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第19話 彼女の消失
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ベランダに止まっていた鳩の、ぽうぽうという激しい鳴き声で目が覚めた。
すき間が開いていた窓から、朝の涼しい空気が入り込んでいる。少し冷たく感じられる程だ。もう本当に秋なんだ、と俺は改めて思った。
ひどく気だるい身体。背が重い。胃にむかつきがある。両手をついてゆっくりと起こす。カーテンの間から斜めに漏れる陽の光が、目にまぶしい。
ずるり、と毛布が肩からすべりおちる。俺はしばらくそのまま、あぐらをかいたままぼーっとしていた。頭が全く働かなかった。鳩の鳴き声。繰り返されるぽうぽうという音。やがてその中に混じって、車の音が。隣の部屋からだろうか。朝のニュース番組の音が。
ふと気がついて、俺はこめかみに手を当てた。……そう言えば、目隠しはいつの間にか外されている。
かちん、と軽い音がして、俺はここが何処だったか、ようやく思い出していた。
俺が眠っていたのは、残されたマットレスの一つの上だった。何となくぼうっとしている視界の中で、昨夜使われたテーブルは畳まれ、もう一つのマットレスも畳まれ、専用の袋に入っている。
本当に、今日引っ越しをするのだ、と言われてもうなづける。
「……あ、起きたんですね」
コーヒーを手に、コノエがキッチンから出てきた。あたりを見渡してみる。コノエだけだ。タキノはいない。
「おはよー」
「おはよ……」
「コーヒー飲む?」
うん、と俺はうなづいた。
「さすがにもうミルクとか無いけど」
「いいよ、別に……」
そういえば、冷蔵庫のコードも抜かれている。コーヒーメーカーだけが、この部屋で動いている唯一のもののようだった。奴はマグカップに薄目のコーヒーを入れると、俺の前に座り、それを置いた。そしてそのまま、斜め横から近づくと、何気なく首を抱え、キスをした。
俺はもう驚かなかった。奇妙なくらいに頭の中は静まっていた。そして浮かんだ疑問を口にする。
「……タキノは?」
「いない」
奴の答えは短かった。だが有無を言わせない何かがあった。そうかタキノはもういないのか。どんな事情にせよ、彼女は、もうここにいないのだ。
「もう、いないんだ?」
「もう、いないんだ」
身体を離して、奴は穏やかな口調で答えた。俺はコーヒーを手にすると、黙って口をつけた。奴も黙ってコーヒーを飲む。
何か話した方がいいんだろうか。俺は何となく迷う。昨夜のことがことだけに、何から切り出していいのか、さすがに俺には判らない。ちら、とカップ越しに部屋の中を見渡す。そう言えば。
「……なあ、今何時?」
「あ? 今ですか? ……九時四十分か」
奴は腕時計を見た。ちょっと待て、と俺はその手を取る。確かにそんな時間になっていた。
「よく寝てましたからね。起こすに忍びなかったですから」
「遅刻……」
「ですね。ああ、キミの家にはワタシから電話しておきましたから…… 今朝だったから、お母さんに謝っておきましたよ」
「何時頃?」
「七時くらいですかね。コール半分くらいで取られてしまったから、ワタシが驚いたくらいで」
「まああのひとだからね」
「そういうもんですか」
「そういうもんなの」
ふうん、と奴はうなづいて、また俺達の間に沈黙が続いた。
鳩はいつの間にか逃げてしまい、隣の部屋のTVの音も、いつの間にか消えていた。聞こえるのは、車の音だけだった。
ことん、と奴はカップを床に置く。
「カナイ君や」
「何」
「ちょっと今日一日つき合ってもらえませんかね」
「今日一日?」
「どうせ遅刻だし、確か今日体育があったでしょう? ちょっと若き青少年には、それは目の毒ではないですかね」
え、と俺は奴の指先をたどる。つ、と奴はそれを俺の胸に伸ばした。俺はつられるように視線をそこに落とす。目を丸くする。やつのくくく、という含み笑いが聞こえる。
えーと。
「シャワー借りていいか?」
