10 / 32
第10話 だらけきった翌日の男達、世をすねる弾正宮、そして梨壺の妹からの贈り物
しおりを挟む
と、この様に男達の世話をしなくてはならない女達がこの日は沢山居たが、その必要の無いひとも居た。
他ならぬ女御そのひとである。
彼女はあちこちからのお祝いの品を夜通し吟味していた。そしてそれをまた何処へと分けようか、思案にくれていた。
左大臣からは沈木でできた衝重が十二。そして銀の杯。これは尚侍に差し上げよう、と女御は思い、取り置く。
大納言忠俊からは浅香の衝重と御腕は、二つあれば一つ、四つあれば二つを正頼夫婦へ。
涼からの銀の衝重や、蘇芳の長櫃に入れられた色々のものは藤壺のあて宮に。
元々それらの捌き方はおおよそ仲忠によって指示されていたものだった。
「酔っていらっしゃった割には良い判断ですこと」
仲忠はそんな女御の讃辞はほとんど耳に入っていない。夢うつつのまま、妻と一緒にごろごろとしている。
さて。
女御は思う。
藤壺に回すものには文を添えなくてはならないが、この分では書けないだろう。仕方が無い、私が書こうと。
「昨日も申し上げようと思いましたが、前後不覚に酔っていましたので、後ではと思って今日になりました。
大変面倒な贈り物をお一方でどういう風になさったのかと感心してしまいました。
あなたにあやかって、また目出度いお産を早くする様にと祈っております。
美しくない子供でも大勢あるのは悪くないものだと、今夜はしみじみ思いました」
*
さて受け取った藤壺のあて宮は「これこそ誉められていい贈り物だ」と返しの文を書く。
「昨日は思う様に参りませんでしたから、肩身が狭い思いをなさらなかったかと心配しておりました。
それに、よその聞こえもありますもの。
宮中にも珍しく稀な行事が沢山ありましたのに、それにも出ないで聞いているだけでは、全く生きている甲斐も無く、嘆かわしく思います。
そんな気持ちで鬱々としている中、頂いた贈り物は、思いも掛けない満月の様な心地です。
私からの贈り物を向こうの方は悪くないな、と御覧になったのでしょうか。それとも何故ですか?」
この様に白い薄様一重に、非常に素晴らしい書きぶりだった。
*
女御がそれを見ている時だった。
「あ」
「母上、これは藤壺の方からですか?」
弾正宮が横から文を取り上げた。
「この方と母上の筆跡が世の中では褒め称えられている様ですけど、私はこちらの方が素晴らしいと思いますね」
「まあ」
「あ、怒りましたか? 母上」
ちら、と弾正宮は女御を見て笑う。そのまま彼は腰を下ろす。
「こんな折りでなかったら、まず私など見ることが出来ないでしょうね」
「馬鹿なことを言っていないで、お返しなさい」
「この文が母上宛ではなく、誰か男の元へ書かれたものでしたら、私はそれを見て妬くも辛くもなったでしょうね。ああ全く、そうでなくって良かった良かった」
女御はそれを聞いてほほほ、と笑う。
「何を言っているんですか。それにあのひとは、男のひとに対して書くのはいけないことだと思っていますよ」
だから息子にだけではない、と言いたかったのだが。
「ねえ母上。私は時々、東宮でなかったのが辛くなりますよ」
「な、何をいきなり」
「母上は、私を不幸なものに生んで、物思いばかりをさせるのですね」
何を言うのかこの子は、と彼女は思い、更に笑う。
「変なところにかこつけるのね。あんまり深く考えない方がいいわ。そうそう、あなた、いつまでも独り身だからじゃないの? あなたを婿に欲しいと思う方は多いのよ。いい加減何処かのお誘いに返事なさいな」
いいえ、と弾正宮は首を横に振る。
「私は独り身を遠そうと思います」
「……また何を」
「本気です。心が慰められる程のひとは得られないと思いますから。そう、もしかしたら法師にでもなるかも」
そう言い捨てると弾正宮は立ち上がる。
「これは貰っていいですね」
そしてそう言いながら、あて宮からの文を手に立ち去る。
全く。女御はため息をつく。何処まで本気なのやら。
