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第3話 乳母としての育て方
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「母上の目指しているものを、父上はどうお思いなんだろ……」
学問所で勧められた書物を、今ひとつラテは興味が持てない様だとフェルリは思った。実際面白くないと彼も思う。
気がつくと広げたまま、視線は乳母子と乳母の間を彷徨っている。ちょうど今、エガナが二人のために新しい襟巻きを編んでいるところだから、気がそっちに向いても仕方がない。
もうじき空気が冷たい季節になる。冷たい風が山から高い壁の無い副帝都には吹き抜けて行く。
エガナは二人と一緒に市へ行き、どんな色がいいのか選ばせた。
そして二人一緒にできあがる様に調整しながら編んでいる。
この頃は既に鉤だけでなく、ただ真っ直ぐな棒でふんわりと編む方法も、非常に細い糸、細い棒、細かい目で伸び縮みする靴下なども作られる様になった。
ただ無論それは手作りか、依頼されて作る高級品だったが……
糸の種類もずいぶんと増えた。色も同様に。
「このきっかけもあの方なのよ」
エガナは「二人の息子」に糸屋でそう説明した。
楽しそうに糸や棒を選ぶ女性や、飾り編みの職人の作った見本が貼られた壁、細かすぎて目がちかちかする、とラテは一つの作品を見て言ったことがある。
この時エガナが選んだのは、ふんわりとした糸だった。
「好きな色を選んでね。でも違う色がありがたいわ。洗濯する時にわかりやすいし」
彼女はいつも因果関係をはっきりさせて二人に伝える。その一方で、「わけのわからないもの」への理解もあった。
「母さんはあまり字は読めないから、習った物語があったら、読んで欲しいわ」
そう彼等を文字の習得に駆り立てたり。
決して大きすぎない家の女主人としては、家事も使用人と混じってしたり、時には息子にも手伝わせたり。
新しく出たという「洗濯用の板」を率先して使ってみたり見せたり。
生活そのものがエガナの手にかかると、使用人を含めた家人全てにとって楽しいものに変わる様だった。
「旦那様のお帰りが早ければいいのですがね」
そう近所の女性に言われることもある。
だが実際にはエガナの「旦那様」は居ない。そもそも彼女が乳母になったのは、ある程度の身分がありつつも健康な―――夫を亡くした女だったからだ。
そうでなければ、わざわざ息子と引き離されてまで偉かろうが何だろうが、他人の子に乳をやり、責任を持って育てることはできないだろう。
これは大きな仕事だった。きっちり勤め上げた矢先には、死ぬまでの生活の安定と、息子の将来もかかっていたのだ。
そして、最初に出会ったラテが彼女にとって可愛く愛しく、そして「育てられない母親」を持っていたことが決定打だった。
自分はまず普通に生きる力を持った子供としてお育てしなくては、と。
そしてその様子を見ていた皇帝と、先年亡くなった皇帝の育ての母が背を押した。
皇帝の育ての母はこう言った。
「どんな育て方をしようとこの子が皇帝になることだけは変えようがないんだよ。だったらできるだけ帝国の民衆の心をわかる様な人間に育ててやって欲しいんだよ」
と。
皇帝自身も、生みの母親からは捨てられた様なものだったということを、彼女は乳母になって初めて知った。だが育った場所が場所だったので、基礎的な学習ができていないことに関して複雑な思いがあるとも。
「嫁は元々いい家の娘さんだったし、実際頭がもの凄く良い様なので、あれが任せておきたくなるのも判る。だけどそれだけでは、子供が哀れだよ。何の見返りもなく抱きついたら抱き返してくれる者が、血のつながりはどうあれ欲しいものだ」
大役だ、とエガナは思ったものだった。
その皇帝の育ての母は、四年前に亡くなった。彼女が亡くなった辺りから、外の学問所に通わせることが具体化しだしたのだ。
「大人の中だけで育つのは、俺は良くないと思う」
こればかりは皇帝は主張した。
「皇女達と同じく、副帝都に家を置いて、そこで育ててもらいたい」
仮の身分と家を置かれ、使用人を新たに置いて。その使用人にしたところで、実際には皇后の隠密である。
ただエガナには「隠密」という概念が無いので「信用できる部下」ということになっている。
「あの方はいつもラテ様のことを気に掛けてますよ」
というエガナの言葉は嘘ではない。アリカは彼等から日々息子の情報を受け取ってはいるのだが。
―――その情報を見忘れる日はあるが。
「正確な地図をお作りになりたいんだったかな」
「そう。でもそれを作ってどうしたいのかな。母上は」
「母さんどう思う?」
手を止めて、エガナは二人をそれぞれ眺める。
「地図は何のために必要なのかしら」
「旅の時に持っていく?」
「サボンのリョセンさんは海側へと行かなくてはならない時持っていったと聞いたよ」
ラテにとってサボンは母親のアリカよりずっと身近な存在だった。何より表情が豊かなのだ。
手先はそれぞれの専門の女官に比べれば不器用だったが、母親が紙に書き散らす細かい字や、よく分からない模様の意味をよく理解できるのは彼女だけだった。
その彼女が時々格別に嬉しそうな日がある。
それが「大きな人」とラテがそっと呼んでいたツァイツリョアイリョセンだった。彼は現在、東西の測量班の護衛のためによく帝都を離れている。
戻ってくると、すぐにサボンのところにやってきて、時々抱き合っている姿を少年も見たことがあった。
「サボンの何なの?」
と直接的に聞いたこともあった。すると彼女は珍しく驚かずにこうはっきりと言った。
「いつか結婚するひとですよ」
と。
「いつ? すぐ?」
「いつか、です」
それがどういう意味か、少年には判るはずがなかった。
学問所で勧められた書物を、今ひとつラテは興味が持てない様だとフェルリは思った。実際面白くないと彼も思う。
気がつくと広げたまま、視線は乳母子と乳母の間を彷徨っている。ちょうど今、エガナが二人のために新しい襟巻きを編んでいるところだから、気がそっちに向いても仕方がない。
もうじき空気が冷たい季節になる。冷たい風が山から高い壁の無い副帝都には吹き抜けて行く。
エガナは二人と一緒に市へ行き、どんな色がいいのか選ばせた。
そして二人一緒にできあがる様に調整しながら編んでいる。
この頃は既に鉤だけでなく、ただ真っ直ぐな棒でふんわりと編む方法も、非常に細い糸、細い棒、細かい目で伸び縮みする靴下なども作られる様になった。
ただ無論それは手作りか、依頼されて作る高級品だったが……
糸の種類もずいぶんと増えた。色も同様に。
「このきっかけもあの方なのよ」
エガナは「二人の息子」に糸屋でそう説明した。
楽しそうに糸や棒を選ぶ女性や、飾り編みの職人の作った見本が貼られた壁、細かすぎて目がちかちかする、とラテは一つの作品を見て言ったことがある。
この時エガナが選んだのは、ふんわりとした糸だった。
「好きな色を選んでね。でも違う色がありがたいわ。洗濯する時にわかりやすいし」
彼女はいつも因果関係をはっきりさせて二人に伝える。その一方で、「わけのわからないもの」への理解もあった。
「母さんはあまり字は読めないから、習った物語があったら、読んで欲しいわ」
そう彼等を文字の習得に駆り立てたり。
決して大きすぎない家の女主人としては、家事も使用人と混じってしたり、時には息子にも手伝わせたり。
新しく出たという「洗濯用の板」を率先して使ってみたり見せたり。
生活そのものがエガナの手にかかると、使用人を含めた家人全てにとって楽しいものに変わる様だった。
「旦那様のお帰りが早ければいいのですがね」
そう近所の女性に言われることもある。
だが実際にはエガナの「旦那様」は居ない。そもそも彼女が乳母になったのは、ある程度の身分がありつつも健康な―――夫を亡くした女だったからだ。
そうでなければ、わざわざ息子と引き離されてまで偉かろうが何だろうが、他人の子に乳をやり、責任を持って育てることはできないだろう。
これは大きな仕事だった。きっちり勤め上げた矢先には、死ぬまでの生活の安定と、息子の将来もかかっていたのだ。
そして、最初に出会ったラテが彼女にとって可愛く愛しく、そして「育てられない母親」を持っていたことが決定打だった。
自分はまず普通に生きる力を持った子供としてお育てしなくては、と。
そしてその様子を見ていた皇帝と、先年亡くなった皇帝の育ての母が背を押した。
皇帝の育ての母はこう言った。
「どんな育て方をしようとこの子が皇帝になることだけは変えようがないんだよ。だったらできるだけ帝国の民衆の心をわかる様な人間に育ててやって欲しいんだよ」
と。
皇帝自身も、生みの母親からは捨てられた様なものだったということを、彼女は乳母になって初めて知った。だが育った場所が場所だったので、基礎的な学習ができていないことに関して複雑な思いがあるとも。
「嫁は元々いい家の娘さんだったし、実際頭がもの凄く良い様なので、あれが任せておきたくなるのも判る。だけどそれだけでは、子供が哀れだよ。何の見返りもなく抱きついたら抱き返してくれる者が、血のつながりはどうあれ欲しいものだ」
大役だ、とエガナは思ったものだった。
その皇帝の育ての母は、四年前に亡くなった。彼女が亡くなった辺りから、外の学問所に通わせることが具体化しだしたのだ。
「大人の中だけで育つのは、俺は良くないと思う」
こればかりは皇帝は主張した。
「皇女達と同じく、副帝都に家を置いて、そこで育ててもらいたい」
仮の身分と家を置かれ、使用人を新たに置いて。その使用人にしたところで、実際には皇后の隠密である。
ただエガナには「隠密」という概念が無いので「信用できる部下」ということになっている。
「あの方はいつもラテ様のことを気に掛けてますよ」
というエガナの言葉は嘘ではない。アリカは彼等から日々息子の情報を受け取ってはいるのだが。
―――その情報を見忘れる日はあるが。
「正確な地図をお作りになりたいんだったかな」
「そう。でもそれを作ってどうしたいのかな。母上は」
「母さんどう思う?」
手を止めて、エガナは二人をそれぞれ眺める。
「地図は何のために必要なのかしら」
「旅の時に持っていく?」
「サボンのリョセンさんは海側へと行かなくてはならない時持っていったと聞いたよ」
ラテにとってサボンは母親のアリカよりずっと身近な存在だった。何より表情が豊かなのだ。
手先はそれぞれの専門の女官に比べれば不器用だったが、母親が紙に書き散らす細かい字や、よく分からない模様の意味をよく理解できるのは彼女だけだった。
その彼女が時々格別に嬉しそうな日がある。
それが「大きな人」とラテがそっと呼んでいたツァイツリョアイリョセンだった。彼は現在、東西の測量班の護衛のためによく帝都を離れている。
戻ってくると、すぐにサボンのところにやってきて、時々抱き合っている姿を少年も見たことがあった。
「サボンの何なの?」
と直接的に聞いたこともあった。すると彼女は珍しく驚かずにこうはっきりと言った。
「いつか結婚するひとですよ」
と。
「いつ? すぐ?」
「いつか、です」
それがどういう意味か、少年には判るはずがなかった。
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