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第15話 「あなたの声が耳に入ると、僕は何やら訳が判らなくなる」

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 一応ノックはしたつもりだった。だいたいノックというものは、どれだけ小さかったとしても、何となし耳に響く音ではあるから、気付くはずだろう、と彼も思っていた。
 だがどうやら例外も居たらしい。ノックをしたにも関わらず、足音もちゃんとさせて歩いていったにも関わらず、その黒い長い髪を後ろでくくった下級生は、彼が近づくのにまるで気付かないらしい。
 何だかなあ、と彼は思いつつも、ピアノを一心不乱に弾いている下級生に近づいていった。手慣れた指づかいは、ここにくる前の経歴を何となしうかがわせる。
 面白く、なっていた。
 彼はそのまま声をかけることもなく、ピアノを弾く下級生の右横に立った。さすがにそこまで近づけば、気がつくだろう、と考えたのだ。だがそれでも気付くまでには数秒かかった。
 気配に気付いた様子はなかった。ちらり、と高音の鍵盤に目をやった時に視界の端に映ったのだろう、彼の大きな手に視線を走らせた時、初めてその下級生は気がついたようだった。
 弾かれたように下級生は顔を上げた。だがその目線はまだやや焦点があっていないように感じられた。
 集中しすぎで心が飛んでいるな、と彼は気付いた。芸術分野に足を踏み入れている者には、時々そういう者がいるのだ。集中力が凄まじいが、そこから現実の世界に立ち返るのにやや時間が必要な者が。
 しばらくして、ようやくその下級生はぶっきらぼうに彼に訊ねた。まだ表情は堅いままだった。
 端正な顔だ、と彼はまじまじと観察しながら思った。そして好みの顔だ、と自分自身に付け加えた。

「何か用ですか?」

 彼はちら、とアプライトのピアノの上にあった譜面に目をやる。ああそうか、こいつが合唱の伴奏をやるんだな。
 無論彼は、合唱の曲は知っていた。ちょうどこの時下級生が弾いていたのは、この士官学校で毎年必ず「合唱」をやる際には歌われるものだったのだ。だが、下級生がその事情を全て知っているとは限らなかった。彼はややかまをかけてみた。

「実は先日、俺は用事があって……」

 ふうん、と不思議そうな顔で下級生は次第に表情を緩ませた。微かに傾げた首筋に、長い髪がぱらりとかかる。何だろう、と彼は思った。妙に、目が離せない。

「一応読めるけど、ちゃんと覚えたいから……」

 すると下級生は、ああそうか、という表情になった。彼はこの下級生は事情を知らないな、とその時知った。無論彼は、既にその曲は暗譜している。簡単に歌えるのだ。
 そして下級生はそんな彼の思惑など知らずに、素直に指を動かし始めた。なめらかに指が鍵盤の上を走る。
 ところが数小節ばかり行ったところで、突然下級生はその指を止めた。
 歌を急に止められるのは、さすがに彼も好きではない。
 怒ってやってもよかったのだが、そう思って下級生を見たら、何やら様子がおかしい。
 彼は軽く姿勢を落とし、下級生の顔をのぞきこむようにして訊ねた。
 するといきなり、下級生は飛び跳ねるようにして、椅子から立ち上がった。勢いに、彼は相手の腕をあごにぶつけてしまった。
 その痛みも手伝って、さすがに彼もやや不機嫌な顔になった。

「何か俺が悪いことをしたのか?」

 すると下級生は、慌てて首を横に振った。そんなことはない、と必死で抗弁しているようにも見えた。その必死さが演技である訳はない。だがその必死さゆえに、それは彼のカンにやや障った。
 そんな風に、拒絶されたことは今までなかったのだ。
 下級生はゆっくりと近づいてくる彼から逃げるように後ずさりしていく。馬鹿だなあ、と思いながら、彼は下級生を壁際まで追いつめた。逃げる所なんかないのに。

「一体俺が何をしたっていうの?」

 下級生は首を横に振る。

「じゃ何で君は逃げるんだ?」

 再び下級生は首を横に振る。他の動作を忘れてしまったかのように。
 いくつかの問いを彼は発した。複雑なことは聞いてはいない。同じ問いのヴァリエーションを変えただけだ、と彼自身、気付いていた。だが相手があまりにも何も答えようとしないから、つい彼も意地になってしまう。
 何度も何度も横に振った首には、うっすらと汗が浮いて、長い髪を絡み付かせて、それが奇妙になまめかしい。頬は上気しているし、目も潤んでいる。
 そんなになるまで、俺が一体何をしたっていうの。
 何となく彼は自分が理不尽に扱われているような気がしていた。
 だが何度目かの詰問の末、下級生は、とうとう口を開いた。そして消えいりそうな声で、彼に向かってこう言った。

「……あなたの声が悪いんだ」

 俺の声が? 彼は思いも寄らない答えに目を丸くする。冗談じゃないか、と手を伸ばし、下級生の顔を持ち上げる。視線が合う。そしてその瞬間、ぞくりとした。

「……俺の声が?」    

 彼はたずねる。下級生は大人しくうなづいた。うなづこうとしていた。

「……あなたの声が耳に入ると、僕は何やら訳が判らなくなるんだ……」

 声が?
 何のことだか訳が判らなかった。もしかしたら、この下級生が、自分をまくために何やら浮かんだことを言っているだけかもしれない、とも思った。
 だから、もう一度同じ問いを発した。

「俺の声が?」

 すると掴んだ所から、微かな震えが伝わってきた。なるほど、確かに声に反応しているんだな、と彼は思った。感じやすい奴だ。
 何となく面白くなっていた。
 彼は相手を掴んだ指の力を少し抜くと、そのままつ、と耳の方へと移動させた。下級生の喉から細い声が漏れる。思った通り、感じやすい。
 彼は口元を軽く上げる。面白い。
 そのまま彼は下級生の首筋に指をすべらせ、鎖骨のあたりまで走らせた。さてその先に行くべきかどうか。一瞬迷ったが、何も急ぐことはないだろう、と思った。

「じゃあ仕方ないね」

 そして自分と相手の間を留めていた手を、壁から離した。
 下級生は心底安堵したような表情で、大きく息をついている。ずるずると壁に背をついたまま、その場に座り込んでいる。
 何だかひどくその様子が可愛らしく見えて、彼は思わずあはは、と声を立てて笑っていた。
 また翌日も来てやろう、と内心思ったのである。
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