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第1話 リゾートホテルの朝
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「おはようございます!」
バックヤードの廊下に声が響く。
「おはようございます!」
「お疲れ様です!」
「おはよう」と言えば日勤組は「おはよう」と返す。「お疲れ様」は夜勤組。
朝の挨拶は元気良く。顔はいつもにこやかに。それが俺の勤務するリゾートホテル「リベルタ真花湖」の最初の仕事。
寮からの送迎バスから搬入口へ。降りると、三階にある更衣室まで、実質四階分ある階段を上る。
この六月に配属されたばかりの新人にはこれがなかなかきつい。中には更衣室にたどり着き、タイムカードを通す時には肩で息をついている者も居る。……この日の俺もご多分に漏れなかった。
「よーお疲れ、伊之瀬。何だあ? ずいぶん朝っぱらから疲れ果ててるじゃないの」
「そ、そうですか?」
「そーよ」
夜勤シフトの先輩だ。妙にハイテンションで「じゃあな」と言って更衣室を出て行く。
「おはよ、伊之瀬。元気無いじゃなーい」
そう言って颯爽と横を通り過ぎて行くのは同僚のベルガールの三島。確か今日は同じシフト。その姿を見送りながら、ふと俺はため息をつく。ああ彼女は今日も元気だ。あちこちに声を掛けてる。また情報収集か。
それに比べて俺は…… 思わずため息をつく。今日はいつもよりずいぶんと身体が重い。理由は判っている。
しかしそこでめげてはいけない。俺は歯を食いしばる。この仕事、身体が資本なのだ。それも、ずっと働きたかった場所の仕事なのだから。
俺、伊之瀬陽人はこの春めでたくリゾートホテル・グループ「リルタ」に入社した。
その後、二ヶ月のグループ内各地を回っての研修。社会の最初の荒波、そして「他より厳しい」とされるこのグループの研修に、四月の入社時には沢山居た同期が次々に辞めて行った。
それを乗り越えての栄えある配属から一ヶ月弱。現在の俺はベル係。
そして今は、梅雨時だ。
何とか乗り切らなくては。
制服に着替え、廊下の一部に作られたリフレッシュコーナーで朝の一杯。日課の様になっている。今日は頭も重いからコーヒーはやめ。甘い甘いミルクティだ。
夜勤担当の時にお客様から「おめざの一杯」を頼まれたことがあるけど、俺にはこれ位で充分だ。ポケットに入れたコイン一枚で買えるのが従業員用の自販機のいいところ。
「おはよう。隣、いいかな」
ぷし、と缶を開ける音と共に、低く響く声が耳に飛び込む。顔を上げると、ブルーグレイのツナギが視界に入ってきた。
「あ、おはようございます、東条さん」
「やあ。ああ、今日はお前紅茶か。お揃いじゃないな。残念だ」
彼はふっと笑う。そして俺の手の中の缶と自分のそれを軽く合わせる。彼の手に中にあるのはコーヒーの小さな缶。ブラック無糖の類。
「苦すぎやしませんか?」
「コーヒーは苦いものだろう」
彼はくいっと一口呑む。駄目だ。俺には出来ない。
「できればちゃんとドリップで淹れたものがいいんだが。む?」
太い眉を寄せて、彼は訝しげに俺を見る。
「伊之瀬、元気が無いな」
「そう見えますか……」
途端、自分の声のトーンが落ちるのを感じた。やはり見抜かれたか。
「いつもの天気病みか」
いつもの。何となくそう決めつけられるとむっと来る。それがたとえ事実であっても!
「そう言えば天気予報でも、低気圧が近付いているって言ってたな。厄介だ」
俺は押し黙ったまま、ミルクティを口にする。と、不意に彼の指が頬に触れた。
慌てて俺は顔を上げる。視線が合う。
うわ、と心の中で叫ぶ。
真顔でいきなりじっと見るのは反則だ。胸の中でわさわさと何かが騒ぎ立てる。
「びっくりした! 何ですか!」
「いや、目の下にくまさんがな」
「え」
くまさん。隈!
はっとして、俺は慌てて制服のポケットから小さな鏡を取り出した。ホテルの顔であるベル係は、笑顔の練習や、顔色、疲れが顔に出ていないかを確認するために、カード大の鏡を皆持たされている。
その中に映る俺の目の下には確かにほんのりと隈が。
「うへえ…… もっと寝てくるべきだった」
「天気病みの時には仕方がない」
「気楽に言わないで下さいよ!」
すると彼は、俺の肩をぽんぽんと叩く。
「安心しろ。お前が気分悪くなった時には、また駆けつけてやる」
「そうそう都合のいい偶然は無いですよ!」
「お? 元気が出てきたな」
彼はほわりと笑う。からかわれ半分、なぐさめ半分のその表情に俺は軽く口を曲げた。
彼、東条始はホテル内の営繕担当の正社員と聞いている。五年前のオープンの時からここに勤めていると。
営繕担当とは、平たく言えばホテル内のメンテナンス係。ラウンジのシャンデリアの電灯が切れてたら電球を取り替える。テーブルの天板ががたついていたら直す。
大きなところでは、電気系統・上下水道関連全体までが仕事範囲だ。
そう言えば、最初に会った時も、工具箱を持っていた。
***
その時もやっぱり俺は天気病みでふらふらしていた。配属されて間もない時だ。
ベル係として、俺は到着したお客様の荷物をワゴンに乗せて運んでいた。
力が出ないと言っても、バッグやスーツケースを持つくらいは大丈夫だ。元々力は強いと言われている。外見が小柄だけに時々同僚から驚かれる程だ。天気病みの時以外は。
ただそれの荷物が山となって、落ちない様にネットが掛かっている状態のワゴンときたらたまらない。
前に後ろにただ動かすこと、それ自体は大したことは無い。ところが曲がり際、ちょっとした段差、微妙に人を避ける時に腕に力が入らない。これがなかなか辛い。その時は渾身の力を振り絞って何とかした。そしてお客様の前でも笑顔で応対できた。
だがバックヤードのエレベーターの前に来た時、ワゴンの持ち手に捕まったまま、とうとうその場にへたり込んでしまった。
やがて呼んだエレベーターが来た。扉が開く。けど動く気になれない。そのままもう一度扉は閉まって…… 閉まらない。
「どうした?」
声が降ってきた。低くてよく響く声。何処かで聞いたことがある様な……
慌てて顔を上げた。堅そうなくせ毛の男がそこには居た。知らない人だ。
「あ…… 身体に力が入らなくて」
「熱は?」
大きな手が額に触れた。乾いた、ごつごつした暖かい手。眠気を誘う様な心地よさが身体に広がった。
「……大丈夫です。体質ですから。持ち場に戻って動けば、何とかなります」
「だがな……」
彼はやや考え込む様にして、俺の顔をのぞき込んだ。そして俺は、やっと彼の顔を正面から見上げることができた。
あ、凄い男前だ。
不意に思った。
太い眉、大きな目、顔を構成する一つ一つのパーツが明らかに普通以上の存在感を持っていた。
「濃い顔」と言ってしまえばそれだけだが、それだけではない何かを、その時の俺は感じた。
そして「まあいいか」と彼は笑うと、手を貸して立たせてくれた。
「お前新人か。終わりは何時だ?」
「あ、今はまだ皆日勤ですから、五時に」
「そうか。あと一時間少しだな。がんばれ」
そう言って彼はぽん、と俺の肩を叩き、エレベータに押し込んだ。
扉が閉まってから、俺は彼に触れられた所を確かめる様に触れてみた。じんわりと、そこから暖かいものが入ってきた様な気がした。
***
それ以来、東条とは時々こうやって話す仲となった。
ただしそれは、シフトが合う時だけだ。そう度々では無い。お客様に最初に接するベル係と、従業員から一日中呼び出される営繕ではそうそう接点が無い。
彼は、俺が殆ど一方的に喋る他愛ない話に、その深みのある声で相づちを打ったり、時には「それは違う」等と生真面目に反論してきたりする。
時々俺は、このホテルの作りや成り立ち、歴史についても訊ねたりもする。
彼は雄弁ではないが、実に詳しかった。
短い言葉をぽつぽつと紡ぎながら、俺の質問に誠実に答えてくれようとする。
バツ一だということも聞けば教えてくれた。
そんな一つ一つが、俺にはとても嬉しかった。
「じゃ、今日もがんばってな」
そう言って俺の腰をぱん、と一つ叩くと彼はソファを立った。
何すんだよ、と背中に声を投げながら、俺ははたかれた箇所をさする。
どうも彼はスキンシップが好きらしい。他の同僚にはどうか判らないが、少なくとも俺に対してはそうだ。
この程度で済んでいるのは、制服を整えたばかりの朝だから。退け際の頃だと、ベル係特有のドゴール帽をひょいと取っては頭をくしゃ、とかき回してくる。時には肩を組んできたり、腰に手を回したりもする。
もはやセクハラすれすれではないか、とも思うのだが、何故か嫌な気はしない。あの暖かい手はとても心地よい。
正直、今はもう一度帽子をセットし直してもいい、あの大きな暖かい手で、ずきずきと痛みだした頭をかき回して欲しかった。
そうすれば、この気分も少しは楽になるのではないかと思うのだ。
バックヤードの廊下に声が響く。
「おはようございます!」
「お疲れ様です!」
「おはよう」と言えば日勤組は「おはよう」と返す。「お疲れ様」は夜勤組。
朝の挨拶は元気良く。顔はいつもにこやかに。それが俺の勤務するリゾートホテル「リベルタ真花湖」の最初の仕事。
寮からの送迎バスから搬入口へ。降りると、三階にある更衣室まで、実質四階分ある階段を上る。
この六月に配属されたばかりの新人にはこれがなかなかきつい。中には更衣室にたどり着き、タイムカードを通す時には肩で息をついている者も居る。……この日の俺もご多分に漏れなかった。
「よーお疲れ、伊之瀬。何だあ? ずいぶん朝っぱらから疲れ果ててるじゃないの」
「そ、そうですか?」
「そーよ」
夜勤シフトの先輩だ。妙にハイテンションで「じゃあな」と言って更衣室を出て行く。
「おはよ、伊之瀬。元気無いじゃなーい」
そう言って颯爽と横を通り過ぎて行くのは同僚のベルガールの三島。確か今日は同じシフト。その姿を見送りながら、ふと俺はため息をつく。ああ彼女は今日も元気だ。あちこちに声を掛けてる。また情報収集か。
それに比べて俺は…… 思わずため息をつく。今日はいつもよりずいぶんと身体が重い。理由は判っている。
しかしそこでめげてはいけない。俺は歯を食いしばる。この仕事、身体が資本なのだ。それも、ずっと働きたかった場所の仕事なのだから。
俺、伊之瀬陽人はこの春めでたくリゾートホテル・グループ「リルタ」に入社した。
その後、二ヶ月のグループ内各地を回っての研修。社会の最初の荒波、そして「他より厳しい」とされるこのグループの研修に、四月の入社時には沢山居た同期が次々に辞めて行った。
それを乗り越えての栄えある配属から一ヶ月弱。現在の俺はベル係。
そして今は、梅雨時だ。
何とか乗り切らなくては。
制服に着替え、廊下の一部に作られたリフレッシュコーナーで朝の一杯。日課の様になっている。今日は頭も重いからコーヒーはやめ。甘い甘いミルクティだ。
夜勤担当の時にお客様から「おめざの一杯」を頼まれたことがあるけど、俺にはこれ位で充分だ。ポケットに入れたコイン一枚で買えるのが従業員用の自販機のいいところ。
「おはよう。隣、いいかな」
ぷし、と缶を開ける音と共に、低く響く声が耳に飛び込む。顔を上げると、ブルーグレイのツナギが視界に入ってきた。
「あ、おはようございます、東条さん」
「やあ。ああ、今日はお前紅茶か。お揃いじゃないな。残念だ」
彼はふっと笑う。そして俺の手の中の缶と自分のそれを軽く合わせる。彼の手に中にあるのはコーヒーの小さな缶。ブラック無糖の類。
「苦すぎやしませんか?」
「コーヒーは苦いものだろう」
彼はくいっと一口呑む。駄目だ。俺には出来ない。
「できればちゃんとドリップで淹れたものがいいんだが。む?」
太い眉を寄せて、彼は訝しげに俺を見る。
「伊之瀬、元気が無いな」
「そう見えますか……」
途端、自分の声のトーンが落ちるのを感じた。やはり見抜かれたか。
「いつもの天気病みか」
いつもの。何となくそう決めつけられるとむっと来る。それがたとえ事実であっても!
「そう言えば天気予報でも、低気圧が近付いているって言ってたな。厄介だ」
俺は押し黙ったまま、ミルクティを口にする。と、不意に彼の指が頬に触れた。
慌てて俺は顔を上げる。視線が合う。
うわ、と心の中で叫ぶ。
真顔でいきなりじっと見るのは反則だ。胸の中でわさわさと何かが騒ぎ立てる。
「びっくりした! 何ですか!」
「いや、目の下にくまさんがな」
「え」
くまさん。隈!
