炭を拾い上げたのだろう、また軽快に紙を滑るシャッシャッという音が聞こえてくる。
「総督……」
呼びかけても、今度は何の応えも返しては貰えなかった。描くことで俺の問いかけを拒絶したい様子が、背中にひしひしと伝わってくる。
だが、それでも俺は、言葉を投げずにはいられなかった。
「だから総督は……昨夜、俺にあんなこと、したんですか……?」
案の定、答える言葉は返ってこない。
だが、その代わりのように、木炭の音が止んだ。
「答えてください、総督」
「後にしろ、気が散る……」
「じゃあ、描くのを後に回してください!」
だが俺は、それを皆まで言わせず、強い語調で遮った。
「先に俺の疑問に答えをください。俺は、ちゃんと総督の言葉で、それを聞きたいんです」
「…………」
「答えてください、総督。――じゃないと、俺の好きなように受け取りますよ」
「…………」
「総督……! お願いだから……!」
これだけ言ってもなお、背後から何の言葉も無かった。
ゆっくりと振り返ろうとしたところで、「動くな!」という弱々しい制止が飛んでくるも、当然、俺は止まらなかった。――それは、俺の待っている答えじゃない。
「総督……」
「見るな!」
振り返ると、長椅子の上で膝を抱え蹲るように身を縮こまらせ、画板で頭部を覆い隠している総督の姿が、そこにあった。
「こっちを見るな……私を見ないでくれ、頼むから……!」
「いやです」
言いながら俺は、その空いていた二、三歩の距離を詰めて、総督のすぐ前に立つ。
「言葉をくれないなら……せめて見せてください」
そして手を伸ばし、力まかせに総督の手から画板を剥ぎ取った。
「いやだっ……やめろっ……!」
顔の前で両手を交差させるようにして、なおもその表情を隠そうとする。
だが無言のままに俺は、その両手も掴むと、腕を開いて横にどかす。
それでもなお俺から必死に顔を背けてはいたけれど、もはや隠すものが取り払われて、それはどこまでもあらわだった。
目の前に曝け出されたそれに、思わず息を飲んで見蕩れた。
噛み締めるようにキツく唇を引き結び、今にも泣き出す寸前の子供のように表情を歪めて、その白い頬を耳まで赤く染め上げている――そんな、初めて目にする総督の姿に。
ふいに、潤んだ瞳から一しずく、涙が零れ落ちる。
その瞬間、頭の中、ぐちゃぐちゃ考えていたこと全てがフッ飛んだ。
何も考えられなくなって、ただ本能のままに、身体が動いた。
総督の唇に、自分のそれを重ねていた。
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