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第33話 マウジュシュカ夫人への願い
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何十年ぶりだろう、ここに来るのは。
マウジュシュカは将軍に支えられながら馬車から降り立ち、館を見上げ、思う。
ここは元々は彼女の親が建てた家だった。育ちもした。
だが帝都に入ることができる年になって以来、戻ったのはほんの少しの時期だった。
名家の一人娘の宿命として、どうしてもそこで相応しい人物と結婚しなくてはならなかった。さもなければ親戚の誰かを養子に取らなくてはならなかった。
何がどうという訳ではなく、近い歳の知人達がどんどん結婚して行く中、彼女は婚期が遅れていった。
そして何とかダウジバルダ・サヘと結婚し、ウリュンを産んだしばらくの間、この家には住んでいた。
だが帝都の本宅に女主人の居ない状態は宜しくなかった。その頃には両親とも亡くなっていたから特に。夫となった男は軍人で、常にあちこち飛び回っていたから特に。
やがてそこには、約束の様に男が迎えた女がやってきた。だがその女には子供を生ませる気配は無かった。
代わりに何処か似た女を連れてきて、次々と娘を生ませた。―――全てこの家で。
ウリュンはやがて十六になると帝都の本宅にやってきたが、しばらくして二番目の妻が命と引き換えに娘を生むと、その新しい妹に夢中になった。
夫はその最愛の妻の最期には間に合わなかった。ただその知らせが行っただけだった。そしてその遠征から帰った時、その手には一番小さな娘と同じくらいの子供が居た。それが何のためかはマウジュシュカはまるで気付かなかった。
―――何もかもが私の知らないところで。
ずっとそんな気持ちが彼女の中には渦巻いていた。だがこの夫を憎むことはできない。いや、憎んだこともあった。
だが顔に出す訓練ができていなかった。あまりにも自分は感情を殺しすぎていた。そしてそのうち、自分が何を感じていたのか、よく判らなくなってしまった。
ウリュンが死んで以来、それが酷く強くなった。そして更に足を痛めてからというもの、本当にただ時間が過ぎて行くばかりな気がした。
そんな自分に、夫は一体何を見せようというのだろう?
彼は既にサハヤ達に仮拵えの輿を用意させていた。
「そんなもの」
「義母上、向こうへ行くのは自分でも時々疲れるのですよ」
サハヤがそう言う。ウリュンの友だった彼は今は自分を将軍の妻だから、ということで義母と呼ぶ。本当の義母はミチャなのだろうが、何となくそれを訂正する気にもならなかった。
そしてそっと輿に乗せられ、使用人の男二人によって持ち上げられる。ふわり、と風が彼女の襟元を通っていった。
風が軽い。少しいつもよりも高い目線で見た光景は、明るかった。
こんなに広い草原だったろうか?
「何処まで行けば宜しいんですかね?」
使用人はサハヤに問いかける。
「向こうの、子供部屋に」
子供部屋? 向こう?
「うちの孫達が皆一緒くたに集まって遊んでいるということでな。儂も最近はずっと来てもいなかった……」
将軍もまた、まぶしそうに目を細めつつゆっくりと歩いて行く。遠くから子供達の高い声が耳に届く。
「義父上!」
子供部屋から気付いたイルリジーが飛び出してきた。
「おお、久しいな」
「こちらこそ。……あんな手紙を出すことになってしまい、申し訳ございません……」
「それはいい。あの娘は自分の決めたことは曲げなかった。きっと思うことあって娘をどうしても欲しかったのだろう」
「はい。そのことで今日はそちらの御方様にお願いが」
イルリジーはそう言うと、こちらへ、と輿をうながした。
子供部屋に行くのか、と思ったがどうやら違う様だった。騒ぐ子供達の声とは少し離れた場所に静かな小部屋がしつらえてあった。
そしてそこには乳母に抱かれた赤子が。輿はそこで下ろされた。すぐに椅子が用意される。
「長女のアルィアーシェです」
「……可愛らしい子ね」
マウジュシュカはぼそ、とそう声を発した。
実際生まれてからまだ少しの時間しか経っていないというのに、目鼻立ちもはっきりした綺麗な子だった。
マドリョンカも綺麗な娘だった、とふとマウジュシュカは思い出す。
言いたいことを言い、―――そして明らかに、アリカとサボンのことに怒っていた。
周囲には判らない様にではあったが、二人に対して放った言葉は、勝手にこんなことをしたことに対し一矢報いたい、気持ちに溢れていた。
「あれは、女の子が生まれたら次の皇后にしたいといつも言ってました。見目形はある程度自分達の子だから大丈夫だろう、だがそれより頭の良い子であって欲しいと」
「頭の良い子」
「その真意は自分には分かりませんが、マドリョンカはそう信じていました。だから彼女のためにも、この子には相応しい娘に育って欲しいと思うのです」
「だがしかし―――」
「ええ、判っております。奥様は直接この子と関係がある訳ではない。ですが、だからこそ、夫人の後見がこの子に欲しいのです」
「後見を、私に?」
何を言っているのだろう、と彼女は思った。
「いずれ皇太子殿下が次の皇帝陛下となられた時に、やはりいつも通り、女性が次々と送られるでしょう。ですが、ただの商人の自分では、それすらもできません。サヘ将軍家の後押しがなくては。それに」
イルリジーはここぞとばかりに言葉に力を込めた。
「宮中に上がるに相応しい――― 皇后になるのは無理だったとしても、宮中の花になることはできます。どうしても駄目だったらそれに、とマドリョンカはずっと言ってました。ですが、そのためにはそれ相応の教育が必要なのです。……残念ながら、この子の実のお祖母様では、それは与えられない」
ミチャ夫人では無理なのだ、とイルリジーは暗に含めていた。
きちんと生まれた時からの名家で育ち、貴婦人としての教育を受けてきたひとこそこの子の後見に相応しいのだ、と。
マウジュシュカは将軍に支えられながら馬車から降り立ち、館を見上げ、思う。
ここは元々は彼女の親が建てた家だった。育ちもした。
だが帝都に入ることができる年になって以来、戻ったのはほんの少しの時期だった。
名家の一人娘の宿命として、どうしてもそこで相応しい人物と結婚しなくてはならなかった。さもなければ親戚の誰かを養子に取らなくてはならなかった。
何がどうという訳ではなく、近い歳の知人達がどんどん結婚して行く中、彼女は婚期が遅れていった。
そして何とかダウジバルダ・サヘと結婚し、ウリュンを産んだしばらくの間、この家には住んでいた。
だが帝都の本宅に女主人の居ない状態は宜しくなかった。その頃には両親とも亡くなっていたから特に。夫となった男は軍人で、常にあちこち飛び回っていたから特に。
やがてそこには、約束の様に男が迎えた女がやってきた。だがその女には子供を生ませる気配は無かった。
代わりに何処か似た女を連れてきて、次々と娘を生ませた。―――全てこの家で。
ウリュンはやがて十六になると帝都の本宅にやってきたが、しばらくして二番目の妻が命と引き換えに娘を生むと、その新しい妹に夢中になった。
夫はその最愛の妻の最期には間に合わなかった。ただその知らせが行っただけだった。そしてその遠征から帰った時、その手には一番小さな娘と同じくらいの子供が居た。それが何のためかはマウジュシュカはまるで気付かなかった。
―――何もかもが私の知らないところで。
ずっとそんな気持ちが彼女の中には渦巻いていた。だがこの夫を憎むことはできない。いや、憎んだこともあった。
だが顔に出す訓練ができていなかった。あまりにも自分は感情を殺しすぎていた。そしてそのうち、自分が何を感じていたのか、よく判らなくなってしまった。
ウリュンが死んで以来、それが酷く強くなった。そして更に足を痛めてからというもの、本当にただ時間が過ぎて行くばかりな気がした。
そんな自分に、夫は一体何を見せようというのだろう?
彼は既にサハヤ達に仮拵えの輿を用意させていた。
「そんなもの」
「義母上、向こうへ行くのは自分でも時々疲れるのですよ」
サハヤがそう言う。ウリュンの友だった彼は今は自分を将軍の妻だから、ということで義母と呼ぶ。本当の義母はミチャなのだろうが、何となくそれを訂正する気にもならなかった。
そしてそっと輿に乗せられ、使用人の男二人によって持ち上げられる。ふわり、と風が彼女の襟元を通っていった。
風が軽い。少しいつもよりも高い目線で見た光景は、明るかった。
こんなに広い草原だったろうか?
「何処まで行けば宜しいんですかね?」
使用人はサハヤに問いかける。
「向こうの、子供部屋に」
子供部屋? 向こう?
「うちの孫達が皆一緒くたに集まって遊んでいるということでな。儂も最近はずっと来てもいなかった……」
将軍もまた、まぶしそうに目を細めつつゆっくりと歩いて行く。遠くから子供達の高い声が耳に届く。
「義父上!」
子供部屋から気付いたイルリジーが飛び出してきた。
「おお、久しいな」
「こちらこそ。……あんな手紙を出すことになってしまい、申し訳ございません……」
「それはいい。あの娘は自分の決めたことは曲げなかった。きっと思うことあって娘をどうしても欲しかったのだろう」
「はい。そのことで今日はそちらの御方様にお願いが」
イルリジーはそう言うと、こちらへ、と輿をうながした。
子供部屋に行くのか、と思ったがどうやら違う様だった。騒ぐ子供達の声とは少し離れた場所に静かな小部屋がしつらえてあった。
そしてそこには乳母に抱かれた赤子が。輿はそこで下ろされた。すぐに椅子が用意される。
「長女のアルィアーシェです」
「……可愛らしい子ね」
マウジュシュカはぼそ、とそう声を発した。
実際生まれてからまだ少しの時間しか経っていないというのに、目鼻立ちもはっきりした綺麗な子だった。
マドリョンカも綺麗な娘だった、とふとマウジュシュカは思い出す。
言いたいことを言い、―――そして明らかに、アリカとサボンのことに怒っていた。
周囲には判らない様にではあったが、二人に対して放った言葉は、勝手にこんなことをしたことに対し一矢報いたい、気持ちに溢れていた。
「あれは、女の子が生まれたら次の皇后にしたいといつも言ってました。見目形はある程度自分達の子だから大丈夫だろう、だがそれより頭の良い子であって欲しいと」
「頭の良い子」
「その真意は自分には分かりませんが、マドリョンカはそう信じていました。だから彼女のためにも、この子には相応しい娘に育って欲しいと思うのです」
「だがしかし―――」
「ええ、判っております。奥様は直接この子と関係がある訳ではない。ですが、だからこそ、夫人の後見がこの子に欲しいのです」
「後見を、私に?」
何を言っているのだろう、と彼女は思った。
「いずれ皇太子殿下が次の皇帝陛下となられた時に、やはりいつも通り、女性が次々と送られるでしょう。ですが、ただの商人の自分では、それすらもできません。サヘ将軍家の後押しがなくては。それに」
イルリジーはここぞとばかりに言葉に力を込めた。
「宮中に上がるに相応しい――― 皇后になるのは無理だったとしても、宮中の花になることはできます。どうしても駄目だったらそれに、とマドリョンカはずっと言ってました。ですが、そのためにはそれ相応の教育が必要なのです。……残念ながら、この子の実のお祖母様では、それは与えられない」
ミチャ夫人では無理なのだ、とイルリジーは暗に含めていた。
きちんと生まれた時からの名家で育ち、貴婦人としての教育を受けてきたひとこそこの子の後見に相応しいのだ、と。
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