上 下
1 / 26

第1話 時間限定の特権

しおりを挟む
 しゃっしゃっ、と細かい音だけが耳に届く。
 大きな机の上に、片膝を立てて、ワタシはF6のスケッチブックをやや立て気味にして2Bの鉛筆を走らせていた。
 芯はやや長めに削ってある。その方が描きやすい。
 親指と人差し指で軽く持ち、対象物の光と影だけをひたすら追っていく。決してその時、線でその輪郭を描こうとしてはいけない。
 ものをかたまりとして捉えるんだ、と顧問は言った。間違っていないと思う。少なくともワタシがものをそういう目で全部平たく見られる類の人間であった以上。
 バケツも花も石膏像も人間も、描く上では全部同じ、光と影で構成されるモノ。デッサンをする時には、その感覚が大切。
 そして「結果として」紙の上には、何故か光と影だけでない何か、がくっきりと現れてくるのだ。
 それが不思議で、そして楽しい。絵を描くことに取りつかれたのは、この感覚を知ってからだった。
 もっともこの時間は、デッサンには決して向かない。
 窓からはもう斜めにオレンジ色の光が差し込んできている。光が一定であるのが、石膏像のような静物を描く時には望ましい。だからアトリエは北向きの窓であることが望ましいらしい。
 だけどそんな上等なことを、この準備室に求めるのは間違っている。
 他の美術部員と違ってワタシがここに居るのはワタシの勝手だし、ワタシの勝手でやっていることに、誰かの助けなど求めてはいけない。

 それに。

 ワタシは描く対象物を見る。
 真っ直ぐな長い髪、化粧なんてしなくても整った顔、すんなりした身体。
 テレピン油のにおい、カンバスにイーゼルにケントブロックやカルトン、絵の具やら木炭やら大小の筆、時には制作途中の木彫のくず、これから生徒達の目にさらされるまだ開いていない石膏像、そんなものでごった返している美術準備室。
 静かな喧噪。斜めの天井が奇妙に似合うこの古い校舎の最上階。よく見ると、天井近くには綺麗な曲線が所々に描かれている。新校舎よりワタシはずっとこっちの方が好きだ。たとえ窓の立て付けが多少悪かろうと。
 その片隅の机と椅子で、すうすうと実に気持ちよさそうに、アイボリー色のカーディガンを掛けて彼女は眠っている。
 敬愛なる元生徒会長どのは、ここでしか、うたた寝なんぞしないのだ。
 こんな特権、誰が逃せようか?
 だがそんな特権は時間限定だ。彼女がここに来て、ワタシがここに居て、そして彼女が目覚めるまでの、ほんの僅かな時間。これはワタシだけの特権だ。

 だって時計がもう。

 ぴぴぴ、と軽い電子音が響く。ワタシはさりげなくスケッチブックのページを変えると、彼女の背をぽんぽんと叩く。いつもの約束。時計が鳴ったら起こしてね、ヤナセ。

「―――ん」

 サエナはそれだけですぐに反応する。そして長い髪をかき上げながら、ひどく重そうに机に伏せていた身体を起こす。いつもの通り。

「……もう時間?」
「あんたが掛けたんだよ」

 ん、と一度肩を上下させると、彼女は部屋の隅に置かれている流しに向かった。水の音。顔を洗っている気配。他の女子生徒と違って化粧なぞしないから、こんなことができる。

「んで、今日はまた、あんた何がある訳?」
「……あれ」

 顔を拭きながら、彼女は窓ごしに、向かいの窓を指す。

「ああ」

 そこには生徒会室があった。ついこの間まで、そこには彼女の席があった。そして今は、彼女同様首席の後輩が、その席についている。

「卒業生の謝恩会の相談ですって」
「ああ、そういう話」
「ああ、ってヤナセ、あなた美術部も何かやるんじゃないの?」
「どうだったかなあれ――― あったような気もするけど」
「全くあなたは」

 彼女は肩をすくめる。そして見せてよ、とワタシのスケッチブックをのぞき込んだ。何これ、とその後に言葉は続く。ワタシはあれ、とビニルのかかった石膏像を指さした。

「何、まだ開けてないじゃない」
「あれは、かかってるとこを描くのがいいの」
「どうして?」
「石膏像が石膏像そのまんまだと、人間を描いてるような錯覚を起こすことがあるからさ。時々ああやって、アレはあくまで物体なんだ、って気分にしなくちゃあ駄目」
「そんなもの?」
「そんなもの」

 そしてまた彼女はよく判らないわ、と肩をすくめる。机の上にほったらかしにしておいたカーディガンを取って制服の上に羽織る。
 よく判らなくて当然だ。判られてはたまらない。

「ま、絵は描くよ」
「展示するの? こないだの文化祭の時のように、大きな絵」
「ああいうのは、滅多にしないよ。だいたい時間がかかる。謝恩会用、に描く気はないし……」
「受験勉強もある?」
「まあね」

 もっともこの場合の受験勉強は、うちの学校の大半を占める進学組のものとはやや違う。芸大・美大関係に対する「受験勉強」である。

「まああなたのことだから、無理はしないとは思うけど」
「そういうのは、ワタシがあんたに言うべきことだけど?」

 やあだ、と彼女は笑った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

野球部の女の子

S.H.L
青春
中学に入り野球部に入ることを決意した美咲、それと同時に坊主になった。

超草食系男子

朝焼け
青春
感想などありましたらどうぞお聞かせください。

坊主頭の絆:学校を変えた一歩【シリーズ】

S.H.L
青春
高校生のあかりとユイは、学校を襲う謎の病に立ち向かうため、伝説に基づく古い儀式に従い、坊主頭になる決断をします。この一見小さな行動は、学校全体に大きな影響を与え、生徒や教職員の間で新しい絆と理解を生み出します。 物語は、あかりとユイが学校の秘密を解き明かし、新しい伝統を築く過程を追いながら、彼女たちの内面の成長と変革の旅を描きます。彼女たちの行動は、生徒たちにインスピレーションを与え、更には教師にも影響を及ぼし、伝統的な教育コミュニティに新たな風を吹き込みます。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

三姉妹の姉達は、弟の俺に甘すぎる!

佐々木雄太
青春
四月—— 新たに高校生になった有村敦也。 二つ隣町の高校に通う事になったのだが、 そこでは、予想外の出来事が起こった。 本来、いるはずのない同じ歳の三人の姉が、同じ教室にいた。 長女・唯【ゆい】 次女・里菜【りな】 三女・咲弥【さや】 この三人の姉に甘やかされる敦也にとって、 高校デビューするはずだった、初日。 敦也の高校三年間は、地獄の運命へと導かれるのであった。 カクヨム・小説家になろうでも好評連載中!

ライオン転校生

散々人
青春
ライオン頭の転校生がやって来た! 力も頭の中身もライオンのトンデモ高校生が、学園で大暴れ。 ライオン転校生のハチャメチャぶりに周りもてんやわんやのギャグ小説!

処理中です...