21 / 38
第21話 目覚めたアリカ、力の加減ができない
しおりを挟む
がしゃ。
鈍い音を立てて、杯が手の中で砕けた。
「サ…… アリカさまっ!」
目覚めたアリカはまず水を欲しがった。だから冷たすぎない水を汲み、起きあがった彼女にそっと渡した。
アリカはそれをくっ、と握った。
と。
弾けた水は、砕けた杯は、一瞬にして膝に落ちた。
「……」
目を丸くして、アリカはその様子を見つめていた。
サボンは、と言えば。
何が起きたのかまず判らなかった。
とにかくまず目に入ったのは、こぼれた水だった。
「どうしましょう…… 何か拭くもの……」
そこまで考え、手巾を取った時。
「いえ、いえっ、手っ!!」
ひったくる様にして、サボンはアリカの手を見た。
杯が割れたなら、手が傷ついているはず。濡れた膝は拭けばいいが、手に傷がついては。
手巾で血を拭おうとし。
「え」
血はついた。だが。
「傷が」
「うん」
アリカはうなづいた。
「そうか…… そうなんだな」
納得した様に、まだ所々血の染みが残る手を裏返し、また表にし、繰り返し見た。
「大丈夫。傷は塞がった」
「塞がった、って」
「本当、大丈夫だから。その手巾、貸して下さいな。それと、そう、掛布をそのまま下ろして」
はっ、とサボンは気付く。
掛布の上は見事には濡れているし、欠片も飛び散っている。サボンは慌てて、欠片を包む様にして下ろした。
「代わりをすぐに持って来させるわ」
「そうですね…… でもその前に水を下さいな…… それと、ごめんなさい、呑ませて下さいな」
「え」
「加減が、まだ上手くできないんです」
そう言いながらアリカは手を何度か握ったり開いたりさせる。
どういうことだろう。合点がいかない。
ともかくサボンはアリカの言う通りに、水をもう一度汲み直し、今度は口元まで持って行った。
「ああ美味しい」
ごくごく、と一気に飲み干す。もう一杯、と要求する。またごくごく。大きく息を吐く。
「私が眠ってから、どれだけ経ってます?」
「十日近くかしら」
「お腹が空いているはずですね…… 食事をお願いできますか?」
「え、そ、それは…… まず侍医さんに聞かなくちゃ」
「侍医の先生に?」
「だって、あなた、ずっと、ずっと寝てたのよ? 十日、ちゃんとものを食べていないのよ? どういうものがいいのか聞かなくちゃ」
「ああ」
うんうん、とアリカはうなづく。
「でも、まあ、それは大丈夫です」
「大丈夫って言ったって」
「侍医でも『生き残った』ひとを診たことはないでしょう? 今の私の身体のことは、私が一番判ります」
言いかけて、ふっ、とアリカは目を細めた。
「いえ、でもそれじゃあまずいですね」
「まずいわよ」
言いながらも、サボンは何処かその言葉に力が入らない自分を感じていた。
「何がありました? そう言えば、私が眠っている間。とりあえず私が眠っている間にも、何か呑ませてはくれたんですよね、それを下さいな…… とにかくお腹が空いて空いて」
「侍医さんも呼んでくるわよ」
「それは下女に任せて下さい。お願いですから、あなたはここに居て下さいな」
そう言ってアリカはぐっ、とサボンの手首を掴んだ。途端、ああっ、とサボンは悲鳴を上げた。
はっ、としてアリカは手を放す。
「な…… に、今の……」
サボンは掴まれた手首をさする。指の跡がくっきりとついている。
「手加減が…… ああっ! もうっ!」
どん、とアリカは右の拳で寝台を叩いた。みし、と音がした。
「何を」
「力が――― 変なんです。加減が」
ほら、と寝台の脇に置かれていた椅子を一つ手にする。軽々と片手で持ち上げる。―――出口に向かって投げる。
ひゃっ、と声がする。
「サ、サボンさんっ! 何かありましたかっ!」
投げられた椅子を両手で重そうに下げ、配膳方が入って来る。
「何でこんなものが飛んで来る――― あ、女君!」
「やあ……」
「お目覚めになったのですか!」
「ああいいところに!」
サボンはすかさず口を挟んだ。
「タボーさんお願い、そっちの誰かさんに、侍医さんを呼びに行ってもらえますか!?」
「え? ああ、―――あたしが、行ってくるよ」
タボーと呼ばれた配膳方は長い裾をまくり上げて、ばたばたと走り出た。
ふう、とアリカはその様子を見て、立てた膝に腕を載せる。
「あなた十日でずいぶんと、慣れましたね。女官に見えますよ」
「ううん」
サボンは首を横に振る。
