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第10話 「奴の望みは全てかゼロだ」

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 その言葉の全てを理解できた訳ではない。

 HLMが生物惑星? 吸血鬼や魔物? 

 引き合いに出されたもの自体が彼には理解のできないものだった。
 だが確かに彼はその言葉に混乱した。頭の中の何処かが、ひどく冷たく、すうっと醒めていくような気がした。
 身体中に、得体の知れない悪寒と震えが走った。それに気づいてか気づかないでか、司令の視線はずっと彼の上にあった。
 答を求められている。それに気付いた時、彼は愕然とした。
 答えなくてはならないのだろうか。

「……それは……」
「それは?」

 うながされる。近付く、大きく見開かれた深い黒い瞳から、目が離せない。

「こ、こたえられません」

 そう、答えられない。禁忌事項だった。
 誰も聞いていないような夜中、友人に愚痴のように漏らすのならともかく、この第一世代の一人に軽々しく口にしてもよいことではない筈なのだ。
 Mは黙って手の中の鞭を軽く手でもてあそんだ。その動作は、何故? と彼に訊ねていた。

「……それは……」

 ひゅ、と何かが空を切る音が聞こえた。そして次の瞬間、彼は自分の頬に鋭い痛みを感じていた。司令の鞭の先は、自分の頬に突きつけられていた。

「答えろ」

 Gは息を呑んだ。蒼の麗人は、無表情のまま、軽く彼の頬に突き立てたままの鞭を揺らした。その振動が伝わるごと、彼の背筋に恐怖に似た悪寒が走った。
 だがそれは恐怖に似ているだけで、そうではないことにも彼自身気付いていた。

「お前の考えを」
「……その通りです…… 司令のおっしゃる通り……」
「何がその通りだ。言ってみろ。我らが禁忌を恐れているのか? 私の前だ。それが何であろう?」

 微かに、そのくっきりと線を描く唇が笑ったように、彼には思えた。くい、と鞭に込められた力が明らかに強くなった。

「……我々は、進化種でも神に近い存在でもなく、ただの複合生命体です」
 そして、この司令の言うことが本当なら。……レプリカが、ただの機械ではなく、何らかの生物だというのなら。機械の身体を借りただけの生物と言うのなら。

「レプリカをその意味で、追撃する資格などない者です……」

 頬に当てられていた痛みが消えた。微かに、ほんの微かにMの目が細められているように、彼には見えた。



 ―――何故自分がここでこうしているのか、彼には理解できなかった。
 ここが司令室の隣の仮眠室であることは理解できる。だがどうして自分がそこに。
 いや、経緯をどうこう言っているのではない。
 おいで、とあの蒼の麗人が手招きをした。だから部下である自分がこうしているのは、軍隊という組織の性格上、仕方がないことだった。
 だが、どうして自分がそれをよしとしているのかが、彼には全く判らなかったのだ。
 服を脱げ、と仮眠室の簡易ベッドに彼を座らせて、司令官は命じた。
 彼は言われる通りに服を取った。何をするつもりだろう、と一瞬考えた。答えは簡単なはずだった。だがそう疑問を持ってしまった。
 そしてその戸惑いは、彼の上官には、見通しのものだった。
 ゆっくりとその無表情のまま、Mは彼に近付くと、両手でぐい、と彼の顔を上げさせ、やや強引に唇を押し当てた。その見かけの優雅さからは想像もできない強引さに、彼は息を呑んだ。
 だが重ねられている唇も、絡んでくる、軟体動物のような舌も、ひどく冷たい。まるでそこには情欲の一欠片もないかのように。
 彼は混乱した。
 これほど相手が冷たいことは、初めてだった。
 友人のそれは、ひどく熱かった。相手自身がそれを欲しがっていることが、触れ合う彼にもたやすく判る程に、熱かった。彼はその声と、その熱さに酔っていた。冷静な思考はそこにはなかったし、必要ともしなかった。
 なのにどうだろう。
 彼は混乱した。
 相手の冷たさは、彼自身にもその冷静さを要求した。
 彼は自分の頭の中が不気味な程にクリアになっていくのを感じていた。嫉妬も混乱も、そこで意識を手放して眠りにつくことを許されなかった。
 
「昔私は一人のレプリカと会った」

 Mは抑揚の無い声で語る。長い黒髪が、ざらりとGの胸や首筋に落ちた。彼はその長い髪に指を絡めた。しっとりとした髪は、その身体同様、ひどく冷たく感じた。

「ひどく長い時間を一人で生きてきたのだと奴は言った。何故かと訊ねたらまだ終わっていないからだと奴は答えた」

 何のことだろう、とGは気を抜けば途切れそうになる意識の中で、言葉の意味を追いかけようとした。

 これは自分にかけられている言葉、自分だけに――― 逃してはいけない。

「生きていることは辛いかと訊ねたら当然だと答えた」
「……」
「それでは何故生きているのかと訊ねたら撒いた種は刈らねばならぬからと答えた。判るか?」
「……撒かぬ種は生えません……」

 妙なことを言ってしまった、とGはやや気恥ずかしさに顔を背ける。だがそれはすぐに司令の手によって元に戻されてしまう。
 悪くはない、と言いたげに目前の顔は笑った。凍り付いたようなその笑みに、むき出しの肩に背に腕に鳥肌が立った。それが悪寒であるのか、快感であるのか、彼には既に区別がつかなかった。

「私は奴自身に何の恨みもない。だが私は私の現在の役目上奴を追撃せねばならない。だが幸運なことにそれが奴の望みでもある。だから私は奴を追撃しなければならない」
「望み、ですか……?」
「そうだ」
「どんな……」
「奴の望みは全てかゼロだ。全てかゼロになった時初めて奴らは自分達のあるべき姿に戻ることができる。中途半端な事態など奴らは必要としない。従って我々は奴らを一掃しなくてはならないのだ。このマレエフに奴らは集結するはずだ。我々がなすべきことはあの工場ごと奴らを消し去ることなのだ」
「司令、それは!」

 急に身体を起こそうとしたため、彼の中に強い痛みが走った。
 彼は眉を寄せて、再び脱力してシーツの中に倒れこむ。Mはその様子には何の感情も動かされなかったかのように、言葉を続けた。

「この任務は母星が中央と掛け合って勝ち取ったものだ。そして母星の評議会議長が私を任命した」
「―――何故」
「この任務だけは人間なぞにそれをさせてはならないのだ」
「だけど僕達は……」
「それは我々の明日の姿であるかもしれないのだ」

 Gははっとして上官の顔を見る。

「我々が何故我々の正体を口に出すことを禁忌としていると思う? それは人間にとって忌むべきものだからだ。そして奴ら自身自分達もまたそうなる可能性のあるものだからだ」
「……」
「怖いのは我々じゃない。奴らが怖いのは我々のように人間以外のものに変わる可能性のある自分達自身なのだ」

 視線が絡む。Gはのぞき込んだその上官の瞳が、ひどく深いものであることに、初めて気が付いたような気がしていた。

「そしてこの任務の完了と共に我々の母星は中央に対し一つ貸しを作ることになるだろう。この先に必ず起こる覇権の最終闘争において」

 政治が絡んでいる。判ってはいるのだ。
 だがその言葉を聞いた時、彼は再び上官から目を逸らした。何かしら彼の中で、納得しがたいものがうごめく。
 それに気づいたのかどうか、上官は口を閉じ、代わりに彼自身を大きく動かした。揺さぶられる感覚に、Gは大きく息を吸い込み、そして呑み込んだ。
 ひどく胸が痛かった。泣くのをこらえている時の、あの痛みによく似ている、と埒もないことを考えながらも、彼の思考はそのあたりをぐるぐると回っていた。

「何も命令を受け取ったからとて一族のためとは限るまい……」

 果たしてMのつぶやきも彼の耳には入ったのかどうか。
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