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第44話 皇太后カラシュとナギの顔合わせ
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馬車の迎えが来たのは朝早くだった。ホロベシ男爵邸から、たった一人、上等な馬車で帝都内を突っ切り、そしてまだ入ったこともない皇宮へやってきた。黒夫人がここに滞在していると聞いたからだ。
長い長い道、森を幾つか抜けて、ようやくたどり着いたのが、その赤煉瓦の館、芙蓉館だった。
そして通された間で待っていたのは、黒夫人ではなく、皇太后だったのだ。
もちろんナギは当初その正体を知らなかった。皇太后については、まだ彼女が皇后だった頃から、その絵姿、写真、一つとして市中には出回らなかったのである。
皇帝にしても、皇太子が生まれてからその姿を描きうつしたものを公表したくらいだから、仕方がないと言えば仕方がない。現在の皇帝に関しては、皇太子がいないものだから、中央から送られる映像にも、ぼんやりとした姿しか映されない。
「よく来てくれたわ、イラ・ナギマエナ」
皇太后カラシュはにこやかにナギを出迎えた。
「……初めまして」
とりあえずナギはそう言う。そして辺りを見回し、黒夫人らしき女性がいないことに気付く。
「……確か私は黒夫人…… ラキ・セイカ・ミナセイ侯爵夫人のご招待を受けたはずですが」
「ええその通りだわ」
「なのに夫人はいらっしゃらない。これはどういうことですか?」
「確かに黒夫人が貴女を呼んだのよ。でも彼女に貴女を呼ばせたのは私。用があったのは私だわ。よろしくナギマエナ。私はエファ・カラシェイナ」
途端、ナギは眉をひそめた。その名は知っていた。そして誰よりもナギは、その名の人物がどういう姿をしているか、考えやすい者だったのだ。
「ただね、単にただの貴女を呼び寄せるとなるとやや問題があるのよ」
「問題?」
そしてその時、ドアがひどい音を立てた。思いきり、こぶしで殴っているのが判る。扉の真ん中。時には下の方からも。どうやら蹴りを入れたらしい。
「ナギ! 居るんでしょ!」
ナギはその声に、心臓が止まるかと思った。
「あたしよ!」
ひどく切羽詰まった声で叫んでいる。名など言わなくとも判る。相棒だ。アヤカ・シラだ。
あの猫かぶりが自分などよりずっと上手い彼女が、そんなものを脱ぎ捨てている。扉に蹴りを入れるなんて、男爵令嬢のすることではない。第一中等の学生のすることではない。そんなのは、自分の前だけでしていることだった。
それなのに。
立ち上がろうとする。扉を、開けてやらなくちゃ。だけどそれは、急に肩に掛かった重みによって妨げられた。気配はなかった。だが誰かが自分の肩を、後ろから押さえつけている。そう力を込めている訳ではないのに、立ち上がれない。
「な……」
扉を叩く音が消えた。声が途切れた。
やがてこつん、と扉を軽く叩く音が聞こえた。カラシュはそれを聞くと、ナギの背後にいる者に向かい手を上げて合図した。途端、肩が軽くなった。そして振り向く。誰もいない。
カラシュはゆっくりと扉に近付く。ぎい、と音を立てて扉が開くと、そこには、ぐったりと目を閉じて、黒髪のやや大柄な女性に抱き上げられているシラが居た。
頭に血が上った。慌てて駆け寄った。
相棒は目を開かない。軽く薬品の臭いがする。眠らされている。
「別に命に別状はないから安心して」
カラシュはあっさりと言う。慣れた口調だった。
「安心?」
「別に危害を加えようというつもりはないのよ。彼女にも、貴女にも」
「……これが危害を加えてないというんですか」
声が震える。頭に血が上って、それを押さえるのに精いっぱいである。
「加えたうちに入らないでしょう?眠らせただけよ。むしろ彼女がうちの一人にしたことの方がひどいんじゃなくて?」
「彼女がしたこと?」
「うちの新しく入った娘にずいぶんなことをしてくれたようで」
「……」
ナギはシラがその「新しく入った娘」に何をしたのか、何となく予想がついた。それはおそらく自分が同じ立場に立ったら、同じことをしただろうことだった。
そしてこの家の主が、それに対してずいぶんと怒っていることも。怒り、そして、やや混乱しているのだ。
ナギはそれに対して何らかの言い訳も反論もしようとは思わなかった。おそらくその点について、この目の前の人物は決してそれに対するどんな理由も弁明も通じない。それは直感的に判ったのだ。
そもそもナギもさほどにそこに罪悪感は感じていないのだ。少なくとも、むこうはこちらを拉致している以上、抵抗は覚悟しておくべきである。不当な拉致に対する抵抗は、如何なる手段であれ、ナギには何の罪悪感もない。
「そのことについて私は何も言えません」
「そうね。紅、彼女を部屋に戻して」
長い長い道、森を幾つか抜けて、ようやくたどり着いたのが、その赤煉瓦の館、芙蓉館だった。
そして通された間で待っていたのは、黒夫人ではなく、皇太后だったのだ。
もちろんナギは当初その正体を知らなかった。皇太后については、まだ彼女が皇后だった頃から、その絵姿、写真、一つとして市中には出回らなかったのである。
皇帝にしても、皇太子が生まれてからその姿を描きうつしたものを公表したくらいだから、仕方がないと言えば仕方がない。現在の皇帝に関しては、皇太子がいないものだから、中央から送られる映像にも、ぼんやりとした姿しか映されない。
「よく来てくれたわ、イラ・ナギマエナ」
皇太后カラシュはにこやかにナギを出迎えた。
「……初めまして」
とりあえずナギはそう言う。そして辺りを見回し、黒夫人らしき女性がいないことに気付く。
「……確か私は黒夫人…… ラキ・セイカ・ミナセイ侯爵夫人のご招待を受けたはずですが」
「ええその通りだわ」
「なのに夫人はいらっしゃらない。これはどういうことですか?」
「確かに黒夫人が貴女を呼んだのよ。でも彼女に貴女を呼ばせたのは私。用があったのは私だわ。よろしくナギマエナ。私はエファ・カラシェイナ」
途端、ナギは眉をひそめた。その名は知っていた。そして誰よりもナギは、その名の人物がどういう姿をしているか、考えやすい者だったのだ。
「ただね、単にただの貴女を呼び寄せるとなるとやや問題があるのよ」
「問題?」
そしてその時、ドアがひどい音を立てた。思いきり、こぶしで殴っているのが判る。扉の真ん中。時には下の方からも。どうやら蹴りを入れたらしい。
「ナギ! 居るんでしょ!」
ナギはその声に、心臓が止まるかと思った。
「あたしよ!」
ひどく切羽詰まった声で叫んでいる。名など言わなくとも判る。相棒だ。アヤカ・シラだ。
あの猫かぶりが自分などよりずっと上手い彼女が、そんなものを脱ぎ捨てている。扉に蹴りを入れるなんて、男爵令嬢のすることではない。第一中等の学生のすることではない。そんなのは、自分の前だけでしていることだった。
それなのに。
立ち上がろうとする。扉を、開けてやらなくちゃ。だけどそれは、急に肩に掛かった重みによって妨げられた。気配はなかった。だが誰かが自分の肩を、後ろから押さえつけている。そう力を込めている訳ではないのに、立ち上がれない。
「な……」
扉を叩く音が消えた。声が途切れた。
やがてこつん、と扉を軽く叩く音が聞こえた。カラシュはそれを聞くと、ナギの背後にいる者に向かい手を上げて合図した。途端、肩が軽くなった。そして振り向く。誰もいない。
カラシュはゆっくりと扉に近付く。ぎい、と音を立てて扉が開くと、そこには、ぐったりと目を閉じて、黒髪のやや大柄な女性に抱き上げられているシラが居た。
頭に血が上った。慌てて駆け寄った。
相棒は目を開かない。軽く薬品の臭いがする。眠らされている。
「別に命に別状はないから安心して」
カラシュはあっさりと言う。慣れた口調だった。
「安心?」
「別に危害を加えようというつもりはないのよ。彼女にも、貴女にも」
「……これが危害を加えてないというんですか」
声が震える。頭に血が上って、それを押さえるのに精いっぱいである。
「加えたうちに入らないでしょう?眠らせただけよ。むしろ彼女がうちの一人にしたことの方がひどいんじゃなくて?」
「彼女がしたこと?」
「うちの新しく入った娘にずいぶんなことをしてくれたようで」
「……」
ナギはシラがその「新しく入った娘」に何をしたのか、何となく予想がついた。それはおそらく自分が同じ立場に立ったら、同じことをしただろうことだった。
そしてこの家の主が、それに対してずいぶんと怒っていることも。怒り、そして、やや混乱しているのだ。
ナギはそれに対して何らかの言い訳も反論もしようとは思わなかった。おそらくその点について、この目の前の人物は決してそれに対するどんな理由も弁明も通じない。それは直感的に判ったのだ。
そもそもナギもさほどにそこに罪悪感は感じていないのだ。少なくとも、むこうはこちらを拉致している以上、抵抗は覚悟しておくべきである。不当な拉致に対する抵抗は、如何なる手段であれ、ナギには何の罪悪感もない。
「そのことについて私は何も言えません」
「そうね。紅、彼女を部屋に戻して」
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