「これでも、かなり精一杯。私、何も知らないのよ。本当、自分の身の回り、もっとやっておけば、良かった。こないだだって、あんたに作った甘水、運ぶ途中こぼしちゃたし」
「やろうという気があればあなたは大丈夫ですよ。それより、聞いて下さい」
アリカはそう言うと、真剣な顔になり、サボンを引き寄せようとし――― 首を横に振った。
代わりに手招きをする。近くに。もっと近くに。
サボンは寝台の脇に膝を付き、アリカを見上げる。
「正直、ずっと目を覚まさないんじゃないか、って」
「心配させました」
「そうよ、本当、心配したんだから」
声が歪む。目が細められる。
そこへ、つ、と指が伸ばされる。
「泣いては駄目ですよ。時間が足りません」
「時間」
「誰も居ない今のうちに聞いておいてもらいたいのです」
サボンは眉を寄せた。アリカは顔を近づける。
「何」
「私は皇后になります」
鈍い音を立てて、杯が手の中で砕けた。
「サ…… アリカさまっ!」
目覚めたアリカはまず水を欲しがった。だから冷たすぎない水を汲み、起きあがった彼女にそっと渡した。
アリカはそれをくっ、と握った。
と。
弾けた水は、砕けた杯は、一瞬にして膝に落ちた。
「……」
目を丸くして、アリカはその様子を見つめていた。
サボンは、と言えば。
何が起きたのかまず判らなかった。
とにかくまず目に入ったのは、こぼれた水だった。
「どうしましょう…… 何か拭くもの……」
そこまで考え、手巾を取った時。
「いえ、いえっ、手っ!!」
ひったくる様にして、サボンはアリカの手を見た。
杯が割れたなら、手が傷ついているはず。濡れた膝は拭けばいいが、手に傷がついては。
手巾で血を拭おうとし。
「え」
血はついた。だが。
「傷が」
「うん」
アリカはうなづいた。
「そうか…… そうなんだな」
納得した様に、まだ所々血の染みが残る手を裏返し、また表にし、繰り返し見た。
「大丈夫。傷は塞がった」
「塞がった、って」
「本当、大丈夫だから。その手巾、貸して下さいな。それと、そう、掛布をそのまま下ろして」
はっ、とサボンは気付く。
掛布の上は見事には濡れているし、欠片も飛び散っている。サボンは慌てて、欠片を包む様にして下ろした。
「代わりをすぐに持って来させるわ」
「そうですね…… でもその前に水を下さいな…… それと、ごめんなさい、呑ませて下さいな」
「え」
「加減が、まだ上手くできないんです」
そう言いながらアリカは手を何度か握ったり開いたりさせる。
どういうことだろう。合点がいかない。
ともかくサボンはアリカの言う通りに、水をもう一度汲み直し、今度は口元まで持って行った。
「ああ美味しい」
ごくごく、と一気に飲み干す。もう一杯、と要求する。またごくごく。大きく息を吐く。
「私が眠ってから、どれだけ経ってます?」
「十日近くかしら」
「お腹が空いているはずですね…… 食事をお願いできますか?」
「え、そ、それは…… まず侍医さんに聞かなくちゃ」
「侍医の先生に?」
「だって、あなた、ずっと、ずっと寝てたのよ? 十日、ちゃんとものを食べていないのよ? どういうものがいいのか聞かなくちゃ」
「ああ」
うんうん、とアリカはうなづく。
「でも、まあ、それは大丈夫です」
「大丈夫って言ったって」
「侍医でも『生き残った』ひとを診たことはないでしょう? 今の私の身体のことは、私が一番判ります」
言いかけて、ふっ、とアリカは目を細めた。
「いえ、でもそれじゃあまずいですね」
「まずいわよ」
言いながらも、サボンは何処かその言葉に力が入らない自分を感じていた。
「何がありました? そう言えば、私が眠っている間。とりあえず私が眠っている間にも、何か呑ませてはくれたんですよね、それを下さいな…… とにかくお腹が空いて空いて」
「侍医さんも呼んでくるわよ」
「それは下女に任せて下さい。お願いですから、あなたはここに居て下さいな」
そう言ってアリカはぐっ、とサボンの手首を掴んだ。途端、ああっ、とサボンは悲鳴を上げた。
はっ、としてアリカは手を放す。
「な…… に、今の……」
サボンは掴まれた手首をさする。指の跡がくっきりとついている。
「手加減が…… ああっ! もうっ!」
どん、とアリカは右の拳で寝台を叩いた。みし、と音がした。
「何を」
「力が――― 変なんです。加減が」
ほら、と寝台の脇に置かれていた椅子を一つ手にする。軽々と片手で持ち上げる。―――出口に向かって投げる。