はっとして、俺は慌てて制服のポケットから小さな鏡を取り出した。ホテルの顔であるベル係は、笑顔の練習や、顔色、疲れが顔に出ていないかを確認するために、カード大の鏡を皆持たされている。
その中に映る俺の目の下には確かにほんのりと隈が。
「うへえ…… もっと寝てくるべきだった」
「天気病みの時には仕方がない」
「気楽に言わないで下さいよ!」
すると彼は、俺の肩をぽんぽんと叩く。
「安心しろ。お前が気分悪くなった時には、また駆けつけてやる」
「そうそう都合のいい偶然は無いですよ!」
「お? 元気が出てきたな」
彼はほわりと笑う。からかわれ半分、なぐさめ半分のその表情に俺は軽く口を曲げた。
彼、東条始はホテル内の営繕担当の正社員と聞いている。五年前のオープンの時からここに勤めていると。
営繕担当とは、平たく言えばホテル内のメンテナンス係。ラウンジのシャンデリアの電灯が切れてたら電球を取り替える。テーブルの天板ががたついていたら直す。
大きなところでは、電気系統・上下水道関連全体までが仕事範囲だ。
そう言えば、最初に会った時も、工具箱を持っていた。
***
その時もやっぱり俺は天気病みでふらふらしていた。配属されて間もない時だ。
ベル係として、俺は到着したお客様の荷物をワゴンに乗せて運んでいた。
力が出ないと言っても、バッグやスーツケースを持つくらいは大丈夫だ。元々力は強いと言われている。外見が小柄だけに時々同僚から驚かれる程だ。天気病みの時以外は。
ただそれの荷物が山となって、落ちない様にネットが掛かっている状態のワゴンときたらたまらない。
前に後ろにただ動かすこと、それ自体は大したことは無い。ところが曲がり際、ちょっとした段差、微妙に人を避ける時に腕に力が入らない。これがなかなか辛い。その時は渾身の力を振り絞って何とかした。そしてお客様の前でも笑顔で応対できた。
だがバックヤードのエレベーターの前に来た時、ワゴンの持ち手に捕まったまま、とうとうその場にへたり込んでしまった。
やがて呼んだエレベーターが来た。扉が開く。けど動く気になれない。そのままもう一度扉は閉まって…… 閉まらない。
「どうした?」
声が降ってきた。低くてよく響く声。何処かで聞いたことがある様な……
慌てて顔を上げた。堅そうなくせ毛の男がそこには居た。知らない人だ。
「あ…… 身体に力が入らなくて」
「熱は?」
大きな手が額に触れた。乾いた、ごつごつした暖かい手。眠気を誘う様な心地よさが身体に広がった。
「……大丈夫です。体質ですから。持ち場に戻って動けば、何とかなります」
「だがな……」
彼はやや考え込む様にして、俺の顔をのぞき込んだ。そして俺は、やっと彼の顔を正面から見上げることができた。
あ、凄い男前だ。
不意に思った。
太い眉、大きな目、顔を構成する一つ一つのパーツが明らかに普通以上の存在感を持っていた。
「濃い顔」と言ってしまえばそれだけだが、それだけではない何かを、その時の俺は感じた。
そして「まあいいか」と彼は笑うと、手を貸して立たせてくれた。
「お前新人か。終わりは何時だ?」
「あ、今はまだ皆日勤ですから、五時に」
「そうか。あと一時間少しだな。がんばれ」
そう言って彼はぽん、と俺の肩を叩き、エレベータに押し込んだ。
扉が閉まってから、俺は彼に触れられた所を確かめる様に触れてみた。じんわりと、そこから暖かいものが入ってきた様な気がした。
***
それ以来、東条とは時々こうやって話す仲となった。
ただしそれは、シフトが合う時だけだ。そう度々では無い。お客様に最初に接するベル係と、従業員から一日中呼び出される営繕ではそうそう接点が無い。
彼は、俺が殆ど一方的に喋る他愛ない話に、その深みのある声で相づちを打ったり、時には「それは違う」等と生真面目に反論してきたりする。
時々俺は、このホテルの作りや成り立ち、歴史についても訊ねたりもする。
彼は雄弁ではないが、実に詳しかった。
短い言葉をぽつぽつと紡ぎながら、俺の質問に誠実に答えてくれようとする。
バツ一だということも聞けば教えてくれた。
そんな一つ一つが、俺にはとても嬉しかった。
「じゃ、今日もがんばってな」
そう言って俺の腰をぱん、と一つ叩くと彼はソファを立った。
何すんだよ、と背中に声を投げながら、俺ははたかれた箇所をさする。
どうも彼はスキンシップが好きらしい。他の同僚にはどうか判らないが、少なくとも俺に対してはそうだ。
この程度で済んでいるのは、制服を整えたばかりの朝だから。退け際の頃だと、ベル係特有のドゴール帽をひょいと取っては頭をくしゃ、とかき回してくる。時には肩を組んできたり、腰に手を回したりもする。
もはやセクハラすれすれではないか、とも思うのだが、何故か嫌な気はしない。あの暖かい手はとても心地よい。
正直、今はもう一度帽子をセットし直してもいい、あの大きな暖かい手で、ずきずきと痛みだした頭をかき回して欲しかった。
そうすれば、この気分も少しは楽になるのではないかと思うのだ。
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