1 / 38
第1話 十年一昔というが
しおりを挟む
経ってしまうと案外早い。
―――というのは大人の話だ。
子供、特に生まれてからの十年なんていうのは、目の前に起こる一つ一つが不思議に満ち満ちている。
「だからどうして僕はわざわざ母様と離れて暮らさないといけないんだよ!?」
少年の中にそんな疑問が湧いても仕方がないというものだ。
「仕方ないだろう? 君の御母君は、誰よりも大事なお仕事があるのだし」
「だったら兄さんの母さんは何だよ。エガナは僕の乳母だけど、お前とも今は暮らせてるじゃないか……」
「言っとくけどラテ、俺は母さんが君に乳をやっていた時には離れて暮らさなくてはならなかったよ」
「そうなんだよ! だからそこでまずおかしいじゃないか! 僕はそもそも何で帝都で過ごして、今になって副帝都で暮らさないといけないんだよ!」
「だからそれも君が皇太子だからだろう? 十六歳にもならずに帝都で暮らせたのは」
「だったら初めから副帝都で母様と暮らせた方が良かった」
「だけどそれには御母君の」
―――堂々巡りである。
*
さてここで毛を逆立てた仔猫の様に怒っているのはムギム・カジャラーテ・クアツ。現在の「帝国」の皇太子である。齢十歳。
二年前から副帝都の一つの屋敷に乳母とその息子と共に移り住み、素性を隠して学問所へと通う。
とりあえずここでは、ラテという通り名を元に変名のラテ・タバイを使っている。
そして彼に対して少し視線を落として相対しているのはその乳母の息子―――ラテ皇子の乳母子だった。
生まれたのが先ということで、乳母子は普段はこう呼ばれている。「フェルリ兄さん」と。
本名はメラ・ラニフェルリエ・トバーシュ。だが彼自身も、フェルリ・タバイと呼ばれていた。
トバーシュという父姓が判れば、そこから「皇太子の乳母」メラ・フリエガナ・トバーシュの存在が明らかになってしまう。
彼女もまた、ここではただのメラ・エガナだった。「一つ違いの二人の息子」を持ち、夫は遠くの任地に居るために一人副帝都の家を守っている、ということになっていた。
皇太子が学問所に入ることができると判断された時、副帝都に移り、それなりの教育を他者と関わりながら身につけさせる様に、と指示されていたのだ。
二人をさして区別することなく育てる様に、できれば逞しく、と。
そして一月に一度、皇后とその側近の女官が副帝都をエガナの友人という名目で訪れる。
その母君を少し前に見送って。
「だけどそこまで君が御母君のことを好いていたとは知らなかったな」
乳母子の言葉は厳しい。
そうあるべし、と彼は彼で上から叩き込まれているのだ。
いつかは常に敬語を使い、恭しく仕えることになるにしても、今はできるだけただのきょうだいの様に過ごせと。
そんな訳で、初めて会った時から口げんかばかりである。
同じくらいの子供と遊ぶ機会が殆どなかったラテは面食らった。
後宮では十六歳の新入り女官が一番若い。自分と同じくらいの少年など、それこそ母親の側近女官と共にお忍びで市場に出かけた時くらいしか見たことがなかった。
見ることはあっても、実際に話したり、ましてや殴り合いのケンカなど。
現在は散々しているのだが。
そして現在もまた、堂々巡りの口げんかをしている。
いや、口げんかのうちにも入らない。ラテは何かしら言葉にすることはできないが、苛立ち、それを「兄」にぶつけているだけなのだ。
本当に怒っているのは、兄の言葉にではない。少し前にこの家に二日程滞在し、またすぐに発っていった実の母親に対して。遠くに用事があるから来月は来られないと平気な顔で言った彼女に対してなのだ。
「でもだからと言って、君があの方をそんなに好きだとも思えないのだけど。それに俺が母さんから聞いた話では、向こうに居た時も君はそんなに懐いていたとは聞いてないぞ」
「そりゃそうだよ。あのひとはいつもサボンと一緒に仕事仕事仕事だもの。顔だって忘れかけてたってエガナに言われたよ。覚えてないけど」
「だったらいいじゃないか。そういう御母君なんだっていうことで」
「だけど」
「こら! そんなびっくりする様な大声で怒鳴り合ってるのは誰!」