ようやくそんな言葉を見つけた。もちろんですよ、という声を背に聞いて、俺は風呂場に飛び込んだ。
身体のあちこちに飛び散っている、赤い染み。こんなところにまでと思うほど、ありとあらえる場所に。
気だるい下半身。上半身だって、普段使わない筋肉が使われたから、めりめりと音がしそうな程、痛い。
筋肉だけじゃない。
あれから、どのくらいの時間、あんなことをしていただろう。何やらもう、無茶苦茶だった。俺は目隠しをされたままだったから、それを「見た」訳じゃない。だけど、見えないだけに感じられたことは、皮膚の上に残っているようだった。
だけど不思議と、それはその時、自分のすべきことに思えたのだ。
服を借りて着替えたら、奴は外に出ましょう、と言った。 何処へ行くんだろう、と階段を降りると、いつもの出入り口とは違う方へ行く。黙ってついていくと、そこは地下駐車場だった。
奴はポケットからチャリ、とあのたくさんの鍵を出し、その中の一台に近づいた。濃い緑の、小さめの四駆かな、と俺は思った。そして鍵の束の中から一つを選び出し、車に差し込む。
扉を開けると、乗って、と奴は言った。
「え?」
「今日はつき合ってくれるって言ったでしょう?」
「だけど、お前、免許……」
すると奴は、上着のポケットからぽん、と何かを放った。運転免許だった。開くと、ちゃんとそこには奴の写真が貼られている。
ただ、そこには。
「ちょっと待てよ……」
「ニセモノじゃないですよ」
「だってこれ、お前の名前じゃないじゃないか!」
がらん、とした地下に、俺の声は無闇に響く。俺がびっくりするくらいだった。
「説明しますよ。乗って」
さすがに俺はもう何も言えなかった。言われる通りに、俺は奴の隣に座り、シートベルトを掛けた。奴は慣れた手つきで、車を走らせた。
運転はスムーズだった。落ち着いている。あまり俺は人の車に乗るということはないんだが、それでも、急な動きとかは無い。後先を見極めて、落ち着いた運転に徹している。
「何処へ行くんだ?」
「海の方」
「海の方って」
「別に何処の海だっていいんですけど。海であれば。カナイ君キミ、何か思いつくとこは無いですかね」
そうは言われても。
とにかく都内から俺達は逃げ出した。
とりあえずは西に向かった。神奈川県の方だ。小学生かそこらの頃、一度行ったことのある所の名前を出したら、奴は二つ返事でそちらに進路を向けた。
いい天気だった。長袖のシャツでは汗ばむほどだった。窓を開けて走ると、無茶苦茶な音と、圧迫感すら感じる風が吹き込んでくる。だが心地よい。俺は窓に腕を置くと、そこにもたれかかるようにして、風を受けていた。
コノエはずっと黙っていた。聞きたいことは色々あったのだが、何となく俺はそんな気にはなれなかった。まあ俺は俺で、まだ身体のだるさが残っているので、風の延々続く轟音を聞いているうちに、眠気が襲ってくるのと必死で戦っていた。
そうこうしているうちに、景色がどんどん移り変わっていった。色づきかけた木々が所々で目に入る。その片方で、視界に、高い建物が無くなっていく。
そして目的地についた。
車を置いて、俺達は砂浜に降りた。車の中で感じたのとは違い、降り立った海は、意外に風が無かった。海は凪いでいた。空の色をもう少し濃くしたような色に、おだやかにただ広がっていた。
ざくざくと、スキを見ては靴の中に入り込もうとする白い砂を踏みながら、ただ俺達はぶらぶらと歩いていた。
ふと、前を歩くコノエの方を見ると、奴はずっと向こうの方を見ていた。何を見ているのだろう、と同じ方向を見ると、空と海の境界線が光ってまぶしい。
「さて」
コノエの足が止まった。俺はほんの少し身体を固くする。
「気分悪くなったりしてませんかね?」
「あいにく車酔いとは昔から無縁なんだ」
「それはよかった」
そして奴は、その場に座り込んだ。白い、乾いた砂の上。服やら何やら、普段は結構気にする奴なのに、こいつは時々無造作になる。俺もその横に腰を下ろした。陽の光に暖められた砂は、秋だというのにずいぶんと熱い。
「それで?」
曖昧に訊ねると、奴はんー、と曖昧な返事をよこす。俺はどう切り出したらいいのかさっぱり判らなくて、次の台詞を投げられずにいた。
だが。
何かが、光っている。
汗じゃないか、と最初は思った。こんな日中に、熱い砂の上で、長袖シャツで、じっとしているんだから。
だけどそれは違った。全く表情を変えないまま、奴は泣いていたのだ。ぽろぽろと、止めもせず、ただ目から、涙がこぼれおちていく。
「コノエお前……」
「ねえカナイ君、それは、ワタシの名前じゃないんですよ」
「え」
俺は弾かれたように、奴の方へ身体を向けた。だが奴は俺の方は見ない。変わらず、視線はずっと、水平線の方へと向けている。
「免許証にあったでしょう?あれがワタシの本当の名ですよ」
そして奴は、聞き覚えの無い数文字を読み上げる。実感の無い、その単語。でもそちらが本当の名というなら。
「お前は、じゃあ同じ歳じゃない?」
「キミよりはいくつか上。でもそれは大した問題じゃないですね。ワタシはあの学校には、生徒の役をしに来ているだけなんですから」
淡々と奴は話す。が、それは俺にとっては淡々としたことではなかった。
「生徒の役?」
「ワタシはもう大学卒業資格は取ってあるんですよ。ここじゃないけど。受験も何も関係はない、別にあそこに通わなくたっていいんです」
本棚に並んだ、難しい本。難しい書き込み。訳の判らない言葉。俺がした質問にはいつも的確な答え。
「じゃ何で……」
奴はふらり、と首を回す。そして一度両手で顔をつつみ、涙をぬぐった。
「カナイ君キミは、以前ワタシとタキノがきょうだいだけど血はつながっていない、って聞いたことありましたね」
うん、と俺はうなづく。そしてその時の何気なく言った言葉も、覚えている。
「お前は危険だから気にしなくていい、って感じのことを言ってた」
「ええ危険なんですよ。だけどワタシは、キミには知っていてほしい。彼女はキミのことは気に入っていた。ワタシもキミのことが大好きだから、キミには知っていてほしいんですよ。ワタシがこれからするだろうことから、キミが巻き込まれないように」
「……え」
俺は眉を寄せた。
「ワタシとタキノは、この国の生まれじゃないんですよ。海を越えた国で生まれたんですわ」
海を越えた国?
すき間が開いていた窓から、朝の涼しい空気が入り込んでいる。少し冷たく感じられる程だ。もう本当に秋なんだ、と俺は改めて思った。
ひどく気だるい身体。背が重い。胃にむかつきがある。両手をついてゆっくりと起こす。カーテンの間から斜めに漏れる陽の光が、目にまぶしい。
ずるり、と毛布が肩からすべりおちる。俺はしばらくそのまま、あぐらをかいたままぼーっとしていた。頭が全く働かなかった。鳩の鳴き声。繰り返されるぽうぽうという音。やがてその中に混じって、車の音が。隣の部屋からだろうか。朝のニュース番組の音が。
ふと気がついて、俺はこめかみに手を当てた。……そう言えば、目隠しはいつの間にか外されている。
かちん、と軽い音がして、俺はここが何処だったか、ようやく思い出していた。
俺が眠っていたのは、残されたマットレスの一つの上だった。何となくぼうっとしている視界の中で、昨夜使われたテーブルは畳まれ、もう一つのマットレスも畳まれ、専用の袋に入っている。
本当に、今日引っ越しをするのだ、と言われてもうなづける。
「……あ、起きたんですね」
コーヒーを手に、コノエがキッチンから出てきた。あたりを見渡してみる。コノエだけだ。タキノはいない。
「おはよー」
「おはよ……」
「コーヒー飲む?」
うん、と俺はうなづいた。
「さすがにもうミルクとか無いけど」
「いいよ、別に……」
そういえば、冷蔵庫のコードも抜かれている。コーヒーメーカーだけが、この部屋で動いている唯一のもののようだった。奴はマグカップに薄目のコーヒーを入れると、俺の前に座り、それを置いた。そしてそのまま、斜め横から近づくと、何気なく首を抱え、キスをした。
俺はもう驚かなかった。奇妙なくらいに頭の中は静まっていた。そして浮かんだ疑問を口にする。
「……タキノは?」
「いない」
奴の答えは短かった。だが有無を言わせない何かがあった。そうかタキノはもういないのか。どんな事情にせよ、彼女は、もうここにいないのだ。
「もう、いないんだ?」
「もう、いないんだ」
身体を離して、奴は穏やかな口調で答えた。俺はコーヒーを手にすると、黙って口をつけた。奴も黙ってコーヒーを飲む。
何か話した方がいいんだろうか。俺は何となく迷う。昨夜のことがことだけに、何から切り出していいのか、さすがに俺には判らない。ちら、とカップ越しに部屋の中を見渡す。そう言えば。
「……なあ、今何時?」
「あ? 今ですか? ……九時四十分か」
奴は腕時計を見た。ちょっと待て、と俺はその手を取る。確かにそんな時間になっていた。
「よく寝てましたからね。起こすに忍びなかったですから」
「遅刻……」
「ですね。ああ、キミの家にはワタシから電話しておきましたから…… 今朝だったから、お母さんに謝っておきましたよ」
「何時頃?」
「七時くらいですかね。コール半分くらいで取られてしまったから、ワタシが驚いたくらいで」
「まああのひとだからね」
「そういうもんですか」
「そういうもんなの」
ふうん、と奴はうなづいて、また俺達の間に沈黙が続いた。
鳩はいつの間にか逃げてしまい、隣の部屋のTVの音も、いつの間にか消えていた。聞こえるのは、車の音だけだった。
ことん、と奴はカップを床に置く。
「カナイ君や」
「何」
「ちょっと今日一日つき合ってもらえませんかね」
「今日一日?」
「どうせ遅刻だし、確か今日体育があったでしょう? ちょっと若き青少年には、それは目の毒ではないですかね」
え、と俺は奴の指先をたどる。つ、と奴はそれを俺の胸に伸ばした。俺はつられるように視線をそこに落とす。目を丸くする。やつのくくく、という含み笑いが聞こえる。
えーと。
「シャワー借りていいか?」
ようやくそんな言葉を見つけた。もちろんですよ、という声を背に聞いて、俺は風呂場に飛び込んだ。
身体のあちこちに飛び散っている、赤い染み。こんなところにまでと思うほど、ありとあらえる場所に。
気だるい下半身。上半身だって、普段使わない筋肉が使われたから、めりめりと音がしそうな程、痛い。
筋肉だけじゃない。
あれから、どのくらいの時間、あんなことをしていただろう。何やらもう、無茶苦茶だった。俺は目隠しをされたままだったから、それを「見た」訳じゃない。だけど、見えないだけに感じられたことは、皮膚の上に残っているようだった。
だけど不思議と、それはその時、自分のすべきことに思えたのだ。
服を借りて着替えたら、奴は外に出ましょう、と言った。 何処へ行くんだろう、と階段を降りると、いつもの出入り口とは違う方へ行く。黙ってついていくと、そこは地下駐車場だった。
奴はポケットからチャリ、とあのたくさんの鍵を出し、その中の一台に近づいた。濃い緑の、小さめの四駆かな、と俺は思った。そして鍵の束の中から一つを選び出し、車に差し込む。
扉を開けると、乗って、と奴は言った。
「え?」
「今日はつき合ってくれるって言ったでしょう?」
「だけど、お前、免許……」
すると奴は、上着のポケットからぽん、と何かを放った。運転免許だった。開くと、ちゃんとそこには奴の写真が貼られている。
ただ、そこには。
「ちょっと待てよ……」
「ニセモノじゃないですよ」
「だってこれ、お前の名前じゃないじゃないか!」
がらん、とした地下に、俺の声は無闇に響く。俺がびっくりするくらいだった。
「説明しますよ。乗って」
さすがに俺はもう何も言えなかった。言われる通りに、俺は奴の隣に座り、シートベルトを掛けた。奴は慣れた手つきで、車を走らせた。
運転はスムーズだった。落ち着いている。あまり俺は人の車に乗るということはないんだが、それでも、急な動きとかは無い。後先を見極めて、落ち着いた運転に徹している。
「何処へ行くんだ?」
「海の方」
「海の方って」
「別に何処の海だっていいんですけど。海であれば。カナイ君キミ、何か思いつくとこは無いですかね」
そうは言われても。
とにかく都内から俺達は逃げ出した。
とりあえずは西に向かった。神奈川県の方だ。小学生かそこらの頃、一度行ったことのある所の名前を出したら、奴は二つ返事でそちらに進路を向けた。
いい天気だった。長袖のシャツでは汗ばむほどだった。窓を開けて走ると、無茶苦茶な音と、圧迫感すら感じる風が吹き込んでくる。だが心地よい。俺は窓に腕を置くと、そこにもたれかかるようにして、風を受けていた。
コノエはずっと黙っていた。聞きたいことは色々あったのだが、何となく俺はそんな気にはなれなかった。まあ俺は俺で、まだ身体のだるさが残っているので、風の延々続く轟音を聞いているうちに、眠気が襲ってくるのと必死で戦っていた。
そうこうしているうちに、景色がどんどん移り変わっていった。色づきかけた木々が所々で目に入る。その片方で、視界に、高い建物が無くなっていく。
そして目的地についた。
車を置いて、俺達は砂浜に降りた。車の中で感じたのとは違い、降り立った海は、意外に風が無かった。海は凪いでいた。空の色をもう少し濃くしたような色に、おだやかにただ広がっていた。
ざくざくと、スキを見ては靴の中に入り込もうとする白い砂を踏みながら、ただ俺達はぶらぶらと歩いていた。
ふと、前を歩くコノエの方を見ると、奴はずっと向こうの方を見ていた。何を見ているのだろう、と同じ方向を見ると、空と海の境界線が光ってまぶしい。
「さて」
コノエの足が止まった。俺はほんの少し身体を固くする。
「気分悪くなったりしてませんかね?」
「あいにく車酔いとは昔から無縁なんだ」
「それはよかった」
そして奴は、その場に座り込んだ。白い、乾いた砂の上。服やら何やら、普段は結構気にする奴なのに、こいつは時々無造作になる。俺もその横に腰を下ろした。陽の光に暖められた砂は、秋だというのにずいぶんと熱い。
「それで?」
曖昧に訊ねると、奴はんー、と曖昧な返事をよこす。俺はどう切り出したらいいのかさっぱり判らなくて、次の台詞を投げられずにいた。
だが。
何かが、光っている。
汗じゃないか、と最初は思った。こんな日中に、熱い砂の上で、長袖シャツで、じっとしているんだから。
だけどそれは違った。全く表情を変えないまま、奴は泣いていたのだ。ぽろぽろと、止めもせず、ただ目から、涙がこぼれおちていく。
「コノエお前……」
「ねえカナイ君、それは、ワタシの名前じゃないんですよ」
「え」
俺は弾かれたように、奴の方へ身体を向けた。だが奴は俺の方は見ない。変わらず、視線はずっと、水平線の方へと向けている。
「免許証にあったでしょう?あれがワタシの本当の名ですよ」
そして奴は、聞き覚えの無い数文字を読み上げる。実感の無い、その単語。でもそちらが本当の名というなら。
「お前は、じゃあ同じ歳じゃない?」
「キミよりはいくつか上。でもそれは大した問題じゃないですね。ワタシはあの学校には、生徒の役をしに来ているだけなんですから」
淡々と奴は話す。が、それは俺にとっては淡々としたことではなかった。
「生徒の役?」
「ワタシはもう大学卒業資格は取ってあるんですよ。ここじゃないけど。受験も何も関係はない、別にあそこに通わなくたっていいんです」
本棚に並んだ、難しい本。難しい書き込み。訳の判らない言葉。俺がした質問にはいつも的確な答え。
「じゃ何で……」
奴はふらり、と首を回す。そして一度両手で顔をつつみ、涙をぬぐった。
「カナイ君キミは、以前ワタシとタキノがきょうだいだけど血はつながっていない、って聞いたことありましたね」
うん、と俺はうなづく。そしてその時の何気なく言った言葉も、覚えている。
「お前は危険だから気にしなくていい、って感じのことを言ってた」
「ええ危険なんですよ。だけどワタシは、キミには知っていてほしい。彼女はキミのことは気に入っていた。ワタシもキミのことが大好きだから、キミには知っていてほしいんですよ。ワタシがこれからするだろうことから、キミが巻き込まれないように」
「……え」
俺は眉を寄せた。
「ワタシとタキノは、この国の生まれじゃないんですよ。海を越えた国で生まれたんですわ」
海を越えた国?
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