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第31話 マウジュシュカ夫人の日々
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女中頭は続けた。
「ウリュン様がお亡くなりになった後も、奥様は気丈に振る舞われていました。ですがそれは旦那様がいらしたからです。旦那様が遠征に出られた後は気が抜けた様に一日を過ごすことも多く」
まさか、と将軍は思った。今まであの妻がその様な行動を取るとは考えもしたことがなかったのだ。
「そんな折に、階段を踏み外して…… 実際に落ちたのは二、三段というところですが、……奥様はもうそれなりのお歳ですし、まして大柄なふっくらとした体型です。足に負担がかかる様になりました」
「悪いできものとはそれが原因か?」
「いえ、それが直接という訳ではない、とお医者様は仰有いました。その時には足首の骨にひびが入ったくらいでした。骨が弱くなっておられたので、くじくくらいでは済まなかったのです。そしてその時に怪我をした方の足をかばうことが多くなってしまったのでございます」
ああ、と彼は気付いた。怪我をした兵士が片側をかばう様になったために、身体のバランスを崩してしまったことはたびたび起こることだ。
だが彼等はある程度の不自由は必要に迫られれば何とか克服していく。そして若い。なおかつ金が必要だ。生きてこそそれは手に入る。
だが妻は。マウジュシュカにはどうだろうか。
決して疎んじていた訳ではないが、ある程度以上、形ばかりの夫婦をやってきたという自覚はある。ただそれは彼女も納得づくのものだろうと思っている。―――おそらく。
そして何と言ってもたった一人の息子がもう居ない。
「ウリュンが死んだのがやはりそれだけ堪えたのだろうか」
「さてどうなのでしょう。ともかく、奥様にもう少し親身になっていただけないでしょうか。日に日に何もやる気が無くなって行くようで。あの奥様が、と思うと私共も酷く悲しくなってしまうのでございます」
「あれは、お前達には」
「無愛想ではございますが、公平で優しい方です」
長い付き合いであろう女中頭はずばりと言う。
「もう四十年近く勤めておりますゆえ、あの方の性格もよく存じ上げております。気位の高い方であるので、自分の弱みを見せぬ様に、どうしてもなってしまうのです。お若い頃、やはりまだ見習いの私にこぼしていたことがあります。あの方はご自分が一人娘であったこと、婿を取らねば跡を継げないことを酷く辛そうにこぼしておりました」
「結婚はあれの意思ではなかった、と」
「―――と言うより、あの方はご実家をご自分で継いで切り盛りしたかったのでしょう。ですが今は旦那様の家の女主人ということになってしまっております」
「儂にはその違いが今一つわからんが」
「旦那様がお嫌いな訳ではないのです。むしろご結婚の話が出た時には、他の青瓢箪などに比べればずいぶん頼りがいのある男だ、と褒めておりましたから。その後のことは、まあその後のことですが……」
女中頭は、暗に将軍が第二、第三夫人を娶ったことを非難していた。
「無論旦那様には旦那様のご事情があるのは判っております。結果として、この家が今後も安泰であるのは、現在皇后陛下がこの家から出たということもありますし、それがお亡くなりになったあの方のお嬢様であることも判ってはおります。ですが」
「それだけでは、割り切れないか」
「はい」
それは仕方がない、と彼は思った。向こうもこっちにも事情があり、承知の上で結婚したのだ。
「せめてウリュンが生きていれば」
「本当に、それは私もそう思います」
しみじみと女中頭は言う。
「ただ、若様は正直言って軍人には向いていなかったと、私は思います」
「……儂もそう思う。だが将軍の息子が、軍人以外のものになるというのは、それこそ人並みの体力知力がある男としては、当然のことなのだ」
「しかしむしろ若様は、……サハヤ様のような、後方支援の方が」
「言うな」
失礼しました、と彼女は頭を下げた。
*
扉を叩く音にマウジュシュカ夫人は顔を上げた。
「どうぞ」
「足の具合はどうだ」
「……」
聞かれましたか、とも彼女は夫には格別に言わない。来たのならそうなのだろう、と考えるのみだ。
「右膝にできものが。このままだと膝から上を切らないと危ないと言われました」
「いつ」
「半年前です」
「……何故知らせなかった」
「誰も亡くなった訳でなし。貴方に無駄に気を回されるのも何でしたので」
それは本音である。実際、最近はずっと長椅子に沢山クッションを用意したり、そうでなければ足台を運ばせている。
「痛むのだろう?」
「痛みますが、病であるなら仕方がないでしょう」
「すぐに処置してもらえ」
「嫌です」
そこはびしゃりと言った。
「何故だ」
「治っても、自由に動けるという訳ではありません。ウリュンが居ない今、あの子の花嫁を探すという楽しみも無くなりました。それがあったなら、何かしらこの先もずっと生きていようという気にもなるのですが、今はその気力というものがまるで起きないのです」
「……」
確かに。彼女は気力を無くしている。息子でなく娘だったらどうだろう? ふと彼は思う。
そして一つ思いつく。
「……儂としては何かしらの治療を受けて欲しい」
「何故ですか」
「皆、儂を置いていってしまう」
「それは私も同様です」
「そしてお前も私を置いていくというのか」
「私は常に貴方が遠征先で命を落とすのではないかと思っていました。覚悟の問題です」
「ああ本当だ。男は本当にこういう時に弱い。だがお願いだ。……少しだけでいい。今度一緒に副帝都の、トモレコルの家に行ってくれないか」
「マドリョンカの」
「そうだ。そして」
生まれた女の子を見てほしい、と将軍は思った。
「ウリュン様がお亡くなりになった後も、奥様は気丈に振る舞われていました。ですがそれは旦那様がいらしたからです。旦那様が遠征に出られた後は気が抜けた様に一日を過ごすことも多く」
まさか、と将軍は思った。今まであの妻がその様な行動を取るとは考えもしたことがなかったのだ。
「そんな折に、階段を踏み外して…… 実際に落ちたのは二、三段というところですが、……奥様はもうそれなりのお歳ですし、まして大柄なふっくらとした体型です。足に負担がかかる様になりました」
「悪いできものとはそれが原因か?」
「いえ、それが直接という訳ではない、とお医者様は仰有いました。その時には足首の骨にひびが入ったくらいでした。骨が弱くなっておられたので、くじくくらいでは済まなかったのです。そしてその時に怪我をした方の足をかばうことが多くなってしまったのでございます」
ああ、と彼は気付いた。怪我をした兵士が片側をかばう様になったために、身体のバランスを崩してしまったことはたびたび起こることだ。
だが彼等はある程度の不自由は必要に迫られれば何とか克服していく。そして若い。なおかつ金が必要だ。生きてこそそれは手に入る。
だが妻は。マウジュシュカにはどうだろうか。
決して疎んじていた訳ではないが、ある程度以上、形ばかりの夫婦をやってきたという自覚はある。ただそれは彼女も納得づくのものだろうと思っている。―――おそらく。
そして何と言ってもたった一人の息子がもう居ない。
「ウリュンが死んだのがやはりそれだけ堪えたのだろうか」
「さてどうなのでしょう。ともかく、奥様にもう少し親身になっていただけないでしょうか。日に日に何もやる気が無くなって行くようで。あの奥様が、と思うと私共も酷く悲しくなってしまうのでございます」
「あれは、お前達には」
「無愛想ではございますが、公平で優しい方です」
長い付き合いであろう女中頭はずばりと言う。
「もう四十年近く勤めておりますゆえ、あの方の性格もよく存じ上げております。気位の高い方であるので、自分の弱みを見せぬ様に、どうしてもなってしまうのです。お若い頃、やはりまだ見習いの私にこぼしていたことがあります。あの方はご自分が一人娘であったこと、婿を取らねば跡を継げないことを酷く辛そうにこぼしておりました」
「結婚はあれの意思ではなかった、と」
「―――と言うより、あの方はご実家をご自分で継いで切り盛りしたかったのでしょう。ですが今は旦那様の家の女主人ということになってしまっております」
「儂にはその違いが今一つわからんが」
「旦那様がお嫌いな訳ではないのです。むしろご結婚の話が出た時には、他の青瓢箪などに比べればずいぶん頼りがいのある男だ、と褒めておりましたから。その後のことは、まあその後のことですが……」
女中頭は、暗に将軍が第二、第三夫人を娶ったことを非難していた。
「無論旦那様には旦那様のご事情があるのは判っております。結果として、この家が今後も安泰であるのは、現在皇后陛下がこの家から出たということもありますし、それがお亡くなりになったあの方のお嬢様であることも判ってはおります。ですが」
「それだけでは、割り切れないか」
「はい」
それは仕方がない、と彼は思った。向こうもこっちにも事情があり、承知の上で結婚したのだ。
「せめてウリュンが生きていれば」
「本当に、それは私もそう思います」
しみじみと女中頭は言う。
「ただ、若様は正直言って軍人には向いていなかったと、私は思います」
「……儂もそう思う。だが将軍の息子が、軍人以外のものになるというのは、それこそ人並みの体力知力がある男としては、当然のことなのだ」
「しかしむしろ若様は、……サハヤ様のような、後方支援の方が」
「言うな」
失礼しました、と彼女は頭を下げた。
*
扉を叩く音にマウジュシュカ夫人は顔を上げた。
「どうぞ」
「足の具合はどうだ」
「……」
聞かれましたか、とも彼女は夫には格別に言わない。来たのならそうなのだろう、と考えるのみだ。
「右膝にできものが。このままだと膝から上を切らないと危ないと言われました」
「いつ」
「半年前です」
「……何故知らせなかった」
「誰も亡くなった訳でなし。貴方に無駄に気を回されるのも何でしたので」
それは本音である。実際、最近はずっと長椅子に沢山クッションを用意したり、そうでなければ足台を運ばせている。
「痛むのだろう?」
「痛みますが、病であるなら仕方がないでしょう」
「すぐに処置してもらえ」
「嫌です」
そこはびしゃりと言った。
「何故だ」
「治っても、自由に動けるという訳ではありません。ウリュンが居ない今、あの子の花嫁を探すという楽しみも無くなりました。それがあったなら、何かしらこの先もずっと生きていようという気にもなるのですが、今はその気力というものがまるで起きないのです」
「……」
確かに。彼女は気力を無くしている。息子でなく娘だったらどうだろう? ふと彼は思う。
そして一つ思いつく。
「……儂としては何かしらの治療を受けて欲しい」
「何故ですか」
「皆、儂を置いていってしまう」
「それは私も同様です」
「そしてお前も私を置いていくというのか」
「私は常に貴方が遠征先で命を落とすのではないかと思っていました。覚悟の問題です」
「ああ本当だ。男は本当にこういう時に弱い。だがお願いだ。……少しだけでいい。今度一緒に副帝都の、トモレコルの家に行ってくれないか」
「マドリョンカの」
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