一樹の陰

碧 春海

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五章

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「悪いな、いつも約束守れなくて」
 名古屋市中区の中心街にある栄街セントラルパークは、テレビ塔から南部に広がる多種多様の店によって成り立ち、天候に左右されない地下街は大勢の人たちで賑わっていた。その多くの飲食店の中でもグルメ雑誌に何度も掲載され、特に店内の若い女性を意識し明るくて花を多用した内装や、基本を尊重しながらも和の材料を取り入れた斬新さで行列が耐えないイタリアンレストラン『ラ・コスタ』で、刑事の川瀬は申し訳なさそうに手を合わせた。
「仕方ないわね。難しい事件程夢中になっちゃうのだから。そんな状態で一日一緒にいても辛いだけだわ」
 女性の名は片桐弥生。春らしい淡いブルーのジャケットに、黒のタイトスカート姿で顎に右手の拳を当てた。
「この埋め合わせはきっとするから」
「埋め合わせって言っても、誕生日は一年に一度しかないけど。まさか、来年まで待たされるのかな」
 わざとらしく肩を落として溜息を溜息を吐いた。
「えっ、あっ、今日、誕生日だったっけ」
 慌てて腕時計の日付を確認した。
「え、呆れた、知っていて今日の日を指定したのだと思っていたのに。誕生日だって、今年でもう三回目だよ」
「そっ、それは、今日しか休みが取れなくて・・・・」
「でも、その休みも取り消しなんでしょ。刑事の仕事は時間も不規則で激務だと納得して付き合っているのだから、仕方ないって諦めているわ。それで、病院の方はどうだったの」
「そっ、それだけど、聞く人聞く人全員が適正な手術であり、医療ミスは無かったと誰かが書いたシナリオを読むかのように全く同じ答えを繰り返すだけなんだ」
 川瀬が眉間に皺を寄せ、先程とは打って変わって怖い表情で答えた。
「命を左右するような難しい手術でもなかったし、手術後は成功だったと先生に言われた訳でしょ。それが、その言葉を聞いて一時間も経たないうちに容態が急変して亡くなったなんてどう考えても納得できないわ」
「その時は、亡くなったと言う事実を受け止めるだけで二人とも精一杯で、そんなことを考える余裕もなかったからな。今冷静になって考えれば、行政解剖を依頼していればと後悔しているよ」
「そうよね。もし仮に、手術に関わっていた人に、医療ミスの可能性があると証言してもらっても、それを証明する証拠は何も残っていないでしょうから」
「駄目元で、手術を担当した執刀医の西村幸太郎と助手の貴田武志について調べてみたけど、手術の一ヶ月後の人事でそれぞれ副部長と助教授に昇格していたんだよな。もし、二人の行った手術にミスがあったとなれば、昇格は見送られていたのかも知れない」
「えっ、出世の為に二人が医療ミスを隠蔽したと言うの」
 運ばれて来たパスタ料理を目の前に、周りの人に聞こえないように川瀬に近付いて小さな声で尋ねた。
「その可能性が高いと思うのだけど」
 お構い無しにカルボナーラのスパゲッティーを口に押し込んだ。
「ちょっと待って、昇格が掛っていたとすれば、誰が考えても命に関わる難しい手術を選ぶ訳ないわ。そうだわ、やはり手術は成功したのだけれど、ミスがあったのは術後のことだったのよ」
「そうか、術後に部下である看護師がミスを犯していたとしても、おそらく上司である西村と貴田にも責任が問われることになるからな」
 口に含んだスパゲッティーの量が多かったのか、慌てて水を流し込んだ。
「この前、新聞やテレビのニュースで何度も取上げられたから知っていると思うけれど、横浜の市民病院で点滴と消毒薬を間違えて、患者の体内に注入して死亡させた事件があったでしょ。もし、同じように看護婦の単純なミスだったとすれば、尚更認める訳にはいかなかったと思うわ」
「そう考えれば、全て辻褄が合うよな」
「しかし、今となっては、証拠は何も無い。告訴しても裁判では勝てないわね」
「でも、いつかきっと、証拠を掴んで見せるさ」
 コップの水を一気に飲干して力強く答えた。
「あれ」
「えっ、どうかした」
「自信満々のお答えですけれど、徳川美術館のレストランで起きた事件が昨日までに解決できていれば、一年に一度のメモリアルデートが駅前の商店街の福引で私が当てた招待券でのランチに代わったりしないよね」