ひゃっ、と声がする。
「サ、サボンさんっ! 何かありましたかっ!」
投げられた椅子を両手で重そうに下げ、配膳方が入って来る。
「何でこんなものが飛んで来る――― あ、女君!」
「やあ……」
「お目覚めになったのですか!」
「ああいいところに!」
サボンはすかさず口を挟んだ。
「タボーさんお願い、そっちの誰かさんに、侍医さんを呼びに行ってもらえますか!?」
「え? ああ、―――あたしが、行ってくるよ」
タボーと呼ばれた配膳方は長い裾をまくり上げて、ばたばたと走り出た。
ふう、とアリカはその様子を見て、立てた膝に腕を載せる。
「あなた十日でずいぶんと、慣れましたね。女官に見えますよ」
「ううん」
サボンは首を横に振る。
「これでも、かなり精一杯。私、何も知らないのよ。本当、自分の身の回り、もっとやっておけば、良かった。こないだだって、あんたに作った甘水、運ぶ途中こぼしちゃたし」
「やろうという気があればあなたは大丈夫ですよ。それより、聞いて下さい」
アリカはそう言うと、真剣な顔になり、サボンを引き寄せようとし――― 首を横に振った。
代わりに手招きをする。近くに。もっと近くに。
サボンは寝台の脇に膝を付き、アリカを見上げる。
「正直、ずっと目を覚まさないんじゃないか、って」
「心配させました」
「そうよ、本当、心配したんだから」
声が歪む。目が細められる。
そこへ、つ、と指が伸ばされる。
「泣いては駄目ですよ。時間が足りません」
「時間」
「誰も居ない今のうちに聞いておいてもらいたいのです」
サボンは眉を寄せた。アリカは顔を近づける。
「何」
「私は皇后になります」
0
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説

四代目は身代わりの皇后③皇太子誕生~祖后と皇太后来たる
江戸川ばた散歩
ファンタジー
何十年も後継者が出来なかった「帝国」の皇帝の世継ぎである「息子」を身ごもったサヘ将軍家の娘アリカ。そしてその側近の上級女官となったサボン。
実は元々はその立場は逆だったのだが、お互いの望みが一緒だったことで入れ替わった二人。結果として失われた部族「メ」の生き残りが皇后となり、将軍の最愛の娘はそのお付きとなった。
膨大な知識を皇后となったことでインプットされてしまった「アリカ」と、女官となったことで知り得なかった人生を歩むこととなった「サボン」の波乱と友情と日常のはなし。
後宮の死体は語りかける
炭田おと
恋愛
辺境の小部族である嶺依(りょうい)は、偶然参内したときに、元康帝(げんこうてい)の謎かけを解いたことで、元康帝と、皇子俊煕(しゅんき)から目をかけられるようになる。
その後、後宮の宮殿の壁から、死体が発見されたので、嶺依と俊煕は協力して、女性がなぜ殺されたのか、調査をはじめる。
壁に埋められた女性は、何者なのか。
二人はそれを探るため、妃嬪達の闇に踏み込んでいく。
55話で完結します。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

四代目は身代わりの皇后④十年後~皇后アリカの計画と皇太子ラテの不満
江戸川ばた散歩
ファンタジー
何十年も後継者が出来なかった「帝国」の皇帝の世継ぎである「息子」を身ごもったサヘ将軍家の娘アリカ。そしてその側近の上級女官となったサボン。
実は元々はその立場は逆だったのだが、お互いの望みが一緒だったことで入れ替わった二人。結果として失われた部族「メ」の生き残りが皇后となり、将軍の最愛の娘はそのお付きとなった。
膨大な知識を皇后となったことでインプットされてしまった「アリカ」と、女官となったことで知り得なかった人生を歩むこととなった「サボン」の波乱と友情と日常のはなし。
皇太子誕生から十年後。ちゃくちゃくと進んで行くアリカの計画だが、息子は……

七代目は「帝国」最後の皇后
江戸川ばた散歩
ファンタジー
「帝国」貴族・ホロベシ男爵が流れ弾に当たり死亡。搬送する同行者のナギと大陸横断列車の個室が一緒になった「連合」の財団のぼんぼんシルベスタ・デカダ助教授は彼女に何を見るのか。
「四代目は身代わりの皇后」と同じ世界の二~三代先の時代の話。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる