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第16話 プール上がりの記憶
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夏休みも近くなると、体育実技で水泳があることも多い。
体育実技の時間は、そう多い訳ではないが、一週間のうちにそれでも確実に数時間はある。
さすがに午後の授業にそれがあった時には、放課後はたまったものじゃない。美術準備室の窓辺に陣取っては、吹き込んでくる風に、思わず眠りこけてしまいそうな自分に気付くのだ。
子供の頃は、こうではなかった。今よりもっともっと小さな子供の頃は、午前中プールではしゃいでも、午後また、近くの公園で走り回ることができた。
なのに今ときたら。
心地よい、熱くも涼しすぎもしない風が、首すじを通っていく。まぶたが重い。思わず鉛筆を取り落としそうになって、ワタシは自分のほっぺたを何度かぺちぺちと叩く。
別に眠っても、誰も止める人が居る訳ではないのだが。
いかんな、と思いながら一度、大きくのびをする。腕を頭の上で組んで、目の前に描かれた、まだ途中の自分の絵を眺めた。
最初はサエナを描いているつもりだったのだ。
なのに、目の前の彼女の背には、翼が生えている。天使を描くつもりはなかった。だが描いているうちに、それがついてしまった。
そしてその翼は、折れている。傷ついている。飛べなくなった――― 墜ちた天使。
眉をひそめて、それを少し離して眺める。
眠っているサエナの姿を、時々スケッチしていた。それを元に、だんだんと鉛筆で描き込んで行ったのだが、次第にその作業をしている時は、何も考えなくなっていく自分に気付いた。
考えずに、ただ次はどうすればいいのか、を目の前の彼女と、記憶の彼女と、重ね合わせて、それを紙の上に置き換える。そこには付くはずの、影を置き、光を加える。
そんな作業をしていただけのはずなのだ。サエナを描いていたはずなのだ。目の前にあった、綺麗な姿を、そのまま、写し取って紙の上に載せたかっただけなのに。
何で、こんなものがつく?
墜ちた天使の翼は、折れ曲がり、幾枚もの羽根が、その周りに落ちている。その曲がった翼を、毛布のように身体の上に乗せ、それでも安らかな顔で眠る、黒い長い髪の、綺麗な天使。
墜ちた天使。
何でこんなものに、なってしまうのだろう?
がたん。
ワタシは音に慌てて、スケッチブックを閉じた。
「ヤナセ~」
明らかにだるそうな声で、サエナはふらふらした足取りで部屋の中に入ってきた。
そしてふらふらとしたまま、椅子を引きずり出すと、もう限界とばかりにそのまま机の上に倒れ込んだ。
何も言わずにそのまま眠ってしまう。どうやら時計も何も合わせるだけの余裕がなかったらしい。
どうしたのやら、と思っていたら、髪が何となくしっとりしているのに気付いた。
そういえば向こうのクラスも体育実技があったな、とワタシは気付く。
そして髪が傷むから、となるべく天然乾燥にするくせが彼女にはあった。
無論濡れていることが露骨に判る程濡れている訳ではない。だがいつもより黒っぽく、しっとりと濡れているように見える。大人しく髪はまとまっている。
「サエナいいの? 時間は」
声をかけてみる。だが答えはない。
普段でもよく疲れたと言ってはここで眠っている彼女だ。水泳でも張り切りすぎたのだろう。反動が出ることくらい判っているだろうに。
「サエナぁ…… 起こさないよぉ」
囁いてみる。だが彼女はひどく心地よさげに寝息を立て続ける。
ワタシは何だかな、とつぶやくと、まあいいかとばかりに、一度閉じたスケッチブックを開いた。
そうだこのアングルだ。
ワタシは彼女と絵を交互に見ながら、そこに現れる僅かな色の違いを紙の上に落としていく。
頬の赤み、少しばかり固まって落ちる長い髪。閉じたまぶたの深いくぼみ、少しばかり開いた唇。
影を置いては消し、その上にまた影を落とし、光のようにゴムをかける。次第に陰影はその度合を大きくしていく。
目と手を直結される感覚。
閉じた目と、眉のバランスが上手くいかない。何度そこに陰影を置いても、何か、目の前にある彼女のそれとは違う。よく見ろ。それは何処に、どのように。
軽く持つ鉛筆の、芯の片方は、だんだんすり減って、もう片方を鋭く尖らせていく。面を変えて、それで細かい部分を描き込んでいく。だが描き込めば描き込むだけ、それは違うものになっていく気がする。
違う。
練りゴムで、一気にそのあたりを消す。ぼんやりとした陰影が紙の上に残るから、そこにまた、今の自分の目に見えるままの彼女の姿を、乗せていく。
通った鼻すじ、その下の、やや薄い唇、少しばかり赤みのさした頬。少しでも違うように影を入れたら、全く別のものになってしまう。
でもこの線が、どうしても判らない。
頬から首筋につながる線。曖昧で、柔らかそうで、それでいてしなやかな。制服の襟元から、うっすらと日焼けの線が見える。赤く染まった線。その下の白さが、それを際だたせる。きっと今触ったら、痛いというだろうか?
触れたら……
触れたい。
思わず自分の腕を、強くかきむしっていた。
鉛筆を持ったままだというのに、強く、右の手は、左の腕に爪を立てていた。
体育実技の時間は、そう多い訳ではないが、一週間のうちにそれでも確実に数時間はある。
さすがに午後の授業にそれがあった時には、放課後はたまったものじゃない。美術準備室の窓辺に陣取っては、吹き込んでくる風に、思わず眠りこけてしまいそうな自分に気付くのだ。
子供の頃は、こうではなかった。今よりもっともっと小さな子供の頃は、午前中プールではしゃいでも、午後また、近くの公園で走り回ることができた。
なのに今ときたら。
心地よい、熱くも涼しすぎもしない風が、首すじを通っていく。まぶたが重い。思わず鉛筆を取り落としそうになって、ワタシは自分のほっぺたを何度かぺちぺちと叩く。
別に眠っても、誰も止める人が居る訳ではないのだが。
いかんな、と思いながら一度、大きくのびをする。腕を頭の上で組んで、目の前に描かれた、まだ途中の自分の絵を眺めた。
最初はサエナを描いているつもりだったのだ。
なのに、目の前の彼女の背には、翼が生えている。天使を描くつもりはなかった。だが描いているうちに、それがついてしまった。
そしてその翼は、折れている。傷ついている。飛べなくなった――― 墜ちた天使。
眉をひそめて、それを少し離して眺める。
眠っているサエナの姿を、時々スケッチしていた。それを元に、だんだんと鉛筆で描き込んで行ったのだが、次第にその作業をしている時は、何も考えなくなっていく自分に気付いた。
考えずに、ただ次はどうすればいいのか、を目の前の彼女と、記憶の彼女と、重ね合わせて、それを紙の上に置き換える。そこには付くはずの、影を置き、光を加える。
そんな作業をしていただけのはずなのだ。サエナを描いていたはずなのだ。目の前にあった、綺麗な姿を、そのまま、写し取って紙の上に載せたかっただけなのに。
何で、こんなものがつく?
墜ちた天使の翼は、折れ曲がり、幾枚もの羽根が、その周りに落ちている。その曲がった翼を、毛布のように身体の上に乗せ、それでも安らかな顔で眠る、黒い長い髪の、綺麗な天使。
墜ちた天使。
何でこんなものに、なってしまうのだろう?
がたん。
ワタシは音に慌てて、スケッチブックを閉じた。
「ヤナセ~」
明らかにだるそうな声で、サエナはふらふらした足取りで部屋の中に入ってきた。
そしてふらふらとしたまま、椅子を引きずり出すと、もう限界とばかりにそのまま机の上に倒れ込んだ。
何も言わずにそのまま眠ってしまう。どうやら時計も何も合わせるだけの余裕がなかったらしい。
どうしたのやら、と思っていたら、髪が何となくしっとりしているのに気付いた。
そういえば向こうのクラスも体育実技があったな、とワタシは気付く。
そして髪が傷むから、となるべく天然乾燥にするくせが彼女にはあった。
無論濡れていることが露骨に判る程濡れている訳ではない。だがいつもより黒っぽく、しっとりと濡れているように見える。大人しく髪はまとまっている。
「サエナいいの? 時間は」
声をかけてみる。だが答えはない。
普段でもよく疲れたと言ってはここで眠っている彼女だ。水泳でも張り切りすぎたのだろう。反動が出ることくらい判っているだろうに。
「サエナぁ…… 起こさないよぉ」
囁いてみる。だが彼女はひどく心地よさげに寝息を立て続ける。
ワタシは何だかな、とつぶやくと、まあいいかとばかりに、一度閉じたスケッチブックを開いた。
そうだこのアングルだ。
ワタシは彼女と絵を交互に見ながら、そこに現れる僅かな色の違いを紙の上に落としていく。
頬の赤み、少しばかり固まって落ちる長い髪。閉じたまぶたの深いくぼみ、少しばかり開いた唇。
影を置いては消し、その上にまた影を落とし、光のようにゴムをかける。次第に陰影はその度合を大きくしていく。
目と手を直結される感覚。
閉じた目と、眉のバランスが上手くいかない。何度そこに陰影を置いても、何か、目の前にある彼女のそれとは違う。よく見ろ。それは何処に、どのように。
軽く持つ鉛筆の、芯の片方は、だんだんすり減って、もう片方を鋭く尖らせていく。面を変えて、それで細かい部分を描き込んでいく。だが描き込めば描き込むだけ、それは違うものになっていく気がする。
違う。
練りゴムで、一気にそのあたりを消す。ぼんやりとした陰影が紙の上に残るから、そこにまた、今の自分の目に見えるままの彼女の姿を、乗せていく。
通った鼻すじ、その下の、やや薄い唇、少しばかり赤みのさした頬。少しでも違うように影を入れたら、全く別のものになってしまう。
でもこの線が、どうしても判らない。
頬から首筋につながる線。曖昧で、柔らかそうで、それでいてしなやかな。制服の襟元から、うっすらと日焼けの線が見える。赤く染まった線。その下の白さが、それを際だたせる。きっと今触ったら、痛いというだろうか?
触れたら……
触れたい。
思わず自分の腕を、強くかきむしっていた。
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