一樹の陰

碧 春海

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二章

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 庄内川を境に春日井市と接している名古屋市守山区。その北部の広大な丘陵地に建つ名古屋城北大学。理工学部の大学として四十年前に開校したが、今は文学部や教育学部など多くの学部を増設して総合大学にグレードアップすると共に、設備などのハード面は勿論のこと、教授、准教授、講師などの人材等のソフト面も充実させて、中部圏では難易度の高い私立大学との評価を受けている。そして今、桜などの樹木が規則正しく植えられ、ゴルフ場の様に芝生がきちんと手入れされているキャンパスを、背広姿の二人の刑事が辺りを見回しながら、コバルトブルーの建物に向かって歩いていた。
「すみません、名古屋中央署の川瀬と申します。中山教授にお会いする約束をしているのですが、取り次いで頂けないでしょうか」
 顔写真の付いた警察手帳を見せながら、受付の女性に声を掛けた。
「はい、お聞きしております。こちらにどうぞ」
 女性は刑事の先を歩いて応接室に案内した。
「ご苦労様です。まぁ、お掛け下さい」
 部屋に入ると、青年と立ち話をしていた背の低い小太りの男が、二人に席を勧めて自分もソファに近付いた。
「お忙しいところ申し訳ありません。中央署の川瀬です」
「井上です」
 二人はお辞儀をして席に着いた。
「澤田君についてとのことでしたので、同僚の倉知君にも同席してもらいました」
 倉知が軽く頭を下げた。
「早速でが、まずは澤田さんの交友関係についてお聞かせ頂きたいと思います」
 先程の女性がお茶を置いて立ち去ったのを確認して川瀬が話を切り出した。
「ちょっとその前に確認しておきたいのですが、こうして刑事さんが起こしになったということは、警察では澤田君の死は自殺ではなかったとの判断なのでしょうか」
 お茶を手に取り中山が尋ねた。
「まだ結論は出ていませんが、殺害の可能性もあるとして捜査をしているところです」
「倉知君とも話していたのですが、澤田君が殺されるなんて考えられません。人柄も良く他の教授や准教授は勿論、同僚や職員とも上手く付き合っていたようですし、教え子たちにも慕われていましたから、人に恨まれるって事は彼に限っては無かったと思っています」
 川瀬に聞かれる前に怨恨による殺人を否定した。
「お立場上、大学関係者を疑いたくないという気持ちは良く分かります。しかし、私の僅かな経験の中でも、怨恨以外の動機で殺害された人はたくさんいました。例えば今回の事件で言えば、澤田さんの存在自体が邪魔であったというのが動機なのかも知れません」
「存在自体にですか・・・・・あっ、まさか・・・・・・」
 中山は瞳を曇らせて動きを止めた。
「何か思い当たることがあるのですか」
「あっ、いえ、実は、歴史学部の吉田准教授が教授に昇進されることが決まりまして、その後任の准教授のポストに澤田君たち講師の中から選ばれることになっていました」
「えっ、ちょっと待って下さい。ひょっとすると、その准教授のポストに亡くなられた澤田さんが就かれる予定だったのですか」
 中山の困惑した表情から川瀬が推測して尋ねた。
「ええ、後は学長の承認のみとなっていました」
「選考に当たっては、当然同僚である倉知さんも候補に上がったということですね」
 倉知の顔に目線を移して川瀬が尋ねた。
「はい、勿論候補の中に居たと思います。でも、澤田とは高校時代からの友人で、あいつが准教授になることに喜びこそすれ、恨んだり妬んだりなんてしません。もし、立場が逆だったとしても、きっと澤田も喜んでくれたと思います」
 川瀬の質問の意図を察し、険しい表情で倉知が答えた。
「誰でも疑われるのは気持ちがいい物ではありません。しかし、我々は人を疑うのが仕事なのです。また、事件を解決する為には関係者全員を疑わなければならないのです。本当に因果な仕事と、自己嫌悪に陥ることもありますが、これは私に課せられた使命であり、亡くなった人の恨みを晴らすためには仕方のないことだと、いつも自分にそう言い聞かせています」
 川瀬はゆっくりと頭を下げた。
「刑事さんの気持ちは理解出来ました。私も出来る事は何でも協力しますので、もし澤田の死が殺害に因るものであれば、一刻も早く犯人を逮捕して下さい」
 倉知も川瀬の気持ちを理解して頭を下げた。
「協力を感謝します。それでは、まず澤田さんが亡くなられた昨日の十二時三十分頃、あなたはどこにいらっしゃいましたか」
 川瀬は内ポケットから手帳を出して尋ねた。
「ああっ、それなら、中山教授と一緒に京都に行っていました」
 倉知の言葉に中山が頷いた。
「そうですか、まずは当日のアリバイは証明されたってことですね。ただし、澤田さんの死因は、毒物による中毒死ですので、殺害されたとすれば犯人はその場に居合わせる必要はなかったのですが」
「どういうことですか」
「例えば、即効性の毒物をカプセルに入れて澤田さんに渡すか、澤田さんが気付かない間に他の薬の中に混ぜることが出来れば良い訳ですから」
「もし、刑事さんの仮説が正しければ、私にもそのチャンスはあったでしょうから、疑われても仕方ないと思います。でも、それが出来たのは私以外にも大勢いるでしょう」
「もし仮に、知らない人から薬を渡されてあなたは飲みますか。勝手にこの大学内に入って、澤田さんの持ち物の中から薬を取り出して、毒入りカプセルを仕込むことが出来る人物がそんなに大勢いるとは思いませんけど」
「この大学の関係者の中に犯人が居る。つまり、澤田の友人であり、殺害の動機もある私が犯人だとおっしゃるのですね」
 眉間に皺を寄せ川瀬を睨み付けた。
「いえ、可能性の問題を指摘しただけです」
 一つ咳払いをしてから答えた。
「でも、澤田が花粉症で毎年苦しんでいたことを知っている人物であれば、澤田とそんなに親しくない間柄であっても良く効く花粉症の薬だと言われて渡されれば澤田は疑うことなく飲んでいたと思います。本当に毎年辛そうでしたから」
 腕を組み澤田の姿を頭に映し出しながら反論した。
「花粉症でしたか・・・・・・」
 妹からもそんな情報は得られていなくて言葉に詰まった。
「毎年市販の鼻炎薬を色々と試していたみたいですが、合わないというかあまり効果はなかったようで、流石に今年は病院で診てもらうとは言っていましたが、最近は二人とも忙しくて会っていませんのでどうだったのか分かっていませんけど」
「申し訳ありませんが、澤田さんが使われていた机やロッカーがありましたら是非見せて頂きたいのですが」
 意外な事実に、今回の事件が自殺に因るものではないという可能性が、川瀬の胸の中で次第に大きくなっていた。
「分かりました、ご案内します」
 倉知が立ち上がって、二人を連れ立って研究室に向かった。
「澤田さんはどんな研究をされていたのですか」
 机の上にあった資料を手に取って川瀬が尋ねた。
「そうですね。鎌倉時代から江戸時代までの武家社会についてだったと思います」
「これは日本刀でしょうか。刀に興味を持っていらしたのですね」
 キャビネ判の写真を数枚取り上げて倉知に差し出した。
「ああっ、備前長船に正宗ですね。でも、澤田は村正の魅力に引き付けられていまして、購入したのかどうかは聞いていませんが、自宅に村正の短刀があるって言っていましたね」
「村正の短刀ですか・・・・」
「確か、澤田の話だと、白木の鞘に収まったもので、刻まれた銘からすると三代目の村正の作だそうです」
「えっ、三代目って・・・・・村正って何人も居たのですか」
 日本刀に詳しくない川瀬は目を大きく見開いて尋ねた。
「初代を正宗門人とすれば、四人居たというのが通説となっていますが、手腕の点から言えば文亀から永正に生きた三代目が有名で、現存する作品も最も多いのです。しかし、その作品の中でも短刀は珍しく、澤田が自慢したのもよく分かります」
「そんなに数が少ないのですか」
「そうですね。三代目の村正の作とはっきりと分かっているものだけで五本ですね。その中でも、特に龍と虎と彫られたものが有名で、木戸孝允が龍を西郷隆盛が虎の短刀を所持していたと言われています」
「龍と虎ですか・・・・・・」
「残念ながら、明治以降誰の手に渡ったのか分かっていませんが、もし本物がオークションに掛けられれば、日本は勿論、海外にも日本刀のコレクターは大勢いますので、どれくらいの値が付くのか想像も出来ませんね」
「澤田さんは、そういう話、そう、村正の短刀についてのお話はどなたにもされていたのでしょうか」
「どうでしょう・・・・・多分、研究室の人たちだけだったと思います。専門的な話ですから、興味の無い人に自慢しても仕方がないでしょう」
「そうですね。倉知さんから日本刀のお話を伺い、実物を手にすれば少しは感動したかも知れませんが、猫に小判とか豚に真珠のことわざがあるように、私は羨ましいとは全く思いませんから」
「えっ、ちょっと待って下さい。そう言えばこの前、学長の紹介で少し年配の男性にお会いしたのですが、話の合間に澤田のことについて色々聞かれたことがありました。その時も、刑事さんのように『猫に小判』って言葉が会話の中に出て来たのですが、何のことを話していたのかちょっと思い出せないですね」
 それでも必死に記憶を遡ってみた。
「その人物は誰だったのか分かりますか」
 川瀬は胸の内ポケットから手帳を取り出して倉知の言葉を待った。
「いや、この前って言いましたが、随分経っていますので、名前は・・・・・・ちょっと思い出せませんね。確か、名刺なども頂いていませんので、どうしてもと言われれば学長にお尋ねになって下さい」
「そうですか・・・・・・」
「ただ、どこの誰なのかは思い出せませんが、どこかの興信所か探偵事務所の調査員だったのではないでしょうか」
「どうしてそんなことが分かったのですか」
「いえ、澤田の家族についてなど随分詳しく聞かれたもので、きっとどこかで見初められて、相手の家族が澤田のことを調べさせているのだなっていう印象を持ちましたから」
「澤田さんのことを調べていた人物が居た・・・・・・」
 川瀬は手帳に書き込んだ後で、その書かれた文字を丸で囲い額に手を当てた。
「残念ながら、病院の診察券や薬の袋など、手がかりになるようなものは残念ながら何もありませんね」
 二人の会話が途切れるのを待って、井上刑事が声を掛けた。
「お時間を割いて頂きありがとうございました。もし、学長にお会いする機会がありましたら、澤田さんのことについて調べていた人物の名前や連絡先について聞いてみて下さい」
 川瀬は倉知に名刺を差し出した。
「わかりました。刑事さん・・・・いえ、川瀬刑事さんは、まだ私のことを疑っていらっしゃるのでしょうか」
 名刺に目を移した後ゆっくりと川瀬の顔に戻して尋ねた。
「どうでしょう・・・・・まだ、捜査の途中ですので、ただ、ご協力頂ければ心証は随分良くなると思います。それでは、これで失礼させて頂きます」
 川瀬は一礼すると出口に向かって歩き出し、井上がその後を続いた。
「どうも怨恨ではないようですね。やはり、殺害の動機は准教授の椅子に関してだと僕は思いますけど」
 廊下を歩きながら井上刑事が、川瀬の考えを探るように呟いた。
「井上の推理が正しければ、今度准教授に就く人物が犯人になる訳だ」
「そっ、そうです。きっと倉知が准教授に選ばれますよ」
 満足気に何度も頷いた。
「澤田さんのことについても随分詳しかったし、身近に居た人物だったのかも知れないが、出世の妬みから友人を殺害するとは思えないけどな」
「順調に出世して来た先輩には分からないと思いますが、同期の人間に先を越されるって言うのは辛いものですよ。ましてや、後輩に先を越された時にはしばらく立ち直れなかったのですから。特に、大学の講師なんかはプライドの塊みたいなものですから、親しければ親しい程先を越されるのが許せなかったのかも知れません。動機としてはそれだけで十分です」
「だけどな・・・・・もし、本当に倉知講師が准教授に選ばれたら、最も疑わしい人物になる訳だからな」
「だから、殺人ではなく、自殺や病死として扱われるように薬に細工をしたのではないでしょうか。今回はたまたま妹と同席の名古屋で亡くなっていましたが、自宅や名古屋市などの政令指定都市以外の監察医制度の無い地域で亡くなっていたなら、簡単に自殺か、あるいは事故死扱いされていたでしょうからね」
「警察の目も節穴ばかりじゃないから、そんなに簡単に殺人を見逃すはずはないさ」
「それは先輩の希望的観測ですよ。『完全犯罪なんて絶対に存在しない』なんて警察学校では教わりましたが、県内で年間何体の不審死体が発見されているか先輩だって知っているでしょう。その遺体を全て司法解剖する為の費用も人材も全く足りていないのが現状なのです。中には、面倒だからと、最初から自殺や事故として処理する場合だって無いとは言えないでしょう」
「もし、お前が本当にそう思っているなら、今すぐ警察官を辞めるべきだ。我々は、捜査権の無い遺族に成り代わって事件を解決しなければならない責任がある。確かに,法を守るべき検察官が賭けマージャンを常習として辞職した事例もあるが『正義を貫き、市民の安全を守る』という強い意志がなければ、警察官の職に就いている意味が無いから、そんな警察官は居ないと信じたいな」
「すみません」
 井上は素直に頭を下げた。
「確かに、不正をする警察官は一人も居ないとは言わないけれど、罪を犯した警察官も新人の頃は『正義』という強い信念を持っていたと思う。だけど、警察官も人間なんだよな。弱い面も持ち合わせていて、いつしか『悪』に少しずつ染まってしまう。だから、俺たちは初心を忘れることなく『正義』を貫きたいよな」
「はい」
 井上は立ち止まって今度は深々と頭を下げ、川瀬はその左肩を二度叩いて歩き出した。その頃大神崇は、レストランの仕事を終えて澤田裕司の通夜会場であるセレモニーホール美終苑に向かって車を走らせていた。たまたま日本刀について話を聞いた人物が、ほんの数十分後に亡くなり、その犯人として警察に連行されるとは青天の霹靂、夢にも思わぬ出来事であった。これはもう、神が大神に与えた試練と考えるしかなかった。
 セレモニーホール美終苑は、名古屋市中村区名駅南にあり、この地域では最大級の斎場であった。その日も四件のお通夜が予定されていて、係員が祭壇の飾り付けや生花の運搬などの準備に追われていたが、まだ時間が早いのか弔問客の姿は見られなかった。
 大神は、ロビーに表示されていた通夜の案内板を確認してエレベーターで三階に上がると、澤田家と大きく書かれた看板と誰も居ない受付を通って、まだ遺影の飾られていない棺に近付き顔の前で両手を合わせた。
「あっ」
 大神が祈りを終えて振り返ると、祭壇に近付いて来る澤田優子と視線が重なり、思わず声を漏らした。
「あの」
 大神が声を掛け近付こうとしたが、優子は驚いた表情で一瞬固まった後、大神に背を向けて慌てて駆け出した。
「ちょっと待って下さい」
 優子の後を追い掛け、その背中に言葉を投げ掛けたけれど、聞き入れてくれる訳も無く大神は急いで後を追う事になった。優子は一旦エレベーターに向かったが、階を表すランブが一階を示しているのを見て、追いつかれてしまうと慌てて階段を下った。
「僕の話を聞いて下さい」
 一階のフロアーに駆け下りたところで、大神の右手が優子の左腕を捕らえた。
「離して下さい」
 大神の手を振り払おうと左腕を大きく振った。
「僕はお兄さんを殺害してなんかいませんよ」
 大神は仕方なく握っている右手の力を緩めると、優子の左腕から手が離れた。
「それは、刑事さんが教えてくれました」
「それならどうして」
「私、あなたが犯人に間違いないと思ったから、大きな声で・・・・・」
「そんなことを気にしていたのですか。あの状況からすれば、犯人に間違われても仕方ないですよ。とても怪しい人物に映っていたでしょうから」
「今でもあなたが犯人ではないとは、正直信じられません。あなたが犯人でなければ誰が兄を殺害したのですか。教えて下さい」
 優子の真剣な眼差しが心に突き刺さった。
「それは僕にも分かりません。ただ・・・・・」
「あなたも刑事さんのように、自殺だったなんて言われるのですか。兄は、兄は、どんなことがあっても自殺なんかしません。家族を残して自殺なんて・・・・・・」
 両目から今にも涙が溢れそうであった。
「僕もそう思います」
 大神は鳶色の瞳で優しく微笑んだ。
「でも、犯人があなたでなければ、兄は誰に殺されたのでしょう。どうして殺されなければならなかったのでしょう」
 言葉の途中で大粒の涙が優子の頬に当たって流れ落ちた。
「もし、本当に僕がお兄さんを殺害した犯人ではないと少しでも信じて頂けるのでしたら、お兄さんのことについてお話を聞かせてもらえませんか」
「えっ」
 優子は大神の申し出に一瞬体を硬直させた。しかし、大声を出して犯人扱いした罪悪感と、大神の澄んだ鳶色の瞳に嘘はないと信じてゆっくりと頷いた。
「亡くなる直前に席を立たれたのですが、お兄さんはどちらに行かれたのでしょう」
 ロビーのソファに腰を降ろして早速質問を始めた。
「トイレに行くと言っていました」
「多分、その時に毒物を口にされたのだと思いますが、お兄さんの遺留品の中からは薬に関するものは何も出てこなかったようです」
「昨日、刑事さんにも薬の常用について聞かれたのですか、最近は兄が薬を飲んでいる姿は一度も見たことはなかったのです」
「そうですか、遺留品の中にも無かったとすると・・・・・・」
 言葉の途中で続けて二度くしゃみをした。
「あっ、そう言えば、兄は花粉症でしたから、今頃はいつも目の痒みやくしゃみ、そして一つのポケットティシュがなくなる程何度も鼻をかんでいました。でも、今年はそんなことなかったから、花粉の飛ぶ量が少ないのでしょうか」
 大神のくしゃみをする姿を兄とダブらせていた。
 「いえ、今年は昨年の五倍から八倍の量が飛んでいるそうです」
 ハンカチを鼻に当てて答えた。
「そう言えばあの時も、隣のテーブルの人が大きなくしゃみをしていました」
「それは、お兄さんが席を立たれる前ですか、それとも後でしょうか」
「確か・・・・・兄が席を立つ少し前でした」
「ああっ、それで分かりました。今までは毎年この頃になると花粉症に悩まされていたお兄さんが、今年はそんな花粉症の症状が現れなかった。つまりそれは、病院へ行って花粉症を抑える治療をされたのだと思います。今は花粉症を抑える薬も研究されているそうですから、お兄さんもその薬を飲んでいた可能性が高いのでしょう」
「隣の席の人がくしゃみをしたから慌てて薬を飲みに席を立ったと言うことですね」
「想像するしかないのですが、お兄さんはお昼の分の薬だけを持っていらして、その分を飲まれたので遺留品の中にも残っていなかったのではないでしょうか」
「それが、毒の入った薬だとは知らないで・・・・・・」
 優子の頭の中に亡くなる直前の兄の姿が突然蘇って、その恐ろしさを消し去ろうと顔を左右に振った。
「もしかすると、お兄さんの部屋に薬が残っているかも知れません。それと、お兄さんが通っていた病院が分かれば教えて頂けないでしょうか」
「病院ですか・・・・兄が病院に通っていたと言うことは知りませんでした。もし、病院に通っていたとすれば、大学の近くにある病院だと思うのですが」
「遺留品の中にも診察券などは残されていなかったようですので、もしかすると部屋か車の中に残されているかも知れませんので、それも調べて頂けますか」
「あの、もし診察券が出て来たら、それをどうされるつもりですか」
「もし、僕の推理が正しければ、その病院にもお兄さんを殺害した犯人が居る可能性が有ります」
「えっ、病院の中に犯人が居るとおっしゃるのですか」
「お兄さんの職場という可能性もありますが、そちらは警察が調べているでしょうから。僕は違う視点でこの事件を調べてみようと思います」
「まさか、あなたが事件を調べられるのですか」
「そうですよ、いけませんか。不思議な縁で、お兄さんを殺害した犯人として疑われることになりました。出来れば、僕の手で犯人を探し出したいと思っています」
「そんなこと・・・・無実と分かってもらえたし、後は警察に任せておけばいいじゃないでしょうか」
 普通の人間ならば事件に関わりたくないものなのに、優子は驚きと言うより大神の発想が理解で出来なかった。
「澤田さんは一樹の陰という言葉をご存知ですか」
「いいえ、聞いたこともありません」
「あなた達兄妹に出会い、その後直ぐにお兄さんが亡くなられた。その確率を求めたらどれ程の数字が出るでしょう。偶然と言う言葉だけでは表せない、そうこの事件を解決させる為に僕たちは出会うことになっていたのです。それは、僕に課せられた使命なのだと思うのです」
「それは・・・・・・それは、兄のことを思ってのことだと感謝の気持ちでいっぱいです。しかし、あなた一人で何が出来ると言うのですか。科学捜査や組織力では警察に勝てる訳がないでしょう。それに、もし犯人が捜査のことを知ればあなたを襲うことだって有り得ます。あなたと全く無関係な私たちの為に、危険なことはしないで下さい」
 大神の想像もしない言葉に唯々呆れていた。
「そうですね。確かに日本の警察の高い検挙率は、世界にも誇れるものだと思います。しかし、科学捜査や組織力にしても万能ではなく、冤罪や未解決事件が存在するのも事実です。多勢に無勢、勿論人数の点ではとても太刀打ちで出来ませんが、反対に少数精鋭で少なくても優秀なスタッフであれば、十分に事件を解決することは出来るのではないでしょうか。それに、体格は良いですが見掛けによらず小心者ですから、危なくなれば警察にすぐ駆け込みますので心配は無用です」
「分かりました。薬の残りの件と、兄が通院していた病院は調べておきます」
 どんな言葉を並べられても、目の前に居る人物が個人的に優秀な人物であったとしても、事件の捜査に関しては警察に敵う訳がない。それを堂々と言い放つ人間を信じろという方が無理である。それが、レストランのアルバイトでは尚更であった。
「警察で名前くらいは聞かれたと思いますが、大神崇と言います」
 大神は、二つ折りの皮の財布の中からテレホンカードを取り出して、油性のペンを使って右手で氏名と携帯番号をしっかりと書き込んで優子に差し出した。
「私は澤田優子です」
 テレホンカードを両手で受け取って答えた。
「あっ、テレホンカードなんて今は誰も持っていませんよね。マイナンバーカードの時代ですから、澤田さんも勿論お持ちですよね」
「いいえ、私は」
 テレホンカードの横で右手を振った。
「僕も持っていませんけど、日本の人口の十五%も普及していなのですから、僕達は少数派の方ですね。しかし、政府が税金の何千億を使って始めた事業なのに、日本の人口の七十%以上の普及率がなければ効果がないと言われているのに、どんなメリットがあったのでしょう。パスワードが十二桁でAからZまでのアルファベット0から9までの数字でガードされていれば、それを解読するのにはスーパーコンピュターを使っても二億八千万年以上掛かると言われています。でも、優子さんはその十二桁のパスワードを頭の中に残せる自信は有りますか。マイナンバーカードの裏にパスワードを書き留めて落としてしまえば、全て丸裸ですよね」
 熱く語る大神に優子は目を大きく見開いた。
「あっ、すみません、全く関係のない事ですよね。それではもう一つ出来れば、澤田さんの連絡先を教えて頂けないでしょうか」
 胸のポケットから小さな手帳を取り出してページを開くと、油性のペンと一緒に優子に手渡した。
「そうですね・・・・・・」
 少し間を置いてから自宅の住所と電話番号を記入した。
「携帯の番号を教えて頂くと連絡を取るのに都合がいいのですが」
 戻された手帳を見て大神が申し訳なさそうに言った。
「すみません。携帯をどこかに落としてしまって、今は手元にないのです」
 自分の口から出た『嘘』に少し後ろめたさを感じたけれど、出会って間もない男性に携帯の番号を教える気にはなれなかった。
「そうですか」
 先程、優子の後を追った時に、ズボンの後ろポケットの膨らみと外に出ていた熊のプーさんの携帯ストラップに気づいてはいたが、彼女の気持ちの中にある得体の知れない自分の存在に納得し、敢えて追及することはしなかった。
「それでは、通夜の準備もありますので、これで失礼させて頂きます」
 優子はお辞儀をして席を立とうとした。
「お兄さんは、名古屋城北大学にお勤めになっていたようですが、大学内で親しくされていた方を教えて頂けないでしょうか」
「仕事のことは殆ど話してくれませんでしたので、誰と親しくしていたのか全く分かりません」
 また一つ嘘をついてしまった。
「それからもう一つ。警察からも尋ねられたと思いますが、お兄さんが何か悩んでいらしたことや、何かの事件に関わっていたということはなかったでしょうか」
「兄からは何も聞かされていません。もういいでしょう」
 優子は立ち上がり大神に背を向けた。
「トイレに行かれたのは、薬を飲む為だけではなかったと思います」
大神は座ったまま優子の背中に言葉を投げ掛けた。
「どういうことですか」
 優子は慌てて振り返った。
「薬を飲むだけでしたら、あの席でも十分に出来ます。テーブルにはまだ口の付けていない水が残されていましたから。お兄さんが席を立たれたのは、あなたが差し出された雑誌が原因ではないかと思います」
 雑誌を手に困惑していた澤田裕司の表情が蘇った。
「まさか、私たちの会話を盗み聞きしていたのですか」
 驚きと怒りが混ざった複雑な気持ちで大神の顔を睨み付けた。
「会話を聞いた訳ではありませんが、お兄さんの表情が気になったものですから。確かあの雑誌は、西京大学の事務局が発行しているものですよね」
「そうですけど、今回の事件とは全く関係ありません」
 強く否定したものの、あの時の兄の意味有りげな態度や言葉は優子の心にずっと影を落としていた。
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