そのフェルリの母、ラテの乳母であるエガナの声が二人を合わせた程の大きさで二人に刺さる。
「家の中だからってそう大声で言うものじゃないの!」
「ごめん」
フェルリはぱっと母親の方を向いて謝った。
「ラテ様はどうしたの!? 何をそんなに苛立ってるの?」
「いつもの奴だよ、母さん」
「それはねえ……」
ふう、とエガナはラテをそっと抱きしめる。
どうしようもないことなのだ。彼女は良く知っている。無論上つ方に乳母が要るということは良く知っている。だがここまで母親が何もしない―――いや、関心が―――無い訳ではないが、その種類が。
エガナ自身が宮中で見てきたこの子供の母親の「らしく無さ」が、他の貴族だの大商家だのと比べて奇妙であることに気付いていた。
ただそれが何処から来るのか、この母性豊かな女性にはよく判らなかった。ただ、「だからこそ」自分に育てることを任せたのだろう、ということだけは理解できた。
十年は一昔。大人にとってはあっと言う間であるかもしれない。
だが子供と、その子供に関わってきた大人にとっては決して短い時間ではなかった。
―――というのは大人の話だ。
子供、特に生まれてからの十年なんていうのは、目の前に起こる一つ一つが不思議に満ち満ちている。
「だからどうして僕はわざわざ母様と離れて暮らさないといけないんだよ!?」
少年の中にそんな疑問が湧いても仕方がないというものだ。
「仕方ないだろう? 君の御母君は、誰よりも大事なお仕事があるのだし」
「だったら兄さんの母さんは何だよ。エガナは僕の乳母だけど、お前とも今は暮らせてるじゃないか……」
「言っとくけどラテ、俺は母さんが君に乳をやっていた時には離れて暮らさなくてはならなかったよ」
「そうなんだよ! だからそこでまずおかしいじゃないか! 僕はそもそも何で帝都で過ごして、今になって副帝都で暮らさないといけないんだよ!」
「だからそれも君が皇太子だからだろう? 十六歳にもならずに帝都で暮らせたのは」
「だったら初めから副帝都で母様と暮らせた方が良かった」
「だけどそれには御母君の」
―――堂々巡りである。
*
さてここで毛を逆立てた仔猫の様に怒っているのはムギム・カジャラーテ・クアツ。現在の「帝国」の皇太子である。齢十歳。
二年前から副帝都の一つの屋敷に乳母とその息子と共に移り住み、素性を隠して学問所へと通う。
とりあえずここでは、ラテという通り名を元に変名のラテ・タバイを使っている。
そして彼に対して少し視線を落として相対しているのはその乳母の息子―――ラテ皇子の乳母子だった。
生まれたのが先ということで、乳母子は普段はこう呼ばれている。「フェルリ兄さん」と。
本名はメラ・ラニフェルリエ・トバーシュ。だが彼自身も、フェルリ・タバイと呼ばれていた。
トバーシュという父姓が判れば、そこから「皇太子の乳母」メラ・フリエガナ・トバーシュの存在が明らかになってしまう。
彼女もまた、ここではただのメラ・エガナだった。「一つ違いの二人の息子」を持ち、夫は遠くの任地に居るために一人副帝都の家を守っている、ということになっていた。
皇太子が学問所に入ることができると判断された時、副帝都に移り、それなりの教育を他者と関わりながら身につけさせる様に、と指示されていたのだ。
二人をさして区別することなく育てる様に、できれば逞しく、と。
そして一月に一度、皇后とその側近の女官が副帝都をエガナの友人という名目で訪れる。
その母君を少し前に見送って。
「だけどそこまで君が御母君のことを好いていたとは知らなかったな」
乳母子の言葉は厳しい。
そうあるべし、と彼は彼で上から叩き込まれているのだ。
いつかは常に敬語を使い、恭しく仕えることになるにしても、今はできるだけただのきょうだいの様に過ごせと。
そんな訳で、初めて会った時から口げんかばかりである。
同じくらいの子供と遊ぶ機会が殆どなかったラテは面食らった。
後宮では十六歳の新入り女官が一番若い。自分と同じくらいの少年など、それこそ母親の側近女官と共にお忍びで市場に出かけた時くらいしか見たことがなかった。
見ることはあっても、実際に話したり、ましてや殴り合いのケンカなど。
現在は散々しているのだが。
そして現在もまた、堂々巡りの口げんかをしている。
いや、口げんかのうちにも入らない。ラテは何かしら言葉にすることはできないが、苛立ち、それを「兄」にぶつけているだけなのだ。
本当に怒っているのは、兄の言葉にではない。少し前にこの家に二日程滞在し、またすぐに発っていった実の母親に対して。遠くに用事があるから来月は来られないと平気な顔で言った彼女に対してなのだ。
「でもだからと言って、君があの方をそんなに好きだとも思えないのだけど。それに俺が母さんから聞いた話では、向こうに居た時も君はそんなに懐いていたとは聞いてないぞ」
「そりゃそうだよ。あのひとはいつもサボンと一緒に仕事仕事仕事だもの。顔だって忘れかけてたってエガナに言われたよ。覚えてないけど」
「だったらいいじゃないか。そういう御母君なんだっていうことで」
「だけど」
「こら! そんなびっくりする様な大声で怒鳴り合ってるのは誰!」
そのフェルリの母、ラテの乳母であるエガナの声が二人を合わせた程の大きさで二人に刺さる。
「家の中だからってそう大声で言うものじゃないの!」
「ごめん」
フェルリはぱっと母親の方を向いて謝った。
「ラテ様はどうしたの!? 何をそんなに苛立ってるの?」
「いつもの奴だよ、母さん」
「それはねえ……」
ふう、とエガナはラテをそっと抱きしめる。
どうしようもないことなのだ。彼女は良く知っている。無論上つ方に乳母が要るということは良く知っている。だがここまで母親が何もしない―――いや、関心が―――無い訳ではないが、その種類が。
エガナ自身が宮中で見てきたこの子供の母親の「らしく無さ」が、他の貴族だの大商家だのと比べて奇妙であることに気付いていた。
ただそれが何処から来るのか、この母性豊かな女性にはよく判らなかった。ただ、「だからこそ」自分に育てることを任せたのだろう、ということだけは理解できた。
十年は一昔。大人にとってはあっと言う間であるかもしれない。
だが子供と、その子供に関わってきた大人にとっては決して短い時間ではなかった。
0
お気に入りに追加
18
あなたにおすすめの小説
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

虐げられた皇女は父の愛人とその娘に復讐する
ましゅぺちーの
恋愛
大陸一の大国ライドーン帝国の皇帝が崩御した。
その皇帝の子供である第一皇女シャーロットはこの時をずっと待っていた。
シャーロットの母親は今は亡き皇后陛下で皇帝とは政略結婚だった。
皇帝は皇后を蔑ろにし身分の低い女を愛妾として囲った。
やがてその愛妾には子供が生まれた。それが第二皇女プリシラである。
愛妾は皇帝の寵愛を笠に着てやりたい放題でプリシラも両親に甘やかされて我儘に育った。
今までは皇帝の寵愛があったからこそ好きにさせていたが、これからはそうもいかない。
シャーロットは愛妾とプリシラに対する復讐を実行に移す―
一部タイトルを変更しました。

四代目は身代わりの皇后③皇太子誕生~祖后と皇太后来たる
江戸川ばた散歩
ファンタジー
何十年も後継者が出来なかった「帝国」の皇帝の世継ぎである「息子」を身ごもったサヘ将軍家の娘アリカ。そしてその側近の上級女官となったサボン。
実は元々はその立場は逆だったのだが、お互いの望みが一緒だったことで入れ替わった二人。結果として失われた部族「メ」の生き残りが皇后となり、将軍の最愛の娘はそのお付きとなった。
膨大な知識を皇后となったことでインプットされてしまった「アリカ」と、女官となったことで知り得なかった人生を歩むこととなった「サボン」の波乱と友情と日常のはなし。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
君は妾の子だから、次男がちょうどいい
月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、彼女は片田舎で遠いため会ったことはなかった。でもある時、マリアは妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる