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第29話 「全くあの男、昔と何も変わっとりゃせんよ」

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 ははは、とマーチ・ラビットは思わず笑ってしまう自分に半ばあきれていた。
 ブルペンで投げながら、時々マウンドの様子をうかがっているのだが、ビーダーの口元の笑みがだんだん大きくなっている様な気がするのだ。
 特にそれは、スパーギンにソロホームランを打たれてから顕著だった。くっ、とユニフォームの上着と同じ色の帽子を深めにかぶり、投げる体勢になる前に、一度打者に向かって、腰に手を当て、ビーダーは見下ろす様な視線を投げる。
 挑発してるのか、とマーチ・ラビットはややはらはらする。だがその一方で、何が起こるのか、と期待している自分も居た。
 そんな盟友と、自分自身に向かって、彼はふと笑わずにはいられなかった。
 実際、何だか判らない「わくわく」する気持ちが、じりじりと彼の中で湧きつつあるのは確かだった。
 右の手で、左の腕を押さえる。背中を、何かが押している。
 四回の裏。八番のイムレを三振に抑え、九番の、現在彼らに向かって投げているマッシュがバッターボックスに入った。
 お、とマーチ・ラビットは思う。マウンドではそう気付かなかったが、小柄な選手だった。しかも足は長いのに、胴は短い、という投手泣かせの体型だった。
 マーチ・ラビットはふと思い立って、ブルペンを出た。何だね、という顔で監督が彼の方を向いた。

「大丈夫なんですか?」
「何がだ?」
「や、何となく……」

 ふん、と鼻を鳴らし、監督はベンチにふんぞり返る。

「何が起こると思うね、ラビイ」
「何がどうって訳じゃないですがね……」

 そう、実際何が起こるか、なんて想像はできないはずなのだ。

「ただ、何となく……」

 その時、わぁぁぁぁ、と観客の声が上がった。彼ははっとしてグラウンドに視線を移した。
 そして、次の瞬間、彼はグラウンドに飛び出していた。

 ふん、と監督は姿勢も変えずに、つぶやく。

「全くあの男、昔と何も変わっとりゃせんよ」

   *

「あら、何があったのかしら」

 のんびりとした口調で、隣に座った女性はキディに問いかけた。

「何か、ストンウェル投手が、審判に向かって、判定に文句があった様ですよ」

 キディに代わって、イリジャが彼女の問いに答える。

「ああら」

 女性は呆れた様に両肩をすくめた。

「プロさんがいけないことね。このままでは退場になってしまうのではないかしら?」
「いや、そうでもない様ですよ?」

 イリジャはにやにやと笑いながら、グラウンドを指さした。

   *

「何だってあれがボールだって言うんだよっ?!」

 まずその言葉が、マーチ・ラビットの耳には飛び込んできた。まだその時には、彼はベンチの所に居たのである。
 ビーダーは主審のもとに走り寄ると、今しがた、四球の判定を下した相手に向かって、叫んだ。

「ほんの少し、外れていた」
「そんなことはない」

 ビーダーは帽子をとった。その凶悪なまでの視線が、露わになる。口元から笑みが消えていた。

「戻りなさい!」
「俺に命令するんじゃねえっ!」

 その声を聞きつけたチームメンバー達は、守備位置を離れ、様子をうかがう様にして、そろそろと近づいてきていた。彼らは皆、この男がその様な態度を取る所を見たことは無かった。何が起こるのか、予想がまるでできなかったのだ。

「全くもって、どいつもこいつもまるで変わらん」

 監督はベンチの中でつぶやく。だがそれを聞く者はいない。
 ラビイさん、とエンドローズもブルペンからも出てくる。マーチ・ラビットは、ダイヤモンドのラインぎりぎりで、事態がどう転ぶのか、タイミングをはかっていた。

「本審を侮辱するのか?」
「あれは何処をどうとったって、ストライクだ。あんたの見間違えだ」
「判定に文句があるのなら、退場してもらうが」
「退場?」

 くす、とビーダーの顔が笑みとも怒りともしれない表情に歪む。

「退場オッケーだね! でも一回その前に」

 ビーダーは主審に向かって、腕を振り上げ、殴りかかろうとして―――
 できなかった。ぐ、と腕と背中が、大きな何かで、引き留められていた。

「よお」

 背後から、マーチ・ラビットが羽交い締めにしていたのだ。

「あんたが、そうするとはねえ」
「いいから落ち着けよ」
「大人になったものだよなあ、あんたが」

 離せよ、とビーダーは腕を振り解く。そしてやってらんねえ、とつぶやくと、そのままベンチへと歩き出した。

「退場!」

 主審の声が、改めて響く。言われるまでもなく、とばかりにビーダーはさっさとベンチに入り込み、足と手を組んで座った。
 仕方ねえなあ、と監督はつぶやき、よっこいしょ、とかけ声を上げながらベンチから立ち上がった。

「ラビイ、そのままやれ!」

 ちっ、とマーチ・ラビットは舌打ちをした。いずれ交代はあるだろう、と思っていたが、こういう形とは。

「それから」

 監督は付け足す。何処からそんな声が出るんだ、というくらいの大声で、叫んだ。

「テディベァル!」
「へいよっ!」

 即座に呼ばれた青年は答える。

「サードへ行け! センターのスクェアがレフトへ、センターには先生が入れ!」

 いきなりのポジションチェンジに、驚きながらも皆、言われた位置についていく。
 なかなか事態を飲み込めないマーチ・ラビットは、とんとん、と腕をつつかれるのを感じた。エンドローズが彼のグローブを差し出していた。

「あ、ありがとう」
「頼みますよ、ラビイさん」

 頼みますよ、と言われても。
 マーチ・ラビットはボールを受け取ると、決められた数の投球練習を始めた。
 ヒュ・ホイは気楽に気楽に、と言うように、マスク越しに笑顔を向けてくる。それを見てマーチ・ラビットも笑顔を返す。
 ふとふわぁ、と声がするので彼はちら、と右を見る。と、三塁に移ったテディベァルがあくびをしていた。大丈夫だろうか、とマーチ・ラビットは思ったが、その様子は奇妙に彼の肩から力を抜かせた。
 ま、どうこう考えても仕方ないよな。彼は心中つぶやく。

「プレイ!」

 主審が試合の再開を宣言する。一塁の走者は走る様子は無い。ワインドアップから、彼は第一球を投げた。
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