「あのね。テレビのサスペンス劇場だったら刑事や探偵が二時間でちゃんと解決して見せるけど、実際はそんなに簡単に犯人を発見し事件を解決したりは出来ないんだよ。だから、上のお偉いさん達は、事件の早期解決を目的にした新しい部署を取り敢えず愛知県警内に新設して、東大を主席で卒業したバリバリのキャリアに指揮を取らせるらしい。特権で、どんな事件の捜査にも首を突っ込むことが出来るらしいから、捜査が混乱するのも眼に見えているけどな」
「バリバリのエリートか・・・・・」
 弥生は長身で痩せ型でと想像を膨らませていた。
「勉強が出来たと言うだけで、配属されれば直ぐに警部補になり、捜査の『いろは』も知らないで直ぐに警部に昇進して、部下の手柄で刑事部長や警視へと出世する。そんな奴らの部下にでもなったらもう地獄だな。想像するだけで頭が痛くなってくる」
 親しかった同僚がキャリアに振り回されて警察を辞めて行ったと言う忌まわしい記憶が蘇って、振り払おうと何度も頭を振った。
「勉強が出来たってことは、一応頭が良いと言う事でしょ。私の知っている会社でも、創業者の孫が三流大学を卒業して入社すると、直ぐに販売促進部の係長だってさ。でも年齢は私より上だったから浪人か留年をしているって事でしょ。それに、親父が社長だからってパソコンも使えない新人が係長はないわよ。そして、今は部長になってお陰で他の社員のテンションは下がりっぱなしだってさ」
「今の世の中、おかしな事ばかりだよな。真面目に仕事するのが嫌になっちまった。何か良い事無いかな」
頭の後ろで両方の手の平を重ねて天井を見た。
「そんな良い事なんて・・・・・あっ、そうだ、家を出る時に丁度書留郵便が届いてね、差出人を見てちょっとびっくりしちゃった」
 グッチのハンドバックから白い縦長の封筒を取り出した。
「えっ、俺の知っている人物なのか」
 弥生が差し出した封筒を受け取って裏側の名前を見た。
「松坂雄一・・・・・・」
 聞き覚えのある名前ではあったが、顔などの風貌が頭に浮かんでこなかった。
「会ったことは無いけど、名前は何度か教えてあげたはずよ」
「松坂雄一、松坂雄一、・・・・・・・あっ、そうか、松坂雄一だ」
「そう、葉月姉さんの婚約者だった人よ」
 弥生は、慌てて封筒の中身を取り出そうとする川瀬の手から封筒を奪い返した。
「ちょっと、いいから見せろよ」
 川瀬は封筒を掴もうと手を伸ばした。
「どういうこと」
 その手を右手で叩いた。
「今調べている事件に関係するかも知れないんだ」
「この封筒の中身が」
「まぁ、いいや。中身はなんだったんだ」
 手を机に戻し、封筒を取上げるのを諦めて尋ねた。
「東洋銀行中村支店の貸金庫の鍵と一緒に直筆の委任状が一通、それと松坂さんからの手紙だけど」
 弥生は渋々封筒を差し出した。
「松坂さんは、昭和製薬の社員だったよな」
 手紙を読み終えると丁寧に封筒に戻して弥生に返した。
「ええ、確か経理の仕事を担当していたと思うけど」
「そうか、間違いないな。松坂さんは、他に何か連絡してきたことは無いか」
「手紙はこれだけだけど、二日ほど前に私の携帯に連絡があって、まだ浩一と付き合っているかって聞かれたのだけれど、何か変だったな」
「もしかしたら、貸金庫の鍵は弥生に宛てた物ではなく、俺に託した物かも知れない」
「浩一に」
「そうだ。松坂さんの名前を聞いて頭に最初に浮かんだのは、お姉さんの元の婚約者ではなく、昨日昭和製薬の本社ビルから飛び降りた人物の名前だったのさ」
「えっ、松坂さんがまさか自殺なんて・・・・・・」
 川瀬の思いも寄らない話に封筒を持つ手に力が入った。
「自殺かどうかはまだはっきりしていない。即死状態ではなく、救急車で病院に搬送されて緊急手術も行われたけれど、意識が戻らないまま今朝亡くなったそうだ。担当が違うから詳しいことは分らないけれど、遺書も無く、同僚や家族の証言では自殺の動機も見当たらなかった」
「自殺じゃなかったってこと」
「それが、今朝になって、会社が詳しく調べたところ、会社名義の当座預金から五百万円が松坂さんの口座に振り込まれていること判明した」
「えっ、横領ってこと」
 真面目で正義感の強い松坂がそんな馬鹿なことをするとはとても考えられなかった。
「何億もの金額を動かせる立場にあった松坂さんが、五百万円程度の横領をしたということがまず納得が出来ない。それに、その五百万円の振込先の口座には他に二千万円弱の預金があったそうで、横領の目的が全く掴めていない」
「そうよ。松坂さんは、姉が選んだ人なのよ。横領なんてする訳はないわ」
「実際に自分が捜査をした訳じゃないからなんとも言えないが、五百万円の振込口座が過去に使われていた給与の振込みと同じだったことを考えると、会社の関係者が関与していることは間違いないだろうな。これは俺の勝手な推理なのだけど、松坂さんは会社の不正に気付いて告発するつもりでいたのかも知れない。それをされては困る人間が、彼の口を永遠に潰したってことだ」
 担当ではないから責任も無く、気楽に想像を膨らませることが出来た。
「松坂さんは経理部の責任者だったから、内部告発するとすれば脱税や不正経理に関するものだと考えられるわ。もしもその証拠を託すとすれば、警察官よりは税務署員じゃないのかな」
「じゃあ、確かめてみよう」
 川瀬は勢い良く立ち上がった。
「えっ、貸金庫の中身を見るつもりなの。事件の捜査はしなくてもいいの」
「東洋銀行の中村支店はすぐそこだし、そんなに時間はかからないさ。さぁ、行くぞ」
 川瀬の言葉に弥生も渋々腰を上げた。
「副部長、今日もまた中央署の川瀬刑事がやって来て、看護師たちに色々話を聞いて行ったようです。大丈夫でしょうか」
 人気のなくなった大学の副部長室。出前で取った特上寿司の桶を前にして、貴田准教授が西村副部長に話し掛けた。
「我々の手術には警察が出て来るようなミスはなかった。心配することは無いが、それにしても本当に諦めの悪い奴だな」
 玉露のお茶が入った有田焼の湯のみ茶碗を手にして答えた。
「しかし、制服姿ではなくても警察官が何度も来られると、病院関係者や患者の中には何か事件があったのではないかと、騒ぎ立てる人間も現れるのではないでしょうか。それをマスコミにでも嗅ぎ付けられては大変なことになります」
 不安な表情で、寿司を摘む手が止まった。
「私にどうしろというのだね」
 貴田の顔を睨み付けた。
「あっ、いえ、別に・・・・・」
「兎に角、事実が公になれば、我々は勿論大学の名誉にも傷を付けることになる。お互い、今の地位に留まることは出来ないだろう。だから、絶対に誰にも知られてはならない」
「分っています。間違いに気付いたのは私だけですので、看護師達から事実が漏れることはありません。ただ、先生には報告してなかったのですが、気付いて直ぐに輸血用の血液を確認したのですが、相手の血液が見付からなかったのです。誰かがそのことに気付いたとしたら、先生・・・・・・」
「それは大丈夫だ。もし気付いた看護師が居たとすれば、私に直ぐに報告しただろう。私や君に逆らって血液を隠す者なんていない。そうだろう、そんなことをしてもなんの利益もないのだからね」
「そっ、そうです。私もそう思います。しかし、先生を陥れようとする人間が、あの輸血用の血液を手に入れたとすれば、大変なことになります」
「第二外科の清水優作か。確かに厄介な人物だが、清水一人では何も出来はしない。そんなに心配することはない」
「清水先生は、この病院内では孤立していますので、騒ぎを起こすこともないでしょう。ただ、先日亡くなった、昭和製薬の松坂と大学時代からの友人だったことが分りましたから、例の件も本人から聞いている可能性があります。もし、その証拠を握っているとすれば、私たちは地位を失うどころか、犯罪者として処罰されることになります」
「そうか、二人が繋がっていたか。そうなれば、最悪の場合も考えておいた方がいいだろうな。一度相談してみるか」
 西村が立ち上がった時、胸の内ポケットの携帯電話が振動した。
「もしもし・・・・・ああ、いつもお世話になっております・・・・・・えっ、そうだったのですか。私もテレビのニュースで知ったのですが、どうしてそんなことになったのでしょう・・・・・・・ああ、そうでしたか。すると、結果的には良かった訳ですが、例の資料などは見付かったのでしょうか・・・・・・・どこからも出て来なければ良いのですが・・・・・・はい、分りました。ところで、こちらも少し問題がありまして、第二外科の清水優作はその亡くなった松坂雄一の友人でして、例の件を知っている可能性あるのです。もし、彼に事実を公表する用意があるとすれば、何か手を打たなければなりません。一度お会いして、今後のことについてご相談したいと思います・・・・・・・では、宜しくお願い致します。それでは失礼します」
 携帯電話を手にしながらも頷き頭を下げた。
「本当に大丈夫なのでしょうか」
 電話での西村の話を聞いて不安になったのか、泣き出しそうな表情で尋ねた。
「過去には戻れないなら、今日そして明日のことを考えて、最善の策を執れば良いのだよ。何も心配はない。そうだろ」
 西村は貴田の肩を軽く叩いてソファに座り直した。
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