「ああもう。あて宮の文も、女一宮へのものは仲忠どのに取られてしまうし、今日のはあの子に取られてしまうし。全く困ったことだわ」
思わずそんなことが声に出てしまった。それもとても愛嬌のある、よく響く声で。
*
「ほら、どう? 女御は一宮と良く似ていた?」
近くの局に籠もっていた兼雅は、その声を耳にすると北の方――― 尚侍に問いかける。
「うーん、何っていい機会なのだろう。あの方のお声を直にこう聞けるとはね。ねえ、どうなのかな」
また何を馬鹿なことを、と思いながらも尚侍は答える。
「女御さまのことは知らないけど、いい方だと思いますよ」
「うーん。女一宮もそうなんだろうな。仲忠が、ずいぶんと素敵なひとだと誉めていた。あいつがそういうのは滅多にないことだからなあ」
「女御も素敵な方ですよ。だからこそ帝が大層ご寵愛で、この頃も、『早くお帰りなさい』と御文がある様です」
「ふーん…… さてさて、人々はそなたのことはどう見るんだろうな」
「私ですか? 別に大したものでは無いでしょう」
「いやいやいや、何と言っても私は、様々な素晴らしい女性を大勢抱えていたのに、あなたを手にしてからというもの、……もう他の誰も要らないと思ったんだから」
「はいはい」
「だからね、こういう妻を持ってしまった、とよく私も公表してしまったと思うよ。男としては何と言うか、その、だからね」
「何ですか」
「その。だからね、仲忠の面目のために、今でもやはりうつむいて、いつもの通り立派な着物で人にはお会いなさいね」
「仲忠は本当に、親の私から見ても素晴らしい子ですもの」
何を言っているのだか、と思いながら尚侍は答える。
「ああそうだ。本当にあれは素晴らしい子だ。あれがいつまで経っても中納言のまま昇進もできないのは、私が右大将のままだからなんだろうなあ」
そう言いながら、懐から十宮を使いにして女御からもらった杯を取り出す。
「何ですかそれは」
「さて、何だろうね」
「素晴らしい御筆跡ですこと」
尚侍は笑う。
兼雅はそれには何も答えず、枕元にそれを置くと、寝よう寝よう、と妻を引き寄せた。
*
夕方になると、女御は乳母を呼び、命じた。
「もう日も暮れてきましたし、仲忠どのをお起こしして、御膳部をお上げなさい」
はい、と乳母は仲忠の元へと行く。
「御膳部が整いました」
すると仲忠は寝所の中から面倒くさそうな声で答える。
「何のつもりで食事なんか勧めるの。ちょうどいい時ってのがあるでしょ……」
そう言って聞かない。乳母は呆れてそのままを女御に伝える。
「まあ。全く酔ったひとというのは。人がそうしたら叱るくせに」
そう言ってくすくす、と笑う。
結局そのままその日は暮れてしまった。
*
やがて明け方頃仲忠は目覚めた。
「あれ? 今は昨日? 今日?」
などと寝ぼけ眼で言う彼に、周囲の人々は皆思わず笑いを堪えきれなかった。
「笑ってる場合じゃないって。九夜のことがあるじゃない」
無論周囲はそれなりに準備をしていたので、ただもう苦笑するしかない。
ともかくこの日の夜が九夜であることに気付いた仲忠は、周囲に命ずる。
「前々からお産のことに携わった人達への祝いが延び延びになっていたから、今日は儀式ばらずに、ただお肴だけ用意して、親戚の誰彼の御馳走や禄等も支度しておいて」
皆了解すると共に「あの普段無口なひとが」と驚く。
仲忠は贈り物の用意などには自身で動くのだが、この様な祝いの席に関しては、それぞれの担当に任せ、特に口を出すことが無い。それを特に。
よほどお産に携わった人々に感謝しているんだな、と家人達はしみじみと思うのだった。
*
やがて夜が近づくと、母尚侍が髪を美しく梳り、掻練の小袿姿という、やや気楽な正装になって祝いにやって来た。
仁寿殿女御もやって来る。その頃には一宮も起きていた。
中の大殿の東西の廂に人々の御座を設けて茵を置いた。簀子にも同様に座を設けた。
やがて仲忠は正頼夫妻に「おいでになりませんか」と使いを出した。そこで彼らもやって来る。
宮達がやがてやって来る。
正頼の子息達も、忠純をはじめとして皆やって来る。
「お父上は招かないのかね。今ではもう他人とは言えない間柄なのだから」
そう正頼は口にし、息子を使いにして兼雅を招待する。やがてやってきた彼を、正頼は奥の方へと案内する。
*
やがて仲忠が用意させた御馳走が全て用意された。
産婦である一宮の前には、白瑠璃の衝重が六つ、下には銀の坏、上には瑠璃の坏などが置かれている。見事な細工のそれからは、中のものが透けて見える。
それぞれの母、女御と尚侍には沈で拵えた折敷を六つづつ出す。
男宮達には浅香の折敷が六つづつ。
仲忠はそれらのことを簀子に控えて家人達に指図する。その前には蘇芳の机が二つ置かれている。
上達部には二つ、そうでない人々には一つづつ。ちなみにこの日は正頼一家に関係無い人は呼ばれていない。
そんな正頼は仲忠に笑いながら問いかける。
「仲忠、私は一体誰の側に座ればいいのか、言ってくれないか」
それを聞いた仲忠は、兼雅に向かってこう言う。
「父上、正頼どのをお招き下さいな」
「私がか?」
「そりゃそうでしょう」
苦笑し、兼雅は正頼を呼び入れる。その時彼は忠純を一緒に連れて来た。宜しいか、と軽く問いかけ、それにやはり、無論だとお互いに答える。
その内に、内裏の后の宮から九日の産養の祝いが届けられる。
産養には白いもの、の例のごとく、銀の衝重が十二。
そしてまた銀の坏。
その上に唐綾の覆いが六。
破子くらいの大きさの食器が積んだ折櫃に沢山入っている。
*
また東宮に仕えている仲忠の妹、梨壺の君からも祝いが届いた。
物が一斗ばかり入る金の甕が二つ。
黄ばんだ色紙で覆われたその一つには蜂蜜、もう一つには甘葛が入っていた。
また、紅葉の造り枝につけた銀細工の鯉が二つ。これがまた生きているかの様に精巧である。
そして瑠璃色の大きな餌袋三つ。
この中の一つには銀の銭を。
一つは黒方を乾し魚などの食べ物の様に見せかけたもの。
そしてもう一つは沈を小鳥の様に見せかけたもの。上に鳥の羽根を集めて、青い薄様を一襲づつ覆って結われていた。
そこに唐製の紫色の薄様一襲に包まれた文が、紫苑の造り枝に付けられていた。
仲忠はおや、と思って手に取る。
「ご無沙汰がちで心許なく、心配しておりました。
ずいぶんお見えにならないので不思議だと思っておりましたが、やっと昨日、それはご無理も無いことだと判りました。
ちなみにこの鳥は、
―――きょうだいのあなたの慶びを祝うために草原まで探して取ってきた鳥ですよ―――
もっと早くおっしゃってくれていれば、大鳥を探してきましたのに!」
正頼はそれを見て仲忠に問いかける。
「何処からかね? ずいぶんと色っぽい文に見えるが」
「何言ってるんですか。梨壺の僕の! 妹からです」
「お、そうなのか」
兼雅もそれを聞きつける。
「だったら私にも見せてくれないか」
どうぞ、と仲忠は渡す。受け取った兼雅はしげしげとそれを見てつぶやく。
「ふぅん、ずいぶんと大人らしい文を書く様になったものだなあ……」
あなたの娘でしょう、と仲忠は嫌味の一つも言いたかったが。
やがて、東宮に仕える左大臣の姫、麗景殿の君からのお祝いもやって来る。
物が二斗ばかり入る銀の桶が二つ。それぞれ、やはり銀の杓子を添えて、白い米の粥がと赤い小豆の粥が入っていた。
また銀の盥八つには、粥のおかずとして、魚料理が四種類、精進料理が四種類。
大きな沈の折櫃に、黄金の大小の食器と小さな銀の箸を添えて入れてあった。
ここでも仲忠に宛てて文があった。
「とりあえずはこの麗景殿の君からの粥を皆で食べましょう」
と仲忠は添えて寄越した器に盛って、皆に分け与えた。
彼はその間に梨壺の君への返事を書く。
「御文をありがとう。ずいぶんそちらへは行けなかったので、気にはなっていたのだけど。
けど『昨日』というのは、誰が言ったのかな。流行りの大鳥の歌のことをあれこれ言う様な人達だった?
君の心はとても嬉しかったのだけど、僕の女一宮のことを気に掛けてくれなかったのは少し悲しいな。
―――野辺に棲んでいる多くの鳥よりも、水の中で番として育った亀の御祝いは珍しく嬉しかったけどね」
それを装束の被物をした者に、別の禄を与えて帰した。
他ならぬ女御そのひとである。
彼女はあちこちからのお祝いの品を夜通し吟味していた。そしてそれをまた何処へと分けようか、思案にくれていた。
左大臣からは沈木でできた衝重が十二。そして銀の杯。これは尚侍に差し上げよう、と女御は思い、取り置く。
大納言忠俊からは浅香の衝重と御腕は、二つあれば一つ、四つあれば二つを正頼夫婦へ。
涼からの銀の衝重や、蘇芳の長櫃に入れられた色々のものは藤壺のあて宮に。
元々それらの捌き方はおおよそ仲忠によって指示されていたものだった。
「酔っていらっしゃった割には良い判断ですこと」
仲忠はそんな女御の讃辞はほとんど耳に入っていない。夢うつつのまま、妻と一緒にごろごろとしている。
さて。
女御は思う。
藤壺に回すものには文を添えなくてはならないが、この分では書けないだろう。仕方が無い、私が書こうと。
「昨日も申し上げようと思いましたが、前後不覚に酔っていましたので、後ではと思って今日になりました。
大変面倒な贈り物をお一方でどういう風になさったのかと感心してしまいました。
あなたにあやかって、また目出度いお産を早くする様にと祈っております。
美しくない子供でも大勢あるのは悪くないものだと、今夜はしみじみ思いました」
*
さて受け取った藤壺のあて宮は「これこそ誉められていい贈り物だ」と返しの文を書く。
「昨日は思う様に参りませんでしたから、肩身が狭い思いをなさらなかったかと心配しておりました。
それに、よその聞こえもありますもの。
宮中にも珍しく稀な行事が沢山ありましたのに、それにも出ないで聞いているだけでは、全く生きている甲斐も無く、嘆かわしく思います。
そんな気持ちで鬱々としている中、頂いた贈り物は、思いも掛けない満月の様な心地です。
私からの贈り物を向こうの方は悪くないな、と御覧になったのでしょうか。それとも何故ですか?」
この様に白い薄様一重に、非常に素晴らしい書きぶりだった。
*
女御がそれを見ている時だった。
「あ」
「母上、これは藤壺の方からですか?」
弾正宮が横から文を取り上げた。
「この方と母上の筆跡が世の中では褒め称えられている様ですけど、私はこちらの方が素晴らしいと思いますね」
「まあ」
「あ、怒りましたか? 母上」
ちら、と弾正宮は女御を見て笑う。そのまま彼は腰を下ろす。
「こんな折りでなかったら、まず私など見ることが出来ないでしょうね」
「馬鹿なことを言っていないで、お返しなさい」
「この文が母上宛ではなく、誰か男の元へ書かれたものでしたら、私はそれを見て妬くも辛くもなったでしょうね。ああ全く、そうでなくって良かった良かった」
女御はそれを聞いてほほほ、と笑う。
「何を言っているんですか。それにあのひとは、男のひとに対して書くのはいけないことだと思っていますよ」
だから息子にだけではない、と言いたかったのだが。
「ねえ母上。私は時々、東宮でなかったのが辛くなりますよ」
「な、何をいきなり」
「母上は、私を不幸なものに生んで、物思いばかりをさせるのですね」
何を言うのかこの子は、と彼女は思い、更に笑う。
「変なところにかこつけるのね。あんまり深く考えない方がいいわ。そうそう、あなた、いつまでも独り身だからじゃないの? あなたを婿に欲しいと思う方は多いのよ。いい加減何処かのお誘いに返事なさいな」
いいえ、と弾正宮は首を横に振る。
「私は独り身を遠そうと思います」
「……また何を」
「本気です。心が慰められる程のひとは得られないと思いますから。そう、もしかしたら法師にでもなるかも」
そう言い捨てると弾正宮は立ち上がる。
「これは貰っていいですね」
そしてそう言いながら、あて宮からの文を手に立ち去る。
全く。女御はため息をつく。何処まで本気なのやら。
「ああもう。あて宮の文も、女一宮へのものは仲忠どのに取られてしまうし、今日のはあの子に取られてしまうし。全く困ったことだわ」
思わずそんなことが声に出てしまった。それもとても愛嬌のある、よく響く声で。
*
「ほら、どう? 女御は一宮と良く似ていた?」
近くの局に籠もっていた兼雅は、その声を耳にすると北の方――― 尚侍に問いかける。
「うーん、何っていい機会なのだろう。あの方のお声を直にこう聞けるとはね。ねえ、どうなのかな」
また何を馬鹿なことを、と思いながらも尚侍は答える。
「女御さまのことは知らないけど、いい方だと思いますよ」
「うーん。女一宮もそうなんだろうな。仲忠が、ずいぶんと素敵なひとだと誉めていた。あいつがそういうのは滅多にないことだからなあ」
「女御も素敵な方ですよ。だからこそ帝が大層ご寵愛で、この頃も、『早くお帰りなさい』と御文がある様です」
「ふーん…… さてさて、人々はそなたのことはどう見るんだろうな」
「私ですか? 別に大したものでは無いでしょう」
「いやいやいや、何と言っても私は、様々な素晴らしい女性を大勢抱えていたのに、あなたを手にしてからというもの、……もう他の誰も要らないと思ったんだから」
「はいはい」
「だからね、こういう妻を持ってしまった、とよく私も公表してしまったと思うよ。男としては何と言うか、その、だからね」
「何ですか」
「その。だからね、仲忠の面目のために、今でもやはりうつむいて、いつもの通り立派な着物で人にはお会いなさいね」
「仲忠は本当に、親の私から見ても素晴らしい子ですもの」
何を言っているのだか、と思いながら尚侍は答える。
「ああそうだ。本当にあれは素晴らしい子だ。あれがいつまで経っても中納言のまま昇進もできないのは、私が右大将のままだからなんだろうなあ」
そう言いながら、懐から十宮を使いにして女御からもらった杯を取り出す。
「何ですかそれは」
「さて、何だろうね」
「素晴らしい御筆跡ですこと」
尚侍は笑う。
兼雅はそれには何も答えず、枕元にそれを置くと、寝よう寝よう、と妻を引き寄せた。
*
夕方になると、女御は乳母を呼び、命じた。
「もう日も暮れてきましたし、仲忠どのをお起こしして、御膳部をお上げなさい」
はい、と乳母は仲忠の元へと行く。
「御膳部が整いました」
すると仲忠は寝所の中から面倒くさそうな声で答える。
「何のつもりで食事なんか勧めるの。ちょうどいい時ってのがあるでしょ……」
そう言って聞かない。乳母は呆れてそのままを女御に伝える。
「まあ。全く酔ったひとというのは。人がそうしたら叱るくせに」
そう言ってくすくす、と笑う。
結局そのままその日は暮れてしまった。
*
やがて明け方頃仲忠は目覚めた。
「あれ? 今は昨日? 今日?」
などと寝ぼけ眼で言う彼に、周囲の人々は皆思わず笑いを堪えきれなかった。
「笑ってる場合じゃないって。九夜のことがあるじゃない」
無論周囲はそれなりに準備をしていたので、ただもう苦笑するしかない。
ともかくこの日の夜が九夜であることに気付いた仲忠は、周囲に命ずる。
「前々からお産のことに携わった人達への祝いが延び延びになっていたから、今日は儀式ばらずに、ただお肴だけ用意して、親戚の誰彼の御馳走や禄等も支度しておいて」
皆了解すると共に「あの普段無口なひとが」と驚く。
仲忠は贈り物の用意などには自身で動くのだが、この様な祝いの席に関しては、それぞれの担当に任せ、特に口を出すことが無い。それを特に。
よほどお産に携わった人々に感謝しているんだな、と家人達はしみじみと思うのだった。
*
やがて夜が近づくと、母尚侍が髪を美しく梳り、掻練の小袿姿という、やや気楽な正装になって祝いにやって来た。
仁寿殿女御もやって来る。その頃には一宮も起きていた。
中の大殿の東西の廂に人々の御座を設けて茵を置いた。簀子にも同様に座を設けた。
