5 / 43
第一部
5 牡丹は龍に流される
しおりを挟む「結婚しましょう、虎谷牡丹さん」
さぁ! っとばかりに私にペンを握らせようとする先生に、私は手に力を入れることが出来ずにいた。
何度持たされてもテーブルに落ちるペンと下がり続ける私のテンション。
「先生、落ち着いてください……間違いは誰にでもあります、大丈夫です」
私は自分の鞄の中からノートパソコンを取り出し、ポケットWi-Fiをつないだ。
そして、自分がこれまでに作成したデータを少し修正し保存する。
「先生、プリンターお借りしても?」
「え? あ、はい……うちのWi-Fiにつなげてもらえれば、自動的にプリンターが表示されると思いますよ……」
私は無言でテキパキと操作し、作成したデータを出力した。
「(小声)雇用契約書ならあるのに……これにサインしてくれてもあまり意味がないんだけどな……」
私が出力した紙を取りに、奥の部屋へと消えて行った先生は、なにやら紙を見ながらブツブツと呟きながら戻ってきた。
私は先生の手から自分で作成した雇用契約書を受け取り、すらすらと名前を記入すると、雇用主に手渡した。
「先生、給与の部分は要相談として、細かな項目も後に要相談とするとして、これで雇用契約成立でよろしいでしょうか?」
「……こっちへのサインは……?」
たたんでテーブルの端に追いやったはずの先ほどの紙を探し出し、懲りずに婚姻届を広げ指差す先生に、私はビシッと言ってやった。
「いたしません!」
「……」
「……ん? 待ってください、どうして契約がひと月後なのですか?」
婚姻届は諦めたのか、私が即席で作った雇用契約書に真剣に目を通しはじめた先生が、少し驚いたように声を上げた。
「それはですね、今の会社の就業規則で退職の申し出は一ヵ月前と決まっているからです」
そうか、大学生で受賞してらっしゃるから、企業に勤めたことがない先生にはなじみのない仕組みかもしれない。
「……そうですか、規則であれば仕方ありませんね。本当はこういった方法は好ましくはないんですが……星ノ友出版の常務にお願いしてみましょう」
星ノ友出版とは、うちの法律事務所と法人契約を結んでいる超お得意様だが、一体何をお願いすると言うのだろうか。
「星ノ友の常務さんに何をお願いするのですか?」
嫌な予感はしたが、念の為一応確認する。
「それはもちろん、常務さん経由で、虎谷さんの事務所の代表者に即日退職を認めてもらえるようにしていただこうかと」
──何を言っているんだこの人は!
「と、とんでもないっ! せっかく円満退社となるように引継ぎも始めたのですから、このままでお願いします!」
「ですが……勤務開始がひと月後だなんて……」
そうか、そうだった、この人は早く人が欲しかったのだ。
「では、こうしませんか? あとひと月は、SENBA法律事務所に所属していることになっていますので、雇用して頂くわけにはいきませんが、有休を消化する予定ですので来れる日はこちらで先生のお手伝いをいたします! それならいかがですか?」
頼む、うんと言ってくれ。
「そうですねぇ……ですが、やはり……。ああ! それなら、私からの福利厚生を断らずに受け入れてくださると約束してくださるならば、それでもかまいません。本当は貴女を誰かと共有するなど嫌なのですが……」
「福利厚生ですか? もちろん、もちろん喜んで! では、この件はご納得頂けたということで、その手にお持ちのスマホは今すぐおいてください」
今にも星ノ友出版の常務に電話をかけそうな勢いの先生を何とかなだめ、スマホをテーブルに置いてもらうことに成功した。
「それでは虎谷さん、いつこちらに引っ越して来ますか? 私はいつでもいいですよ、あ、もちろん、引っ越しにかかった費用は私がもちますよ」
「え……引っ越し……? と言いますと……?」
おいおい……この先生は、またわけのわからないことを言い出したぞ。
「ええ、先ほど福利厚生を喜んで受けると約束しましたよね。このペントハウスを社宅だと思ってください。私の仕事部屋以外は虎谷さんの住居として好きに過ごしてくださってかまいませんよ」
「あ……え? ……このペントハウスが、社宅……?」
──あんな一方的で騙すような口約束、無効です! とは、なんとなく言えない雰囲気……。
その後も、なんやかんやと話し合いを行ったが、最終的に私は、雇用主付きの超豪華社宅へと、半ば強制的に引っ越する事に決まってしまったのだった。
口は災いのもとである。
閑散期だった事もあってか、引っ越し業者の仕事がどえらく早かった為、翌日には私の社宅への引っ越しが完了してしまった。
丁度土曜日だったこともあり、有休を使うまでもなく……。
不思議だったのは、人を雇って煩わしい手続きを任せたいと言っていたはずの先生が、今回の引っ越しの何から何までを手配してくれたのである。
……とても手際が良かった気がする。
「社宅への入居、完了いたしました……よろしくお願いします……?」
「ようこそ虎谷さん、これが鍵です。コンシェルジュにはもう伝えておきましたので心置きなく出入りしてくださいね」
おかしい。何かがおかしい。
「先生、正式には私はまだこちらの社員ではありませんので、ひと月の間は何か御用がある時だけお手伝いする、というスタンスでよろしいですか?」
「もちろんです。あ、でも、せっかくだから食事は今日から一緒にとりませんか?」
そうだった……朝昼晩と三時のオヤツだったか……。
「かしこまりました」
「それと……同じ家に住むのですから、お互いに敬語はやめませんか? あと……牡丹ちゃんとお呼びしても?」
──距離感おかしいですよ先生……。
「もちろん先生は私に敬語なんてお使いになる必要ありませんっ! ですが私はさすがにケジメとして、丁寧な言葉を使わせて頂きたいです。名前については、お好きなようにどうぞ」
「わかった、なら俺だけ口調を崩させてもらうことにするよ」
突然、一人称が“私”から“俺”に変わっただけで、なんだかドキッとしてしまう。
これだからイケメンは罪深い。
「では先生、本日はお手伝いする事はありますか?」
「……そうだな、今日はもうこんな時間だから食事は外で済ませようか。牡丹ちゃんの引っ越し祝いも兼ねて、ご馳走させて」
そう言われて腕時計を見れば、すでに五時を過ぎていた。道理でお腹がすくわけだ。
「ではお言葉に甘えて……お気遣いありがとうございます」
先生は着替えてくる、と言い奥の部屋へと消えて行ったので、私も引っ越し用の動きやすい服装から着替える事にした。
──あれ、そう言えば、服も選んで欲しいとか言ってなかったっけ? ……ま、いっか。まだお手伝いだし。
割り当てられた部屋から出ると、丁度着替えを済ませた先生が、バスルームの隣のパウダールームから出てきた。
「っな……!」
──まただよ……髪をセットしてイケメンオーラ全開とか勘弁してくれ……。
「牡丹ちゃんも着替えたんだ、可愛いね」
──サラッと可愛いと口にするとか、欧米かっ……ラウル先生でも言わなかったぞ。
先行き不安だ……この人とひとつ屋根の下だなんて、心臓が三つくらい必要である。
41
お気に入りに追加
274
あなたにおすすめの小説
クソつよ性欲隠して結婚したら草食系旦那が巨根で絶倫だった
山吹花月
恋愛
『穢れを知らぬ清廉な乙女』と『王子系聖人君子』
色欲とは無縁と思われている夫婦は互いに欲望を隠していた。
◇ムーンライトノベルズ様へも掲載しております。
上司と雨宿りしたら種付けプロポーズされました♡
藍沢真啓/庚あき
恋愛
私──月宮真唯(つきみやまい)は他社で働いてる恋人から、突然デートのキャンセルをされ、仕方なくやけ食いとやけ酒をして駅まであるいてたんだけど……通りかかったラブホテルに私の知らない女性と入っていくのは恋人!?
お前の会社はラブホテルにあるんかい、とツッコミつつSNSでお別れのメッセージを送りつけ、本格的にやけ酒だ、と歩き出した所でバケツをひっくり返したような豪雨が。途方に暮れる私に声を掛けてきたのは、私の会社の専務、千賀蓮也(ちがれんや)だった。
ああだこうだとイケメン専務とやり取りしてたら、何故か上司と一緒に元恋人が入っていったラブホテルへと雨宿りで連れて行かれ……。
ええ?私どうなってしまうのでしょうか。
ちょっとヤンデレなイケメン上司と気の強い失恋したばかりのアラサー女子とのラブコメディ。
2019年の今日に公開開始した「上司と雨宿りしたら恋人になりました」の短編バージョンです。
大幅に加筆と改稿をしていますが、基本的な内容は同じです。
【完結】Mにされた女はドS上司セックスに翻弄される
Lynx🐈⬛
恋愛
OLの小山内羽美は26歳の平凡な女だった。恋愛も多くはないが人並に経験を重ね、そろそろ落ち着きたいと思い始めた頃、支社から異動して来た森本律也と出会った。
律也は、支社での営業成績が良く、本社勤務に抜擢され係長として赴任して来た期待された逸材だった。そんな将来性のある律也を狙うOLは後を絶たない。羽美もその律也へ思いを寄せていたのだが………。
✱♡はHシーンです。
✱続編とは違いますが(主人公変わるので)、次回作にこの話のキャラ達を出す予定です。
✱これはシリーズ化してますが、他を読んでなくても分かる様には書いてあると思います。
王女、騎士と結婚させられイかされまくる
ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。
性描写激しめですが、甘々の溺愛です。
※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。
孤独なメイドは、夜ごと元国王陛下に愛される 〜治験と言う名の淫らなヒメゴト〜
当麻月菜
恋愛
「さっそくだけれど、ここに座ってスカートをめくりあげて」
「はい!?」
諸般の事情で寄る辺の無い身の上になったファルナは、街で見かけた求人広告を頼りに面接を受け、とある医師のメイドになった。
ただこの医者──グリジットは、顔は良いけれど夜のお薬を開発するいかがわしい医者だった。しかも元国王陛下だった。
ファルナに与えられたお仕事は、昼はメイド(でもお仕事はほとんどナシ)で夜は治験(こっちがメイン)。
治験と言う名の大義名分の下、淫らなアレコレをしちゃう元国王陛下とメイドの、すれ違ったり、じれじれしたりする一線を越えるか超えないか微妙な夜のおはなし。
※ 2021/04/08 タイトル変更しました。
※ ただただ私(作者)がえっちい話を書きたかっただけなので、設定はふわっふわです。お許しください。
※ R18シーンには☆があります。ご注意ください。
イケメンドクターは幼馴染み!夜の診察はベッドの上!?
すずなり。
恋愛
仕事帰りにケガをしてしまった私、かざね。
病院で診てくれた医師は幼馴染みだった!
「こんなにかわいくなって・・・。」
10年ぶりに再会した私たち。
お互いに気持ちを伝えられないまま・・・想いだけが加速していく。
かざね「どうしよう・・・私、ちーちゃんが好きだ。」
幼馴染『千秋』。
通称『ちーちゃん』。
きびしい一面もあるけど、優しい『ちーちゃん』。
千秋「かざねの側に・・・俺はいたい。」
自分の気持ちに気がついたあと、距離を詰めてくるのはかざねの仕事仲間の『ユウト』。
ユウト「今・・特定の『誰か』がいないなら・・・俺と付き合ってください。」
かざねは悩む。
かざね(ちーちゃんに振り向いてもらえないなら・・・・・・私がユウトさんを愛しさえすれば・・・・・忘れられる・・?)
※お話の中に出てくる病気や、治療法、職業内容などは全て架空のものです。
想像の中だけでお楽しみください。
※お話は全て想像の世界です。現実世界とはなんの関係もありません。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
ただただ楽しんでいただけたら嬉しいです。
すずなり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる