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第16話 「変わった訳ではありません。あなたが知らなかっただけですよ」

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 ふうん、と鼻から返事とも何ともつかない音を立てると、彼は私の前の机の上に、書類をばさ、と置いた。

「これは何だ、サーティン・リルブッス、これは」
「これは何だ、とは、どういう意味ですか?」

 私は逆に問い返す。そして彼が机の上に置いた書類を手にとり、そこに書かれている文字を指さす。

「御覧の通り、これは、株の登記書類です」
「そんなことは、見れば判る。俺が言いたいのはそういうことじゃない」
「では見て判るでしょう、ドリンク・コート伯。ここにどれだけの登記書があるか」

 誰が見ても「美しい」という形容をするだろうその顔を、彼はひどく露骨に歪めた。口の端で噛んでいる様な煙草のにおいが鼻につく。

「ずいぶんと集めたものだ」
「ええ」

 私は殊更に平然と答える。
 この日、私がD伯の元を訪ねていたのは、彼に対して一つのことを要求するためだった。それ以外に要求はなく…… そしてそれ以下にするつもりは毛頭なかった。
 私は、その日、ウェストウェスト本星の、ドリンク・コート伯の本宅に居たのである。
 そこはずっと私が足を踏み入れるのを避けていた場所だった。

「……ったく、久しぶりに招待に応じたと思ったら、そういうことか。いつの間にやったんだ? これだけの名義の株を…… いや、名義はお前のものだけではないな。まあいい、お前の側近か何かかもしれないが」
「……」

 呆れた様に彼は両手を広げる。私はそれには答えなかった。

「それで。要求はちゃんと言葉にして言え。俺はお前ほど賢くはないぞ、サーティン」
「ご冗談を」
「誤魔化すか? まあいい。だが何も言わず察しろ、と言われてはいそうですかと言う程俺は素直じゃあない。判っているな」
「ええ。非常に良く判っています。ですから単刀直入に言います。MA電気軌道を…… あの会社を、私に譲っていただきたい」
「お前は既に社長じゃないか。そしてその株券。それだけあれば全体の何パーセントだ? 我が社我がグループの幹部会でも立派に認めるトップじゃないか」
「ええ。でもそれだけではない。私は、独立をします、と言っているのです」

 ドリンク・コート伯はそれを聞くと、大きくソファの背もたれに身体を預け、足と腕を同時に組んだ。

「何が不足だ」
「何が不足?」

 私はその言葉に思わず苦笑する。何がおかしい、と目前の彼は、目線をこちらに向けた。私はそれを受け止める。逸らしてはいけないのだ。私は、勝つためにここに来ているのだから。

「何も。それとも私に何か不足をさせていると、あなたはお思いですか?」
「そう俺には聞こえたが?」

 不足。そう確かに不足はしている。だがそれを思うことで、私は顔の表面に仮面をかぶる。穏やかな笑みを浮かべよう。正面から相手を見据えよう。その中にある殺気にも似た、この餓えを相手に悟らせるために。そして舌はいけしゃあしゃあとこんな言葉を転がす。

「いいえ先輩、そういうことは全くありません」
「お前は変わったな」
「変わった訳ではありません。あなたが知らなかっただけですよ」



 あの日。ミンホウがナガノの船から脱出し、そしてその船が、アンジェラスの軍から殆ど確認も無しに砲撃を受け、四散したという知らせが入った日、私は二人の人物の訪問を受けていた。
 一人目は、そのアンジェラスの軍により、足止めをされる形で到着が遅れたSPBの会計士だった。小柄な、中年という域をそろそろ出ようか、という年頃の男は、音もさせずに勧めた椅子に掛けた。その身のこなしは、育ちの良さを感じさせると共に、スキの無さをも感じさせる。だが顔には穏やかな笑みさえ浮かべていて。
 私はその時点で、自分自身も、会社にしても、SPBには直接的に連絡を必要とする物事はなかったので、彼の来訪はひどく不思議なものに感じられた。
 もっとも、その来訪をすんなりと待つことができる程、私の心中は平静ではなかった。無論いつもの様に、何とか平然とした顔をつくろってはいたが、この目の前の非常に有能そうな会計士には見抜かれたかもしれない、という弱音すら自分の中にはあった。
 見抜かれていた訳ではない、と今では思う。確かにダメージは受けていたが、かと言って普段の生活の積み重ねというものは大きい。そんなに簡単に見破られる程、私の「社長」という顔は薄くも柔でもないはずだった。
 ただその時は、ひどく弱気になっていた。自分自身に疑問を持つ程に、弱気になっていたのは事実なのだ。
 サーディ会計士は、そんな私の内心には構わずに、実にてきぱきと、遅れた時間を取り戻すかの様に、話を進めた。そしてまず、彼は書類を、今さっきの私がした様に、テーブルの上に広げたのである。

「……これは……」
「これが何だか御存知ですね」

 無論私にはすぐに判った。それはこの会社の株券だった。
 ただ、それは幾人もの、違った名前が書かれたものの集まりでもあった。
 様々な土地特有の名前が、それぞれに記され、そのどれにも私は覚えがない。正直言って、一番最近の株主総会でも、これだけの所有をしている者だったら名前が上がってもいいはずなのに、それですらない。

「確かに我が社の株券ですが…… これを、私に買い取れ、というお誘いでしょうか?」
「いいえ」

 あっさりと会計士は否定した。

「ただ、買い取りではありませんが、当銀行にお預けの資産をこの株券に全て換えた人物が、この実行管理を無期限であなたに頼みたい、という申し出をなさったのです」
「……?」

 言われて、私はますます判らなくなった。

「……正直言って、私はその上に書かれている誰にも、知り合いはないと思うのですが…… 一体どういう人物なのですか?」
「失礼致しました。そう、先様もそう仰りました。実はこの数名に渡る株の所有主、ひいては当銀行に口座を持つお客様には代表の方がおられまして」
「代表?」
「その方が、私共にそれを急に依頼してきたのです」
「依頼?」

 私は馬鹿の様に、会計士の言葉を所々繰り返す。まだ意味が通らない。

「その代表の方が、当銀行への預金を利用して構わないから、それらの方々の名義で、可能なだけの、御社の株を入手する様に、と依頼をされたのです。無論我々も手数料は取ります」

 知っている。そしてその仕事は確実なだけに、料金も決して安くはないことも。

「急な依頼でしたが、顧客の御依頼は可能な限り対処していくのが、我々の職務と心得ております」
「急…… というと」
「当銀行がそちらに連絡差し上げました、二日前です」
「……そんなに急に?」
「それが、先様のご要望でしたから」
「……その人物は…… 一体……誰なんですか…… それとも匿名を?」

 胸の中が、ひどくざわつく。そんなはずは、無い。無いはずだ。そんなはず、無いのだ。だってそれならどうして。

「……代表の方ですか? いいえ匿名とは言われてはおりません。そう……」

 会計士は書類の一つを取り出す。この方です、とその上に書かれた名前を指さす。私はその共通アルファベットの並びを、何度も、何度も目で追った。
 Nagano Yuhei
 ひどく変わった、母音ばかりが際立つその並びを、決して私は見間違えない。見間違えるはずがないのだ。
 だが私は首を横に振る。

「……そんなはずが…… ある訳がない」
「いいえ、確かにその方です」
「彼は…… 資金が底をついたから、我々の会社に来たはずなんだ…… そんなはずが」
「ええ、確かに、ナガノ・ユヘイ氏の資産は尽きかけていました。それは事実です。ですが、ナガノ氏以外の名義は、まだそれなりに生きてました」
「……それは、どういう意味なんですか?」
「当銀行は、顧客が誰であっても、引き受けるというのは御存知でしょうか」

 私はうなづく。それがこの銀行、銀河平等銀行の存在意義の様なものだからだ。

「つまり、当銀行は、ナガノ氏が、例えばアルフ・フォンダ氏であった時の口座も引き続き管理している訳です」

 私は思わず顔を上げた。お解りでしょうか、とサーディ会計士は柔らかな声で問いかける。私はうなづいた。
 彼は、名前を替えるごとに名義の違う口座を開いていたのだ。そしてその自分というIDで通用する全ての口座を、この会社の株に替えたのだ、と。

「そしてナガノ氏からのご伝言がありますが」

 伝言、と私はまた馬鹿の様に繰り返した。

「これは依頼より少し後に付け足されたものですが……」
「何と」
「『利用しろ、そして前を向け』」
「それだけですか」
「それだけです」

 淡々と語る、その声が、私の耳の中で、記憶の彼の声にだぶる。これを利用しろ。そして、君は君の思うことをすればいい。

「それでは、この件を受諾していただけますか?」
「……え」

 不覚にも会計士の声を、私は聞き逃していた。この株主の権利を依託する、という書類にサインを求める声だった。私は慌ててうなづくと、その全ての名義の書類に対し、サインをした。迷うことはなかった。




 そして今、その書類が、今度は、私とD伯の間に置かれている。

「グループにあることは、決してDグループにとっても、こちらにとっても発展性のあることではないと思うのですが」
「ふん、そういえばお前は、軌道の幅について、軍に盾突いたという前科があるな」
「ええ。そしてこれからもそれには抵抗していくでしょう。あなたにとって、決してこういう駒は有益ではない」
「お前を社長から解任することも」
「今となっては、不可能でしょう」

 私はテーブルの上に肘をつくと、指を組む。そのための、武器なのだ。ナガノが私に残したのは。
 ふん、ともう一度D伯は鼻を鳴らした。
 それから、しばらくの沈黙が続いた。その沈黙はひどく長く、その間に、彼のグラマラスな秘書は、数回冷えたお茶を取り替えに来た。

「そう言えば、あの娘の居場所を知っているか?」

 そしてその沈黙は、彼のその言葉で破られた。

「いいえ。ヴィヴィエンヌ・コルベールはあの日以来、行方不明です」
「そうか、残念だな」
「ええ残念です。劇団にとっても、彼女の失踪はひどく痛手でしょう」
「あれはなかなかいい女だったのにな」
「ええ、私もそう思いました」
「全くだ。俺を決して寄せ付けなかった。あれはかなりのいい女だ。つまらん」

 そして彼は突然にははは、と笑い出し、立ち上がり、私の前に立つと、すっと手を伸ばした。その手が私の両頬を掴む。直接触れるのは、何年ぶりだろう。だが私はそれに対して何の反応も起こらない自分を感じていた。
 彼を見上げる、自分の視線は、ひどく乾いていた。頭の中を、涼しい風が吹き抜ける。どうして自分は、この手をひどく怖がっていたのだろう?

「……つまらん」

 そう言うと、D伯は手をぱっと放した。

「……お前がどう思っていたか知らないが、俺は決してお前を嫌いな訳じゃなかったぞ?」
「ええそれは知っていました」

 それは知っていた。彼は執着という形で、私のことを特別に思っていたことは。

 だけどそういうことではないのだ。

「でも、私は私なのです」

 D伯は、目を軽く伏せた。こんな時にでも、彼の姿は、実に絵になっている。室内を満たす照明に、深い彫りのまぶたがちょうど良い影を落とす。幾年経とうが、歳を重ねようが、美しいものは美しいのだ。私がその昔、とても惹かれた。

「そうか。では勝手にするがいい。MA電気軌道一つがあるなしで、我らがグループの体勢にそう変わりは無いだろう。ただサーティン、お前の代償に免じて、一つ忠告をしてやる」
「忠告?」
「そうだ、忠告だ。傘下を離れるなら、それなりの覚悟をしろ。アンジェラスの軍勢は、お前が考えている以上に、手強い。俺も時々身震いがする」
「先輩が」

 ほんの少し、弱気が顔を出す。だが、手の中の書類が、私に告げる。前を向け。

「ご忠告、ありがとうございます」
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