ありがとう、さよなら。僕は彼の声ではいられなかった。

江戸川ばた散歩

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10 とりあえず去った男

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「ま、いいさ。そんな、最初からあっさりやるなんて言われたら、その方が不気味だもんなー」
「いきなり抱きつくあんたの方がよっぽど不気味だとは思わないの? ストーカーじゃないんだから!」

 ノゾエさんは悪意を込めて訊ねた。

「別に」

 男はあっさりと言う。
 僕はため息をついた。

「そこで、だ。あとりめぐみ、これをあげよう」

 男は上着のポケットから何かを取り出した。

「テープ?」

 しかも、何かいまいち趣味のよろしくないインデックスが入っている。
 黒地はいいけど、この飾り罫、装飾字体はよせ、って感じだ。
 ちょっと引きたくなる。

「これ、あんたのバンドの?」
「そ。俺のバンド。あとりめぐみ、ちょっと聞いてみてくんない? そのくらいはしてみてくれないかなあ?」
「わざわざ作ったの? 物好き……」
「や、これは配布テープって奴。客に配った奴の一つが、俺のウチにもあったから。結構いい感じで録れた奴だからさ、ね、一度聞いてみてくれね?」

 僕は黙って、そのテープのケースを表に返し裏に返す。タイトルが書かれ、その下に、……バンド名かな、これが。

「……り……? 何って読むの? ……RINGER」
「カタカナ的に読むと、リンガー。鐘鳴らし」   
「鐘鳴らし?」
「んじゃ、考えておいてくれよ!」

 金髪男はさっと手を出すと、僕を一度ぎゅっ、と抱きしめ。
 ……今度はノゾエさんがどうこう言う前に、玄関から走り出て行った。
 さすがに今度は腰を抜かすようなことは無かったけれど…… 
 硬直していたのは、言うまでもない。

「……災難だね…… アトリ君」

 全くだ、と僕は思った。



 ぱちん、と部屋の灯りをつける。
 小さな部屋。
 四畳半とまではいかないけれど、六畳一間の部屋の隅に台所がついた1K。
 地方から出てきた一人暮らしの学生としてはまあ上等。
 決して建物は新しくはないけど、台所も、小さいながらも風呂もついてはいるし。
 でもまだ、がらんとした部屋だ。
 何があるという訳でもない。
 引っ越してきた時のそう多くもない荷物が、部屋の隅の段ボールの中に大半入っている。
 服も、画材も。
 電化製品も、まだほとんどない。
 部屋の真ん中にある蛍光灯の照明も、二口コンロのガスレンジも、置き忘れられた様にここにあった。
 冷蔵庫は早く欲しい。
 仕送りはたくさんは期待できない。
 バイトはするつもりだけど、結構な費用が課題の制作費とかに消えるだろうし。
 自炊もしなくちゃ。
 親が出してくれたのは、学費と、部屋代くらいなもの。
 後は自分で稼がなくてはならない。
 食費すら。
 部屋代って言ったって、僕の地元の倍くらいするのだから、それは仕方ない。
 この部屋を今借りる分で、地元だったらあと一つ部屋が増やせて、おまけにキッチンが別になるって聞いた。
 東京に出ていくというなら、それしかしてやれない、と僕は言われた。
 それで充分だ。
 充分すぎると思う。
 だからバイトもすぐにでも捜さなくてはならないのだけど。
 はじめは反対された。
 でも押し切った。
 こんなのは、生まれて初めてだった。
 でも何でそこまで強情張ったのかは、僕にも判らない。
 だって、一応僕の育った県にもデザイン系の学校はある。
 家から通える距離に、結構な数の学校がある。
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