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第1話 今日も今日とて物忘れは激し

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「いい加減にあきらめない?」

 相手の背中を見ながら、彼はぷし、と缶ビールのふたを開けた。少し振ってしまったのか、その途端、泡が弾けた。慌てて彼はそばのタオルを手にする。ふう。
 物が散乱している時に、水物というのはなかなか厄介だ。

「そんなに大事なものかねえ」

 彼は半ば呆れ、半ば面白がって、その低い声を相手の背中に投げる。
 すると相手は、ぱっと振り向きざま、その若草色の瞳をひらめかせた。思った通り、非常に苛々いらいらしているようだった。

「るせーなあ! ちょっと黙っててくれよっ、このでかウサギ!」

 でかウサギ、ね。相手はまた背中を向けて、作業の続きに取りかかった。
 マーチ・ラビットはこの同居人がそう自分のことを呼ぶ時にはかなり苛立っているか、切羽詰まっている時だ、ということ知っている。まあそうだろうな、と彼はビールに口をつけながら思う。
 そしてとん、とその缶をテーブルに置き、声を張り上げる。

「まあ別に俺はいいんだけどね? キディ君キミがちゃあんと、後かたづけさえしてくれればね」

 う、とキディと呼ばれた相棒は言葉を詰まらせ、手を止めた。
 ふと彼は見渡してみる。テーブルの上、床の上と言わず、荷物の入った箱とその中身、それに詰め物にしておいたくしゃくしゃに丸めたニュースペイパーが散乱していた。
 普通の家庭よりは確実に少ない。だがそれでも野郎二人がある程度の時間を一つの場所で暮らしていれば、それなりに物は増えるというものだ。

「ま、一休みして茶でもどう?」

 その荷物の中から出した黒いカップに、中身を入れて彼は差し出す。
 嫌みかよ、とキディは少しばかりむっとするが、中身がちゃんと自分仕様にやや冷ましたミルクティであるあたり、文句も言えない。

「仕方ないじゃん。捜し物なんだから」
「で? 今回はお前、何探してたわけ?」
「さあ」
「さあってお前ねえ」
「俺だって知るかよ。何か探すものは今朝からあったはずなんだけど、探してるうちにどっか行っちゃったんだからさ」
「またかい」
「またまた言うなよ」
「またまただからまたまたなんだよ」

 あえて、軽く流してみる。そして半分残っていたビールを飲み干す。

「そーいえば、ビール、もうこれで終わりだったけど」
「あっそ。じゃあまた持ってくるよ」
「頼むぜ」

 彼はにっこりと笑う。キディはそれを見て、何となく困った様な顔になる。

「でもなー、あんたの好きな紺色の缶の『サンライズ』は最近あまり入って来ないからさ、『ビリオン』か『チェアーズ』でいいかい?」
「あん? ああ、あの赤い缶か焦げ茶の缶の奴か? 『サンライズ』、最近お前の店に入って来ないの?」
「と言うか、何か、生産もとが最近おかしいらしい、って店長言ってたから」
「『サンライズ』の?」

 うん、とキディはうなづく。

「うん。クロシャール社。あまり詳しいことは知らないけどさ」
「ふーん、じゃあ仕方ないよなあ。うんキディ、俺はビールであれば基本的には何でもいいからさ」
「おっけー」

 言われた側ははそう言って、ミルクティの残りを飲み干した。箱はどんどん元の通りに物を詰められ、ふたを閉められていく。

「でお前、捜し物はいいの?」
「どうも今日は、もう思いだせそうにないから」

 あっそう、と彼は軽くうなづき、空いた缶とカップを持って立ち上がった。シンクに缶とカップを置きながら、またか、と改めてマーチ・ラビットは思う。
 また。それはよくあることだった。
 彼の同居人であるキディと呼ばれる青年は、よく捜し物をする。そしてその捜し物の半分は見つからない。探しているものを忘れてしまうか、探していること、を忘れてしまうか。
 いずれにせよ実は深刻なことではある。
 だがいちいち深刻になっていてはお互いが保たない。同居人より十歳は上であろう男は知っていた。
 上であろう。それは彼も知らない。彼らには、ある時点からの記憶が無い。
 彼らは元政治犯で、元脱走囚だった。



 少し前に、この惑星アルクの体制が変わった。
 いや、傍目には、大して変わっていないのかもしれない、とマーチ・ラビットは思う。
 その少し前に起きたクーデターは、結局、ほんの数年の間だけ起きていた「新たな政治体制」を旧来のものにすることで治まった。
 相変わらず政治の中心は首相と首相を中心にした内閣にあるわけだし、シビリアンコントロールは未だに有効だ。
 政治のうえで何か変わったかと言っても、所詮それは、一般レベルでは何も変わっていない。近くの青物市場の女将さんは、首府で何があったのか知らなかったが、それでも毎日変わりなく商売を続けていた。
 変わったこと。それは「帝都との関係」だったり、「もと政治犯の扱い」であったり――― その程度なのだ。
 だが彼らにしてみれば。
 元政治犯であり、「冬の惑星」と呼ばれるライ――― 同じレーゲンボーゲン星系にありながら、少しばかり外を回る極寒の惑星に流刑となっていた彼らにしてみれば、その変化は大きなことだった。
 このクーデターにより、彼らは、籍を新たに持つことが許された。
 それだけでもずいぶんな違いだろう。少なくとも、彼らは身を隠す必要からは解放されたのだ。
 ―――数年前、彼らはその流刑地から、一致団結して、脱走し、クーデターに参加した。
 その参加のおかげで、彼らの身分は保障されたのだ。
 もちろん元の籍を求めることも可能だった。ただそれには、できる者とできない者が居た。彼ら元政治犯達は、流刑地に送られる前に、記憶処理をされていたのだ。
 無論、記憶は「抹消」できるほどたやすいものではない。
 所謂「記憶処理」は脳の中で、記憶に至る道筋を混乱させる処置をされた、ということである。
 その道筋さえきちんと耕し直せば、記憶がよみがえることもあり得る。実際彼らの仲間の中には、強烈に残っていた映像を手がかりに、記憶を取り戻した者も居た。

 だけど。

 マーチ・ラビットはそのことを考えるたびに、苦笑する。

 どうやら俺は思い出したくない方らしいな。

「おーいマーティ」

 ひょい、とキディは隣の部屋から顔を出す。

「俺仕事行ってくるね」
「おう、道草食わずに帰って来いよ」
「あんたじゃあるまいし」

 このやろ、とマーチ・ラビットは言葉を投げた。

   *

「おはようございまーす」

 キディは「店」に入ると、まず大きくそんなあいさつをする。それが決まりだった。
 居酒屋だった。この街では結構大きな部類であろう。
 彼らが暮らすこの街には、地上車の大きな生産工場があった。そこから毎夕吐き出される、大量の労働者が、ここに溜まり、夕食を食べ、酒を飲み、喋り、笑い、歌い、その日の憂さをはらす。
 高い天井、白い壁、そこにはむき出しの大きな梁が生木のままその顔をのぞかせている。
 その店を通り抜けて、彼は従業員の部屋へと入って行く。既にそこには同僚が黒いギャルソンのエプロンをつけていた。

「よぉキディ、遅いじゃねえの」

 くっきりした濃い眉と、おさまりの悪い黒い髪の毛の男は、彼を見つけるとぽん、と肩を叩く。

「おはよイリジャ、悪い悪い、捜し物してたんだよ」

 そう言いながらキディは自分のロッカーを開け、白シャツ黒ズボンに、黒いエプロンを取り出す。それが彼らの制服だった。

「捜し物? ……そーいえばお前、俺から借りたキヨエE1のムジカ(musicard)、返してくれたっけ?」
「あ!」

 それだったか、とキディはぱしぱし、と自分の頬を軽く叩く。

「そーか俺、それ探してたんだ」
「何だよそれ」
「ごめんごめん、明日は必ず持ってくるって」
「お前本当に忘れっぽいよなー」

 キディは肩をすくめて、それには答えなかった。自分が忘れやすい、というのは彼もよく判っている。だが判っていたからと言ってどうなるものでもない。
 後遺症のようなものだ、と友人でやはり元政治犯だった、ドクトルKは彼にそう言ったことがある。そしてこう付け加えもした。
 特に君の場合はね。
 俺の場合がどうだっていうのだろう、とキディはその時憮然として言い返したものだった。

「帰りに手にでも書いておけよ?」

 イリジャはそう言って、軽快な足取りで一足先に店に出て行った。
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