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第14話 五十日の祝いと弾正宮の気持ち

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 正頼宅は急に慌ただしくなった。
 今更の様に仲純の供養が行われ、当時のことを思い出すある者はすすり泣き、またある者はしんみりと亡き人の素晴らしかった点を思い返す。

「……だがそういえば」

 帝はふと気付く。犬宮の五十日の餅の祝いが近づいているではないか、と。
 賄いはきっと仁寿殿女御がするのだろう。帝は考える。ではこちらからは。
 彼はそっと、頭中将実頼を呼び寄せた。

「犬宮の五十日の祝いに、こちらからもそっと祝いの品を上げようと思ってな。……正頼には気付かれない様に用意をなさい」

 は、と実頼はかしこまる。

「そうそう、その時の調度などは、納殿にある物を必要に応じて取り出すが良い」
「判りました」

 言いつかった実頼は早速、父太政大臣の館の曹司でもって用意を始めた。唐風の銀細工師などを呼び寄せて、急ぎで作業をさせる。
 その噂が周囲に広がると、あちこちから見事な細工の檜破子が献上されてくる。自分に自分に、と売り込んで来るのだ。
 実頼も、上手に作りそうな者には事情を話して寄越す様に言いつける。
 帝側でぬかりのある様なことがあってはいけない。実頼は手堅く仕事を進めていった。



 そして当日となった。
 賄いをする仁寿殿女御は、先輩である母大宮に問いかける。

「五十日の御祝いをする日になりましたけど、何をしたらいいのでしょう」

 無論女御も何を用意すればいいのか、判らない訳ではない。自分の子を既に沢山持っているのだ。だが彼女も犬宮には一種格別な思いがある。大宮もそれは同じ様だった。

「まあ何と言っても、よそのひとには判らない様に、こっそり沢山用意することですね。そうそう、準備はうちだけでも充分できますよ。こういうことは、万事たっぷりとしない位だったら、しない方がましですからね」
「それでいいのですか。では大丈夫です。私の方でもたっぷりと用意させました。そちらへ持って上りましょうか?」

 無論女御もある程度の目安はつけてあった。それが母の目から見てどうなのかが気に掛かっていたのだ。 

「そちらへ上りましょう」
「いえ今日だけは」

 そんな母子のやりとりがあり、やがて。
 女御は帝経由で頭中将が用意した膳部などを持って行く。
 犬宮の前にはやはり様々なものが置かれることとなった。
 銀の折敷を銀の高坏に乗せて十二。それぞれ四つに餅、乾物、菓物が盛られている。上を覆っている「心葉」という生花や葉を添えた布もまた非常に美しい。
 御器は、さしわたし三寸のろくろでひいた沈木製のもの。
 親族達の前には、浅香の折敷が十二づつ置かれている。無論大宮、一宮、女御の前へも。
 檜破子は全部で五十。沈木、蘇芳、紫檀といったもので作られている。台や朸も同様である。
 食物を入れた袋やその口を締める緒、敷物と言ったものも全て美しい。
 重破子など、全てがもう送るばかりになっている。それに普通の破子が五十添えられている。中取に乗せて、一宮や仲忠のところへ運ばれて行く。
 それ以外にも、典侍や大輔の乳母から始めて、御達まで様々なものが配られる。
 また檜破子が三十、普通の破子を五十添えて、尚侍のところへと送られる。
 女御は尚侍宛てに、

「ご無沙汰しているうちに、五十日の祝いの日となってしまいました。
 ―――五十日の祝いとはかねて聞いておりましたけど、その日になって始めて祝いの餅を召し上がる日だとはっきり知りました」

 そう書いて付けた。
 女御は藤壺にも同じ数だけ檜破子や破子を送っていた。



 そのうちに、祝いの餅を赤子に食べさせようという時刻になった。

「早く早く」

 周囲がそう催促するのだが、仲忠はなかなか犬宮を自分の側から離したがらない。
 それでも何とか皆からやいやい言われて離されたのだろう、湯浴みなどさせられた犬宮は綾の着物一襲を着せられ、大輔の乳母に抱かれて皆の前に出された。

「まあまあ、ちょっと抱かせてね」

 女御がそう言って乳母から受け取り、そのまま大宮に見せる。

「まあ! 何て大きくて首がしっかりした子でしょう」

 白い絹に包まれたその姿は、柑子の様に丸々とし、可愛らしい。大宮の表情もとろけるばかりになる。

「ああもう、こんな可愛い子を今まで見せてくれなかったなんてあんまりなことですよ。私はこういう子は沢山見てきたけど、これ程の子は今まで見たことが無いわ。ここまで美しくなくとも、育って行けばそれはそれなりに相当なものになるんだから、この子ときたら、まあ一体どうなるんでしょう」
「さあどうでしょう?」

 ふふふ、と女御は笑い、またさっと大宮の前から隠してしまう。

「まあ意地悪なこと。まあいいわ。きっと親の一宮や仲忠どのよりも素晴らしくなるんじゃなくて?」

 そう言って大宮は犬宮に餅を食べさせる祝いを始める。
 その折敷の一つは洲浜になっていた。高い松の下に鶴が立っていて、一つは箸、もう一つは匙を銜えている。
 その匙には帝の親筆の歌が書かれていた。

「―――みどり子は常に変わらぬ松の餅を食い初めてこれからは千代千代とばかりいうことであろう」

 それを見た大宮は白い薄様にこう詠む。

「―――寿を保った私が居て松の餅を食べさせましたから、この子は千年を加えて生きると思います」

「何がございましたの」

 女御は問いかける。大宮は女御に帝の歌のことを話し、その匙を渡す。
 また、一宮にはこう歌を詠む。

「―――みどり子の犬宮は目出度い松の餅を沢山食べることでしょう」

 一宮はそれにはなかなか返事をしない。周囲から「どうしてお詠みにならずにいられましょう」と急かされ、ようやくこう詠んだ。

「―――犬宮は常磐の松の餅に心が移って、食い初めの今日、初めて千代を生きるということを知るでしょう」

 女御は洲浜の折敷とその歌をそっくりそのまま仲忠へと渡す。仲忠もまた詠む。

「―――千年を経た松の餅を犬宮は食べた。今はその松にも劣らない寿命を保って貰いたい」

 さてその洲浜の折敷と歌に興味津々な弾正宮が近くから覗き込む。

「何を? 見せて下さいな」
「いやいや何でも。見ると目がつぶれますよ」

 仲忠はそう言って隠し、そのまま簾の中へ入れてしまう。

「ああやだね、簾の中に入れない身分の者にする様なことを言うんだね」

 弾正宮はそう言うと、簾の中へと入って行く。

「忙しいことだな。
 ―――姫松/犬宮も鶴/一宮もお揃いなのだから、いつかお目にかかることができるでしょう―――」

 そう弾正宮が詠み、書き付けると、大輔の乳母がその側に自分のものを置く。

「―――みどり子を千代までと祝うのは、誰でもすることで、特定の御子にする限ったことではございませんわ」

 その場で「みどり子」と歌った者達は、

「成る程、乳母よ、そなたの言う通りだ」

 そう言って笑ったものである。



 そのうちに尚侍からの返しの文がやって来た。
 使いの者は白い袿袴を被物として貰って行く。
 文にはこう書かれていた。

「こちらからもお便りしたものかと思ったのですが、この数日取り込みごとがありまして、失礼申し上げました。
 それにしても五十日の御祝いだということをよくまあはっきりと御承知になられたとこちらでも驚いております。
 ―――いつも同じ様に『いかいか/五十日五十日』と泣いておりますのに、どうして今日がちょうど五十日だということを御承知になったのでしょう―――
 たいそうお耳の聡いお方でいらっしゃいますこと」

 などと書かれていた。



 やがて、餅以外の祝いの食物が膳にのせられ、犬宮が口にする。それが済むと、犬宮は乳母に抱かれてその場を立った。
 一方、その日やってきていた弾正宮に、祖母である大宮は話しかける。

「ねえ、どうして時々でも、私達の北の大殿へ来て下さらないのかしら? 幸福なことに、私には大勢の孫宮ができましたが、その中でもあなたは格別気高い方。特別大切に思っているのですよ。なのにどうして私達を疎々しくお思いなのでしょうね」

