上 下
19 / 23

第19話 彼女の消失

しおりを挟む
 ベランダに止まっていた鳩の、ぽうぽうという激しい鳴き声で目が覚めた。
 すき間が開いていた窓から、朝の涼しい空気が入り込んでいる。少し冷たく感じられる程だ。もう本当に秋なんだ、と俺は改めて思った。
 ひどく気だるい身体。背が重い。胃にむかつきがある。両手をついてゆっくりと起こす。カーテンの間から斜めに漏れる陽の光が、目にまぶしい。
 ずるり、と毛布が肩からすべりおちる。俺はしばらくそのまま、あぐらをかいたままぼーっとしていた。頭が全く働かなかった。鳩の鳴き声。繰り返されるぽうぽうという音。やがてその中に混じって、車の音が。隣の部屋からだろうか。朝のニュース番組の音が。
 ふと気がついて、俺はこめかみに手を当てた。……そう言えば、目隠しはいつの間にか外されている。
 かちん、と軽い音がして、俺はここが何処だったか、ようやく思い出していた。
 俺が眠っていたのは、残されたマットレスの一つの上だった。何となくぼうっとしている視界の中で、昨夜使われたテーブルは畳まれ、もう一つのマットレスも畳まれ、専用の袋に入っている。
 本当に、今日引っ越しをするのだ、と言われてもうなづける。

「……あ、起きたんですね」

 コーヒーを手に、コノエがキッチンから出てきた。あたりを見渡してみる。コノエだけだ。タキノはいない。

「おはよー」
「おはよ……」
「コーヒー飲む?」

 うん、と俺はうなづいた。

「さすがにもうミルクとか無いけど」
「いいよ、別に……」

 そういえば、冷蔵庫のコードも抜かれている。コーヒーメーカーだけが、この部屋で動いている唯一のもののようだった。奴はマグカップに薄目のコーヒーを入れると、俺の前に座り、それを置いた。そしてそのまま、斜め横から近づくと、何気なく首を抱え、キスをした。
 俺はもう驚かなかった。奇妙なくらいに頭の中は静まっていた。そして浮かんだ疑問を口にする。

「……タキノは?」
「いない」

 奴の答えは短かった。だが有無を言わせない何かがあった。そうかタキノはもういないのか。どんな事情にせよ、彼女は、もうここにいないのだ。

「もう、いないんだ?」
「もう、いないんだ」

 身体を離して、奴は穏やかな口調で答えた。俺はコーヒーを手にすると、黙って口をつけた。奴も黙ってコーヒーを飲む。
 何か話した方がいいんだろうか。俺は何となく迷う。昨夜のことがことだけに、何から切り出していいのか、さすがに俺には判らない。ちら、とカップ越しに部屋の中を見渡す。そう言えば。

「……なあ、今何時?」
「あ? 今ですか? ……九時四十分か」

 奴は腕時計を見た。ちょっと待て、と俺はその手を取る。確かにそんな時間になっていた。

「よく寝てましたからね。起こすに忍びなかったですから」
「遅刻……」
「ですね。ああ、キミの家にはワタシから電話しておきましたから…… 今朝だったから、お母さんに謝っておきましたよ」
「何時頃?」
「七時くらいですかね。コール半分くらいで取られてしまったから、ワタシが驚いたくらいで」
「まああのひとだからね」
「そういうもんですか」
「そういうもんなの」

 ふうん、と奴はうなづいて、また俺達の間に沈黙が続いた。
 鳩はいつの間にか逃げてしまい、隣の部屋のTVの音も、いつの間にか消えていた。聞こえるのは、車の音だけだった。
 ことん、と奴はカップを床に置く。

「カナイ君や」
「何」
「ちょっと今日一日つき合ってもらえませんかね」
「今日一日?」
「どうせ遅刻だし、確か今日体育があったでしょう? ちょっと若き青少年には、それは目の毒ではないですかね」

 え、と俺は奴の指先をたどる。つ、と奴はそれを俺の胸に伸ばした。俺はつられるように視線をそこに落とす。目を丸くする。やつのくくく、という含み笑いが聞こえる。

 えーと。

「シャワー借りていいか?」

 ようやくそんな言葉を見つけた。もちろんですよ、という声を背に聞いて、俺は風呂場に飛び込んだ。
 身体のあちこちに飛び散っている、赤い染み。こんなところにまでと思うほど、ありとあらえる場所に。
 気だるい下半身。上半身だって、普段使わない筋肉が使われたから、めりめりと音がしそうな程、痛い。
 筋肉だけじゃない。
 あれから、どのくらいの時間、あんなことをしていただろう。何やらもう、無茶苦茶だった。俺は目隠しをされたままだったから、それを「見た」訳じゃない。だけど、見えないだけに感じられたことは、皮膚の上に残っているようだった。
 だけど不思議と、それはその時、自分のすべきことに思えたのだ。
 
 服を借りて着替えたら、奴は外に出ましょう、と言った。 何処へ行くんだろう、と階段を降りると、いつもの出入り口とは違う方へ行く。黙ってついていくと、そこは地下駐車場だった。
 奴はポケットからチャリ、とあのたくさんの鍵を出し、その中の一台に近づいた。濃い緑の、小さめの四駆かな、と俺は思った。そして鍵の束の中から一つを選び出し、車に差し込む。
 扉を開けると、乗って、と奴は言った。

「え?」
「今日はつき合ってくれるって言ったでしょう?」
「だけど、お前、免許……」

 すると奴は、上着のポケットからぽん、と何かを放った。運転免許だった。開くと、ちゃんとそこには奴の写真が貼られている。
 ただ、そこには。

「ちょっと待てよ……」
「ニセモノじゃないですよ」
「だってこれ、お前の名前じゃないじゃないか!」

 がらん、とした地下に、俺の声は無闇に響く。俺がびっくりするくらいだった。

「説明しますよ。乗って」

 さすがに俺はもう何も言えなかった。言われる通りに、俺は奴の隣に座り、シートベルトを掛けた。奴は慣れた手つきで、車を走らせた。
 運転はスムーズだった。落ち着いている。あまり俺は人の車に乗るということはないんだが、それでも、急な動きとかは無い。後先を見極めて、落ち着いた運転に徹している。

「何処へ行くんだ?」
「海の方」
「海の方って」
「別に何処の海だっていいんですけど。海であれば。カナイ君キミ、何か思いつくとこは無いですかね」

 そうは言われても。

 とにかく都内から俺達は逃げ出した。
 とりあえずは西に向かった。神奈川県の方だ。小学生かそこらの頃、一度行ったことのある所の名前を出したら、奴は二つ返事でそちらに進路を向けた。
 いい天気だった。長袖のシャツでは汗ばむほどだった。窓を開けて走ると、無茶苦茶な音と、圧迫感すら感じる風が吹き込んでくる。だが心地よい。俺は窓に腕を置くと、そこにもたれかかるようにして、風を受けていた。
 コノエはずっと黙っていた。聞きたいことは色々あったのだが、何となく俺はそんな気にはなれなかった。まあ俺は俺で、まだ身体のだるさが残っているので、風の延々続く轟音を聞いているうちに、眠気が襲ってくるのと必死で戦っていた。
 そうこうしているうちに、景色がどんどん移り変わっていった。色づきかけた木々が所々で目に入る。その片方で、視界に、高い建物が無くなっていく。
 そして目的地についた。

 車を置いて、俺達は砂浜に降りた。車の中で感じたのとは違い、降り立った海は、意外に風が無かった。海は凪いでいた。空の色をもう少し濃くしたような色に、おだやかにただ広がっていた。
 ざくざくと、スキを見ては靴の中に入り込もうとする白い砂を踏みながら、ただ俺達はぶらぶらと歩いていた。
 ふと、前を歩くコノエの方を見ると、奴はずっと向こうの方を見ていた。何を見ているのだろう、と同じ方向を見ると、空と海の境界線が光ってまぶしい。

「さて」

 コノエの足が止まった。俺はほんの少し身体を固くする。

「気分悪くなったりしてませんかね?」
「あいにく車酔いとは昔から無縁なんだ」
「それはよかった」

 そして奴は、その場に座り込んだ。白い、乾いた砂の上。服やら何やら、普段は結構気にする奴なのに、こいつは時々無造作になる。俺もその横に腰を下ろした。陽の光に暖められた砂は、秋だというのにずいぶんと熱い。

「それで?」

 曖昧に訊ねると、奴はんー、と曖昧な返事をよこす。俺はどう切り出したらいいのかさっぱり判らなくて、次の台詞を投げられずにいた。
 だが。
 何かが、光っている。
 汗じゃないか、と最初は思った。こんな日中に、熱い砂の上で、長袖シャツで、じっとしているんだから。
 だけどそれは違った。全く表情を変えないまま、奴は泣いていたのだ。ぽろぽろと、止めもせず、ただ目から、涙がこぼれおちていく。

「コノエお前……」
「ねえカナイ君、それは、ワタシの名前じゃないんですよ」
「え」

 俺は弾かれたように、奴の方へ身体を向けた。だが奴は俺の方は見ない。変わらず、視線はずっと、水平線の方へと向けている。

「免許証にあったでしょう?あれがワタシの本当の名ですよ」

 そして奴は、聞き覚えの無い数文字を読み上げる。実感の無い、その単語。でもそちらが本当の名というなら。

「お前は、じゃあ同じ歳じゃない?」
「キミよりはいくつか上。でもそれは大した問題じゃないですね。ワタシはあの学校には、生徒の役をしに来ているだけなんですから」

 淡々と奴は話す。が、それは俺にとっては淡々としたことではなかった。

「生徒の役?」
「ワタシはもう大学卒業資格は取ってあるんですよ。ここじゃないけど。受験も何も関係はない、別にあそこに通わなくたっていいんです」

 本棚に並んだ、難しい本。難しい書き込み。訳の判らない言葉。俺がした質問にはいつも的確な答え。

「じゃ何で……」

 奴はふらり、と首を回す。そして一度両手で顔をつつみ、涙をぬぐった。

「カナイ君キミは、以前ワタシとタキノがきょうだいだけど血はつながっていない、って聞いたことありましたね」

 うん、と俺はうなづく。そしてその時の何気なく言った言葉も、覚えている。

「お前は危険だから気にしなくていい、って感じのことを言ってた」
「ええ危険なんですよ。だけどワタシは、キミには知っていてほしい。彼女はキミのことは気に入っていた。ワタシもキミのことが大好きだから、キミには知っていてほしいんですよ。ワタシがこれからするだろうことから、キミが巻き込まれないように」
「……え」

 俺は眉を寄せた。

「ワタシとタキノは、この国の生まれじゃないんですよ。海を越えた国で生まれたんですわ」

 海を越えた国?
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

バンドRINGERを巡る話⑤決して彼女には気付かれてはいけない。

江戸川ばた散歩
青春
美大志望の高校生ヤナセは入学以来、校内の「森」で初めて出会ったサエナのことが好きだった。 だがサエナは幼馴染の一つ年下のカナイのことが好きだった。 言えない中、やはり同性の友人への片思いを通す男子の先輩と「つきあっている」というレッテルをあえて共犯者の様に貼る彼女。 皆が皆片思いの男女の青春模様。

文芸部 活動記録

綱砥 鈴
青春
 文芸部として作ってきた作品の投稿スペース。  どなたかの心に刺されば幸いです。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

青天のヘキレキ

ましら佳
青春
⌘ 青天のヘキレキ 高校の保健養護教諭である金沢環《かなざわたまき》。 上司にも同僚にも生徒からも精神的にどつき回される生活。 思わぬ事故に巻き込まれ、修学旅行の引率先の沼に落ちて神将・毘沙門天の手違いで、問題児である生徒と入れ替わってしまう。 可愛い女子とイケメン男子ではなく、オバちゃんと問題児の中身の取り違えで、ギャップの大きい生活に戸惑い、落としどころを探って行く。 お互いの抱えている問題に、否応なく向き合って行くが・・・・。 出会いは化学変化。 いわゆる“入れ替わり”系のお話を一度書いてみたくて考えたものです。 お楽しみいただけますように。 他コンテンツにも掲載中です。

Y/K Out Side Joker . コート上の海将

高嶋ソック
青春
ある年の全米オープン決勝戦の勝敗が決した。世界中の観戦者が、世界ランク3ケタ台の元日本人が起こした奇跡を目の当たりにし熱狂する。男の名前は影村義孝。ポーランドへ帰化した日本人のテニスプレーヤー。そんな彼の勝利を日本にある小さな中華料理屋でテレビ越しに杏露酒を飲みながら祝福する男がいた。彼が店主と昔の話をしていると、後ろの席から影村の母校の男子テニス部マネージャーと名乗る女子高生に声を掛けられる。影村が所属していた当初の男子テニス部の状況について教えてほしいと言われ、男は昔を語り始める。男子テニス部立直し直後に爆発的な進撃を見せた海生代高校。当時全国にいる天才の1人にして、現ATPプロ日本テニス連盟協会の主力筆頭である竹下と、全国の高校生プレーヤーから“海将”と呼ばれて恐れられた影村の話を...。

吉祥寺行

八尾倖生
青春
 中古のスケッチブックのように、黙々と自宅、学校、アルバイト先を行き来する淀んだ白い日々を送る芳内克月。深海のように、派手派手しい毎日の裏に青い葛藤を持て余す風間実。花火のように、心身共に充実という名の赤に染まる鳥飼敬斗。モザイクのように、過去の自分と今の自分、弱さと強さ、嘘と真実の間の灰色を彷徨う松井彩花。  八王子にある某私立大学に通う四人の大学生は、対照的と言うべきか、はたまた各々の穴を補うような、それぞれの「日常」を過ごしていた。そうして日常を彩る四つの運命が、若者たちの人生に色彩を与える。  知っているうちに並行し、知らないうちに交差する彼らの一週間と二週間は、彼らの人生、生き方、日常の色を変えた。  そして最後の日曜日、二人のゲストを迎え、人々は吉祥寺に集結する。

高校デビューした美少女はクラスの美少女といちゃつく

明応わり
青春
高校デビューをした柚木真凛は周りと仲良くなり陽キャ女子グループの仲間になった。一方幼馴染の浅倉圭介はぼっちになり静かな生活をし2年生になった。

シラケン

あめいろ
青春
就活生の白瀬健太は、公園で不採用通知をビリビリに引き裂いていたところ、近くで銃声を聞くことになる。銃声の先にいたのは、、、? 生きる意味なんて分からない。 それを知っているのは、ほんとの自分だけ。 、、、、、てか自分って何だっけ? この物語は、ひとりの青年が自分のやりたいことを見つけるまでの物語。

処理中です...