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落ちてきた場所を探して(帝国を終わらせるために)
第115話 霧、夜の海、月がかさをかぶる
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ユカリは慌ててバランスを取ろうとする。
「何をしてるの」
「いや、さすがこの地域だな。水もそう冷たくはない」
「そりゃ、こないだ居た所とは違うだろ」
「いや、それだけではなく……」
ナギはそうつぶやくと、自分の襟のタイに手を伸ばした。何を、とユカリは思う。だが、そうするとは思わなかった。
するり、とタイが彼女の襟から抜ける。
そのタイを、縄の続きにつけようとでもいうのだろうか。そう彼が思った時だった。
彼女はぷちぷちと、服のボタンを外し始めた。大きな襟、大きな袖、幾つもついた袖のカフスをそれぞれ身体から取り去ろうとしていた。
その服のふくらみのせいか、普段は気にもしなかったが、彼女の身体の線が、月明かりにも露わになる。内着は首から腕からその肌にぴったりとくっつき、色が濃くなかったら、夜目では着ていないかの様に思わせるだろう。
それだけではなく、彼女は腰のスナップをも外し、足割れのスカートをも脱ぎ捨てた。船の上に、瞬く間に、布の山ができる。そして靴の紐をも。
目の前に突き出された足から、紐が見る間に抜かれていく。そして、その靴から、やはり黒いぴったりとした靴下に包まれた足が現れた。
そしてその足をぶらぶらとさせ、彼女は首やら手首やらを回しだした。
「……ナギ……?」
何となく、彼は彼女が何をしようとしているのか、判る様な気がした。
「まさか、あなた」
泳ぐ気なのか、と言う言葉がどうしても彼の口からは出てこなかった。言ったら最後、それが本当になってしまう様な気がする。
「何を驚いている?」
「だって、そりゃあなたは、そう簡単には傷つかないのかもしれないけれど…… 溺れたら死ぬよ?」
「溺れるとは限らないだろう?」
「だけど、昼間の湖じゃないんだ。夜の海なんだよ?」
「判ってる」
「だけど」
「いずれにしても、一度は海に入る気だったよ、私は」
ゆっくりと彼女は、すり寄る様にしてユカリに近づく。
「死にはしないさ」
「だけど」
判ってはいるのだ。自分がどう言ったところで、彼女の行動を止めることはできない。このどう見ても少女にしか見えない女性の。
「ほら」
ナギはユカリのそばまで寄ると、中腰になって彼の頭を抱きしめた。さほど大きくない胸が、それでも柔らかく彼の額に触れる。頬に触れる。人形じゃない。生身の女性だ。
「見ていてくれ。何が起こるのか、私にも判らないんだ。だがここいらに居るだけなら、あなたは大丈夫だろう」
「ナギ」
「頼むぞ」
彼女はそう言って、ひらりと小舟の外に躍り出た。船が一瞬減った重量にがくん、と動く。そしてその後に、水音がした。
「ナギ!」
彼は身を乗り出して、しぶきを上げる水面を見つめた。何処で習ったのだろう、彼女はすいすいと手を動かし足を動かし、泳いでいく。
だがさほどの距離では無いのに、その彼女の上げる水しぶきが、見えなくなった。
ユカリは目をこすって、もう一度と前方を凝視する。
しかし、目の錯覚ではなかった。そこには、水しぶきどころか、水面の揺れすら無くなっていた。
はっ、と気づいて彼は、辺りを見渡した。空を見渡した。月がかさをかぶっている。空気の密度が、変わっているのだ。
頬にすれ違う大気が、ひどく水気をはらんでいる様な気がする。つ、と頬に触れると、ぬるりと水が指先につく。服も何処となく、湿っぽく感じられる。
何が起こったんだ、と彼は姿勢はそのままに、ゆっくりと周囲を見渡す。
ぼんやりと――― 白い。
それまでの、月明かりだけが鋭く光るような、そんな透明な大気ではない。
霧だ。
危険信号が自分の中に鳴り響く。
だがここでどうこうすることもできない。彼はただひたすら目を凝らす。
ナギが何をしようとしているのか自分には判らない。いや、この海の何処かにあるだろう「落ちてきた場所」を探しに行こうとしていたことは判る。何処にあるともしれない……
いやそれだけではない。たとえ、その所在が判っていたとしても、「落ちてきた場所」の正体を想像もできない。
果たして、彼女は近づいても平気なものなのだろうか。
聞いておけば良かった、と彼は思った。皇太后さまに。この仕事の、本当の意味を。相手にするものを。それはナギにとって危険なものではないのか。危険だったら。
考えがだんだん頭の中で、ぐるぐると回り始めるのが判る。
思わず頭を抱えて、櫂から手を離す。だがその櫂すらも、水の中に沈むことなく、ねっとりとしたジェリーに差し込んだ時のように、その場にとどまっていた。
背中に、悪寒が走る。それは彼の知っている「海」や「湖」ではなかった。
「ナギ……」
彼は思わずつぶやく。
「ナギ!」
その声が大きく、高くなる。
彼は怖かった。どうしようもなく、怖かったのだ。
今まで、どんな仕事をしても、こんな感情は無かった。確かに手強い相手は居た。難しい仕事もあった。
しかしそれはあくまで、自分の理解できる範囲のものだった。こんな、訳の分からない白い霧の中で、身動きできないなんてことは、無かったのだ。
彼は頭を思い切りかきむしった。くしゃくしゃになるわ、と女性達は言った。だがそんなことを言っている場合ではない。
「何をしてるの」
「いや、さすがこの地域だな。水もそう冷たくはない」
「そりゃ、こないだ居た所とは違うだろ」
「いや、それだけではなく……」
ナギはそうつぶやくと、自分の襟のタイに手を伸ばした。何を、とユカリは思う。だが、そうするとは思わなかった。
するり、とタイが彼女の襟から抜ける。
そのタイを、縄の続きにつけようとでもいうのだろうか。そう彼が思った時だった。
彼女はぷちぷちと、服のボタンを外し始めた。大きな襟、大きな袖、幾つもついた袖のカフスをそれぞれ身体から取り去ろうとしていた。
その服のふくらみのせいか、普段は気にもしなかったが、彼女の身体の線が、月明かりにも露わになる。内着は首から腕からその肌にぴったりとくっつき、色が濃くなかったら、夜目では着ていないかの様に思わせるだろう。
それだけではなく、彼女は腰のスナップをも外し、足割れのスカートをも脱ぎ捨てた。船の上に、瞬く間に、布の山ができる。そして靴の紐をも。
目の前に突き出された足から、紐が見る間に抜かれていく。そして、その靴から、やはり黒いぴったりとした靴下に包まれた足が現れた。
そしてその足をぶらぶらとさせ、彼女は首やら手首やらを回しだした。
「……ナギ……?」
何となく、彼は彼女が何をしようとしているのか、判る様な気がした。
「まさか、あなた」
泳ぐ気なのか、と言う言葉がどうしても彼の口からは出てこなかった。言ったら最後、それが本当になってしまう様な気がする。
「何を驚いている?」
「だって、そりゃあなたは、そう簡単には傷つかないのかもしれないけれど…… 溺れたら死ぬよ?」
「溺れるとは限らないだろう?」
「だけど、昼間の湖じゃないんだ。夜の海なんだよ?」
「判ってる」
「だけど」
「いずれにしても、一度は海に入る気だったよ、私は」
ゆっくりと彼女は、すり寄る様にしてユカリに近づく。
「死にはしないさ」
「だけど」
判ってはいるのだ。自分がどう言ったところで、彼女の行動を止めることはできない。このどう見ても少女にしか見えない女性の。
「ほら」
ナギはユカリのそばまで寄ると、中腰になって彼の頭を抱きしめた。さほど大きくない胸が、それでも柔らかく彼の額に触れる。頬に触れる。人形じゃない。生身の女性だ。
「見ていてくれ。何が起こるのか、私にも判らないんだ。だがここいらに居るだけなら、あなたは大丈夫だろう」
「ナギ」
「頼むぞ」
彼女はそう言って、ひらりと小舟の外に躍り出た。船が一瞬減った重量にがくん、と動く。そしてその後に、水音がした。
「ナギ!」
彼は身を乗り出して、しぶきを上げる水面を見つめた。何処で習ったのだろう、彼女はすいすいと手を動かし足を動かし、泳いでいく。
だがさほどの距離では無いのに、その彼女の上げる水しぶきが、見えなくなった。
ユカリは目をこすって、もう一度と前方を凝視する。
しかし、目の錯覚ではなかった。そこには、水しぶきどころか、水面の揺れすら無くなっていた。
はっ、と気づいて彼は、辺りを見渡した。空を見渡した。月がかさをかぶっている。空気の密度が、変わっているのだ。
頬にすれ違う大気が、ひどく水気をはらんでいる様な気がする。つ、と頬に触れると、ぬるりと水が指先につく。服も何処となく、湿っぽく感じられる。
何が起こったんだ、と彼は姿勢はそのままに、ゆっくりと周囲を見渡す。
ぼんやりと――― 白い。
それまでの、月明かりだけが鋭く光るような、そんな透明な大気ではない。
霧だ。
危険信号が自分の中に鳴り響く。
だがここでどうこうすることもできない。彼はただひたすら目を凝らす。
ナギが何をしようとしているのか自分には判らない。いや、この海の何処かにあるだろう「落ちてきた場所」を探しに行こうとしていたことは判る。何処にあるともしれない……
いやそれだけではない。たとえ、その所在が判っていたとしても、「落ちてきた場所」の正体を想像もできない。
果たして、彼女は近づいても平気なものなのだろうか。
聞いておけば良かった、と彼は思った。皇太后さまに。この仕事の、本当の意味を。相手にするものを。それはナギにとって危険なものではないのか。危険だったら。
考えがだんだん頭の中で、ぐるぐると回り始めるのが判る。
思わず頭を抱えて、櫂から手を離す。だがその櫂すらも、水の中に沈むことなく、ねっとりとしたジェリーに差し込んだ時のように、その場にとどまっていた。
背中に、悪寒が走る。それは彼の知っている「海」や「湖」ではなかった。
「ナギ……」
彼は思わずつぶやく。
「ナギ!」
その声が大きく、高くなる。
彼は怖かった。どうしようもなく、怖かったのだ。
今まで、どんな仕事をしても、こんな感情は無かった。確かに手強い相手は居た。難しい仕事もあった。
しかしそれはあくまで、自分の理解できる範囲のものだった。こんな、訳の分からない白い霧の中で、身動きできないなんてことは、無かったのだ。
彼は頭を思い切りかきむしった。くしゃくしゃになるわ、と女性達は言った。だがそんなことを言っている場合ではない。
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