空に走る

江戸川ばた散歩

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雲が流れて行く。

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 ひたすら続く長い長い一本道。俺は速い雲の流れに天気の変化を感じていた。

**

 奴とは旅先で出会った。まだ俺が大学生の時だった。



 買い換えるからと従兄から貰ったマウンテンバイクに簡単な野営道具と着替えだけを積み、梅雨から逃げる様に北の大地に飛び出した。
 初めての地は見るもの全てが新鮮だった。
 ただ、同じことを思って走っている奴はそう見ることがなかった。
 時期の問題だ。俺はこの年、前期試験を放棄する形でその地を走っていた。
 深い意味はない。二年の春、一年過ごした学部学科が本当に自分に合っているのか唐突に判らなくなったのだ。
 前の年に何となくあれこれとやっていたバイトのおかげで資金はまあ、多少はあったことも、俺の背を押したかもしれない。
 北の大地の縁を、フェリーの着いた小樽から時計回りに走り出した。天気に恵まれたせいか、トンネルや起伏にもめげず、数日で最北端にたどり着いた。
 その日は運良く空は抜ける様な青だった。
 風も無い日、海がまたそれを映して静かにただ青かった。
 この景色を、そして何と言ってもやってきたか証拠の写真を撮ろうか、とリュックから使い捨てカメラを取り出した。
 だがその時は団体の中年女性の観光客がわらわらと日本最北端のモニュメントの側に群れていた。その頃の俺は、女性達の群れというものが苦手だった。
 早くどいてくれないかなあ、なんて思っていた時に、ぽん、と肩を叩かれた。

「なあ、ちょっとシャッター押してくれん?」

 背後からいきなり声を掛けられたから驚いた。

「何、そんなに驚かなくても」
「あ……」

 俺はすぐに反応できなかった。ここ数日というもの、格別人と話をすることなく、ただ黙々と走っていた。口が咄嗟に動かなかったのだ。

「……写真?」
「カメラは写真をとるもんだ」

 へへへ、と奴はそう言って俺に似た様な使い捨てカメラを押しつけ、群れの中を愛想良く笑って泳いで行った。
 ロード?
 ドロップハンドルを見て俺は思った。
 だが何処か違う。この自転車には泥よけや荷台がつけられ、前と言わず後ろと言わず、荷物が括り付けられていたのだ。

「早く早く! 今ならいい感じ!」

 言われるままにシャッターを押した。今とは違い、どんな写真になったのかは現像されるまでは判らない時代だ。

「あんがとさん。お礼にあんたのも撮るよ」

 リュックから出しかけていたカメラをさっと取ると、ほらほら、と俺と自転車をモニュメントの前に押しだした。

「はいチーズ」

 え、と思う間もなくシャッター音がした。



 何だかんだで俺は奴とその日、稚内の丘の上、同じ野営地にテントを張ることにした。
 奴は手慣れていた。
 俺のおぼつかないロープの張り方を見ると、当初は手を出してきたが、終いには自分のテントに寝ればいい、と言い出した。
 ずいぶん積極的な奴だなあ、と俺はおたおたするばかりだった。
 奴は俺とは違って縁ではなく、中央を進んできたのだと言った。

「涼しいと思ったのに瞞されたって思ったわ」

 何でも酷く暑かったのだという。

「天気がいいのはいいんだ。雨は自転車旅の大敵だからな、けど暑いのも結構くるぜ」
「そんなに暑かったのか?」
「そっちはそうじゃなかったのか?」
「いや初めてだから、まあこんなものかな、と思ってたけど。でもこの辺は涼しいよな」

 焚き火をつつきながら空を眺めた。見上げると、もの凄い星が視界に入ってきた。降ってくる様なとは良く言ったものだ。

「そりゃ、うちの辺りとは違うけど。でも思うだろ? ここまで来て何で暑いって思わないといかんの? って」
「まあそうだけど」
「でもまあ、ここは涼しいなー。火が無くちゃかなわんわ。お前この後何処行くの?」
「……あ、時計回りを続けるよ」
「そうなんだ。一緒に行かねえ?」

 その時俺達はようやく名前を聞き合った。奴は自分の名に不満そうだった。

「詞《つかさ》なんて、誰が読めるって言うんだよ。漢字が判らないって言われたらまず歌の歌詞の詞っていちいち説明して驚かれるんだぜ」

 まあそこは共感できるところだった。
 俺も名前にはよく悩まされたものだ。親はうちのきょうだいに茜だの紫《ゆかり》だの、色と花を掛けた名をつけたつもりらしい。
 だが今の学部学科の友人達は源氏物語の葵の上をすぐに連想した。そういうところなのだ。
 奴は何だよ、とふてくされた様な声で返した。

「でも読めるし、覚えてもらえるじゃん。何が嫌なんだよ」
「役柄が好きじゃない」
「そんな詳しくないから判らないよ」
「主人公の最初の正妻なんだけど、年上で、今一つの仲だったんだ」
「それが原因?」
「いや、それが子供ができて上手くいきそうだったところに、主人公の愛人の物の怪に殺される」
「へえ。でもどっちかというと、その物語? より、三つ葉葵の紋所の方が浮かんじゃうんだけど?」
「……水戸黄門かよ」
「かわいいじゃん。ハートの形」
「可愛いって言われてもなあ」
「可愛いの好きじゃない?」
「……いま一つ」
「そう? 俺は結構好きだけど」

 さくっと。
 真っ直ぐ言葉を投げかける奴だった。
 どう返していいか判らず口をもごもごさせていると、不意に奴はこう言った。

「あのなあ。オホーツク側に、もの凄い道があるんだと」
「道?」
「何にも無い道が16㎞も続いているんだと。村道なんだけど」
「何にも無い道? オロロンラインも相当だったけど」

 俺が来た日本海側の道はそう呼ばれている。
 坂が無いのはありがたいが、何十㎞もただひた走るばかりの道だ。

「あーそれは言えてる。まあでも写真で見た感じでは、右を見ても左を見ても山も海も無い、ただ野っ原の中に一本道があるだけなんだぜ? よかね?」



 そうして翌日、二人してオホーツクの向かい風に苦しめられたのだが。



 あれからどれだけ時間が経ったろう。

 そのまま旅を一緒に続けた俺達は、実は案外近い地方都市に住んでいた。
 一緒に旅しているうちに、さほど今居る学部学科について重く考えることはないということに気付かれた。大学に行くこと自体に意味がある、のどかな時代だったのだ。
 俺は奴と電話や手紙で連絡を取り合い、大学の休みになると、バイトで得た金で遠出をした。年中行事の様なものだった。

 就職してからも何かと連絡を取り合ってはあちこち走りにでかけた。
 仕事をし出せば、金はあっても時間が無いという状態が続く。いきおい、短い距離のものにならざるを得なかった。
 俺はさすがに坂道が多い旅に重いマウンテンバイクからロードに変えていた。

「何でお前のそんなに丈夫なんだよ」
「そりゃタイヤとか違うし。つか、お前ランドナー知らなかった?」

 知らなかった。
 ランドナー。長旅のために作られた自転車。ロードにオプションをつけたものだとずっと思ってた。

「親父が乗ってたんだ」
「頑丈だな……」
「だから頑丈なんだって。俺の名もそうだけど、凝り性だったから」

 だが飽きやすくもあったので、家の中に眠っていたらしい。

「お前もランドナーにしない?」   
「今はロードでいいよ」



 そう言ったのは何十年前だろうか。



 奴が死んだ時、俺は相当腹が立った。
 いつか引退したら、また一緒に長旅に出ないか。
 それは最初の就職先を辞め、一緒に小さな会社を初めてから、奴が口癖の様に言っていたことだった。
 お互いそれからも色々あった。結婚もしたし、子供もできた。もう孫だって居る。
 やっとある程度悠々自適な日々を送れる様な歳になったというのに。
 何だってお前はいきなり逝ってしまったんだ。



 知らせを聞いた日は雨だった。
 庭に裸足で飛び出し、天に向かって何度も悪態をつく俺に、仕事だけで無く、趣味の相棒が亡くなったことで、とうとうおかしくなったと妻は思ったという。

 様々な手続き上のことが過ぎてから、奴の細君が俺のところにやってきた。俺宛の手紙を頼まれていた、と。
 中には、あのランドナーを俺に譲るとあった。
 彼女はこう付け加えた。

「あのひとはずっと楽しみにしてたんです。あなたと一緒に走るのを。でも病気は待ってくれなかった」

 ぜひ、と彼女は言った。見ると思い出して辛いとも。

「あなたと一緒にまたあの長い道を走りたい、とずっと言ってましたから」
「……エサヌカ線」
「そう、言うんでしたね」

 彼女はさほどに旅に興味は無いのだという。それでも。

「あんまり繰り返し繰り返し言うから、変わった名だし、覚えてしまったんですよ」
「繰り返し…… ですか」
「はい」

**

 あの時とは逆回りで、俺はその長い道を行く。
 同じ時期。もうずいぶん歳を重ねた自分には、追い風になる時を選ぶ他無い。
 背を押す風は、足を止めた途端、その存在を俺に気付かせる。七月になっても暑さとは無縁な。
 広がる空はただただ大きく。
 何処を向いても空。雲の動きに。光の具合に。ただひたすら広がる、そのことだけに目眩がしそうな程に。
 その中でやや不吉な予感がする雲が視界の中に入ってきた。
 さっと。
 陰ったと思うと、首筋にぱらぱらと水がかかるのを感じた。
 だがそれは強いものではない。
 雲の間に間に薄日も射している。
 午後だったら行く手に虹が見えたかもしれないが、そうでない天気雨は、ただ行く手にさらさらと光るだけだ。通り過ぎるのを待つ程でもない。
 ランドナーのペダルを漕ぐ足に力を込め、進む。進め。
 ただひたすらに真っ直ぐな、空に続く様な道を。
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