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第一部

5 牡丹は龍に流される

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「結婚しましょう、虎谷牡丹さん」
 
 さぁ! っとばかりに私にペンを握らせようとする先生に、私は手に力を入れることが出来ずにいた。
 何度持たされてもテーブルに落ちるペンと下がり続ける私のテンション。
 
「先生、落ち着いてください……間違いは誰にでもあります、大丈夫です」
 
 私は自分の鞄の中からノートパソコンを取り出し、ポケットWi-Fiをつないだ。
 
 そして、自分がこれまでに作成したデータを少し修正し保存する。
 
「先生、プリンターお借りしても?」
 
「え? あ、はい……うちのWi-Fiにつなげてもらえれば、自動的にプリンターが表示されると思いますよ……」
 
 私は無言でテキパキと操作し、作成したデータを出力した。
 

「(小声)雇用契約書ならあるのに……これにサインしてくれてもあまり意味がないんだけどな……」

 私が出力した紙を取りに、奥の部屋へと消えて行った先生は、なにやら紙を見ながらブツブツと呟きながら戻ってきた。

 
 私は先生の手から自分で作成した雇用契約書を受け取り、すらすらと名前を記入すると、雇用主に手渡した。
 
「先生、給与の部分は要相談として、細かな項目も後に要相談とするとして、これで雇用契約成立でよろしいでしょうか?」
 
「……こっちへのサインは……?」

 たたんでテーブルの端に追いやったはずの先ほどの紙を探し出し、懲りずに婚姻届を広げ指差す先生に、私はビシッと言ってやった。
 
「いたしません!」
 
「……」


 
 
 



「……ん? 待ってください、どうして契約がひと月後なのですか?」
 
 婚姻届は諦めたのか、私が即席で作った雇用契約書に真剣に目を通しはじめた先生が、少し驚いたように声を上げた。
 
「それはですね、今の会社の就業規則で退職の申し出は一ヵ月前と決まっているからです」
 
 そうか、大学生で受賞してらっしゃるから、企業に勤めたことがない先生にはなじみのない仕組みかもしれない。
 
「……そうですか、規則であれば仕方ありませんね。本当はこういった方法は好ましくはないんですが……星ノ友出版の常務にお願いしてみましょう」
 
 星ノ友出版とは、うちの法律事務所と法人契約を結んでいる超お得意様だが、一体何をお願いすると言うのだろうか。
 
「星ノ友の常務さんに何をお願いするのですか?」

 嫌な予感はしたが、念の為一応確認する。
 
「それはもちろん、常務さん経由で、虎谷さんの事務所の代表者に即日退職を認めてもらえるようにしていただこうかと」
 
 ──何を言っているんだこの人は!
 
「と、とんでもないっ! せっかく円満退社となるように引継ぎも始めたのですから、このままでお願いします!」
 
「ですが……勤務開始がひと月後だなんて……」
 
 そうか、そうだった、この人は早く人が欲しかったのだ。
 
「では、こうしませんか? あとひと月は、SENBA法律事務所に所属していることになっていますので、雇用して頂くわけにはいきませんが、有休を消化する予定ですので来れる日はこちらで先生のお手伝いをいたします! それならいかがですか?」
 
 頼む、うんと言ってくれ。
 
「そうですねぇ……ですが、やはり……。ああ! それなら、私からの福利厚生を断らずに受け入れてくださると約束してくださるならば、それでもかまいません。本当は貴女を誰かと共有するなど嫌なのですが……」
 
「福利厚生ですか? もちろん、もちろん喜んで! では、この件はご納得頂けたということで、その手にお持ちのスマホは今すぐおいてください」
 
 今にも星ノ友出版の常務に電話をかけそうな勢いの先生を何とかなだめ、スマホをテーブルに置いてもらうことに成功した。
 
 
「それでは虎谷さん、いつこちらに引っ越して来ますか? 私はいつでもいいですよ、あ、もちろん、引っ越しにかかった費用は私がもちますよ」
 
「え……引っ越し……? と言いますと……?」
 
 おいおい……この先生は、またわけのわからないことを言い出したぞ。
 
「ええ、先ほど福利厚生を喜んで受けると約束しましたよね。このペントハウスを社宅だと思ってください。私の仕事部屋以外は虎谷さんの住居として好きに過ごしてくださってかまいませんよ」
 
「あ……え? ……このペントハウスが、社宅……?」

 ──あんな一方的で騙すような口約束、無効です! とは、なんとなく言えない雰囲気……。




 その後も、なんやかんやと話し合いを行ったが、最終的に私は、雇用主付きの超豪華社宅・・へと、半ば強制的に引っ越する事に決まってしまったのだった。

 口は災いのもとである。












 閑散期だった事もあってか、引っ越し業者の仕事がどえらく早かった為、翌日には私の社宅・・への引っ越しが完了してしまった。

 丁度土曜日だったこともあり、有休を使うまでもなく……。

 不思議だったのは、人を雇って煩わしい手続きを任せたいと言っていたはずの先生が、今回の引っ越しの何から何までを手配してくれたのである。
 ……とても手際が良かった気がする。


「社宅への入居、完了いたしました……よろしくお願いします……?」

「ようこそ虎谷さん、これが鍵です。コンシェルジュにはもう伝えておきましたので心置きなく出入りしてくださいね」

 おかしい。何かがおかしい。

「先生、正式には私はまだこちらの社員ではありませんので、ひと月の間は何か御用がある時だけお手伝いする、というスタンスでよろしいですか?」

「もちろんです。あ、でも、せっかくだから食事は今日から一緒にとりませんか?」

 そうだった……朝昼晩と三時のオヤツだったか……。

「かしこまりました」

「それと……同じ家に住むのですから、お互いに敬語はやめませんか? あと……牡丹ぼたんちゃんとお呼びしても?」

 ──距離感おかしいですよ先生……。

「もちろん先生は私に敬語なんてお使いになる必要ありませんっ! ですが私はさすがにケジメとして、丁寧な言葉を使わせて頂きたいです。名前については、お好きなようにどうぞ」

「わかった、ならだけ口調を崩させてもらうことにするよ」

 突然、一人称が“私”から“俺”に変わっただけで、なんだかドキッとしてしまう。
 これだからイケメンは罪深い。

「では先生、本日はお手伝いする事はありますか?」

「……そうだな、今日はもうこんな時間だから食事は外で済ませようか。牡丹ちゃんの引っ越し祝いも兼ねて、ご馳走させて」

 そう言われて腕時計を見れば、すでに五時を過ぎていた。道理でお腹がすくわけだ。

「ではお言葉に甘えて……お気遣いありがとうございます」

 先生は着替えてくる、と言い奥の部屋へと消えて行ったので、私も引っ越し用の動きやすい服装から着替える事にした。

 ──あれ、そう言えば、服も選んで欲しいとか言ってなかったっけ? ……ま、いっか。まだお手伝いだし。





 割り当てられた部屋から出ると、丁度着替えを済ませた先生が、バスルームの隣のパウダールームから出てきた。

「っな……!」

 ──まただよ……髪をセットしてイケメンオーラ全開とか勘弁してくれ……。

「牡丹ちゃんも着替えたんだ、可愛いね」

 ──サラッと可愛いと口にするとか、欧米かっ……ラウル先生でも言わなかったぞ。


 先行き不安だ……この人とひとつ屋根の下だなんて、心臓が三つくらい必要である。


 
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