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第一部

33 牡丹と熊2nd

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 ──月曜日、朝のミーティングにて……。
 
「皆に紹介しよう、我が事務所は、区が推進する“若者の育成プロジェクト”に参加する事になり、20代の社員に対して教育を施す事になった。そこで、今日からウチで様々な教育や指導を行ってくれる方を紹介する。“倫理指導員”の熊谷君だ」
 
 もっともらしい理由を説明し、熊谷さんが今日から事務所に仲間入りする事が発表され、自己紹介が行われた。
 
熊谷 飛彩くまがい ひいろです。女みたいな名前ですが見ての通り男です。昨今問題となっている“モラルハラスメント”などにメスを入れていくつもりですので、20代の方もそうでない方も、覚悟してください」
 
 なかなか癖の強めの挨拶だったが、そのルックスの良さからか、女子達が若干浮足立っている気がする。
 
 
 
 ミーティングの後……。
 
「虎谷さん、先日はありがとうございました」
 
 熊谷さんが私の席に現れた。
 
「あ、いえいえ、私も大変勉強になりました。ありがとうございました」
 
 これは先週の金曜日に代表に呼び出された際に、例の女子二人についての情報提供したついでに、私もモラハラについていろいろと教えてもらった件についてのお礼である。
 
「ところで今朝、通勤の際に虎谷さんに似た方をお見掛けしましたがバス通勤をされていますか?」
 
「え、あ、はい、そうですね」
 
 ──ど、どっから見られてたんだろう……人事には引っ越したこと誰にも言わないでくれって言っといたから誰も知らないのに……。
 
 一八さんのペントハウスから会社までは頑張れば歩いてこれる距離なのだ。
 しかし、引っ越した事を知られたくないため、たったバス停三つ分だが無駄に今までと同じバスに乗って通勤しているのである。
 
「やはりそうなんですね、私も最近引っ越してきたばかりで、同じバスなんです」
 
「へ、へぇ……あの時間、混んでますよね、少し早い時間だと空いてますよ」
 
「へぇ、いいことを聞きました。参考にさせて頂きます。では」
 
 いったい何の会話だったのかわからないが、さっそく隣の視線が痛い……もちろん、私の隣は鳥居舞香である。
 
「虎谷さん、金曜日は私の事ガン無視でしたから聞けませんでしたけどぉ、私達月曜日のお昼に見ちゃいましたぁ~。虎谷さんが彼氏から迎えに来てもらってるところぉ~」
 
「……」
 
 ──でたでた……おぉ~い、熊谷さ~ん、これ、モラハラじゃないんですかぁ~?
 
 と、心の中で訴えるが、こんなにすぐに現行犯で捕まえるわけにはいかないだろう。
 
「私かどうかも不確か、恋人かどうかも不確かであることを、勤務中に大きな声で話さないで頂けますか?」
 
「えぇ~? 会社の前だったのに、虎谷さんじゃないなんてことありますぅ? 着てた服だって同じだったしぃ……ねぇ、綾乃」
 
 同僚を名前で呼ぶなんて……ここは学校じゃないんですけど。

「そうですよ、私も見ました! めっちゃいい車乗ってますよねぇ彼氏さん。何やってる人なんですか? 見た目はだいぶ残念でしたけど……(ップ)」
 
「……」
 
 仕事中にも関わらず、大きな声で人のプライベートなことをべらべらと話す二人にイライラしていると、ようやく熊谷氏からメス・・とやらが入った。
 
「そこまでです。鳥居さん、猿田さん、これまでの会話のほとんどがモラルハラスメントに値します。虎谷さんも、見るからに嫌な思いをしていらっしゃいます」
 
 遅いんですけど……。
 
「あ、熊谷さんっ♡そのモラルって、私イマイチわからなくってぇ、詳しく教えて欲しいんで連絡先交換しませんかぁっ?」
 
「私もぉ♡」
 
 素早い動作でいつの間にやらスマホをスタンバイしているハンターのような女子二人にあっけにとられていると、熊谷さんは死んだ魚のような眼をしてバッサリと彼女達を切り捨てた。
 
「モラルがおわかりにならないと? そうですか、それは残念です。高校卒業レベルの単語なのですが。では後で資料をお渡しします。連絡先の交換はしません。スマートフォンはカバンの中にしまってください」
 
「「……」」
 
 ……彼が“鉄壁のアイスベア”と呼ばれる日はそう遠くないだろう。
 


 とにもかくにも、彼のおかげか女子二人はその日はそれ以降私に絡んでくることもなく、平和に一日が終わった。
 
 なかなか役に立つな、倫理指導員熊谷氏。

 
 
 
 
 ……退勤後、バス停で帰りのバスを待っていると、後ろから熊谷さんが現れた。
 
「虎谷さん、お疲れ様です」
 
「熊谷さん、お疲れ様です。今日は朝からするどいメスを有難うございました。おかげであれ以降は静かに仕事が出来ました」
 
 一応労いの気持ちも混みでお礼を伝える。
 
「……あんな会話が日常的に行われていたのですか?」
 
「え? あぁ~、まぁ、そうですね」
 
「信じられません……あれは若いからなどという以前に、性格的に問題があると思います」
 
 はい、私もそう思います。
 それにしたって、初対面の人間に初日でそう思わせるって、あの二人も相当な性格の悪さなのだろう。
 
「ところで、今朝のお話ですが、事実ですか?」
 
「え? ……と、言いますと?」
 
「恋人が迎えに来ていたとか……」
 
 もしや、恋人に会社まで迎えに来てもらうことは倫理に反するのだろうか。
 一抹の不安を覚えた私は、とっさに誤魔化すことにした。
 
「彼女達の見間違いではないでしょうかね。ちなみに、それは倫理やモラルに反しますか?」
 
「いえ、そういった意味でお尋ねしたわけではありません。退勤後ですので、問題はないかと」
 
 よかった……でも念のために今後同じようなことがあれば、少し離れた場所で待ってもらうことにしよう。
 勉強になります、熊谷氏。
 
 それにしても、このまま一緒にバスに乗ると、降りるバス停までバレてしまう。たった三つということがバレるのは非常に気まずい。
 
「あ、私デスクに忘れ物してしまいました、取りに戻りますね。お疲れさまでした」
 
「え? ええ、お疲れさまでした」
 
 私はビルの中に戻り、化粧室で少し時間を潰した後、歩いて帰ることにした。
 
 
 
 


 
 
「ただいま戻りましたぁ」
 
「おかえり、牡丹……どうだったイケメン倫理指導員熊谷氏は」
 
 帰るや否や、そんな質問をしてくる一八さん。
 
「ははっ、もぉ……心配しなくても何にもないですよ。むしろ今日は助けてもらいました。──手洗ってきますね」
 
「……助けてもらった?」
 
 
 
 
 
「牡丹、イケメン倫理指導員熊谷氏に助けてもらわにゃならん事があったのか?」
 
 なんだろう、一八さんが兄みたいな口調になっている。
 手洗いうがいをしている私の所にまでついてきて、わざわざそんなことを聞いてくるなんて、本当にどうしてしまったのだろうか。
 
「ん──、月曜日に一八さんが会社に迎えに来てくれた時、あの二人に見られたじゃないですか? それでちょっと」
 
 あまりよく覚えていないが、大した事ない内容だった気がするので、詳細を言う必要はないだろう。

「……俺がダサいって? 陰キャのモサダサ男って言われた?」

 ──ん?!
 
「ッブハッ! ……ちょっ! うがいしてるんですよっ笑わせないでくださいっ」
 
 なんだろう、彼は今なんと言った? 陰キャのモサダサ? どっからそんな単語が……さすがにそこまでは言われてはいない。
 
「俺のせいで牡丹が馬鹿にされたなら……ごめん」
 
 い、一体彼はどうしてしまったのだろうか。なぜこんなにも落ち込んでいるのだ……いったいどの面でそんな言葉を……。
 
「ひ、一八さんのせいで私が馬鹿にされた?! ありないです! こんな神々しいイケメン捕まえて私ってば超幸せ絶頂だっていうのに、何を言っているんですか?」
 
「……でも、迎えに行った日は前髪も下ろして眼鏡もかけてて……陰キャのモサダサ男と言われてもしょうがない見た目だったろ……」
 
 ──なになになに?! しょんぼりわんこのお耳が見えるんですけど! 可愛すぎるんですけど!
 
「どこでそんな言葉を覚えてきたのかわかりませんが、そんな知性の欠片もない言葉は今すぐ忘れてください……私は全人類から一八さんという素敵な男性を独り占めしたいんです。そのためには、あの前髪も眼鏡も必要なんです! ……私の言葉が信じられませんか?」
 
「……信じる、けど、それとこれとは別の問題であって……」
 
 今日はやけに引かない彼に、魔法の言葉をかけてあげることにした。
 
 
「一八さん、ごはん食べて片付け済ませたら、今日は一緒にお風呂入りましょうか、っね?」
 
「わかった」
 
 彼はすぐさまキッチンへと戻っていった。
 
 
 ……心配になるほどチョロいぞこの人。
 
 
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