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第12話 かまをかけた。語尾をぼかした。
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ところで、ライヴハウスACID-JAMは、夏が近付くと冷房のグレードを強烈に上げていた。客からは冷凍庫と呼ばれるくらい上げた。
何ですかこれは、と俺はその大クーラーに最初に遭遇した日、彼やノセさんに訊ねた。すると彼らはしゃあしゃあとこう言っただけだった。
「いや、大は小を兼ねるって言うだろ?」
よっぽど面の皮及びその他の部位の皮が厚いに違いない。俺はそれに対して苦虫を噛みつぶしたような顔と、うなり声を返した。
そして温度差の激しさに、あっさりと風邪を引き込んでしまった。
夏風邪だ。一度ひくと、これがなかなか身体から引いてくれない類の。
とある日。
その日は何やら蒸し暑いと思ったら、天気予報が台風の接近を告げていた。おかげで冷房は除湿も兼ね、いつもにも増してきつかった。
彼らに拉致されたはいいが、全身がぞくぞくして仕方がなかったので、部屋が小さい分、エアコンも小さい楽屋に俺は逃げ込んだ。
そしてそこでも勢い良くくしゃみをしていると、店のカウンターにいつも居るナナさんが、可愛い顔が台無しよ、とティッシュと風邪薬を差し入れしてくれた。
最初に来た時には判らなかったのだが、この人はノセさんの彼女なのだという。
ノセさんだけではない。BELL-FIRSTのメンバーは、だいたい彼女というものが居るらしい。まあもっともだ、と俺も思う。彼を除いては。
では彼には、そういう相手が居る、もしくは居たのだろうか。
少なくともその時、彼の廻りにはそういう「誰か」の気配はなかった。
「はい猫ちゃん、オレンジジュース。風邪ひいたらビタミンCを取らなくちゃね。あ、言っておくけど、これは本物よ本物! いつものタンクから出す紛い物じゃあないからね!」
一気にそれだけ言って、彼女は俺に大きなコップを差し出した。確かに紛い物とは違う香りだった。生のオレンジのこく。ありがとう、と俺はしみじみと言った。
「ううん気にしないで。あたしが好きでやってんの。トモ君から猫ちゃんのことも頼まれてもいるし」
彼女は俺のことを猫ちゃんと呼んでいた。
猫に似ていると言い出したのは彼だが、それを定着させてしまったののは彼女だった。
「そうなんですか?」
「そうよ。だってね、珍しいんだもの。トモ君が誰かに関心を持つのって、ホントに、すんごい久しぶりだし」
「久しぶり、なんですか?」
オレンジジュースを一口呑むと、問い返す。
「うん。もう結構なるかな。ほらあの子、普段ああいう調子だから、みんな平気だと思っているだろうけどさ」
あの子呼ばわりだ。
考えてみればそうだろう。ナナさんは、トモさんより五つ年上のノセさんと、かつて専門学校で同級生だったというくらいだ。
俺なんぞ「あの子」どころか赤ん坊みたいなものじゃなかろうか、と時々彼女の態度を見ると思う。だが別にそれは悪い気はしない。
そしてそういう人だからこそ――― 俺はその時ふっと魔がさした。
「もしかして、前のヴォーカルの人が」
かまをかけた。語尾をぼかした。
あら、とナナさんはあからさまに表情を変えた。
「クラセ君のこと、知ってるの?」
「ちょっとだけ」
嘘ではない。
ただもちろん名も知らなければ、顔も、知らない。
知っているのは、その(おそらく)クラセという人が、マイクロフォンを通すと力を持つという変わった声を持っていたということだけだ。
だけどゼロではない。
「まあね。詳しくは知らないけど、クラセ君が亡くなってからかなあ…… やっぱり」
「亡くなった?」
あ、と彼女は口を押さえた。そしてその手を俺の頭に持っていくと、やや目を伏せて、まぶしそうな顔で俺を見つめた。
「いい子だから、それ、あたしが言ったって黙っててね」
「止められてるんですか?」
「そうじゃない」
彼女は首を横に小さく振る。
「―――そうじゃないけど、あまりいい思い出じゃあないでしょ?」
そして目を伏せると、彼女はそのまま手を俺の額にまで下ろした。
「熱がちょっとあるわね。少し眠りなさいな」
「クーラーは切って下さいね」
もちろんよ、と彼女は笑った。
俺はふう、と深呼吸すると、楽屋の壁にもたれた。そしてうとうととしながらも、彼女のもたらしてくれた情報をとりとめもなくこねくり回していた。
結構不毛な努力とも言えなくとなかった。熱っぽい頭は、まるで酔っている時のように、思考に明確な方向性を与えない。ふらふらふらふら、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、感情に振り回されてしまう。
もう居ないのか、と改めて俺は思う。亡くなった人なのか。それは妙に俺を納得させた。
しばらくして本格的に俺は寝入ってしまった。
何ですかこれは、と俺はその大クーラーに最初に遭遇した日、彼やノセさんに訊ねた。すると彼らはしゃあしゃあとこう言っただけだった。
「いや、大は小を兼ねるって言うだろ?」
よっぽど面の皮及びその他の部位の皮が厚いに違いない。俺はそれに対して苦虫を噛みつぶしたような顔と、うなり声を返した。
そして温度差の激しさに、あっさりと風邪を引き込んでしまった。
夏風邪だ。一度ひくと、これがなかなか身体から引いてくれない類の。
とある日。
その日は何やら蒸し暑いと思ったら、天気予報が台風の接近を告げていた。おかげで冷房は除湿も兼ね、いつもにも増してきつかった。
彼らに拉致されたはいいが、全身がぞくぞくして仕方がなかったので、部屋が小さい分、エアコンも小さい楽屋に俺は逃げ込んだ。
そしてそこでも勢い良くくしゃみをしていると、店のカウンターにいつも居るナナさんが、可愛い顔が台無しよ、とティッシュと風邪薬を差し入れしてくれた。
最初に来た時には判らなかったのだが、この人はノセさんの彼女なのだという。
ノセさんだけではない。BELL-FIRSTのメンバーは、だいたい彼女というものが居るらしい。まあもっともだ、と俺も思う。彼を除いては。
では彼には、そういう相手が居る、もしくは居たのだろうか。
少なくともその時、彼の廻りにはそういう「誰か」の気配はなかった。
「はい猫ちゃん、オレンジジュース。風邪ひいたらビタミンCを取らなくちゃね。あ、言っておくけど、これは本物よ本物! いつものタンクから出す紛い物じゃあないからね!」
一気にそれだけ言って、彼女は俺に大きなコップを差し出した。確かに紛い物とは違う香りだった。生のオレンジのこく。ありがとう、と俺はしみじみと言った。
「ううん気にしないで。あたしが好きでやってんの。トモ君から猫ちゃんのことも頼まれてもいるし」
彼女は俺のことを猫ちゃんと呼んでいた。
猫に似ていると言い出したのは彼だが、それを定着させてしまったののは彼女だった。
「そうなんですか?」
「そうよ。だってね、珍しいんだもの。トモ君が誰かに関心を持つのって、ホントに、すんごい久しぶりだし」
「久しぶり、なんですか?」
オレンジジュースを一口呑むと、問い返す。
「うん。もう結構なるかな。ほらあの子、普段ああいう調子だから、みんな平気だと思っているだろうけどさ」
あの子呼ばわりだ。
考えてみればそうだろう。ナナさんは、トモさんより五つ年上のノセさんと、かつて専門学校で同級生だったというくらいだ。
俺なんぞ「あの子」どころか赤ん坊みたいなものじゃなかろうか、と時々彼女の態度を見ると思う。だが別にそれは悪い気はしない。
そしてそういう人だからこそ――― 俺はその時ふっと魔がさした。
「もしかして、前のヴォーカルの人が」
かまをかけた。語尾をぼかした。
あら、とナナさんはあからさまに表情を変えた。
「クラセ君のこと、知ってるの?」
「ちょっとだけ」
嘘ではない。
ただもちろん名も知らなければ、顔も、知らない。
知っているのは、その(おそらく)クラセという人が、マイクロフォンを通すと力を持つという変わった声を持っていたということだけだ。
だけどゼロではない。
「まあね。詳しくは知らないけど、クラセ君が亡くなってからかなあ…… やっぱり」
「亡くなった?」
あ、と彼女は口を押さえた。そしてその手を俺の頭に持っていくと、やや目を伏せて、まぶしそうな顔で俺を見つめた。
「いい子だから、それ、あたしが言ったって黙っててね」
「止められてるんですか?」
「そうじゃない」
彼女は首を横に小さく振る。
「―――そうじゃないけど、あまりいい思い出じゃあないでしょ?」
そして目を伏せると、彼女はそのまま手を俺の額にまで下ろした。
「熱がちょっとあるわね。少し眠りなさいな」
「クーラーは切って下さいね」
もちろんよ、と彼女は笑った。
俺はふう、と深呼吸すると、楽屋の壁にもたれた。そしてうとうととしながらも、彼女のもたらしてくれた情報をとりとめもなくこねくり回していた。
結構不毛な努力とも言えなくとなかった。熱っぽい頭は、まるで酔っている時のように、思考に明確な方向性を与えない。ふらふらふらふら、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、感情に振り回されてしまう。
もう居ないのか、と改めて俺は思う。亡くなった人なのか。それは妙に俺を納得させた。
しばらくして本格的に俺は寝入ってしまった。
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