 ふっ、と弾正宮はそれを聞いて笑う。

「いやいや、今まで私はずっと数の内にも入らないものかと思ってましたよ」
「何をおっしゃる。どうしてここを、まるで旅住まいの様によそよそしくなさるのです。誰も彼も、あなたを婿にお迎えしたいと思っているのに」
「私を?」

 あっはっは、と弾正宮は今度は大声で笑う。

「……何故そう笑うのですか」
「だって、可笑しくてたまりませんよ」
「どうして」
「……本当にこのひとの内気な心には参ります」

 普段と違う息子の笑い声に、慌てて女御が口を挟む。

「母上、この子は昔、あて宮がこちらにまだ居た頃、何の返事も無かったことを悲しんで、しばらく法師の様な暮らしをしていたことがありますのよ」
「まあ」

 大宮は驚いて弾正宮を見る。だが彼の表情は変わらない。

「ある時などは、『あなたが私をろくなものに生まなかったからだ』とさえ言ったのですよ」
「まあそんなことが…… まるで知りませんでした」
「得てして現実とはそういうものでしょうよ」
 
 そう言って彼は皮肉気な笑みを浮かべる。大宮は不安げに首を傾げる。

「私が知っていたのは、弟の兵部卿宮があて宮を思っていたということだけです。そのことを『あるまじきことだ』と右大将が非難していた、ということも聞いています。実忠どのが格別あて宮を深く思い、思い過ぎていたことも知っていました。……でもあなたもそうだったのですね」
「ずいぶんとお聞き漏らしの多いお耳だ」

 弾正宮のその言葉は大宮の胸を突いた。

「その一つがあちらでしょう」

 そう言って彼は仲忠の方を伺う。

「今となっては一緒に暮らしている方ゆえ、よくお判りになるのではないですか? お祖母様。今になって仲忠の言葉の端々から、思い当たることもある筈です」

 無論大宮は、誰があて宮に懸想していたか、ということを、当時ほぼ全て把握していた。同母兄である仲純にすら、疑いを持つことができた程である。
 ただそれが外部から見てどうだったのか、は判らない。
 彼女はとりあえず孫の言い分を面白く聞くことにした。
 仲忠は何を考えているのか、ただ苦笑しながら聞いている。
 弾正宮は続ける。

「……で、まあ私としては、彼の様に数の中に入れて頂けなかったということが、何やらどんよりと心の奥底にいつもわだかまっているのですよ」
「だったらどうして、きっぱり『あて宮が好きだからぜひ気持ちを伝えて欲しい』とあの頃兵部卿宮の様に言わなかったのですか」

 大宮は問いかける。

「言ったところで」
「言わなかった方が何をおっしゃる」

 横で聞いている仲忠は思わず目を見開く。

「ただただぼんやりと思いを募らせているだけで何が起こりましょう。私達はそういう方々ばかりで何だし、東宮さまからの強い希望があって入内させた訳です」
「……」
「とは言え、実際させてみれば、あて宮はこうこぼしています。宮中は思った程に楽ではなく、後見にと信頼していた方すら最近は東宮さまはお近付けにならず、色々周囲からもひどい噂が立ち、嫌なことばかりだ、と」
「そんなことが……」

 弾正宮もさすがにその話には目を眇めた。

「そうですよ。なのにあなたときたら、そんなあの子の気持ちも一切推し量らず、ただただ自分はこうだった辛かったとばかり…… ああいっそ、入内などさせず、こちらで気楽に過ごさせるべきでした」

 そうだったのですか、と弾正宮は肩を落とす。

「そうですね。……色々愚痴ばかり、すみませんでした。ただそれでも、その昔、御返事を全くくれなかったことがやはり辛かったので……」

 それはあるかもしれない、と大宮も思う。
 彼は続ける。

「面白いことを書いて文通なさった方も、本当にあて宮のことを心から想っていたとは限りません。ただ私だけは、心だけは昔のままに、と誠を捧げたいと思っているのです」
「まあ」
「東宮さまの方は心配なさらなくても大丈夫でしょう。入内させた甲斐もありましょう。東宮さまはもう藤壺の方に夢中で、他の方にはまるで心を移されることも無いのですから」
「……普段側で見てやれないので、心配ですけど」
「先日東宮からお召しがあって藤壺を訪ねたのですが、その時の東宮さまのご様子からして見ても、あて宮に本当に夢中なのだと思いましたね」

 そう言いながら弾正宮は呆れた様なため息をもらす。

「まあ」
「……我々大勢の心を惑わせた彼女を独り占めできるのだから、そのくらいの物思いはあって欲しいものですよ、全く」

 ほほほ、と大宮は笑う。

「あて宮も昔とは違って、ずいぶん世間というものがお判りになってきた様ですね。私が伺った際にも大層親しく、色々お話したものです。……前々からそういう態度だったら良かったのに、と思うのではあるのですがね…… そうすればまた別の未来があったのかもしれない…… まあでも、あの方はああなるべきだったのでしょう。最も高貴な方のところへ嫁ぎ、この上無く崇められる―――」
「だけどそれで始終物思いが絶えないというのも……」
「そういうものでしょう、あの位は」
「だけど去年の秋、ちょっと退出させましたら、東宮さまは『あて宮を里からなかなか宮中に戻さないというのは、私を軽んじているからだな』とたいそう憎々しげに仰せられたので、私もずいぶんと困り、仕方なく参内させたものです。あて宮はあて宮で、いつも退出したい退出したい、と言っていて…… 東宮さまがそれを許さないので、これはこれでまあ…… この月末には一度退出させたいのですが」

 ああ、と女御が合点のいった様にうなづいた。

「お母様、今宮のお産はいつでしたか?」
「近いうちとは聞いていますが、まだそういう気配は見えないようですよ」

 今は涼の妻となっている彼女も、一宮よりやや遅れての出産予定であった。

「先日お見舞いに行きましたのですが、結構苦しそうで……」

 ああ、と大宮は思いついた様に仲忠の方を見る。

「その今宮をあなたに、と思ったこともあったのですよ」
「僕に?」
「ええ。あて宮をあげられなかったことを、殿も私も非常に残念に思いまして…… せめてよく似た妹をと思ったんですが、一宮をぜひに、という帝のご意志がございましたのでね」
「何ですかお祖母様、そこでもまた何やら食い違いというかあったんですね」

 やや呆れた様に弾正宮は言う。それを聞いた女御は息子は諫める。

「そういうことを言うものではありませんよ」
「はいはい母上。まあ、物事が思う様にはいかないということは多々あるということで」
「それでも今幸せであるならいいのではないですか?」

 仲忠はひょい、と口を挟む。

「おや、言うね、仲忠くん」
「僕はどう取り違いがあろうが最初の思いが通じなかろうが、ともかく今幸せですから」
「なる程」

 くす、と弾正宮は笑った。 



 その後仲忠は、一宮の寝所に入ると、犬宮をすぐに抱き上げてしばらく満面の笑顔であやす。

「大宮さまは僕等の子犬ちゃんをどういう風に言ってた? 大勢の前に出すのはちょっと、と僕は思ったんだけど……」

 すると一宮はくすくすと笑った。

「親の私達より優れてる、って」
「うーん、それはどう答えたものか」

 仲忠は苦笑しながら犬宮に頬ずりする。

「ところでお兄様の声が少々大きかった様だけど」
「ああ」

 弾正宮は女一宮の兄にあたる。

「ちょっと彼にしては珍しく愚痴の様なことを仰られてね」
「愚痴なの」
「昔、あて宮にあの方も思いをかけていたということでね」
「……ああ、確かそういうこともあったわね。お兄様もまた、何か一度思いこんだら一途な方だから。でも実忠さまの様に何もかも振り捨てて、とかいう感じでもないし。だから傍目からは判りにくかったんじゃないかしら」
「判りにくい」
「そのひとがどのくらい自分のことを思っているか、っていうの」

 うーん、と仲忠は犬宮を手にしたまま、考え込む。

「でも思いの深さから言ったら、実忠さんとか強いんじゃ」
「だからそこが男の読みの浅さなのよ!」

 たん、と一宮は床を叩いた。

「妻子を置いてまで深く思う、ということは、もっと強く思う方ができたら、一度思われた方もまた置いていかれるではないの」

 あっ、と仲忠は声を上げた。

「成る程、そういうことが女の方には」
「たしかあなたもあて宮に文を差し上げてたでしょう?」

 まあね、と仲忠は答える。

「それにあて宮もあなたには満更ではなかった様だけど?」
「だからそれは前々から言ってるように」
「そうよあなたはそうだし、きっとあて宮も納得してるんでしょうけど、あなたがあて宮に思いを寄せていた、様に見えた、ということは残るのよ」

 ふう、と仲忠はため息をつく。

「そんなにいじめないで。それに僕も、宮が相手でなかったら、こんなこと今になって話すことも無いよ」
「あらそぉ?」
「そう。あなただからだよ。あなたじゃなくちゃこんなこと言わない。それにほら、もう今ではこんな可愛い犬宮だって居る」

 そう言うと、再び仲忠は犬宮に頬ずりをする。その様子にさすがに一宮も苦笑する。

「あて宮を見た人は皆何処かおかしくなってしまうから、私はそれでちょっと心配だったのよ。あなたもそうじゃないかと思って」
「一人の頃だったらそうかもね。でも今はあなたが居るし。たとえ天女が居たとしても、そっちに目を向けようなんて思わないって」
「あらそぉ? ……あて宮がもうじき退出して来るけど、あなた、大丈夫?」
「意地悪なひとだなあ。それじゃ言わせてもらうけど、もし僕がここに来たばかりの頃、他の人があなたを奪ったりしたなら、やっぱりおかしくなったと思うよ」
「今でも?」
「そりゃ勿論」

 そう、と顔をふいっと背けながらも、一宮の頬は真っ赤である。

「でもまあ、あなたがそう思うのも当然かもね。私だって、あて宮がこの家から居なくなった頃は、本当に淋しかったわ。今宮と一緒にしょっちゅう泣いていたもの」
「今宮…… 涼さんの奥方は、そういえば今度お産があるんだったね」
「そうなのよ。私のことで皆てんてこ舞いだけど、皆、忘れないで欲しいわ。私あなたと一緒になる前は、あの人と一番仲良かったんだから」
「大丈夫、それは」

 ぽん、と一宮の肩を叩く。

「涼さんがそのあたりは精一杯手を尽くしてくれるさ。何と言ってもあのひとは『宝の王』だ。出来ることは何でもしてくれるだろうね」
「そうあって欲しいわ」

 しみじみと一宮はつぶやく。



 一方正頼と大宮もゆったりと話をしていた。

「なあ、犬宮はどうだったんだい?」

 未だに姿一つ見せてもらえない彼は、せめてもとばかりに妻に問いかける。

「可愛かったですよ」
「……それだけか?」

 ほほ、と彼女は朗らかに笑う。

「大層立派に成長するでしょうね。女一宮も可愛らしく、今も綺麗に育ちましたけど、あの子はそれ以上です。大人になりましたらどの様になるでしょうね」
「そんなにか」

 はあ、と正頼はため息をつく。

「成る程、今から仲忠が誰にも見せない様に、と気をつかうのは、やはり見事に育て上げようという気持ちからだろうな」
「ええ、あれはきっと育て甲斐のある子ですよ」
「私も長生きしてその成長を見届けたいものだ」
「そうですね」
「しかし長生きするにはもう少しゆったりと過ごしたいものだ」

 自分が既に年老いていることを正頼はやや強調する。

「様々なことを慎んだ方がいい、と占の者も言った。だから少し前に辞表を一度は帝に奉ったのだが、相手にしてもらえなかったのだよ。もう一度送ってみようか」
「辞表をですか?」

 大宮は驚いた。夫が辞表を出したことは知っている。だがそれはある程度の帝に対する自分の立場の再確認や牽制の意味のものであると考え、本気であるとは思ってもみなかった。

「本気ですの?」
「わしが本気ではまずいか?」
「いえそんなことは」

 と言ってみたものの。
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