やがて仲忠は正頼夫妻に「おいでになりませんか」と使いを出した。そこで彼らもやって来る。
宮達がやがてやって来る。
正頼の子息達も、忠純をはじめとして皆やって来る。
「お父上は招かないのかね。今ではもう他人とは言えない間柄なのだから」
そう正頼は口にし、息子を使いにして兼雅を招待する。やがてやってきた彼を、正頼は奥の方へと案内する。
*
やがて仲忠が用意させた御馳走が全て用意された。
産婦である一宮の前には、白瑠璃の衝重が六つ、下には銀の坏、上には瑠璃の坏などが置かれている。見事な細工のそれからは、中のものが透けて見える。
それぞれの母、女御と尚侍には沈で拵えた折敷を六つづつ出す。
男宮達には浅香の折敷が六つづつ。
仲忠はそれらのことを簀子に控えて家人達に指図する。その前には蘇芳の机が二つ置かれている。
上達部には二つ、そうでない人々には一つづつ。ちなみにこの日は正頼一家に関係無い人は呼ばれていない。
そんな正頼は仲忠に笑いながら問いかける。
「仲忠、私は一体誰の側に座ればいいのか、言ってくれないか」
それを聞いた仲忠は、兼雅に向かってこう言う。
「父上、正頼どのをお招き下さいな」
「私がか?」
「そりゃそうでしょう」
苦笑し、兼雅は正頼を呼び入れる。その時彼は忠純を一緒に連れて来た。宜しいか、と軽く問いかけ、それにやはり、無論だとお互いに答える。
その内に、内裏の后の宮から九日の産養の祝いが届けられる。
産養には白いもの、の例のごとく、銀の衝重が十二。
そしてまた銀の坏。
その上に唐綾の覆いが六。
破子くらいの大きさの食器が積んだ折櫃に沢山入っている。
*
また東宮に仕えている仲忠の妹、梨壺の君からも祝いが届いた。
物が一斗ばかり入る金の甕が二つ。
黄ばんだ色紙で覆われたその一つには蜂蜜、もう一つには甘葛が入っていた。
また、紅葉の造り枝につけた銀細工の鯉が二つ。これがまた生きているかの様に精巧である。
そして瑠璃色の大きな餌袋三つ。
この中の一つには銀の銭を。
一つは黒方を乾し魚などの食べ物の様に見せかけたもの。
そしてもう一つは沈を小鳥の様に見せかけたもの。上に鳥の羽根を集めて、青い薄様を一襲づつ覆って結われていた。
そこに唐製の紫色の薄様一襲に包まれた文が、紫苑の造り枝に付けられていた。
仲忠はおや、と思って手に取る。
「ご無沙汰がちで心許なく、心配しておりました。
ずいぶんお見えにならないので不思議だと思っておりましたが、やっと昨日、それはご無理も無いことだと判りました。
ちなみにこの鳥は、
―――きょうだいのあなたの慶びを祝うために草原まで探して取ってきた鳥ですよ―――
もっと早くおっしゃってくれていれば、大鳥を探してきましたのに!」
正頼はそれを見て仲忠に問いかける。
「何処からかね? ずいぶんと色っぽい文に見えるが」
「何言ってるんですか。梨壺の僕の! 妹からです」
「お、そうなのか」
兼雅もそれを聞きつける。
「だったら私にも見せてくれないか」
どうぞ、と仲忠は渡す。受け取った兼雅はしげしげとそれを見てつぶやく。
「ふぅん、ずいぶんと大人らしい文を書く様になったものだなあ……」
あなたの娘でしょう、と仲忠は嫌味の一つも言いたかったが。
やがて、東宮に仕える左大臣の姫、麗景殿の君からのお祝いもやって来る。
物が二斗ばかり入る銀の桶が二つ。それぞれ、やはり銀の杓子を添えて、白い米の粥がと赤い小豆の粥が入っていた。
また銀の盥八つには、粥のおかずとして、魚料理が四種類、精進料理が四種類。
大きな沈の折櫃に、黄金の大小の食器と小さな銀の箸を添えて入れてあった。
ここでも仲忠に宛てて文があった。
「とりあえずはこの麗景殿の君からの粥を皆で食べましょう」
と仲忠は添えて寄越した器に盛って、皆に分け与えた。
彼はその間に梨壺の君への返事を書く。
「御文をありがとう。ずいぶんそちらへは行けなかったので、気にはなっていたのだけど。
けど『昨日』というのは、誰が言ったのかな。流行りの大鳥の歌のことをあれこれ言う様な人達だった?
君の心はとても嬉しかったのだけど、僕の女一宮のことを気に掛けてくれなかったのは少し悲しいな。
―――野辺に棲んでいる多くの鳥よりも、水の中で番として育った亀の御祝いは珍しく嬉しかったけどね」
それを装束の被物をした者に、別の禄を与えて帰した。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
番太と浪人のヲカシ話
井田いづ
歴史・時代
木戸番の小太郎と浪人者の昌良は暇人である。二人があれやこれやと暇つぶしに精を出すだけの平和な日常系短編集。
(レーティングは「本屋」のお題向け、念のため程度)
※決まった「お題」に沿って777文字で各話完結しています。
※カクヨムに掲載したものです。
※字数カウント調整のため、一部修正しております。
新人女房・橘綾子の嘆き
垂水わらび
歴史・時代
時は平安。
三条天皇が、後一条天皇に譲位した頃のことである。
太皇太后・藤原彰子に仕える女房たちのうち、紫式部はまだ「源氏物語」を、赤染衛門は「栄花物語」を書き続けていた。
その頃、橘綾子(たちばなのあやこ)という少女が、新たに彰子に出仕したのである。
百人一首の和歌をモチーフにした、軽いコメディです。
登場人物をもう少し詳しく説明します。
女房連中について。
主人公の橘綾子(たちばなのあやこ)の父親は橘道貞。母親が例のお人。綾子の名前は、架空です。
仲良しの藤原賢子(ふじわらのかたいこ)の父親は藤原宣孝。母親は藤式部(紫式部)後の大弐三位。
もう一人つるんでいる大江匡子(おおえのまさこ)の父親は大江匡衡。母親は赤染衛門。
綾子と賢子の指導役の、小馬命婦(こまのみょうぶ)の父親は藤原棟世。母親は清少納言。
皇太后(後の太皇太后)は、一条天皇の中宮・藤原彰子。父親は藤原道長。
一条天皇は、三条天皇に譲位しますが、三条天皇の父親は冷泉天皇で、円融天皇の息子の一条天皇とは従兄弟関係にあります。三条天皇が譲位した、後一条天皇は、一条天皇と彰子の子です。
匡子が仕える中宮(後の皇太后)は、三条天皇の中宮の藤原妍子で、彰子の妹にあたります。
左府、左大臣と名前だけ出てくるのが、彰子・妍子の父親の藤原道長。
道長を支えた「四納言」の一人が藤原公任で、その息子が綾子に恥をかかされた定頼。実は大弐三位こと、藤原賢子と関係を持ちました。それはまた後のお話。
綾子の方は、道長の五男の、藤原教通と関係を持ちます。
高階のお嬢さんというのは、後々継子の孝標女にねだられて「源氏物語」を懸命に思い出してくれる、あの継母です。これもまた後のお話。
写真は、和泉式部と言えば、貴船神社。ということで、貴船神社のそばの川です。
うつほ物語②~仲忠くんの母上が尚侍になるはなし
江戸川ばた散歩
歴史・時代
「源氏」以前の長編古典ものがたり「うつほ物語」をベースにした、半ば意訳、半ば創作といったおはなし。
男性キャラの人物造形はそのまま、女性があまりにも扱われていないので、補完しつつ話を進めていきます。
……の続きで「初秋」もしくは「内侍のかみ」という巻を中心とした番外の様な。
仲忠くんの母君にまだ心を残している帝とのおはなし。
蛍の使い方が源氏物語に影響もたらしている様な気がします。
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし
佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。
貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや……
脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。
齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された——
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
三賢人の日本史
高鉢 健太
歴史・時代
とある世界線の日本の歴史。
その日本は首都は京都、政庁は江戸。幕末を迎えた日本は幕府が勝利し、中央集権化に成功する。薩摩?長州?負け組ですね。
なぜそうなったのだろうか。
※小説家になろうで掲載した作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる