もう転生しませんから!

さかなの

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建国 編Ⅱ【L.A 2071】

 どちらにもなれない

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 ジェイコブは困惑していた。
 赤ん坊を腕に抱いた姿が非常に似つかわしくない異形の頭の男。彼が赤い狼の子供に耳打ちをする。どちらも顔というものがない、表情が分からない。口元を読むこともできないことが酷く不快に感じた。
 子供はその細腕で軽々と妹の体を抱き上げ、ついてくるようにジェイコブを促す。

 向かった先は浴場。床を大きく、くり抜いた穴にたっぷりの湯が張られている。じっとりと水分を含んだ空気がまとわりついた。乾いた喉に入り込んだ蒸気に軽く咽てしまう。
 この赤い狼の子供が何をしようとしているのかが分かった。分かったからこそ、胸の奥が嫌悪感で満ちるのだ。

「……湯浴みは、自分たちでやるからいい」

 いくら妹の命を救った恩人だとしても、を許すことはできない。

「筋力が極度に衰えているお前が、妹の体を支えながら体を洗ってやれると」

「う、ぐ」

 言い返せない事実を突きつけられる。反論をすぐに繰り出すことはできなかった。

「見られたく、ない! これ以上、妹の……ボクの体を他の奴に……っ」

 それが本音。相手が誰だろうと、妹を誰かに任せたくなかった。
 思い出すのは暗闇、冷たい床、顔にかかる粘りついた生ぬるい息。思い出してはいけない。奥歯がひとりでにガチガチと音を立てる。足がすくむ。体中が冷たいのにどっと汗が噴き出そうだ。

「お前、男だろ。だったら尚更だ」

 確信はなかった。本能的にそう感じただけ。けれどその本能がこの赤い狼の子供に警鐘を鳴らしているのだ。
 妹を、自分の体をこれほどに汚し、痛めつけた存在。それと、同じ男であると。

「……男だったら、お前たちに無体むたいを強いると」
「そうだ」

 一度救われた。心を、妹を。けれどそれだけだ。自分は転生者だから知恵がある。誰に頼らなくても生きていける。
 だから、もうこれっきりにしてほしいと、願ったのだ。
 呆れて、嫌って、突き放してくれれば。妹と二人で生きる口実になる。

 誰にも、縋らずに。

 子供は妹の体をそっと、壁を背にして座らせる。諦めてくれた、呆れてくれた。あとはここから立ち去ってくれればいい。震える呼吸を細く吐き出す。
 だが、子供は自分の服を解き始めた。恐怖がジェイコブの体中を雁字搦めにする。動かない、息ができない。
 それはだった。あの暗闇の中での。
 どうして、とジェイコブは怒りと悲しみで顔をひきつらせた。やっぱり同じじゃないか。やさしくしたくせに。助けたいって言ったくせに。

 首元をわざとらしく隠した布の下には首枷があった。自分たちと同じ、いやそれ以上の首枷。ずっとずっと頑丈で重そうな存在感に思考は機能を止めてしまった。

 開かれた肌は自分たちと随分違って、白く張りがあった。平らな胸、服に隠されるように秘められていた大きな傷跡。それは一つや二つではない。
 かつて戦場に身を置いていたから分かってしまうのだ。斧のように巨大な刃物に負わされた裂傷、槍でその肌を貫いた窪み。体が動かない理由は、いつの間にかすり替わっていた。
 自分とさして変わらないような体型が、そんな大怪我に耐えられるものか。

「……う゛っ、っ!?」

 子供は、傷を見せるためにその体を開いたわけではなかった。ジェイコブは目の前の体を上から順に目を滑らせていた。最後に、みたもの。転生者として長く記憶を保有していたとしても、今まで見たことのない傷。
 その傷がどうして出来上がるものかを想像して、吐き気がこみ上げた。

「オレも他人に見せられるような体じゃない。どちらにも、なれない」

 男だと、ジェイコブは言い放った。だが、子供は男ではなかった。かといって女でもなかった。

「お前は女だろうが……それを疎むな、憎むな。いくら愛があろうと何も産めない、残せないオレは、この体を諦めるしかない」

 この言葉に強さはもうない。心の底から出た本音なのだろう。
 きっとこのヒトは誰かを愛しているのだ。けれどこの体はその愛を形として成すことができない。

「……ごめ、ん」
「お前が謝ることはなにもない。見てもいい気分になるものではなかったな、悪かった」

 子供はやはり優しかった。どこまでも。自分たちに己を重ねているからとか、同情とか憐みとか。もはやそんな下らない理由で決めつけることはできない。
 この優しいヒトを、きっと傷付けてしまった。たった一言の謝罪すら、受け入れてもらえなかった。

「体を洗うぞ、服を脱がせてもいいか」

 言葉を紡ぐには喉があまりにも苦しい。唾を飲み込もうとしても舌の奥が引き攣って機能を放り出してしまっている。
 ただ一つ頷くことしかできずに、手を引かれるまま小さな椅子に座った。
 雑巾のような、衣服とも呼べない粗末な布は首の横で固く結ばれていて解くことは難しい。耳元で鋏(はさみ)が交差する音をどこか遠くの音のように感じていた。
 首の枷はもちろん重い。けれどボロボロで、一度も洗ったことのない布はもっと重かった。

 唇が小刻みに震える。声を押し殺しているのに、嗚咽が漏れる。

「……う、ぅっ、ひ、っく」

 慰めの抱擁があるわけでもなかった。頭のてっぺんから一気に湯を浴びせられていた。
 ぬくもりに包まれた体が、体全部が泣き出してしまいそうで。肩を抱いて小さく丸まって、自分の両膝の間に今までの苦しみを叫んで吐き出した。
 ゆっくり、何度もかけられるお湯と共に今までの悪いことも一緒に流されていくよう。

 最後の最後まで俯いて、顔を上げるようにと言われても子供のように嫌々と首を横に振った。
 だって、見られたものじゃないくらい涙と鼻水でべたべただから。しかし無理に顔を上げさせることはしないでいてくれた。足元に置かれた、お湯の入った小さな桶で顔を流してようやく向き合う。
 もう今は、怖くない、嫌じゃない。

 ふわりと包み込むような真新しい大きな布は、あのとき……腕に抱かれたときのように温かかった。


「え……あの、寝ろ、と」

 困惑しているのはなにも、ジェイコブだけではない。
 順調に重湯をそれぞれが平らげ、ベネットが数人の枷を外しながら話す。

「そうです、寝てください。食べて、ゆっくりして、そして寝るんです。普通であったことを繰り返すんです」

 奴隷として馬車に乗り合わせたものたちは驚きよりも、困惑が勝り顔を見合わせながら眉尻を下げるばかり。

「そして体が動くようになったら、お手伝いをしてください」
「手伝いとは……労働、ですか」

 その顔がベネットに向くことはなく、やっと聞こえるような声でぼそりと呟いた。
 だがベネットにその言葉は届いている。一瞬、悲しみで歯を食いしばるが精一杯の微笑みで彼の手を両手で包み込む。

「はい! 私はここの領主で、魔王になるつもりです。でも畑仕事も、家畜の世話も、建築も……狩りは、できないんですけど……私も、働いてます! みんなで助け合って生きるのが、この街です」

 一気に喋られた言葉に彼らは理解が追い付いていなかった。ただ、やっとベネットを見たその目の中にあった絶望は消えそうなほど薄れている。

「だからお願いします、元気になってこの街を手伝ってください。おうちは今増やしているので、施工が終わり次第好きなところに住んでください。働く先は自分に合うところを選べます。三食おやつ付きです! 日が沈んだらお仕事は終わりですからね!」

 ぐっと近付いた顔に思わず背中を倒してしまう。だが地面に着く前に、ベネットが必死に彼の腕を引っ張る。
 困った、困ってしまった。毎日が絶望しかなかった。だから、ずっと絶望でしかない毎日が続くのだと。生きている限り、それが当たり前なのだと。
 ほんの一筋の希望を掴もうとして、それが絶望の蜘蛛の糸だったら?
 それが、たまらなく恐ろしい。どう、信じればよいのか。

「そんな、身に余ることです……勿体ないことでございます」

 受け取れない。あまりにも自分に相応しくない。ヒト族と決して同等になることはできない魔族だから。見目が、存在そのものが汚いから、醜いから。
 そんな、温かな幸福に手を伸ばしてはいけないのだ。

「普通です、普通のことなんです。今までが普通じゃなかっただけなんです……」

 彼の手を未だ握りしめているベネットの両手に力がこもる。けれどそれが痛いということは無かった。
 普通、普通とはなんなのだろう。自分たちの普通とは、家畜と同じ小屋で過ごすこと。朝、鳥が鳴く前に起きて。夜は、鳥が寝静まってから寝る。言葉を話してはいけない、解してはいけない。なぜなら家畜と同等だから。

 見たことのない色をした、目の前の少女の言う事が何一つ分からなかった。いや、分かっていた。その恩恵を受けるべきなのが自分であるのかが分からないのだ。

「だから、どうかここで、この街で生きてくださいませんか」

 夜明けの闇と朝日が混ざる境目の色だ。憂鬱であるのに、どうしてか美しいと心がざわつくあの色。
 誰からも向けられたことのない、慈愛に満ちた表情で少女は語る。自分たちの知る『あるじ』たる存在は、地に膝をつけることはしない。同じ目線で話すことなどしない。やさしい言葉を掛けることなど、しなかった。

「あぁ、なんて、なんて有り難き……ありがとう、ありがとうございます。私たちが間違っておりました、恐ろしきは魔王や魔族ではなく……ヒトこそが、最もおそろしいものだと」

「それ、は」

 美しい少女の手の上を卑しい自分の涙が伝う。あまりに罪深い行いだ。だというのに少女は自分の手を離そうとはしない。

「お風呂入れるよ! 温度差で倒れるかもしれないから手伝って~~! あ、お湯張ったのは浴びれるようにするためだから、まだ浸からないでね」

 異形の頭を持つ男が、赤ん坊を大事そうに抱えながらそう言って回っている。目の前の少女は立ち上がり、そっと肩を撫でて立ち去ってしまった。

「これほど酷い状態の方々を迎え入れたのは初めてです。それなのに、アオイさんは対処の早さが……とても初めてとは思えません」

 いくら転生者とはいえ、これほど多くの難民や奴隷を一度に介抱することは困難であるはず。けれども、アオイとアラシはたやすくこなしてしまった。
 これまで何度か大人数を保護することはあっても、今回のように時間が過ぎるたびに命に危険が及ぶという危機感は初めてであったというのに。

「初めてじゃないからね」

 その言葉がどういう意味合いなのか。この城でのことをさしているのかも分からない。
 彼が、アオイがここへ来る前は何をしていたのか。ベネットはやっと強く考えた。他者の過去とは思い出にもなりうる。それを無遠慮に聞き出すことは、その思い出を土足で踏み荒らすことだ。
 だからベネットが他の者の過去を気にしたのは珍しいことである。

 この城へ来る前にも、同じように奴隷を救っていたとしたら……?

 だったら……――だったら、世界はきっと、こんなではなかった。
 アオイほどの力があれば、多くの存在が救われても良かったはずなのではないか。

 そんなことを考えた自分が急に恐ろしく思えて、ベネットはかぶりを振って考えを手放そうとする。

「さぁ、ベネットは衣服の用意をお願い」
「……はい」

 もっと、もっとたくさんを助けなければならない。
 アオイから、アラシから多くを学ばなければ。自分自身の心を強くしなければ。

 目の端に映る小さくなった兄の姿を目で追ったが、すぐに逸らす。
 また、また恐ろしいことを考えてしまう前に。体を動かさなければ。

 前に、進まなければ。

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